んだんだ劇場2008年4月号 vol.112
No18
二つの顔のベートーヴェン、作品六一ヴァイオリン協奏曲ニ長調

 作品六〇交響曲第四番変ロ長調、第一楽章の始まりは、霧靄が濃く立ちこめる深閑とした森のなかを、うつむきかげんにさまよい歩くベートーヴェンの姿が浮かんでくる(譜例1)。何か考えあぐねている様子なのだが、髪をかきむしって懊悩する光景ではない。五線紙に音符をなぞってみたものの、主題に結び付けるモチーフをたぐり寄せることができずに、ああでもないこうでもないとウロウロしながら、ちょっと手を持て余している様子なのである。混沌のなかに創造の手掛かりを求めるベートーヴェンが佇んでいる。それが何であるのか、懐疑の眼差しを向けて、ベートーヴェンはその正体を掴もうと彷徨するのである。五感を駆使して、掴みあぐねている対象を確かめるように耳をそば立てている。果敢に音符に鞭を当てるような印象を与える彼の手法からすれば、モチーフを手の内に引き寄せられない焦りが感じられてもよさそうなものだが、内面に迫る深刻さはみられない。
 宙空を漂っている音符をつかみ取って、モチーフに彫琢してみたい衝動に駆られるものの、ベートーヴェンにはどこか納得がいかない様子である。確固とした主題を手に入れることができずに、ベートーヴェンはいま浮かんだモチーフが彼の求める真理に繋がるものかどうか、じっと耳目を凝らしてその行方を追っている。それを聴き手が固唾を飲んで彼の挙動を追いながら、これから展開するドラマの成り行きをベートーヴェンとともに模索するのである。
 その静寂さえも吸い込んでしまいそうな鬱蒼たる創造の森から、ベートーヴェンは真理の泉を探り当てようとする。胎内に宿る創造の確たる形象をうまい具合に掴めないものの、模糊としたものの中から何かを懐胎させようとするのである。聴き手に創作の手の内を見せながら、その諧謔を愉しんでいるかのような、磊落な気分がこの第一楽章から伝わってくる。寛いだ気分に風格さえ感じさせる。混沌の世界から、いまだ核心をつく生成の手応えを掴み取ることはできないが、音符を煽るような強引さは見られない。浮遊物を自分の手元から解き放して、事態を成り行きに任せているかのようなのである。まさに作曲者の創造にいたる心の動きを、聴き手に披瀝するように曲は開始する。
 この静かに何かを手繰るようにさまよう模糊とした開始は、ベートーヴェンが拵えた舞台に聴衆の関心を集中させながら、彼の模索に聴き手の気持ちを誘い込む効果がある。聴衆との一体感という点では、むしろ交響曲第九番の「歓喜」よりも聴衆に接近している。衆人の喚起を促し注目を一点に集中させるには、フォルティッシモで一発ドカンと驚愕させるやり方だけではなく、こうしたピアニッシモの静寂から開始してもその効果を強めることができる。むしろ聴き手はこれから何かが起こりそうだという予感とともに、ベートーヴェンの一挙手一投足にその成り行きを見守っているのである。
 しかしそれも長くは続かず、ベートーヴェンは徘徊の先に不意に見つけたモチーフをつかみ取ると、ヴァイオリンがしゃくり上げるように叫び、オーケストラが一斉に咆吼する。つかみ取ってしまえばもうベートーヴェンのものである。躊躇なく突進する。この力動感は第一番と第二番の交響曲から成長したものであり、つぎの第五番や第六番に繋がる駆動力である。ただここでは躍動するテンポやリズムはのどかである。管楽器の柔らかな音色には愉悦に満ちた気分が漂っていて、手の内に捉えた対象をどのように表わそうかと、構想そのものを楽しんでいるかのようなのである。第一番の交響曲の矜持や若やいだ気分は抑制されていて、差し迫って早急に外部に訴えかけようとする切迫感はなく、自信に満ちた足取りは踊りを交えて前進する。ベートーヴェンはいますこぶる上機嫌なのだ。
 生命本能の放縦な爆発を抑えており、無制限な衝動が熱狂となって噴出することを自制している。放縦な情動が集団のなかで爆発した顛末は、すでに交響曲第三番で明らかにしたものである。交響曲第三番の世界では、人々の求める心性の集合的な一体感は、粉砕されるための歓喜にあふれた情熱であった。隣人と分かち合う共感は、集団の熱狂の前に埋没してしまい、連帯の絆で結ばれることはなかった。むしろ身体的な興奮は、盲目的で不可抗力な破壊の衝動として人々を捉えたのである。
 ベートーヴェンはいま、蛮性と放埓な世界から、まとまりのある自我と秩序を求める内なるイデアに接近しようとしている。心で捉えたものが表面に立ち現われるのを、じっと辛抱強く待っている。衝動を抑え、生命の根源にうごめく何ものかを観照しようとしているのである。内から外へ噴出する激情と、内向する衝動がぶつかり合いながら、その潮目の動きのなかから創造のモチーフを掴もうと模索しているかのようである。
 この作品の演奏で、私が親しんで聴いてきたのは、豊かで寛ぎに満ちた気分を表わすハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮によるヴィーンフィルハーモニー管弦楽団の演奏であった。シューマンが評したという「二人の北欧神話の巨人の間にはさまれた、ギリシアの乙女」の言説そのままを表現したような中庸をいく演奏である。この演奏を通じて、私は右に述べたような印象をこの作品に抱いたのである。
 ところがその後、カルロス・クライバーが指揮したバイエルン国立管弦楽団のライブ録音による演奏は、つぎの交響曲第五番ハ短調を想わせる強靭で荒々しいと言っていいような迫力と躍動感に満ちていた。作品の表情や造形に対照的な解釈が顕われたクライバーの演奏に、新鮮な驚きを覚えたのである。隙のない緊迫した印象を与えるこの演奏に、私はつぎの交響曲第五番の予兆を想い描きながら聴いていた。とは言ってもカルロス・クライバーはベートーヴェンの第五番と第七番の交響曲も録音しており、またシューベルトの交響曲第八番「未完成」やブラームスの交響曲第四番も取り上げている。これらの演奏も格調高く溌剌として生気に満ち、速めのテンポできびきびと曲を進めているので、この作品も彼の一連の演奏スタイルの反映と言えないこともない。
 しかしそれにしてもカルロス・クライバーの演奏は、交響曲第五番に接近している。彼の演奏は、人間の情念が根源から爆発してくる歓喜に溢れる衝動を、直截に表わすのである。蛮性の過度を怖れることなく、解釈したスコアに確信をもってその演奏に表現する。それは作品五七ピアノソナタ第二三番「熱情」を経て交響曲第五番に拡がる道である。この演奏には巨人的で闘争的な情念の世界を凝縮したときに起こる激情と、破壊の衝動を含んでいる。いわばクライバーという専制君主の裁可に委ねて、形式をもって形式を粉砕する緊張関係を表わす。まるで情動が外部に噴出したかのような演奏なのである。闘いの緊張に堪え抜く力を秘めた創造への衝動が、放縦な爆発を導き出してしまう必然に通じている。先の交響曲第一番の項の繰り返しになるが、これに較べるとハイドンの後期の交響曲には、形式を端正に磨いてソナタ形式という様式美そのものを聴かせるところがあり、簡潔で洗練された合理的な様式を優先する。
 こう言ってしまうとこの演奏は情念の衝動に任せて、規矩や思惟を無視した放埒な演奏であるかのように想像してしまうが、その実況録音盤を聴いた人には、彼の演奏がそういうふうにはできていないことはよく分かるはずである。演奏は理性の介入を拒みながら、理知的な解釈が行き届き、機能的で切れ味のよいテンポで颯爽と駆動する。理性に裏打ちされながら衝動的であり、形式合理性を備えていながら、それを逸脱する熱狂であり、整然と端正な演奏を聴かせながら奔放に立ち回り、気分は昂心している。こうして聴き手を惹き付け、カルロス・クライバーの世界へ誘い込んでしまうのである。形容矛盾のようだが、それがカルロス・クライバーの演奏から受けた印象なのである。
 指揮者の独自性が発揮されていて、王国を隅々まで意のままに支配する心地よさを感じさせながら、その支配を突き抜けているところにこの演奏の斬新さがある。演奏は自発性にあふれ、非常にかっちりとした堅固な造形性に富んでいる。いわば非形象的な芸術である音楽に、設計の行き届いた強靭な造形を生んでいる。そして聴き手はいつの間にかカルロス・クライバーの解釈に引き込まれ、その音楽の流れに身を委ねている。その先には視覚に捉えることのできない音の世界に、あたかも一部の隙もない構造物である仮構の大伽藍が現われてくるのである。
 カルロス・クライバーの解釈が主観的で個性的な独自の表現を感じさせながら、そこには一つの普遍に達した概念とでもいうようなものが浮かび上がってくる。噴出してくるものが、抑圧から生じた個人の怨差というような、反抗の形をとるのではなく、連帯感情を呼び起こして、集合する心性のまとまりとして訴えてくるのである。歓喜と陶酔が満ち溢れ、聴き手の感動が一体のものとして結び付いて、一つの心性に重なる。それは聴き手の意識を覚醒させながら、すべてのものと一つになる全一感情を生むのである。演奏は十分にコントロールが行き届きながら、カルロス・クライバーという個性を全面に押し出していった末に、おのずからベートーヴェンの相貌を浮かび上がらせる。
 人として生まれ、他者とは置き変えることのできない存在である個人、一般概念とは区別されるただ一人のユニークな存在である個人、こうした意識が対立する対象を受け入れながら、自己を認識していく過程である。やがて自分にしかない固有のものと思い込んでいたものが、隣人のなかにも潜んでいることを発見する。聴き手は「個体化の原理」とでもいうような個の囚われから解き放たれて、普遍に集合されていく過程を観照しながら、その渦の中心で熱狂している自分に気が付くのである。
 したがって個人と対置される集団や組織を、対立する概念として敵対する関係で捉えるのではない。それは障碍となるのではなく、個の自覚に不可欠な要素と認める態度が生まれてくる。個と集団の緊張と相克が、連帯の絆となって意識され始める。それは第二楽章の瞑想のなかにも、第三楽章や第四楽章の喜悦のなかにも発見できるものである。クライバーの演奏は内なる情念が炎となって外部に迸りながら、聴き手をベートーヴェンの世界へいざなうのである。
 ではイッセルシュテットの演奏がベートーヴェンを表現していないのかというと、けっしてそんなことはない。クライバーの演奏が交響曲第五番に接近しているとすれば、こちらは作品六一ヴァイオリン協奏曲ニ長調から作品六八交響曲第六番ヘ長調「田園」に至る道筋を想起させる。イッセルシュテットの演奏もまた紛れもなくベートーヴェンそのものなのである。
 イッセルシュテットは、作品への接近にいささか距離を置いているようである。音符を自由に解放しながら、その生成を音符自身に委ねているように聴こえてくるのだが、そこにはイッセルシュテットの解釈による秩序の枠がしっかりと働いている。ベートーヴェンの秘めているとてつもなく凝縮した力の世界を、それと感じさせないように配慮しながら、ひとつの様式を踏み外さないように見守っている。その狙いには指揮者の主体的な意志を露にすることを慎みながら、表現したものが過剰に陥らないように演奏を収める節度と調和が働いている。さまよっている音符を散逸させないよう囲いのなかに誘導する。いかにも理性の抑制が効いた演奏である。それが客観的で冷たい演奏かというとそうではなく、温かく愉悦に溢れた演奏なのである。
 個の持つ固有の倫理感や美的感覚が、好ましい状態に均衡しながら演奏に反映されている。いわば理性に仲介してもらいながら、人間の内なるものの中から善いものだけを取り出して演奏に表わすのである。こうした印象をもたらすものに、悠揚迫らぬテンポの設定が効果を上げている。細部に隠れている魅力を引き出そうとしたり、叙情性を際だたせることを意図してテンポをゆったりと扱っているのではない。そこにはベートーヴェンの九つの交響曲へのイッセルシュテットの解釈が働いているのである。
 イッセルシュテットは、ベートーヴェンの内なる衝動や放縦な感情の爆発を、外部に押し出すような表現を避けている。むしろベートーヴェンの穏和な一面をそれとなく垣間見せながら、情念の衝動を鎮めている。それは美と節度に導かれるイデアの世界から向けられたイッセルシュテットの眼差しであり、解釈したスコアへの自信と確信に裏打ちされているのである。みずからの内なる意志を優先させ、身体的な衝動の開放よりも、節度ある明晰な世界と、それがもたらす静謐な夢の世界を表わすのである。
 みずからを、あからさまな感情の昂りによって表わすことが、自己を主張し顕示することではない。謙虚で控え目な振る舞いのなかに、個としての個性を貫く強い意志を示すことができることをイッセルシュテットの演奏は表わしている。醒めた自己と熱狂する自己を、もう一人の自分が他人の感覚で眺めることの発見である。彼のベートーヴェンの九曲の交響曲の解釈は、阿修羅のごとく荒ぶる魂を爆発させるベートーヴェンではない。鎮められた情念から湧き起こる、穏やかな情動の静かな興奮なのである。
 おそらくイッセルシュテットは、ベートーヴェンの作品にあるそうした性格を十分に認識していただろうと思う。激情に走る闘争的なベートーヴェンを意識しながら、もう一つの側面である寛ぎと愉悦と諧謔に溢れた素顔をつうじて、イッセルシュテットはベートーヴェンの意図するところを伝えようとしたのではないかと思うのである。彼はヴィーンフィルハーモニーとともに、ベートーヴェンの九つの交響曲を録音しているが、そのなかでもこの作品六〇の演奏にその典型がよく現われている。
 カルロス・クライバーの演奏が、激情的な衝動を解放し隣人と一体となる陶酔だとすれば、イッセルシュテットの演奏は、静観的で調和に均衡する人間の内面に向かう個の世界である。このようにこの作品は演奏者の表現しだいで、その相貌が辺りを払う力強い仁王像として現われたり、優雅な微笑を湛えた彌勒菩薩に変わったりする。この曲は演奏によって、こうした二つの特徴がきわめて対照的にその表情に現われるのである。
 だがこの二つの演奏はどこまでも平行のまま終るのではない。聴き手に届いた二つの演奏は、いつの間にか一つのベートーヴェンに統合されるのである。だからと云ってクライバーとイッセルシュテットの演奏が、各々ベートーヴェンを半分づつ分け持っていて、合わせて一つのベートーヴェンになるという計算になるわけではない。各々の演奏は紛れもなく一つのベートーヴェンを形成している。この二つの演奏は、スコアから触発された指揮者の解釈の違いによって生じたものであるが、そうした解釈を可能にする二つの顔がこの作品に潜んでいたのである。各々の感性に受け止めた解釈から出発しながら、ついに作曲者の手腕が、意図するものを一つに導くのである。両者の録音年代に開きがあるが(イッセルシュテット一九六六年、クライバー一九八二年)、演奏しだいでその相貌に剛柔二つの対照を現わしながら、結局一人のベートーヴェンに収斂する。
 ノッテボームが「第二ベートヴェニアーナ」に述べているということだが、ベートーヴェンはゆっくりと苦労しながら仕事に取り組み、いくつかの作品に同時にとりかかるのを常としていたという。そのわき上がった曲想に記憶がついていけるとは必ずしも限らないので、備忘の必要があってスケッチ帳に残す習慣ができた。そして彼はそのスケッチ帳を監視していて、後から目を通し興味を抱いた箇所を取り上げ、途中に置いていた作品の仕上げに再び取りかかるというやり方で作品を仕上げていったという。自分が発見したモチーフに、確信をもって同意できるかどうか検証するのである。
 その伝からするとこの作品そのものが、スケッチ帳の役割を担っていたように考えることができるのではないだろうか。ベートーヴェンはスケッチ帳を監視するように、この曲に漂う音符の動きを、聴衆とともに眺めていたのである。それが聴き手に一体感というような接近をもたらしている。この作品に現われる混沌というのは、外向的なものと内向的なものが出会う合流点に発生している。こんな想像が働くのも、右に挙げた対照的な二つの演奏との出会いがあったからである。
 対象を捉え、その提起したものを外部に向かって問いかけ、その応答を外部から導き出そうとする。その一方で、みずからの内部で咀嚼し陶冶しながら、提起した問いの答をみずからの内なるものに求めようとする二つの顔がこの作品に現われる。この時期までのベートーヴェンの創作は、人生の試練の後に、それを克服しようとする自己陶冶の跡をとどめるように、その作品と人生の軌跡が寄り添うように進んできた。いわば問題を発見し原因となったものを省察しながら、創作上に彼の意図した本来的な姿を取り戻す作業である。


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