んだんだ劇場2007年12月号 vol.108
No42
飛騨の匠

『高野聖』の峠道
 10月末に、かみさんが名古屋へ遊びに来たので、飛騨へ出かけた。この時期の白川郷を撮影したかったからだが、飛騨古川(飛騨市の中心部)から国道360号を走って白川郷へ抜けるルートを、一度は通ってみたかったからでもある。
 その道は、標高1270mの天生(あもう)峠を通る。
 私がいま勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路株式会社)では、来年7月の東海北陸道全線開通を目指して、現在、飛騨トンネルの工事を急ピッチで進めている。全長10qを越え、自動車トンネルとしては日本で2番目に長いこのトンネルは、計画当初は「天生トンネル」と言われていたそうだ。正確に言うと、トンネルは、天生峠の少し南の籾糠(もみぬか)山(標高1744m)の下を通っているが、地質を確認する役目もある先進坑を掘るトンネルボーリングマシーンは、「天生太郎」と名づけられた。先端を回転させながら岩盤を削って、まん丸の穴を掘り進む機械だ。
 しかし「天生太郎」は一昨年の秋、貫通を目前にして、山につぶされてしまった。なにしろ、トンネルの位置から籾糠山の頂上までは1000m以上もある。つまり、厚さ1000mの山塊の圧力が、人間が掘ったちっぽけな穴に向かって押し寄せるのである。
 今年1月に、本坑も貫通したが、それを自動車が通れるようにするための工事でも、山は容赦なく圧迫を加え、内壁がゆがむ場所もできた。その補強工事などで、来年3月末に開通させる予定が、7月になってしまった。
 それはどんな山なのか、自分の目で見たいと、前々から思っていた。

天生峠への山々の紅葉

よく日本画の題材になる山ブドウの紅葉
 ゆるやかな登り道が、勾配を急にする辺りから、山肌は紅葉にいろどられ始めた。うす曇だったが、赤や黄色に染まった葉は美しかった。私は、温暖の地、房総半島に住んで10年目になる。峠への道を登るにつれて、かみさんは「東北に来たみたい」と、紅葉に歓声をあげ始めた。杉の植林が多い房総半島では、こんなに大規模な紅葉はないし、温暖なために、色にあざやかさもない。福島市で育ち、秋田県には8年半いた私らにとって、紅葉とはこういうものだ、という思いがあった。
 「ここで止めて」と、かみさんが何度も言い、そのたびに写真を撮った。山ブドウの紅葉などは、走りすぎるだけでは見落としていただろう。
 しかし、それにしても、難路だった。冬は雪崩の危険があって除雪できず、閉鎖されてしまう道路である。
 ようやく着いた峠には、「高野聖由縁の地」という標柱が立っていた。

『高野聖』の文字を記した天生峠の標柱
 実は直前に、会社の矢野会長に「天生峠を越えて白川郷に行く予定だ」と話すと、「あそこは、泉鏡花の『高野聖』が、山ヒルに襲われた所だね」と言われた。だが、私は30数年前に読んだ小説はうろおぼえになっていて、峠の名前はすっかり忘れていた。
 読み返してみると、聖は信州に向かう途中でこの峠を越えたということだから、今回の私の道筋とは逆の行程だった。
 山ヒルの巣とも言える森の中で、聖は体中をヒルに食いつかれる。ようやく森を脱して見つけた人家に救いを求めるのだが、そこにいたのは、峠を越えて来た旅人をケモノの姿にしてしまう恐ろしい女だった。しかし、女の色香に迷わなかった聖は、無事に山を下ることができた……という小説である。
 実際に天生峠を越えてみると、なるほど、そんな話もあり得るなぁ、と思わせる深山だった。
 峠を越えたら、白川郷は意外に近かった。秋の日が落ち始めたころに到着した白川郷では、イチョウは黄葉し、峠付近ほどではなかったが、間違いなく秋の色を深めていた。

白川郷の秋

パズルのような千鳥格子
 飛騨古川では、「飛騨の匠 文化館」に立ち寄った。
 「飛騨の匠」は、簡単に言えば大工なのだが、『正倉院文書』にもその名が記されているそうで、長い歴史を誇る技術者集団でもある。その技は精緻をきわめ、多くの神社・仏閣の建築に名を残してきた……ということぐらいは予備知識としてあったのだが、その伝統を紹介する「文化館」で、改めて驚かされた。
 この木組みを見ていただきたい

はずすことができなかった木組み
 展示室には、木材を千鳥に組み合わせたものがたくさんおいてあって、「自由にはずして、また組み立ててみてください」という案内板があった。しかし、どれ一つとして私は、はずすことができなかった。写真の木組みは、真ん中を持つと、ばらけるように見えるが、どこかをはずすということができないのである。これは「パズル」として作ったもののようで、実際の建築では、木と木の隙間がないようにピシッと作るから、一度組み立てると、もう、全体が動かなくなってしまう。しかも、釘などは使わない。
 これは、驚嘆の技術としか言いようがない。
 最近、この飛騨古川や、飛騨高山では、軒先を「雲」と呼ばれる腕木で装飾することがはやっているという。もともとは軒先を支える部材だったのを、切り口を白く塗ったら美しいので、旅館や大きな民家に広く用いられるようになったのだという。

軒先を飾る「雲」=飛騨高山の旅館で
 「文化館」で、もうひとつ驚かされたことがある。
 私が新聞記者として4年間を過ごした、秋田県大曲市(現在は大仙市)の「古四王神社」の写真があったのである。旧大曲市高畑の「古四王神社」は、江戸時代の旅行家、菅江真澄の旅行記にも紹介されている。秋田県内では「菅江真澄が記録している」というだけでありがたがることが多いが、「古四王神社」は建築学からいうと、和様、唐様を組み合わせた「珍品」なのだそうだ。戦国時代の元亀元年(1570年)の建築だから、「非常に古い」とはいえないのだけれど、その様式の珍しさから、国の重要文化財に指定されている。
 ところで、この神社は古くから「飛騨の匠」の作との伝説があった。それが昭和5年、文部省の解体調査で、「古川村大工 甚兵衛」という墨書が発見され、伝説が史実となった歴史がある。そして、当時の大曲町長が、古川町長に調査を依頼した結果、そのころ、越後へ行くと言って出かけ、出羽の国で消息不明になった人がいる、という記録を持つ大工の家のあることがわかった。それが「甚兵衛」さんか、別人かまではわからなかったけれど、「飛騨の匠」の技が、遠くまで伝えられていたことが確認されたのである。
 と、偉そうに解説したが……大曲市にいたころ、もちろん、私も現物を見たが、なんでこれが重要文化財なのか、よくわからなかった。1棟づくりの、ちいさな神社である。「古ぼけた建物」という印象しか残っていなかった。
 しかし、飛騨古川の「文化館」で「飛騨の匠」の技の一端を知り、自分の浅はかさを思い知らされた。こんなすごい技術が盛り込まれた建物だったのか……と。
 これだけでも、飛騨古川を訪ねたかいがあった、と思っている。
(2007年11月10日記)



鴨が落ちたらネギ畑

この話は秋田から始まった
 11月15日に山形県酒田市で開かれる「北前船フォーラム」の基調講演をすることになり、前日、中部国際空港から秋田へ飛んだ。当日に、名古屋から酒田へ行くルートが面倒なこともあったが、かみさんが「秋田なら、私も行きたい」と言っていたので、秋田で待ち合わせて、2人で1泊することにしたのだ。かみさんが秋田へ行くのは22年ぶりである。
 かみさんは14日の朝、房総半島・千葉県いすみ市の家を出て、秋田新幹線で、かつて4年間を過ごした大曲まで行って旧友と会い、暗くなってから秋田市に着いた。その夜は、私たちが秋田市にいた4年半、私の古くからの友人であり、近所づきあいでもあった大学教授の家でごちそうになった。メインは「きりたんぽ鍋」。この季節、秋田ではぜひ味わいたい郷土料理だ。
 棒状にご飯を固めた「きりたんぽ」と、市販品の専用スープを土産にいただいて、私らは教授宅を辞した。
 翌日、2人で無明舎出版を訪問し、私は鐙編集長の車で酒田へ、かみさんは秋田市内の旧友と会ってから、福島市に向かった。その夜、姉たちと飯坂温泉で「宴会」をやるのだという。私の方は、フォーラムが午後5時半に終了し、酒田に1泊して、翌朝、普通列車を乗り継いで山形市へ向かった。最上川沿いの紅葉は、すでに終わりに近かったが、やはり美しかった。

紅葉に彩られた最上川沿いの山肌
 山形市に寄ったのは、山形大学付属博物館の高橋さんに会うためである。高橋さんには何年か前に、明治初期の山形県令、三島通庸が造った道路を、近代日本で洋画家のパイオニアの一人なった、高橋由一が描いたスケッチの本をいただいたことがある。以後、何かと山形県に関する情報をいただいているのだが、会ったことがなかった。この機会に、これまでのお礼を言いたかったのである。
 高橋さんが案内してくれた、山形名物の「蕎麦」を堪能し、山形新幹線の臨時列車で東京へ向かったら、かみさんと同じ東京駅発午後5時の外房線特急に間に合った。

ナメコが生えてきた
 その夜は、かみさんが東京駅で買ってきた鯖寿司なんかで一杯やったのだが、冷蔵庫から、キノコを出汁で煮たのも食卓に上った。
 父親が、「我が家のクリタケだ」という。
 昨年の春、父親が畑の片隅に、クリタケとナメコの菌を植え付けたホダ木を並べた。シイタケのホダ木は立てておくのだが、クリタケ、ナメコのホダ木は横にして、半分土に埋め、最初のころは毎日水をかけなければならない。手間がかかる。それが1年半後に、ようやくキノコが出て来たのである。
「ナメコも出た」と言うので、翌朝、目覚めてすぐにホダ木を見に行った。

ぞろぞろと出て来たナメコ
 缶詰や瓶詰めのナメコを見慣れた人は、「これがナメコ?」と思うだろう。ご心配なく。秋田県・象潟の「道の駅」で売られていた「鳥海山の天然ナメコ」もみんな、こんなに傘を開いた姿だった。父親は「缶詰のナメコは、出てきたばかりの小さいやつばかりだから、ナメコ本来の味がない」と言って、自分で栽培することにしたのだ。
 採取してみると、ナメコは表面がヌラヌラしているのに、クリタケの方は傘が小さく、表面が乾いていた。ナメコの軸を切り落とし、土やゴミをよく洗い落として、買い物に出かけたかみさんの帰りを待った。
 本来の「きりたんぽ鍋」は、マイタケを入れるのだが、今夜は、ナメコたっぷりの鍋だ!
 想像しただけで、よだれが出た。

鶏肉は?
 午後3時ごろ、2階でパソコンをいじっていたら、父親が上がってきた。
 「あのナ、畑に、鴨がいるぞ」
 鴨が舞い降りているのかと思ったら、「おとといの15日に狩猟解禁になって、この辺にも鉄砲撃ちが来ているから、撃ち落とされたみたいだ」と言う。
 畑に行って、たまげた。たしかに鴨が1羽、畑に横たわっている。しかも、ネギのすぐわきじゃないか。昼食後にナメコを採りに行ったときには、こいつはなかった。

ネギのわきに落ちてきた鴨
 私が住んでいるのは、房総半島のいすみ市だが、JR外房線大原駅からは道路で8q、海岸からは直線距離で5qほど内陸に入った場所だ。すぐわきを流れる落合川は3年前の秋、台風で増水し、我が家の土地も川沿いで土砂崩れを起こしたが、ふだんは静かな川で、この季節には鴨がたくさんやって来る。ハンターには絶好の猟場らしく、10年前に家を建てたころは、畑仕事をしていたら、50mほど.離れた隣の家の屋根に、バラバラと音を立てて散弾が降ってきたこともあった。
 そのころは2、3軒だったのが、今では周囲に10軒もの家がある。にもかかわらず、禁猟区にはなっていないので、解禁日から1週間くらいはハンターがやって来る。迷惑なことだが……この日、私も、父親も鉄砲の音を聞いていないから、たぶん、だいぶ離れた場所で撃たれた鴨が飛んで来て、ここで力尽きたのだろう。
 けれど、それがネギのわきだなんて、こりゃまあ、できすぎた話だ。
 「食べよう!」と私が言い、「それなら、羽をむしってやる」と父親が言った。
 丸裸になった鴨を私がさばいて、肉を切り分け、ガラをコトコトと弱火で煮てスープを作っているところに、かみさんが帰って来た。
 「今夜は、きりたんぽ鍋だろ?」
 「そう。セリとか、ゴボウとか、材料も買って来たよ」
 「実はな……」と、鴨肉があると伝えたら、かみさんは驚いて……
 「あら、そう言えば、鶏肉を買って来るのを忘れた。ちょうどよかった」
 おいおい、これまた、できすぎた話じゃないか。
 「それで、誰が持ってきてくれたの?」と言うから、「天から落ちて来た」と言っても、かみさんは信じてくれない。
 父親も来て「ウソじゃない」と言うと、「どっちにしても、助かった」とかみさんは言い、暗くなった畑からネギを何本か引き抜いて来た。

鴨肉と、自前のナメコがふんだんに入ったきりたんぽ鍋
 野生の鴨だから、肉がちょっと硬かったけれど、脂はよくのっていて、出汁もよく出て、そりゃぁうまかった。
 セリは、秋田流に、根っこの土をよく洗って鍋に入れた。セリの根の野生味が、これまた、きりたんぽ鍋の魅力ひとつだと私は思っている。
 だから、まあ、まあ、何度も言って悪いけど、そりゃぁ、うまかった!
 ……で、さんざん食べて、たらふく飲んで、父親は自分の部屋に戻ったあと、かみさんが、ちょっと酔っ払った舌で言った。
 「ねえ、本当は、だれが鴨を持って来てくれたの?」
 「だからさぁ……」。
 でも、そうだね、こんなこと、だれも、にわかには信じてくれないだろうなぁ。
(2007年11月23日)


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