んだんだ劇場2008年6月号 vol.114
No20
作品六一ヴァイオリン協奏曲ニ長調

 ベートーヴェンがこのようなあえかな作品を遺していたことは、私には大きな驚きであった。敬虔な祷りを捧げる崇高なものへの謝意であり、そんな敬虔な感動に手を合わせずにはいられなくなる厳粛な感動であった。遥か悠久の宇宙へ想いを馳せる追憶の気分とでもいったらよいのだろうか。浄福とは、母の胎内に繭玉のように包まれた胎児の居心地のことかもしれない、などと想像したのである。慈しむような眼差しに護られた至福の感覚である。情念に蠢めく情動は聖なるものに昇華されており、至上の真美が奏でられている。闘争的で劇的なドラマの内側に潜むベートーヴェンの憧憬といってもいいような清められた世界である。
 彼が本来求めていた心性とはこのようなものだったのではないだろうか。外部からの邪な侵入に乱されないとき、彼はこうした安寧のひとときに身を委ねることができたのである。ベートーヴェンには、内部へ求心し是が非でもその正体を抉り出さずにおくものかと闘争する好戦的な傾向と、そうしたものを優しく包み込む慈愛に満ちた眼差しが作品に現われる。この作品では内省に潜む葛藤は鎮静され、和解を結んでいる。衝動が情念のなかで寛いでいるベートーヴェンを発見するのである。
 第一楽章冒頭のティンパニーの開始は、交響曲第五番の運命の動機を緩和していて同じものからの株分けといってよいモチーフである。怒涛のごとくたたみかけてくる精神の狂乱は鳴りを潜め、聖なるものへの憧れと、人間への慈しみに満ちた深い眼差しが染み込むように切々と伝わってくるのである。愛する女性への憧憬なくしては創造できない作品である。おそらくベートーヴェンの本来的な性質は、このヴァイオリン協奏曲の趣から察せられるような、柔和で寛容に溢れた優しさを湛えたものだったに違いない。
 だがこうした性質を乱すものへの怒りが激しい闘争として現われてしまうのは、彼の裡なるデーモンに触れたときである。みずから好戦的に闘いを挑むのではなく、防衛的反作用が攻撃的な態度を取らせるのである。つつましく生きているものを理不尽に踏みにじる不条理への憤りである。この作品ではそうした激しい情念は鎮められていて、平生のベートーヴェンの穏やかな姿が浮かび上がってくる。この作品はヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人の存在なくしては生まれ得ないものであった。
 一七九九年五月、ハンガリーのマルトンヴァーシャルに館を持つ貴族ブルンスヴィック伯爵未亡人アンナ・バーバラは、二人の娘を連れてヴィーンへやって来る。ヴィーン社交界へのデビューと婿探しが目的であった。この折ベートーヴェンを訪ねてピアノのレッスンを受けたのがきっかけとなり、姉妹のテレーゼ、ヨゼフィーネに加え、下の妹シャルロッテと長男フランツの四人と、生涯にわたる交流が始まることになる。彼等の父アナトール伯爵は、アメリカ独立運動の指導者であったベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントンに共感していた進歩的な思想の持ち主であったという。ブルンスヴィック家の気風がベートーヴェンの心性に重なる素地を作っていたのである。そしてなによりも美貌と才知を具えた姉妹に、ベートーヴェンは心を奪われたのである。
 姉妹がヴィーンに滞在したうちの十六日間をベートーヴェンは嬉々として彼女たちと付き合う。そしてこの滞在で妹のヨゼフィーネ(1779〜1821)が、宮廷美術家の肩書きを持つヨーゼフ・ダイムとの婚姻をあわただしく整えることになる。彼女は気乗りしなかったのだが、母に強引に説得され不本意のまま結婚することになったのである。夫ダイムとは父娘以上に年齢が離れていた。この結婚は当初からあきらかに不幸な影を落とす。案の定のちに彼は投機に手を出して妻に持参金の提供を受けるはめになるのである。「あなたと、あなたの愛情から離れてわたしは幸福にはなれません。夫は大変いい人ですが、彼の教育、容貌、年齢いずれもわたしと掛け離れています。あなたは夫を選ぶときもっとうまくやって下さい。少なくとも、もっと自由であなたの好みに合うような生活のできる結婚をして下さい。」と彼女は姉のテレーゼに手紙を送っている。
 ベートーヴェンはヴィーンを離れる二人の姉妹に、ゲーテの詩による歌曲とその主題をピアノ連弾の四つの変奏曲にして献呈している。その楽譜にはベートーヴェンから献辞が添えられていた。「フォン・ブルンスヴィック伯爵令嬢の記念帳に。あなた方がこの小さな音楽の捧げ物をときどきお弾きになり、歌われ、あなた方を真に尊敬していますルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンを想い出して下さるに勝る望みはありません。ヴィーン 一七九九年五月二三日」。この時の十六日間の邂逅はベートーヴェンに華やいだ強烈な印象を残したことだろう。
 だが姉のテレーゼ・ブルンスヴィック(1775〜1861)とベートーヴェンは、どこか構えた関係にあったようである。ベートーヴェンからの手紙の写しとして、テレーゼが妹シャルロッテに宛た手紙に「優れた人というものは自然とお互いに思い合っているものです。大事な、尊敬すべきテレーゼよ、あなたとわたしの場合もそのようです。・・・・・・」と述べているように、心の交流が恋愛に発展する兆しはベートーヴェンの方からは見られない。
 テレーゼもそのことを直感していたのではないだろうか。たとえお互いに恋愛感情が芽生えたにしても、その先には身分の壁が立ちはだかっている。育った環境の違いや身分の壁を取り払うのは容易なことではない。テレーゼはベートーヴェンの期待する役割を最後まで演じようとしたのではないだろうか。しかし「彼女は静かで深い愛情をたたえているように思えるが、実際にそばに寄ると以外に冷たい。彼女の気持が個人に向けられることはめったになく、もっと抽象的で、観念的で、世界の平和とか、貧しい子どもたちというように、対象が漠然としている。しかし、一度彼女の注目がある個人、たとえば一人の男性に向けられるようなことがあると、秘めたる激情が爆発し、その対象から離れられなくなる恐れもある。じっとものかげから、好きな人を見つめていたり、なにも言わないけれどその激情が感じられて、男性はこわくなることさえあるようだ。彼女はしばしば、自分とはまったく反対の性格である、活動的で知的で表現の巧みな男性を好み、その人に自分の生涯をあずけて、無言で静かに生涯を送る場合が多い。」(「ユングの性格分析」秋山さと子著 講談社現代新書)という指摘はテレーゼそのままであった。彼女はヨゼフィーネから離れることができず、ベートーヴェンを遠くから眺め、彼等を陰から支える役割に回った。その後半生を私財さえ投じて子どもたちの教育に力を注ぎ、ペスタロッチの思想を実践し、ハンガリーに幼稚園を創設した母として八六歳という長寿を全うし、今日にその名をとどめている。
 一八〇四年一月二七日ダイム伯爵は旅先で急逝する。ヨゼフィーネは彼の第四子を身ごもっていた。蝋人形館を含む広大な屋敷に、ヨゼフィーネは忽然と四人の子とともに残されることになった。おそらくベートーヴェンは悲嘆に暮れるヨゼフィーネのもとに以前にも増して足繁く通ったことだろう。エルトマン男爵夫人がわが子を失い悲嘆にくれていたとき、そしてブレンターノ夫人アントーニアが病臥にあるとき、隣室で黙したままピアノでファンタジーレンを奏でたという。ヨゼフィーネにたいしてもそうしたはずである。
 これを聴いた彼女たちは、心の鎮静にどれほど慰められたことだろう。鎧兜をピアノに代えた騎士ベートーヴェンが、自分のためにわざわざ出向いて演奏してくれたというその行為自体が、いい知れぬほどの大きなやすらぎと感激だったに違いない。ましてその奏でる楽の音がヒタヒタと心のうちに滲み入るものであったなら、彼女たちにとってその励ましや慰撫はいかばかりのものだったか計り知れない。ベートーヴェンには夫人たちにたいするこうした行為を、まるで中世騎士物語のように誠心誠意、真心をもって接したのである。
 ベートーヴェンの恋愛観に、中世の騎士道精神や吟遊詩人の詩にイメージする貴婦人崇拝の気持ちが働いていたと推測することはできないだろうか。高貴な志を持ち崇高な精神と武勇に優れた騎士が、さらに身分の高貴な貴婦人に淡い恋愛感情を抱きながら無償の愛を捧げ、その過程を通じてみずからの精神をさらなる高みに陶冶していく。相手の貴婦人とは結ばれることができない障壁があって、崇拝する彼女の名誉を守って満足するという騎士道物語であり、崇高なものへの憧れと高貴な精神を実践する態度である。
 みずから聴覚障害を抱えるベートーヴェンには、女性をひとりの人間として遇する真摯な態度があったに違いない。しかし恋愛は、むしろエゴイズムから出発していて、抑制の効かない男の性衝動が潜んでいる。とりわけこの時代にも男女の関係に放縦さがあったことを考えると、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、まさしく貴婦人への情念を、この作品に昇華させたような印象を持つのである。だがそのようなベートーヴェンもダイム伯爵の死を契機に、彼の抑制していたヨゼフィーネへの想いが、同情も手伝って再び急速に燃え上がっていったに違いない。ヨゼフィーネもまた彼女の倫理観の範囲で彼の気持ちを受け入れていることは、その手紙の下書きからも明らに分かる。彼女の一八〇四年一二月二四日付けの下書きを見てみよう。
 「愛するベートーヴェン様、この冬じゅうずっとあなた様にこれまで以上にお近づきになれたことは、どんなに時が経っても│どんなことがあっても、消えることのない感銘をわたしの心に残しました。│あなたはお幸せですか。それともお悲しみでしょうか?│あなたの心にお答ください。│また│このことであなたのお気持ちを抑制なさるのか│赴くままに任せられるのか│それによって、和らげられるのか、掻き立てられるのでしょうか│あなたはどうなのでしょうか│どちらでしょうか│あなたとお付き合いする喜びは、もしわたしをもう少し感覚的でなく愛して下さったのでしたら、それはわたしの生涯に最も美しい輝きを添えることになったでしょうに。│わたしがこの感覚的な愛に満足出来ないのが│あなたの怒りを招いています│あなたのお望みに従えば、わたしは貴い絆を断ってしまうことになります。│信じて下さい。│自分の義務を守ることで、最も苦しんでいるのは他ならぬこのわたしです。そして貴い動機がわたしの行為を導いていることは確かなのです。
 あなたはわたしの心をどんなに痛めていられるか、お判りになっていないのです│わたしに対する扱いは全く間違っています│あなたがしばしばなさっていることの意味がお判りになっていないのです│それがどんなに深くわたしの心に触れているのかを│わたしの命をいとおしく思って下さるのでしたら、もっといたわって下さい│何よりも│わたしに疑いを持たないで下さい。わたしはうまく言い表せないのですが、徳と義務をそんなに大きく犠牲にすることがわたしの意識の奥の方でどんなに深い傷になっていることでしょうか。│ただ心に思うだけにせよ、軽い思い違いにせよ、卑しい人たちと同じにされるとは!こうした思い違いをあなたはしばしばなさるのですが、そう得心がいくまでは大変悩み、何と言ってよいか判らぬほど情けないのです。そんなことはごめんです。わたしはそういう卑しい言い方、わたしたち女性の性に触れることは厭わしいのです!│それはわたしの深い下層にあることです│そしてわたしにはそういう事は必要ないと信じています│媚態、それは子供みたいな見栄と同じく、わたしには縁遠いものです│同じくまた、わたしの心情はどのような私的享楽にも超越しております│これがわたしの悪い所だと、おそらくあなたは思っていられるでしょう│あなたの精神的な価値を信ずることだけが、あなたを愛させたのでした│わたしがあなたにあると信じているほどの高貴さがあなたになかったら、わたしはあなたの眼には最小の価値すらあるものと映じないでしょう。ただあなたが良い人間を尊重なさるとき初めて、わたしはいくらか価値あるものとなるでしょう!!
 あなたは一人の人間に善意と友情を寄せられてきたのだ、ということをいつも考えて下さい│これこそ全くあなたに相応しいことなのです。」(小松雄一郎訳「ベートーヴェンの手紙」岩波文庫)
 自分が愛する女性から愛されていると錯覚したとき、行為を迫るのは男女の倫理にはずれるものではない。このときベートーヴェンは三十歳半ばの男盛りである。性への衝動がヨゼフィーネの倫理観を突き破って、肉体的な結びつきを渇望しても「楽聖」の不名誉にはなるものではないと思う。相手がこちらの想いを受け入れたと確信したとき、関係を催促できるものと錯誤するのもまた男の身勝手な思い込みなのである。しかし同時に人は愛する相手を得たという思いが生じたときにこそ、崇高な気持ちにもなれるのである。そうした気持ちから要求する行為は、内なる卑俗が聖なるものに昇華する瞬間である。ベートーヴェンはその葛藤の嵐に苛まれながら、みずからの衝動を必死に抑制していたのである。
 ヨゼフィーネも彼の思いに応えようという気持ちがあったのかもしれない。その狭間で彼女が苦しんでいたことは、この下書の文面から切々と伝わってくる。彼女の人生に対する態度がそれを押し止めたのだ。また貴族の垣根を越えて、みずからを押しとおすことにためらいがあった。取り巻くヴィーン社交界やその因習のなかで、がんじがらめになっていた彼女の倫理観や、育てられた環境が抑制させたのである。彼女もまたみずからの情念の世界で闘っていたのだ。
 ヨゼフィーネが描いていたものは、右の文面にあるとおり、感覚的な愛情を求めたものではなかった。この場合感覚的という表現は、肉体的な関係を暗示している。ヨゼフィーネの求めているのは、シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人がゲーテに述べた「私は愛に《完全性》をもとめます」という愛のあり方と同質のものであった。彼女はシュタイン男爵と結婚し、女児四人、男児三人の七人の子を生んだが、成人したのは男児三人だけであった。
 次々と子を孕み出産の苦しみを味わったシュタイン夫人には、夫との交わりは命令と義務の努めでしかなかったようである。まして医療が今日のように整っていなかった当時では、出産は生死を分けるほど危険をともなうものであり、生まれた子にとっても、乳児期を無事にとおり抜けるのは至難のことであった。シュタイン夫人からすれば夫との営みは、忌まわしいものでしかなくなっていた。愛に完全性を求めるというシュタイン夫人の到達した愛のあり方は、愛なき結婚と労りのない男性社会への断固としたプロテストだったと思われる。
 ベートーヴェンにも兄弟や妹たち六人がいるはずだったが、生存したのは二人の弟だけである。そして愛するヨゼフィーネも、このときダイム伯爵との間に生まれた四人の子供がおり、再婚後にも三人の子をもうけて七人の子の母となっている。またゲーテには四人の弟妹がいたが、生き残ったのは一歳違いの妹だけであった。当時は子供の出生率は高かったものの、幼児の生存率はきわめて低かった。母親たちからみれば、出産は生まれてくる子ともども、命がけの闘いでもあったのである。
 さてベートーヴェンは抑制していた衝動をヨゼフィーネに開放してしまった。そしてヨゼフィーネは衝動をみずからの心の裡に封じ込めた。相手を想う気持ちに変わりはなかったが、求める愛のあり方は正邪善悪の判断で決められるものではなかったからこそ、両者の葛藤がすれ違いジレンマを生じてしまったのである。
 晦渋で狷介な気難し屋というベートーヴェンのイメージが定着しているが、そのような彼の性格をして果たして女性たちと、信頼と深い愛に育まれるほどの交流が可能だっただろうか。ベートーヴェンには内面から溢れる生得的な魅力が具わっていた。それはヨゼフィーネが貴族社会のなかで見てきた男性にはない自律した自我の魅力であり、何ものにも屈しない独立した人間の態度だったに違いない。そして女性をひとりの自立した人間として遇する姿勢は、彼の音楽がそうであるように相手の心を圧倒したのである。
 彼の音楽は猥雑なものを一切取り去って清潔感に溢れている。聴く者に直截に響き精神の深淵に導く音楽である。有り余る想念を簡潔に表わして決断が早い。韜晦した音楽ではない。したがって彼の作品を受け止める側に韜晦した心の屈折があれば、ベートーヴェンの作品を否定したい衝動に駆られるはずである。ベートーヴェンから受け取るアイロニーは、彼から贈られたものではなく、聴き手みずからの裡なる韜晦の自覚なのである。
 その何よりの証拠が、この時期に書かれた作品六〇交響曲第四番やこの作品六一に反映されている。ベートーヴェンは人間の心の裡に韜晦する情念の浄化を願っていたのである。自分へのこだわりから解放された情念は、客体や外的環境に順応するものではなく、またそれらに求めるものでもなく、伸びやかな状態のなかで育まれる囚われのない心の自由にこそ生まれる。それは聖と俗の境界を突き破り、つねに崇高なるものに均衡していくものだ。
 ヨゼフィーネは、こうした彼の音楽とともに彼の人生に対する態度をも受け入れようとして苦しんでいたのである。美貌と優雅な物腰を湛えた未亡人に集まる好奇の眼が、見えない圧力となってヨゼフィーネにのしかかっていたのかもしれない。ベートーヴェンの先験的な生き方は当時の社会通念から遠いところに根ざしていた。新しい価値観を現実の生活のなかに実践する姿は、貴族社会という環境に身を置くヨゼフィーネにはやはり受け入れ難いものだったに違いない。ベートーヴェンが先進的かつ前衛的な生き方を直截に彼女に迫ったとは考えにくいが、彼の姿勢はおのずからヨゼフィーネの自己認識の在りようを問うことになってしまったようである。
 四人の子を抱え毎日の種々なことに煩う彼女の境遇は、彼を知りその意思を受け入れようとすればするほど、現実との乖離が大きくなっていったのである。彼の生き方に触れるにつけ、現実との葛藤の中で彼女は精神を苛んだ。彼女にしてみれば高邁な理想に燃えるベートーヴェンと、性衝動に溢れる一人の生身の独身男性であるベートーヴェンを同時に受け入れなければならない。その上四人の子どもたちとみずからの生活抱えこんで、置かれた現実の苦境を目の当たりして混乱が生じて当然だったのである。
 平穏な生活を求める彼女にできることは、ベートーヴェンからみずからの自我を隔離し防衛することであった。何よりも四人の子供たちの将来に意を注ぐことが、彼女の避難場所となっていったのである。しかしその目的を遂げるための生活資金にもこと欠くようになり、後年ベートーヴェンの人生にあらたな苦悩をもたらす原因を作ることになるとは、両者にはまだ想像も及ばなかったことである。彼を愛すればこそヨゼフィーネは因習の裡に逃れざるを得なかった。だがそこもヨゼフィーネの安息の場ではなかった。彼女もまた血の泪を流していたのである。
 第一楽章、同じ音階をティンパニーが仄かに連打する二小節で開始される。この優しく労るようなティンパニーの柔らかな響きは、ベートーヴェンとヨゼフィーネの葛藤を浄化し、すべてを認めて許し合っている響きである。このモチーフは交響曲第五番の運命の激昂するモチーフと比べると、なんというやすらぎに満ち溢れていることだろう。この連打されるティンパニーは、真の幸福はあからさまな喜びの爆発では厭き足らないことを示している。浄福に満ち溢れた序奏部を経て独奏ヴァイオリンが朗々と歌い上げ、恋する者たちへの讃歌を奏でる。恋人たちの葛藤を絡ませながら、昇華して至福を迎える綾なす心の交歓を、この旋律に託しているかのようである。聴衆は育まれた小さな命の始まりを、悠久の宇宙に運んでおいて遠い彼方に追憶するような気分を味わうのである。
 第二楽章の妙なる調べは深夜の静寂を彩る天空に、輝く星たちの光芒を人類に贈り届けている。幽冥の世界へ聴く者を誘う甘美な陶酔であり、男女の愛の調べを音楽に託した究極の美化である。澄みわたった夜空一面に輝く星々に向かって、私たちは浄化に導かれて魂を飛翔させるのである。ここでは人間の自我も欲望も利害も、聖なるものへ化身している。人間の持つ心の闇に、私たちは精神の深淵と敬虔な眼差しを発見するのである。それは私たち自身の裡に存在する世界であり、全能なる創造主が人類へ注ぐ慈愛の眼差しでもあるかのようだ。私たちは心の裡に各々の宇宙を発見する。ベートーヴェンがそれを妙なる調べに載せて気付かせてくれたのである。彼の音楽は、人間の根源に存在する心の機微を聴く者に覚醒させ、その琴線に触れる術を獲得していた。
 そして第三楽章、独奏ヴァイオリンとファゴットが掛け合いで奏でる、優美にして官能的でありながら、哀愁に溢れたあの旋律は、まさしく生命の根源にまで追憶の想いを馳せている。ヨゼフィーネとともに過ごしたかけがいのない充足した日々を、万感の想いを込めてベートーヴェンは語っているのである。ベートーヴェンの止むにやまれぬ情念がこの傑作を生み出したが、ここでの衝動は燃えたぎるような動的なものではなく、慰撫に身を任せ魂は憩に安らいでいる。その衝動に溺れることなくベートーヴェンの澄んだ眼差しが、この傑作を生み出したのである。だがそれはこの恋の終焉を予告するものでもあった。
 ここで聴くベートーヴェンは、人類が持つ知性で描く創造主を思い描いても届かず、人間の叡知ではまだ解析のとどかない心の宇宙を、時空を超えて想像するようなものだ。私はこの曲を聴くたびに、幼い日を家族の庇護に守られて、屈託のない伸びやかに過ごした毎日を心からなつかしく想うのである。だがそれはもう取り戻すことのない過ぎ去った遠い日々である。躍動感と力強い推進力で牽引する豪快な作品を創造する傍らで、彼岸に安らぎながら鎮魂の祷りを捧げるなんというベートーヴェンであろうか。彼の五六年余の人生のなかで、最良の至福に満ちたかけがいのないひと時を、私たちはこの作品に聴くことのできる喜びを味わうのである。
 願望や想念だけで書ける曲ではない。かといって嵐の最中にあって、このような清透な境地を表わすことはできるはずがないと思う。熱情や衝動の鎮魂なくしては生まれようがない名曲である。敬虔な祈りに浄化されなくては、このような神品まごうことなき珠玉の名作が誕生できるはずはないと私は聴くたびに思うのである。そして浄化は時の経過とともに、追憶に変わらなければならないことを示唆している。
 私には三十歳のときに出会ったこのヴァイオリン協奏曲は、私に結婚を促したかけがえのない作品である。もともと優柔不断でグズグズ思い悩む性格の私は、女性に臆病であった。求婚して断わられる自分を見るのが厭であったし、そうなったときに同じ職場にいるのも気鬱であった。不決断で小心な私の性格は、行動する前に現実を空想に変えて逡巡し、世界を萎縮させてきた。七年間何くわぬ顔で彼女を遠くから見守りながら、個人的な付き合いに至らなかったのも、私の臆病な自意識が禍していた。感傷に浸る恋人どうしの囁きなどというものを切望しながら、現実には望むべくもなかった。そんな私がこのヴァイオリン協奏曲と出会い、背中を押してもらったのである。その妻と四半世紀をともに歩んできたが、屈託のない妻の明るい性格はいまも失われずにいる。反対に私は自分の世界をさらに狭くして、身動きできない自分の世界に閉じ籠ったままである。妥協は隷属であり、譲歩は敗北であることを怖れて、そのどちらにも与することができずに、臆病な私は一歩を踏み出すことにいつもためらっている。
 私は、この作品を書き上げたベートーヴェンとヨゼフィーネには、身も心も結ばれていたと信じたい。恋の成就を肉体の結びつきに求めるのはいかにも短略的で早計だが、そのようなプロセスを経て広がる彼岸への道行きを二人には実現して欲しかったのである。それは私の祷りである。このような神韻の世界にたどり着いた傑作の陰に、恋人たちの破局を想像してはならないのだと。
 だが現実はひとりの感傷者の思いを超えて、いささか残酷な経過を辿ることになる。断腸の思いでベートーヴェンを振り切ったヨゼフィーネは、生きがいを子供たちの教育に求めて一八〇八年の夏に姉のテレーゼと共にスイスのイヴェルドンを訪れる。教育家ペスタロッチが新たに寄宿学校を創設したことを聞き、二人の男の子を連れてその施設で教育させようと出かけたのである。しかしペスタロッチが目指した教育はルソーの影響によるものであり、貴族のための教育ではなかった。二人は甲斐もなく引き返すことになるのだが、そこでエストニアの貴族シュタッケルベルクと出会い、子供たちの教育を引き受けてもらうことにしてヴィーンへ同行することになる。
 けれどもシュタッケルベルクは夫の立場を要求し出し、一八一〇年にヨゼフィーネは彼と再婚することになる。ルソーの信奉者であったシュタッケルベルクは、家族や生活のことを顧みず晴耕雨読の生活を夢みて農場を購入しようとして、他人の土地を売りつけられ裁判で争った末に破綻してしまうのである。子供たちが相続した前夫ダイムの遺産にまで手を付けてしまい、ヨゼフィーネは途方に暮れることになる。おまけにシュタッケルベルクとの間に二人の子をもうけ、ヨゼフィーネは六人の子供を抱えていた。これが一八一一年から一二年にかけてのヨゼフィーネの状況であった。二人は諍いを重ねるうちに一八一二年の五月から六月の初め頃、シュタッケルベルクはダイム邸を出奔し行方不明となる。戻って来るのはその年の一二月になってからである。
 その後ヨゼフィーネは翌一八一三年四月八日に第七子を生んでいる。立会人には夫シュタッケルベルクの名は記載されておらず、姉のテレーゼだけであった。彼は洗礼にも立ち合っていない。女児はミノナと名付ける。生まれたミノナはすぐにテレーゼに引き取られ、二人は世間の目をはばかるようにして一〇ヶ月間ほどヴィーンを離れている。テレーゼは一八一二年九月二二日付けで日記に「・・・・・・私はヨゼフィーネの子どもを、自分の所有物とみなしたりせず、自分のことはさしおいて何よりもまず、子どもの親として、気高い厳粛な気持ちでこの子を受けとめ、子どもにそなわる神性を何もそこなわないように、養育しよう。それが私の務めだ。・・・・・・」と記しているという。妹ヨゼフィーネの末子に寄せるテレーゼの特別の思いが隠されている。
 夫婦仲が決定的に不和となった一八一四年五月になり、夫のシュタッケルベルクは自分との間に出来た二人の子どもと、ミノナの三人を奪うようにしてエストニアに連れ去った。ヨゼフィーネは心を病みテープリングの病院に入院する。この間テレーゼはヴィーンに留まり、前夫ダイム伯爵との間に生まれた四人の子どもの後見の権利を取り上げられたヨゼフィーネの親権を取り戻すために奔走している。ヨゼフィーネ一家の家政の立て直しや将来の子どもたちの教育や生活について、ブルンスヴィック家でも検討される。ダイム邸を賃貸にして収入を得ようと改修工事が行われるが、投資した資金を回収できるだけの収入は上がらず、ここでもヨゼフィーネは窮地に陥る。そしておそらくベートーヴェンもテレーゼと呼応するように、何がしかの資金をヨゼフィーネのために提供したり保証人となるかして彼女を援助したに違いない。だがヨゼフィーネの健康は回復せず一八二一年三月三一日の夕方、失意のまま亡くなる。
 この作品六一ヴァイオリン協奏曲ニ長調は、ベートーヴェンの輝かしい恋愛の一時期を飾るにふさわしい作品である。それはまた相手のヨゼフィーネにとっても、彼女の人生の最も充実した精神の謳歌を綴った幸福な時間だったのかもしれない。交響曲第四番に潜んでいたものの一つがこのヴァイオリン協奏曲ニ長調であり、ベートーヴェンの持つ一方の顔であった。おそらくこの恋の破局はベートーヴェンにとって、後悔や未練の残るものではなかったのであろう。この作品がそれを伝えている。追憶の彼方にヨゼフィーネへの想いはしっかりと刻印されたのである。
 ベートーヴェンの音楽の核心を見事に捉えていたフルトヴェングラー(1886〜1954)は、つぎのように記している。「嵐と雷雨の神とも呼ばれるこの人が、同時に、いとも深奥にして幸多き静寂、底知れぬ敬虔、かつて音で表現された最も無邪気で喜悦に満ちた調和の創造者であったというだけではない。嵐のただなか、激烈この上ない衝動のうちにすら、なんというゆるぎない静寂と澄明さ、また一切の素材をすみずみまで支配し、形成しようとするいかに強固な意志がうかがわれることか。なんという比類なき自己陶冶であろうか。いまだかつて芸術家にして、絶対的なものへのかくも激しい衝動を持ち合わせながら、『法則』というものを彼ほど深く体験した人はいない。いまだかつて芸術家が法則にかくもいさぎよく、かくも謙虚に服従したためしはない。」(ベートーヴェンの音楽について)。
 このフルトヴェングラーの洞察を余すところなく作品に表わしたものの一つが、このヴァイオリン協奏曲ニ長調であった。そしてこれらの作品と併行しながら、右のフルトヴェングラーが指摘したもう一方の顔である阿修羅のごとく激情に溢れた名曲の誕生が、すぐそこに迫っていたのである。


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