フランス革命と英雄の肖像(6)
人民の偶像として英雄を担うのは、清廉の士であるロベスピエールの役割ではなかった。その代理を人々の美徳に求めたが、美徳は権力と両立できるものではなかった。誰のものでもなくなる権力は無効となる。それを補完するように一七九四年六月四日、最高存在の祭典を挙行し、ロベスピエールは主宰の栄誉に浴したが、このとき権力は祝聖によってロベスピエールの手を離れていた。権力はみずからを最高に弄んでくれる者にすり寄っていく。ロベスピエールは権力と民衆の双方から見限られたのである。ロベスピエールのみずからを戒める生き方は、民衆の主張を擁護しながら、そこに感性を重ねることなく、彼の論理は民衆から離れた。
こうした闘争に嫌気がさした人々は口をつぐんだ。形勢の風を読み、勢力の均衡する方向へなびいていったのが平原派の議員たちであった。「ミラボーとともに革命を始め、ナポレオンとともに革命を葬った」といわれるシエイエスは、革命の最中は「革命のもぐら」と揶揄されるほど沈黙した。
一七九四年七月二七日、ロベスピエールたちは逮捕され、恐怖政治に終止符が打たれた。このテルミドール九日の陰謀でロベスピエールが失脚すると、シエイエスは総裁政府の五人の総裁の一人として再び政治の表舞台に登場して、皇帝ナポレオンの誕生にバラスやタレイランとともに手を貸すことになる。結局革命は、革命を志した人々の手に収まることなく、これに関わった人々の思惑を越えて、怒涛のごとく突き抜けていったのである。
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第二楽章、何か背負いきれない重荷を引きずるように、ヴァイオリンが奏でる沈んだ調べは、厳かな儀式の始まりである(譜例5)。この旋律は哀愁を帯びたオーボエに手渡される。この告別を紡ぐ旋律の一本一本の糸は、個人の希望が織りこんだものであった。だがその色は、革命に散った幾万の人々によって赤く染められていた。この葬送の調べは、前途に馳せた崇高な志を空しく潰えさせてしまった者たちの慟哭であった。革命は過去を葬ると同時に、その未来を約束するはずの少壮気鋭の者たちの希望も閉ざしてしまったのである。
革命の人々は、個々人の意志を総意にまとめようとしながら、その中核をなす憲法と立憲君主政体は一致をみなかった。普遍の正義に表わす世界精神を、ルイ十六世に体現することはなかったのである。そして議会の多数派に正義があるという根拠を発見することができず、民衆の声の数が不公正を更めるとは限らなかった。また少数派の主張が、両者に寛容をもって迎えられることもなかった。それでも人々は神の庇護から飛び立とうとして、その教理に代わる「人間と市民の権利宣言」に自己実現の根拠を求めたのである。
その第一条は「人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である。社会的な差別は、共同の利益に基づく場合にしか設けることができない。」と高らかに宣言した。人間の尊厳を市民の側に立って、このように簡潔で的確な一条に宣言したのは初めてである。全文は十七条からなり、人間に備わった自然権を認め、主権が国民にあることを謳い、自由の限界は法律によってのみ定められる。法の下の平等を掲げ、権力にたいする抵抗権を認める。基本的人権に基づき、自由の一般規定と罪刑法定主義が貫かれ、身柄の拘束は法によって制限される。租税は公平な負担とし、公務の執行はその情報を開示する。言論、出版の自由を認め、所有権を万民の権利とした。公共の武力は、国民の利益と安全の確保にのみ行使される。憲法を制定するにあたり、その基本理念をここに謳い上げたのである。だがその勝利は両刃の剣となって、アンシャン・レジームと革命を志す人々の双方を切り裂いた。アンシャン・レジーム解体の凱歌となる歓喜の調べは、一転して葬送の悲しみを奏でることになったのである。
遡ること一七七五年、ルイ十六世とマリー・アントワネットの戴冠式がランスでとり行なわれた。その帰途、新国王はパリのルイ大王学院を訪れる。この年の古典の最優秀者が行う、ラテン語の歓迎演説に新国王は迎えられた。この歓迎演説を行った生徒がロベスピエールである。新国王とは四つ歳下の同世代の少年であった。二人は一四年後に再び相いまみ得ることになったが、その歳月はついに両者の人生も志も重ねることはなかった。交錯した瞬間に一人は栄華を誇った権勢の座を断たれた。残った一人も、清貧のうちにその後を追って断頭台に消えた。全く対立する道を歩んだ二人の情念は相殺されてしまい、両者とも英雄の栄誉に与ることはできなかったのである。
ルイ十六世にはそもそも国王になる野心はなかった。帝王学を施された兄が早逝し、父も亡くなり、ルイ・カペーは不本意ながら祖父のルイ十五世から、王位を継ぐことになってしまったのである。思いがけずブルボン王朝二〇〇年の栄華の御輿に担ぎ出されたルイ十六世に、革命の胎動に応える英邁な器量を期待することは過度な要求であった。卑小な野心を隠さなかったのは従弟のオルレアン公の方である。オルレアン公は事々にルイ十六世に意趣を示し、国王の足を引っぱる。そのオルレアン公も断頭台に消えるのである。
絶対君主を国民に返すか、立憲君主として名分を残すか、ルイ十六世の葛藤とジレンマは、彼の神経に過度の負担となってエネルギーを消耗させていく。けれども最後は国王の決断である。ルイ十六世はブルボン王家を離れて政治的判断を迫られたとき、彼はみずからを解放して決断を下すことができなかった。彼の王国はあくまでもブルボン家の威信であり栄光であった。ルイ十六世の結末は不可避的であった。そもそもブルボン王朝は、その成り立ちから血塗られていたのである。
ヴァロア王朝の末期、王朝はカトリックとプロテスタントの宗教の対立が激しくなり、王権奪回を目論む貴族たちの陰謀も絡んで執拗な闘争を繰り返していた。一族を四分五裂に切り分ける信仰をめぐる対立は、夫婦、親子兄弟、伯父、甥におよぶ骨肉の争いとなり、周辺諸国をも巻き込んで術策の限りを尽くしていた。ヴァロア王朝の存続に躍起となっていた故アンリ二世の妃カトリーヌ・ド・メディシスは、窮余の策としてプロテスタントの頭目であるナヴァル家の王子アンリを、カトリックである自分の娘マルグリットと結婚させる。新旧の宗教の対立と、貴族の野望を一気に片付けようとしたのである。その婚姻の宴の際に、惨劇は起こった。一五七二年八月二四日、一つの鐘を合図にプロテスタント狩りが始まる。サン・バルテルミの大虐殺事件である。この事件を契機にプロテスタントの間に暴君放伐論が広がる。国王を選ぶ権利は人民にあり、義務を果たせない国王を追放できるというものである。フランス革命の遠い萌芽がここに見られる。
カトリーヌ・ド・メディシスは、三人の息子を苦心惨憺して次々に王位に就けたが、いずれも不慮の死を遂げる。ノストラダムスの予言が現実のものとなるのである。三人の息子には跡継ぎとなる子がいなかったため、一五八九年ナヴァルのアンリがアンリ四世を名乗り王国無き国王となる。一五九三年七月カトリックに改宗して、ブルボン王朝が始まるのである。だがその初代国王となったアンリ四世もまた、一六一〇年にカトリック信者の手によって暗殺される。二〇〇年に亘って君臨したブルボン王朝は、その二〇〇周年の記念を革命の狼煙で祝うことになったのである。このブルボン王朝の末路は宿命的であるとともに、その誕生と同様たぶんに陰謀的であった。そしてその後の展開は偶発的であると同時に必然の因果を孕んでいた。革命もまた同じ経過を辿るのである。
ベートーヴェンが第二楽章を葬送行進曲にしたのは、革命を葬るためではなかった。むしろ崇高な志を抱きながら情念の渦に巻き込まれて、人間の持つあらゆる属性を争わねばならなかった人々への哀悼である。この作品は貴族趣味に迎合したものではなく、聴衆の娯楽を狙ったものでもない。具体的な葬送のための機会音楽を目的としているものでもない。交響曲第七番第二楽章も哀切な調べを奏でるが、これは私的な心の吐露であり、諸個人の心模様を百態百様に語らせる沈思の憂いを含んでいる。この葬送行進曲の意図するものは明らかに違う。ここでは思考は停止しており、去りゆく者への惜別と慈愛に満たされていて、心に触れるものだけが描かれている。仏教に流れる無常観というものを、西洋のキリスト教と重ね合せることはできないが、それでもこの葬送の響きに、心情の同質性を推し量らなければならない。
神への畏敬を抱きながら、教理の庇護から解き放たれたとき、ベートーヴェンは人間の贖罪の音楽を、人間に向かって書かなければならなかった。それがこの葬送行進曲であった。ヴァイオリンが奏でる葬送の重い足取りは、闘争に落命した人々が累々と折り重なり合うなかを厳かに進む。そして革命を先導した者たちの遺影が、つぎつぎに浮かび上がる。大義と大義がぶつかり合い、志なかばも遂げずに斃れた者たちの慟哭が聞こえてくる。革命は流れた血を新たな血で贖わなければ終えることができなかったのである。
権力にはすべての毀誉褒貶が絡んでおり、あらゆる欲望を包み隠している。その魔力に魅入られて、権力の争奪と立身の闘いは、阿諛と迎合の坩堝と化したのである。絶対王政の重しが外れた権力は、それまでその権力の重圧に打ちひしがれていた人々が手を伸ばせば届きそうに見えた。だが第一楽章冒頭の切断する二つの和音は、不透明で所在不明で、人の命を呵責もなく断ってしまう不気味な力がはじけた音でもあったのであろうか。
初めて触れた権力のあまりの輝きに眩惑されて、革命の指導者たちはみずからの信念に殉じた。未知の世界へ足を踏み入れて、心に潜む権力の罠に見事に落ちたのである。こうして権力の座を獲得した者の規準が権威となり命令となると、旧する権力の打倒のために用いた言説は覆えされ、高潔な精神は矯慢な振る舞いに代わる。これは勝者の権利である。しかし敗者には屈辱の強制となる。敗者を復讐へと駆り立てるのは、こうした勝者の傲慢であり、敗者の怨念であった。勝者は敗者への配慮に欠け、敗者の屈辱を無視する。崇高な理念を分かち合う者どうしが、みずからの血をも分かち合わなければ、この偉大で悲惨な革命に終止符を打つことができなかった。革命はその感動をとおして、人々に歓喜をもたらすことはなかったのである。そうでなければベートーヴェンはこの贖罪の葬送行進曲を書くはずはなかった。葬列は、葬り去ったものの縁を偲ぶようにして、黙々と歩み続ける。そうして甲高いトランペットの悲痛な叫びとともに、幾万の声なき人々の怨霊が慟哭となって葬列の背後に迫る。しかしその慟哭もついに力尽き、再び葬列は重い脚を引きずりながら墓地へと歩む。こうして旧弊なるものとついに決別し、再び大きく慟哭しながら葬送行進は幕を閉じるのである。
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第三楽章は、弦楽器が細かく刻む切分音から開始する(譜例6)。遠くから会話を交しながら喜びに溢れ、陽気な人々のざわめきが近づいてくる。新時代の幕開けを祝福するかのように、凱旋する英雄を出迎えるために、人々は集まって来たのである。馬上にまたがった英雄は上体をはずませながら、颯爽と人々の歓呼に応えながら通りすぎていく。後年一八〇六年にイエーナに居たヘーゲルは、実際にナポレオンと遭遇する。イエーナ・アウエルシュタットの戦いに勝利を収めて、ナポレオンはイエーナ市に凱旋入城したのである。ベートーヴェンと同じ年に生まれたヘーゲルは、イエーナ大学の講師をしていた。その光景を目撃して同年一〇月一三日付けのニートハンマーに宛てた手紙でつぎのように記している。「皇帝│この世界精神│が馬上ゆたかに市街を通り陣地偵察に出かけて行くのを僕は見た。この一地点に集中しながら、馬にまたがって世界を圧倒し征服するこのような個人を見るのは、実に何とも言えない感じだ。」と感嘆している。
ヘーゲルは言う。精神の実体ないし本質は自由であり、自由が精神の唯一の真理である。それならば自己の自由が世界において実現する手段はなにか。それは欲望や情熱や利害や、性格と才能から発する人間の行動であり、現実の世界はこうした人びとの営為が生み出したものである。人々に公共の目的や善意や高貴な祖国愛がないわけではないが、それは何人かの主体やその影響力のおよぶ範囲で実現される。だがそうした彼等の徳行のおよぶ範囲は、人類の大きな流れからすれば微々たるもので、大きな影響をおよぼすものではないというのである。
しからばそれを実現するのは誰か。それが世界精神を体現する英雄なのだ。人々はナポレオンに偶像を見たのである。英雄とは、その考え方や行動のすべてにわたって普通の人々からかけ離れており、私たちが成し遂げようとしても不可能なことを、私たちに代わって実現してくれる人間である。フランス革命で得た世界観はヘーゲルの裡に醸成されていく。結局現実は人々のダイナミックな営みの中にあり、理性的なものと現実的なものの関係は互いに投影し合い、同質的なものでつながることになる。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」とヘーゲルは導き出すのである。だが理性が生み出した知恵の一つである人間性の社会原理は、多数の論理をもってどこまで少数の人々の顔を立てることができるかということに賭けるものでなければならなかったのではないか。古代ギリシアから啓蒙の時代にいたる歴史を洗い直したヘーゲルの歴史観は、人々の動きを統計的な確率のなかに鳥瞰する。
「ブラウン運動」と呼ばれる現象がある。ベートーヴェンやヘーゲルと同時代人の植物学者のロバート・ブラウン(1773〜1858)は、花粉の研究をしていた。花粉の粒子を水に落とし、粒子の一個一個を取り出して観察して見ると、その一個一個は何の規則性も法則性もないまま勝手に動いていることを発見する。彼はそれを花粉の粒子の生命活動と考えたが、古くなったものや粉々にした花粉にも同じ現象が見られ、種類の違う花粉でも同様に観察された。そこでブラウンは花粉以外の粉末でも観察したが、同じ結果になったのである。この花粉の粒子一個一個はランダムに動いていながら、全体を観察したときの集団は一つの傾向を示し、拡散する方向へ動く。この粒子の動きはみずからの意志で動いているのではなく、水の分子が花粉の粒子に衝突してランダムに動かしていたのである。当時はまだ分子の存在が知られていなかったが、こうした現象は、分子の動きが引き起こすことをのちにアインシュタイン(1879〜1955)が明らかにする。彼の理論は、実験により分子の存在が確認されたのである。
ヘーゲルが捉えた史観はまさにこのブラウン運動のように、一つの傾向に収斂する歴史であった。個人が自我に目覚め目先の利害を優先し、その確信にもとづいて行動しようとすると、自分が確信して選びとったものこそが最良の原理であり、実行に移されねばならないと考える。大多数の個人が、自分で選び取った原理に確信を持ちながら行動するのは、そこに決定の自由を実感できるからである。自由意志による行為は、自ら決定を下したという主体性を満足させる。だが個々人は各々独自の目的をもって、固有の行動を為したと思ったはずなのに、それを全体に捉えてみるとひとつの類型的な傾向にとらえることができるというのである。ヘーゲルの史観は各人の動きの一人一人を観察して、その総和に歴史の因果をたどるのではない。それは不可能である。こうした個々人の意志は全体の意志に無目的のように見えながら、定向的に一定のコースを辿るというのがヘーゲルの描く歴史である。人々はみずからの意志で行動しているように見えながら、その総和が偶然に導かれるのではなく、歴史は時代の英雄に投影して形成されるのである。
そしてゲーテは、ワイマールにほど近いエルフルトの諸侯会議に列席するカール・アウグスト公の随員として、一八〇八年一〇月二日に初めてナポレオンに謁見する。ゲーテを評して、これこそ人間だと周囲に漏らしたと伝えられるナポレオンを、ゲーテは生涯称賛して止まない。溢れるばかりの矜持を身にまとい、慇懃な人格を持つゲーテの包容力に、ナポレオンは理想の父性像を重ねて見たのかもしれない。四日、一〇日と三度ナポレオンと会見したゲーテは、一四日にはレジオン・ドヌール勲章を受け取っている。ゲーテはこの名誉を機会あるごとに披歴するのである。
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