んだんだ劇場2008年1月号 vol.109
No15
フランス革命と英雄の肖像(5)
 一七九二年八月一〇日の王権停止は、国民議会がめざしていた立憲君主政による九一年体制を倒すことになった。九一年憲法を白紙に戻し、あらたな政体の構築と、基準となる憲法を制定しなければならなくなった。そして八月一四日の法令により、農民に不利な条件であった土地の売買と所有の形態を改正すると、没収した教会や亡命貴族の所有であった土地を国有地にして、地片ごとに分割して売り渡すことを認めた。しかし買い取りは最も高値を付けた者が落札できることにしたため、貧農や農業労働者が土地所有農民になった数は少なかった。そのため農業ブルジョアと農業プロレタリアートという構図が明らかになっていく。
 立法議会は一年足らずの議会を解散し、あらたに「国民公会」と名称を変えて、議会を召集することを決定する。この立法議会は、議会の権力と、議員が所属したパリ市街のクラブの勢力が錯綜しながら、先の立憲議会の議員たちの影響力を残した。さらに国王や宮廷の反革命勢力と、革命的民衆の高揚が対外戦争への導火線となり、事態は周辺諸国を巻き込んでいく。またパリの四八区のコミューンの動きが、新しい勢力として議会の権力に均衡するようになり、国内は一貫した脈絡を築くことができないまま、革命の混乱に拍車がかかった。しかし国王と守旧派貴族が議会から除かれたことは、九八%の一般意志が反映される本来の主張に基づいた議会が準備され、平等の法の下に樹立するデモクラシー社会到来の絶好の機会が訪れたことになるはずであった。
 だが情勢は議会が代表する合法的な権力と、蜂起したパリコミューンの革命的な勢力が並び立つことになった。民衆の圧力に押されて、議会は急進的な改革をつぎつぎと打ち出さざるを得なくなる。事態はブルジョワ知識人の主導による革命から、主導権が民衆の示威行動に左右される民衆革命に移行し始めたのである。残ったのはブルジョワと民衆である。議会は急場をしのごうと、ダントンとジロンド派の旧大臣を臨時行政委員会に任命した。
 ダントン(1759〜1794)は農家に生まれ、パリに出ると代訴人の書記となり、のち弁護士となる。破天荒で精力的な行動派という点では、清濁合わせ飲むミラボーに共通している。立法議会選挙ではマラーとともに落選した。ジャコバン・クラブやフイヤン・クラブは、議会との結び付きを指向したが、ダントンは革命が勃発するとコルドリエ・クラブを主催して、民衆の力を背景に直接「世論の法廷」に訴える。民衆運動と直結し、権力の濫用や人権にたいする侵害を糾弾するのである。シャン・ド・マルスの共和政の請願では、首謀者のひとりとみなされて手配されたために、ダントンは一時イギリスに亡命している。
 ジロンド派が大部分の大臣を占める臨時行政委員会のなかで、ダントンが司法大臣として入閣する。しかしつねに金銭的な疑惑が付きまとうダントンは、ベルギーを占領していた将軍デュムーリエの裏切りに共謀の嫌疑をかけられ、またインド会社の解散にともなう金銭の疑惑が浮かび、ジロンド派に告発される。モンターニュ派の擁護によって危機を逃れたが、ジロンド派一掃のあとモンターニュ派やエベール一派と対立し、彼もまたエベールの後を追うように処刑されるのである。
 強もての風貌とは裏腹に、その信条とするところは穏健であった。革命に逸る情熱が欠けるとはいえ、自由と平等を志向する人々を、その意見に相違があるからといって敵として扱ったり、罪ある者として排除することに異議を唱えた。私的領域を含めすべてを革命に捧げることができる、ロベスピエールのような人間だけが革命を担っているのではない。ダントンにとって革命は、利害が取り引きされ、欲望が交換され金銭が動き、ダイナミックな躍動を享受できる現実の社会そのものであった。
 パリのコミューンは反革命の犯罪を裁くために、特別重罪裁判所の創設を要求する。議会はこれに譲歩して八月三〇日に法令を施行すると、反革命容疑者の家宅捜査が始まり、多くの容疑者が逮捕され投獄された。そして九月二日の朝、パリに繋がる国境の防御線であるヴェルダンが包囲されたとの知らせが届く。募兵された義勇兵たちは、反革命派とみなされた多数の容疑者たちが蜂起することを怖れ、またこれまでの闘いに倒れた者たちの復讐を求めてアベイやカルムの監獄を襲い、宣誓忌避僧侶や反革命容疑者を虐殺し、一般の囚人たちもその巻き添えを食って多数の犠牲者を出す。これが九月二日から六日にパリで起きた九月の虐殺といわれる事件である。この虐殺は地方にも広がった。
 国内外が騒然とするなか、一七九二年九月二一日に「国民公会」は開会する。王権は廃止され、国王一家はタンブル塔に幽閉された。議員の構成では、立憲国民議会の有力なメンバーが再び議会に戻り、パリコミューンの過激派も議員を送り込んだ。特権階級に果敢に挑んだ立憲国民議会の初期の団結は、利害を鮮明にした党派的集団に分裂して国民公会に登場したのである。
 ブリッソーは、八月一〇日の革命をもって人民は自由になったにもかかわらず、組織破壊者たちは人間の持つ才能や知識や徳性までも平等化することを欲している。しかしいま人民が望むものは財産所有者にはその財産を、労働者には仕事を、貧しい者には日々のパンを、そして万人に自由の享受を保証し、国内には平静を取り戻すことであると訴える。これにたいしてロベスピエールは、共通の敵が倒された今日、愛国者の名のもとに混同されていた人々は、必然的に二つのクラスに分かれ、かれらの革命的熱意をかりたててきた動機の性質に応じて、一方は自分たち自身のために共和国をつくろうとし、他方は人民のためにそれをなそうと欲していると主張する。
 支持基盤は一方がブルジョワ富民層であり、他方が貧農・勤労者層や手工業者であった。この二派の旗色を眺めながら、状況によってどちらにでも均衡していくのが平原派と呼ばれる中間層の議員たちである。階層間、階層内部に各々その利害を抱えていたが、外観的には革命のベクトルはこれまでひとつに重なり、その目的に向かって進んできた。しかしあきらかに利害や主張の違いが鮮明になると、旧体制の破壊までは一致していたベクトルが、ここにきてついに空中分解をして、熾烈な権力闘争が展開されることになったのである。王政を取り巻く貴族たちの不満に端を発した革命が終りを告げると、今度は第三身分どうしの対立という事態を招き、恐怖独裁への道を開くことになった。
 そして国民公会は、王権の廃止にともなう国王の処遇問題に直面する。国王の一連の背理を裁くのか、裁けるのか、この問題が政争の場に持ち込まれたのである。国王の外国との通謀が明らかにされると、焦点は国王の裁判に向けられた。超法規的な存在として王権に擁護された国王であったが、再三にわたる背理によって人心は疾に国王から離れていた。国民公会は国王の有罪か否かの投票に持ち込まれる。議員はみずからの信ずるところを一人一人がその旨を述べるかたちで裁決が行われて、投票者七〇七名の全員一致で国王の有罪が確定する。あとは国王を死罪に処すべきか猶予すべきかである。深夜から始まってまる一日におよんだ議論と投票の結果、投票者六九〇名のうち、死刑執行に賛成する者が三八〇名となり、国王の死刑は決まった。
 一七九三年一月二一日、王権を剥奪されたルイ十六世はルイ・カペーに戻り、ブルボン家の当主として革命広場で公開処刑されたのである。タンブル塔に一日を家族とともに過ごす時間が訪れた幽閉の日々こそ、ルイ十六世にとって望ましい生活だったのかも知れない。そして断頭台に立ったとき、ルイ十六世とルイ・カペーの間に、人間の尊厳に違いはないことを気付いたかも知れない。このときルイ・カペーは、初めてルイ十六世としての威厳と自覚を取り戻して、死地に赴いたのである。
 だが政治の上からは、神授説に擁護されていた王権とそのメカニズムが革命広場で葬られたことになる。公然たる弑逆は、王政的統治原理に含まれる神秘性の否定であり、新体制となるデモクラシーの樹立にとって、儀式となる重要な意義を持っていた。旧体制が体現していたイデオロギーと、その化身である国王を公式に葬ることは、王国の呪縛から国民を解放することを意味した。それは旧体制との正式な決別であり、王権の神秘性を剥ぎ取り、封建体制を開放することであった。ここにはじめて新しい政治文化の創出が可能となったのである。その象徴となるのが国王の処刑であった。
 しかし国民公会が国王の政治裁判を肯定したことは、非合法の正当化につながることを意味した。法に代わる力の支配を準備したことになり、国民公会の意志が一般民衆の意志に優越することを示したのである。これは国民公会の独走を許すことにつながり、ひいては権力を握った党派の独裁を容認することになる。また国王の存在は共和国と両立しないゆえに、国王は処刑されるべきだという論理は、これを否定したり共和国にとって必要のない者は殺されても止むを得ないという論理にすり変わっていく。政敵とみなすあらゆる者の処刑を認めることにつながっていくのである。
 特権階級内部の争いが、貴族と平民の対立を引き出し、その貴族が一掃されると革命を推進してきた仲間どうしの親近憎悪の様相を呈することになった。革命の当事者たちは革命の行く末よりも、隣人の立身や凋落のほうが気にかかる。それまで障碍となっていた他の勢力が排除されてみると、ジロンド派とモンターニュ派のあいだに生じていた党派的対立と、抜き難い憎悪が残ったのである。
 一七九三年五月三一日、国民衛兵司令官となっていたモンターニュ派のアンリオは、市の要所を固め、請願のための代表を議会に送った。議会の対応がもたついている間に、アンリオは兵を組織し翌六月一日の夜、武装した民衆が議会を包囲し、夜が明けた六月二日には六〇門の大砲が議場に向けられていた。この蜂起により、議会でジロンド派のうちの二九人の幹部の逮捕を承認する決議がされると、彼等は地方へ逃亡した。ジロンド派は闘争の拠点を、ブルジョワの勢力が強い地方へ移し、反革命派とも連携してモンターニュ派への抵抗を示すことになる。革命の主導権はモンターニュ派に移った。農民にたいする封建的諸権利はその一切が無償で禁止され、領主に取り上げられた共有地は農民に返還された。国有財産となった土地は区画を分割して売り渡すことを認め、また亡命貴族の財産の買い取りも容易にした。封建的所有は完全に破壊されたのである。
 一七九三年一〇月一〇日の法令により国民公会は「フランス政府は、平和が到来するまで革命的である」と宣言した。国王の弑逆のあと政体の在りかを失った政局は、国民公会を自由の外に置き革命政府が敷かれる。自由の専制は立法権、行政権、司法権を議会に集中させた。ここに恐怖・独裁に擬され、その象徴となるロベスピエールが前面に登場するのである。
 過ぐる一七九一年七月一六日にバルナーブたちは、ジャコバン・クラブをフイヤン派の教会に移転していた。大半の者たちが去るなかで、ロベスピエールはジャコバン修道院に残り、クラブの正統性を主張し再生と強化に乗り出す。彼等が去ったことは、かえってロベスピエールの政治的基盤を固めた。勝利に身を捧げる態度は、敗北にたいしても同様の態度を取り続ける。アラスの貧しい下級靴直し職人の同業組合から全国三部会に選ばれたロベスピエールは、「誰であれ何かそれ以上になろうとする者を侮蔑」する。国民議会ではどの委員会にも所属せず、パリやヴェルサイユの選挙人から司法上の職務に何度か指名されたが彼は辞退している。
 ロベスピエール(1758〜1794)は封建制が解体され、特権身分が一掃された跡に残った民衆を、富裕な農民とブルジョワから区別する。財産にもとづく権利の平等が実現されるまで、人民主権の大義を擁護し続けるのである。議会で演説するロベスピエールの眼差しは、議員を越えてつねに民衆を意識し、演壇をつうじて民衆に訴えていた。人民主権と権利の平等という原理がこの間の活動で確信になり、彼の一貫した主張となっていたのである。ロベスピエールは議会内に持ち込まれた利害よりも、議会の外にある利益を代弁し、無視された民衆の要求を議会に明らかにした。このため議会の多数派から遠ざけられることになった。しかし一貫して民衆を代弁し、議会外の圧倒的な支持を獲得できたのである。議会の多数派が民衆には少数派のとき、議会の少数派が民衆の広範な支持を得るというねじれ現象が起こっていた。
 彼の言説はジャコバン・クラブでの演説や、印刷され報告されたジャーナリズムを通じて伝達され、具体的な人間像は偶像化されていく。ロベスピエールの使命は、何かを為すことや何かを意志することではなかった。虐げられた者たちの声を代弁し、人が隠そうとする欺瞞を明るみに出し、人々に訴えることであった。何を為すかは民衆の意志するところである。したがってみずからが専制の座にすわることは、みずからの言説を民衆の糾弾に晒すことつながる。
 革命を自由や平等のために闘う民衆と、これを阻止し陰謀を企む貴族という対立する二つの項は、敵である貴族の背後にその首謀者である国王をあぶり出す。権力を握る不条理な存在として、国王は民衆に対比される。ロベスピエールの論理は、国王に加担する勢力をすべて反革命家と見なし、その論理が成長していくのである。「わたしは、国王を助けようとしている党派が存在することを知っている。そして告発されている圧政者にきわめて寛大な態度をしめす人々が、抑圧されている人民にたいして同様の思いやりをしめさないことに、わたしはいつも驚く」のである。彼には議会の声が真理を示すものではなかった。
 彼はみずからの意志とは関わりなく、権力者となり独裁者に仮託された。彼の権力の基盤は、彼が望むものを離れて形作られていくのである。自分を人民そのものだと規定するロベスピエールは、人民の眼で正義を打ち立てるために、その前に立ちはだかる欺瞞を暴いた。そして人民のための主権を樹立しようとして専制を敷いたが、周囲の眼にはこれが独裁と映ったのは当然だったのである。沈着で冷静な思考を持つロベスピエールは、ダントン、マラー、エベール、ジャック・ルーたちと同様に、社会の下層に生きる民衆の暴力的な熱情を解き放ち、そのエネルギーを背景に富裕なブルジョワと対峙し牽制してきた。そしてシエイエス、バイイ、コンドルセ、ミラボーたちが危惧したように、興奮や熱狂のあまり民衆に無秩序が拡がることは分かっていた。彼等はそれに不安や疑問を抱くようになっていったが、ロベスピエールは論理の上でそれを突き抜けようとするのである。
 みずからにたいしては衝動的な行為を嫌悪し、厳格な態度で自己を抑制するロベスピエールは、自分の構築した論理を他者にも求めた。彼は必ずしも権力をみずからの手に握るという野望を抱いていたのではなかった。その厳格で抑制的な生き方が状況と重なり、権力を呼び込んでしまったのである。だが図らずも権力を握ることになったロベスピエールの統治能力は、その任ではなかった。権力を糾弾したり抵抗することには適していたが、創造する独裁者には向いていなかったのである。俗世的な野望を拒否していたロベスピエールは、論理を貫く非情の先に権力を手にすることはできなかった。彼の理性に導かれた論理は、民衆の情念から発する衝動的な感性を共有することはなかった。
 「清廉の士」であるロベスピエールは、偶像として民衆に受け入れられながら、その心はブルジョワ知識人に通じていた。それゆえにブルジョワの求めるものを彼は嫌悪した。そしてみずからの裡にうごめく心の闇を深く理解していた。それが衝動となって爆発することを抑制していた。論理で下層民を擁護しながら、ブルジョワ的知識人の発露を戒めたために、彼はストイックな生き方をみずからに強要したのである。
 私たちは程度の差こそあれ、情念の衝動を抑えることに不満を感じ悩んでいる。みずからを律する道徳や責任などをはじめ、社会をとりまく諸々の制約に縛られることに息苦しさを感じている。本当はこうしたいと思うことを伸び伸びとやりたいのだ。ロベスピエールはみずからの使命を意識するあまり、論理に魅入られその虜となったのかもしれない。彼は闘争心旺盛なために、論敵たちとの反目を楽しんだのではない。おそらく好戦的な資質はむしろ小さかった人物である。だがこういう人物は周囲から畏敬はされても、親しみの感情を持たれることはないのだ。
 人民を擁護する立場で施策を訴えてきたロベスピエールの論理は、突き詰めれば権力を人民の手に渡すことにつながっていた。人々はそこに幻想を抱き、それゆえにロベスピエールを支持してきたのである。だが権力の分散はその威力を弱めることを、国民公会の議員たちは感じ取っていた。彼等にとって国民公会こそ権力の中枢に置くべきものであった。この権力に擁護される議員が権力を行使できるのである。その権力には私利私欲に走る議員の思惑も絡んでいた。権力は公正なものだけを好むとは限らなかった。国民公会はみずからを人民の上に置き、公安委員会をさらにその中核に位置付けるのである。そしてロベスピエールはみずからの論理を貫こうとして、モンターニュ派内で乖離し、国民公会では孤立を深めていく。


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