んだんだ劇場2008年3月号 vol.111
No17
フランス革命と英雄の肖像(7)

 時の英雄は、人々の好奇心と称賛を浴びながら凱旋する。晴朗に鳴り響く三本のホルンは、新時代を象徴する「自由」「平等」「友愛」の三つの精神を奏で、ハーモニーとなって木霊する。この三本のホルンには序列がなく、まさに三つの精神を融合したとき、英雄への憧憬は希望の調べに変わる。この三つが組み合わされて初めて希望は和解の手を差し伸べるのである。
 この三本のホルンの響きに、一八〇四年頃にヨーゼフ・メーラーが描いたベートーヴェンの肖像を並べてみると、このホルンの奏でる旋律は、音によるこの当時の彼の自画像ではないかと思われてくる。椅子に軽く腰掛けたベートーヴェンは、上半身を左斜めに、顔は正面に向け、その眼はこちらを見つめている。右腕を胸の位置に上げ右手は掌を開いたままで、左手は床においたリラ(竪琴)に添えている。この開いた右掌は、左手に添えたリラに象徴される音楽を生み出す創造の手であることをほのめかしている。後方にはアポロン神殿が建っており、音楽の使徒であることを自負しているかのようである。ベートーヴェンの描いた英雄は、この三本のホルンが奏でるような期待と希望に満ちた新時代の到来を、その響きに投影していたのである。
 二管編成の管楽器に初めてホルンを三本使用したのは、奇を衒うというようなベートーヴェンの意図があってのことではなかった。ベートーヴェンの描いた楽園は、この音色のように輝かしく厳かに深々と響くのであった。それはナポレオンに仮託した栄光の槌音のように、高らかに奏でるはずだったのである。
 一七九八年二月に、フランス全権大使としてヴィーンに乗り込んできたベルナドット将軍(1763〜1844)は、四月まで滞在している。二ヶ月足らずの短期の滞在に終ったのは、公邸に使った建物にフランスの三色旗を高々と掲げて、ヴィーン市民の顰蹙を買って早々にフランスへ引き上げたからだといわれている。のちにヴァイオリンソナタ「クロイツェル」を捧げるロドルフ・クロイツェル(1766〜1831)を知ったのが、ベルナドット将軍に随行して来たこの頃と推定されている。この短い期間にベートーヴェンは、ベルナドット将軍やその関係者と交流したものと想像される。ベルナドットは数奇なめぐり合わせで、スウェーデン国王カール十三世の皇太子となる。そしてのちにスウェーデン国王カール十四世(在位1818〜1844)となり、今日に続くスウェーデン王室を築くのだが、後年ナポレオン軍と交戦することになる。
 時は革命勃発からすでに十年に届き、その全貌が明らかとなり、革命の評価も定着してきた頃である。フランス革命の何たるかを直接関係者から聞き知ったことで、ベートーヴェンは認識を新たにしたのかもしれない。そしてナポレオン(1769〜1821)のことも直接聞き及んだ可能性がある。
 一七九三年五月三一日にパリの民衆は議会を包囲し、六月二日にはジロンド派の二九人の議員が追放された。下野したジロンド派は地方都市に勢力を置き連邦主義を画策し、反革命勢力と呼応して、国内にはいくつかの拠点が形成されていた。トゥーロンもその一つであった。これをイギリス、スペイン艦隊が支援しており、フランス軍はその攻略に難行していた。同年一二月にこれを攻囲し、敵艦隊を撃退したのがナポレオンである。若くしてフランスの次代を担う一将校は、コルシカ島生まれの異邦人であった。その父の代に貴族に叙されたものの、フランス貴族の虚栄に染まらず颯爽と登場した青年将校に、ベートーヴェンは瞠目しながら、同世代の共感を覚えたことだろう。
 ルソーが社会契約論のなかで「ヨーロッパには、立法可能な国がまだ一つある。それは、コルシカの島である。この人民が彼らの自由を取りもどし守りえた、勇敢不屈さは、賢者が彼らにこの自由をながく維持する道を示すに値するであろう。わたしは何となく、いつかこの小島がヨーロッパを驚かすであろうという予感がする。」(社会契約論第二編第十章)と述べている。コルシカは、ジェノヴァ共和国の支配に抵抗して、民族独立運動を展開し独立政府を樹立する。その指導者パスカル・パオリの下に副官としてともに闘ったのが、ナポレオンの父シャルル・ボナパルトであった。父シャルルはその後フランスに接近し、貴族身分を許されてコルシカ貴族の代表として、アジャクシオの裁判所に勤めることになる。
 独立政府はルソーに「コルシカ憲法草案」の起草を依頼したが、これが出来上がらないうちに、ジェノヴァ元老院は一七六八年五月、フランスにコルシカを売り渡してしまう。民族独立運動の相手はフランスに移り、一七六九年にショーヴラン伯爵に率いられたフランス軍の上陸により、独立運動は頓挫する。この同じ年の一七六九年にコルシカに生まれたナポレオンは、一七七九年にフランス国王の給費生としてシャンパーニュのブリエンヌ兵学校に入学し、ついで一七八四年にはパリ士官学校に移る。卒業後、南フランスのヴァランスにラ・フェール砲兵連隊の配属となり、十六歳で少尉に任官された。この後コルシカとフランスを行き来しながら、ナポレオンはコルシカ史の執筆にとりかかっている。フランス革命時には、延べ二年余りにわたって断続的にフランスを留守にした。コルシカの独立に情熱を傾けるナポレオンにとって、フランス革命はまだ異邦人から見た他国の事件であった。
 パスカル・パオリは、イギリスの支援の下に、フランスからの完全独立を目指して再び蜂起する。ボナパルト一家はこれを鎮圧する側に回り、尊敬するパオリと一線を画すことになる。決裂したボナパルト一家をパオリ派が襲撃すると、一七九三年六月、一家はマルセーユに亡命した。ナポレオンはニースの砲兵第四連隊に復帰し大尉に昇進する。ナポレオンはこの年トゥーロンの攻囲戦に成功すると陸軍少将となり、イタリア遠征に従軍する。ところがこのあとのテルミドール九日のクーデタにより、ロベスピエールが失脚すると、彼もまたその一派として二週間投獄された。続いてヴァンデミエールの叛乱が勃発した一七九五年一〇月五日、ナポレオンがこれを制圧して一〇月二六日に総裁政府が成立する。そして一七九六年三月、再びイタリア遠征が企てられ、ナポレオンは今度は遠征軍司令官として戦役を率いることになる。
 北イタリア戦線でのオーストリア軍との闘いで、連戦連勝を勝ち取ったナポレオンは、翌年一〇月一七日のカンポ・フォルミオ条約を成立させる。ナポレオンは多額の賠償金と美術品や骨董品を手土産に、歓呼の声に迎えられて一二月にパリへ凱旋する。彼の名声はフランス全土に知れわたることになった。そして一七九八年五月一九日、総裁政府の命によりナポレオンは総勢五万四〇〇〇の兵士とともに、エジプト遠征のためトゥーロン港を出発した。フランスの前に立ちはだかる最大の障碍がイギリスであることでは、ナポレオンも総裁政府も見方は一致していた。イギリスのインド支配を阻止するための橋頭堡として、エジプトを確保する戦略であった。加えて総裁政府の総裁たちには、名声と期待の高まるナポレオン熱を、一時遠ざける必要があった。
 当時エジプトはトルコの支配下にあり、一二の州に分かれ各州はマムルーク族の貴族が直轄していた。ナポレオン軍はこのマムルーク軍を撃破してカイロに入城を果たす。だがこの間のフランス軍の動きを察知していたイギリスのネルソン艦隊は、アブキール湾に停泊していたフランス艦隊を発見し、これを全滅させナポレオン軍はすでに征海権を失っていた。
 カイロに入城したナポレオンは、ただちに占領下のエジプトに支配組織を敷くが、エジプト人民はナポレオンの近代化政策に従わず、一〇月にはカイロに叛乱が起こった。ナポレオン軍による弾圧と恐怖政治が続くなか、トルコがシリアに出兵するにおよび、ナポレオンはスエズを横切り一七九九年三月ハイファを攻撃する。さらにイギリス軍が支援する要塞都市アッカを六〇日かけて攻略した。しかしようやくカイロに戻り着いたナポレオン軍を待ち受けていたのは、イギリス艦隊が護衛するトルコ軍のアブキール上陸の知らせであった。息つくひまもなくナポレオン軍は、これをアレキサンドリアに迎え撃ち勝利した。そしてイギリスとの休戦交渉の際に、ナポレオンはヨーロッパの対仏同盟の開戦を知り、カイロと兵士を放棄し手勢を従えて急遽パリへの帰国を決断する。
 こうして当時の騒擾をひとつの秩序に治める期待が、フランス国内ではナポレオンの手腕にかかっており、ヨーロッパ諸国にその名声が高まりつつあった。世論の関心はナポレオンを賞賛する一方で、戦争の司令官として現実の脅威となっている彼の動向に神経を尖らせていたのである。ベートーヴェンはヘーゲルやゲーテの感動に応答する形で、その英雄的偶像をすでにこの作品に描いていたのである。時代の英雄は、その個人に現われる崇高な精神と、法と道徳から成る人倫を体現するものであった。ベートーヴェンは三本のホルンに仮託して、そうした偶像を奏でたのである。
 第四楽章は、何か巨大なものが一気呵成に滑り落ちるように、音符が一斉に雪崩を起こして始まる。これはタイムスリップして異次元の世界に舞い降りたような、場面を転換させる効果があり、第三楽章から間を置かずに第四楽章につなげたほうがその意図がより一層際立つ。後の交響曲第九番「合唱」の第四楽章も、これと同形である。場面が変わり未知の世界への好奇心は、ちょっとおどけたような仕種となって、弦のピツィカートに表われる(譜例7)。この第一主題は第一楽章の第一主題に刻みを入れて、簡略化したような旋律である。変奏形式を取るこの楽章は、この第一主題が変奏していきながら希望の調べを導きだすのである。
 シラーは一七八五年に頌歌「歓喜に寄す」を作る。だがこの最初の作を一八〇三年の自選詩集の刊行に際し、文節の数ヶ所を改めその第九節を削除している。彼はこの頌歌をフランス革命を想定して作ったものではなかったが、シラーの世界を穿つ透徹した感性は、時代の予感を捉えていた。だがシラーには隣国の革命は受け入れ難い結末であった。シラーは一八〇〇年一〇月二一日付けのケルナーに宛てた手紙で、「歓喜に寄す」は拙劣な詩であり、自分の発展過程の一段階であり、当時の嗜好に迎合して得た名声だったからこそ民衆詩たりえたのであって、いまの自分の感情から云えば完全な誤りであったと述べる。削除した第九節はつぎのような詩句である。
 暴君の鎖を解き放ち/悪者にも寛容、/死中に活、/絞首台より生還!/死者といえども蘇る!/兄弟よ飲めよ、声を合わせよ、/いかなる罪人も無罪に、/地獄は消えうせろ。/別離もさわやかに!/経帷子をまとって円な睡り!/兄弟│死刑宣告官の声も/妙に響く!  (「ベートーヴ ェン第九 フランス大革命に生きる」小松雄一郎著 築地書館)
 ベートーヴェンはその灰塵のなかに、希望の痕跡を発見していた。彼の耳には、聖なる楽園に集う百万の人々の声が歓喜となって届いていた。作品四三「プロメテウスの創造物」第一六曲に用いたのと同じ旋律が奏でられると、人々は歓喜の歌声を高らかに謳いだすのである(譜例8)。フランス革命の結末はこの旋律のように、勝利の歓喜となるはずであった。まさにこの旋律に詩句を付け、合唱を挿入しても違和感はなかったくらいである。ベートーヴェンは革命の先に、まだ誰も体験したことのない未知の国を描いていたのである。それは遠い過去に、人類がその社会に実現していたものであった。
 「この国には、商取引などというものはなく、読み書きの知識も、算術もない。役人とか、統治者にあたる言葉もないし、人に仕える習慣もなければ、貧富の差別もない。契約も、相続も、分配もない。仕事といえば、たのしい仕事しかなく、普通の血族関係以外に気を使わねばならぬ人間関係もなく、着物も、農業も、金属もなく、酒や麦も用いない。うそ、裏切り、いつわり、貪欲、ねたみ、悪口、免罪などを意味するような言葉そのものが、ついぞ耳にされぬ」という。(モンテーニュ エセー第一巻三一章 朝日選書「アメリカ・インディアン悲史」藤永 茂氏の訳)
 こうした理想郷に暮らす人々は、国家だとか政治だとか権力などという統治社会以前に、人間の本性に結ばれる自然と調和した社会を保有していた。人々の眼差しは一人一人の個人に分け隔てなく注がれ、一人一人の個人もその慈しみに満ちた視線を感ずることができた。そのような眼差しがあまねく行き渡る範囲で社会の共同が成り立っていて、規範に秩序を求める必要を感じていなかった。
 秩序は支配者の権利として用いられるのではない。本来は個人の自然権をその仲間が侵害しないよう監視するために、抑止力として働くものだ。生き物の本性としてやるはずのないことをやり始めた人間の知性を規制する必要があって、秩序が必要となったのである。その根幹をなす憲法は受動的なものではなく、支配にたいする抵抗権を保障している。憲法は政府にたいする民衆の自衛権であり、権力が公正に機能するための規準であって、まさしく憲法は支配の不公正を監視する民衆の理性でなければならない。この作品の響演には、作曲者、指揮者、演奏者、聴衆の好ましい関係が、理想的に想定されているのである。いわば公正な秩序の体系である立法、その法を体現する主権者、これを執行する行政官吏、その恩恵に浴する市民というように、政治や組織の機能が実効的に働いている。オーケストラという組織集団は演奏という行為を通じて、このような理想や理念を実現していることになる。
 ベートーヴェンはフランス革命の顛末に、未来の社会を捉えていた。その予兆ともなる福音が、このプロメテウスの旋律のなかに仮託されていたのである。プロメテウスがもたらした火は、その象徴であるとともに実現のための手段であった。だが神話による人類の創生では、そもそもの成り立ちに、人間に試練を与えるように仕組んでいた。神話の世界では、神々にも闘争や背理があり、その余波が人間にも及ぶのである。ギリシャ神話では二世代目のティタン神族と、三世代目のオリュンポスの神々の争いを描いている。巨神族ティタンの総帥であるクロノスとレイアの間に生まれたのがゼウスである。このゼウスを盟主とするオリュンポスの神々が、クロノスと覇権を争ったときに、ティタン族の一員であったプロメテウスはゼウスに味方する。プロメテウスには先見の明が備わっており、神々の世界がゼウスの下に支配されることが分かっていたのである。オリュンポスの神々が勝利すると、プロメテウスは天の神々と地上の人間たちの間で生きることを許される。
 プロメテウスは、人間とゼウスの間で雄牛の取り分を決めるために工作して、ゼウスには骨を選ぶように仕向ける。ゼウスはプロメテウスの計略を知りながら、それに乗ったのである。その仕返しに、ゼウスは人間にとって欠かすことのできない火を奪ってしまう。ところがプロメテウスは、ゼウスが隠した火を人間に与える。これに怒ったゼウスは一計を策し、人間に災いをもたらす美しい少女を神々に作らせる。ゼウスは少女をパンドラ│すべての(パンテス)神々からの贈り物(ドーロン)│と名付け、オリュンポスの神々からの贈り物として、プロメテウスの弟エピメテウスへ送り届けたのである。弟エピメテウスに、ゼウスからの贈り物は決して受け取ってはならないと、プロメテウスが戒めていた。だがエピメテウスはパンドラの美しさに眩惑されて、妻に迎え入れてしまう。パンドラの前には一個の甕が置かれていたが、パンドラがこの甕の蓋を開けると、それまで地上の人間には存在しなかったあらゆる病苦や災厄が飛び出し、人間に降りかかってしまうのである。パンドラが蓋を閉めたときに、かろうじて甕の中に残ったのは「希望(エルピス)」だけであった。
 ベートーヴェンは、イタリアのバレエ作家であり舞踊家であったサルヴァトーレ・ヴィガーノ(1769〜1821)の台本によって、作品四三「プロメテウスの創造物」を作曲した。この作品のフィナーレとなる第一六番の奏でるモチーフは、世俗の世界に満ちているあらゆる病苦や災厄に見舞われようと、希望が残されている人間への原初的で肯定的な賛歌であった。ベートーヴェンはこのモチーフを、WoO一四「一二のコントルダンス」の第七曲でも用いている。また作品三五「ピアノのための一五の変奏曲とフーガ」の主題にも採用する。そしてこの作品五五第四楽章にいたって、希望に溢れた雄坤な大伽藍のように聳え立つのである。
 人々が自己実現を求めたとき、その欲求を総和した全体は、秩序を形成するよりも、興奮や熱狂がもたらす陶酔や忘我や破壊の魅力となってしまった。この魅力的な世界は、人間の尊厳を実現するという新たな秩序を生み出すための推進力であって、興奮や熱狂そのものが目的なのではなかったはずである。興奮や熱狂は破壊の力には有効だったが、継続する力とはなり得なかった。陶酔や忘我は、情念の持つラディカルなものへの憧れであって、放縦な自由を認めることではなかった。しかし革命を押し進めた人々は、情念の炎に身を焦がして狂騒に走ってしまったのである。隙間に覗いていたわずかな希望に人々が殺到したために、その小さな希望さえも打ち砕き、狂奔する人々の情熱を押し止めることはできなかった。
 野望に燃える少数の者にしか明け渡さず、いざとなれば秩序をねじ曲げ正義を砕き、人の命さえ断ち切ってしまう不明瞭な力、この権力は人々の情緒を動かした。自分たちが政局に参画していると意識したときに感じた昂奮は、人々をして権力に殺到した。だがみずからの野望に教唆されて、他者への寛容を閉ざしたとき、希望も失ったのである。権力は人々に平等に分け与えられるものではなかった。そして希望は独占できるものではなく、人々の協同の力で分かち合うものでなければならなかった。希望を抱いた人々が、その実現を権力に求めたとき、二つともに人々の手から逃れ行方をくらましたのである。
 人々が人間としてその名に値するような生き方を願ったとき、正義と公正に従い、その支柱となり、信頼し得るものとして英雄は登場する。権力はそのような英雄に付託されるはずであった。英雄を支えるのは、自然と接触しながら糧を生む無辜の人々の地道な営みである。人々は自然を相手に絶えず格闘してきただけではなく、自分たちが支えてきたにもかかわらず、不公正な義務を押し付けてくる英雄とも闘ってきたのである。その闘いは支配の不条理に耐え、情念の爆発を裡に抱えながら、みずからの衝動を抑えてきたのである。
 ベートーヴェンにとって英雄とは、勇気をもって生きることへの、そして事に臨んで人間の尊厳を守り、自由の旗幟となることへの誘いであった。そこに希望を共有し、そのような英雄像をナポレオンに仮託して、ベートーヴェンはこの作品を捧げようとしたのである。だが実際には、人々の心の闇に棲む欲望を自在に操る者に称賛が集まり、偶像化された。それは自分たちに代わって自己実現を図ってくれる人物への憧憬であった。彼は新時代を開く旗手であり、秩序と繁栄をもたらす復興の力であり、革命に荒廃した祖国の救世主であった。ナポレオンは人々の情緒の隙を突いて権力を握った。ロベスピエールはそれ以上になろうとする者を軽蔑したが、身辺の清廉な者の前には人は集まらなかった。ナポレオンはそれ以上の者になろうとして人々を惹き付けたのである。
 ナポレオンは権力に群がる人々の跡を襲って権力の座を奪い取ったが、もはや人々にはそれに抵抗する力は残っていなかった。人々はあらたな偶像に屈し、革命の混乱を望まなかったのである。だがナポレオンは一家の境界をヨーロッパ全土に広げようとして、野望の拡大を図る。これではルイ十六世に世界制覇の野望を加えた専制独裁君主の強力な再来である。英雄に投影される崇高な理念や高い倫理性は、富を蓄え支配する者にこそ必要な倫理性であったが、それを捨てた者が富を築き、権力を奪うことができた。勝者を支えた無辜の人々の得たものは、厳格な倫理性と従属性であった。この上からの価値観に異議を唱えたのがフランス革命だったのである。
 シラーは民衆の熱狂が生んだ革命の顛末を見て「歓喜に寄す」の第九節を削除したが、ベートーヴェンはシラーが削除したもののなかに希望の光を捉えていた。パンドラはゼウスの計略によって甕の蓋を開け、人間に災厄をもたらしたが、ベートーヴェンはこのエロイカの主題に新たな希望を託し、未来の私たちにまで呼びかけたのである。
 英雄とは、内容の正しい意味での権威を体現する者でなければならない。貶しめられた人々に代わって、彼等の尊厳を回復する者でなければならない。英雄とは、抑圧される側から生まれ、支配する側を突き破る者でなければならなかった。だがベートーヴェンは革命のあとを襲った英雄の肖像に、贋作を見たのである。もしベートーヴェンがダビッドの「ナポレオン一世の戴冠式」を眺める機会があったら、嘲笑の一瞥をくれたであろう。
 いわば弱者の側から正義を行ったかに見えたナポレオンだが、達成してみれば加害者の過程を踏んだにすぎないとベートーヴェンの目には映った。人々の尊厳を踏みにじって恥じない人物にたいするベートーヴェンの怒りであり、己の欲望を剥き出しにして権勢に走り、富貴に奢り、帝位を僭称する人物への不快感であった。こうしてフェルディナンド・リースが伝えているように、ナポレオンが皇帝に就くことを知ったベートーヴェンは、この作品の献呈を撤回させなければならなかったのである。
 作品五五交響曲第三番変ホ長調「エロイカ」、この第一楽章冒頭に炸裂する二つの和音は、遥かな宇宙創生の始まりを告げる渾身の一擲を表わすとともに、理性を獲得した人間中心的な心性を、動物の持つ自然的性向において打ち破られねばならなかった。それがどのような問題を孕んでいたのか、ベートーヴェンはこの後の三曲の交響曲をはじめとする傑作の森に、その実像を明らかにしていくはずである。こうしてすべてのことはこの二つの和音から始まり、聴く者の心性に壮大な叙事詩となって想起させたのである。


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