んだんだ劇場2008年7月号 vol.115
No21
攻撃衝動と創造的破壊、本能を穿つ運命のモチーフ

 北方ルネサンス最大の画家で版画家だったアルブレヒト・デューラー(1471〜1528)に「メレンコリア・・」という版画の作品がある。この版画の人物は宙の一点をじっと見つめ、何やら思索を巡らしているような眼差しである。まさに創造の一片を産み落とそうとするときの集中が、目の表情に凝縮している。おそらく私たちでさえ何かを模索しながら、その対象をひとつの形に表現しようとしたり、浮かんだ考えをまとめようとするときに、こんな目の表情になることは容易に想像できる。その視線の厳しさは、肉食動物が視界に獲物を捉えたときの射るような鋭さと共通している。肉食動物に欠けているのは、その表情に創造的な思考を読み取ることができないことである。
 この眼差しと同じものがベートーヴェンの肖像画にもある。ヨーゼフ・シュティーラーが一八一九年に描いた油絵で「ミサソレムニス」のスコアを片手に持ち、何やら構想を凝らすように、ベートーヴェンは宙の一点をじっと睨んでいる。真理の宇宙にしっかりと根を下ろし対象物を宙に捉え、それを射破るような鋭い眼差しで洞察している。もう一点ほぼ同じ時期にフェルディナント・シモンが描いた油絵があり、この肖像に見る目の表情もヨーゼフ・シュティーラーのものと共通しており、宙空に眼差しを向けた鋭い視線が彼方を威圧している。いずれもその眼差しは、豊かな精神の昂揚と力強い意志を感じさせる真理を穿つ眼である。
 この二つの肖像画のほかにもアウグスト・フォン・クレーバーの描いた鉛筆画と木炭画や、フェルディナント・ヴァルトミュラーが描いた不機嫌そうな面長な顔の表情に湛えた眼光は共通している。ヴァルトミュラーのものが一八二三年という以外はほぼ同じ時期に描かれているが、複数の画家が目の表情では一致して共通する描き方をしていることからすると、この時期のベートーヴェンの眼差しは、あながち画家たちの常套の作為だけではなく、彼の内面から発する印象を写し取ったものと見てよいのではないか。未完成だが一七九八年にダヴィッドの描いたボナパルトの肖像にも、その目の表情に共通する視線を見ることができる。この作品六七交響曲第五番ハ短調は、いわばのちの彼の肖像画に通じる眼差しそのものが、先行して作品に現われたものである。
 この作品の第四楽章は、執拗に念を押し何回も確認するように音符を敲いてやっと終わる。音の止んだその瞬間、聴き手はようやくこの曲の拘束から免れて、その解放感にホッとするのである。同時に何か崇高で偉大なものに触れた充実感が徐々に蘇ってくる。課せられた仕事を漸く仕上げた満足感と、その任務から開放された安堵感を静かにかみしめるのである。ある一つの人生を、圧倒する感動をもって凝縮して生きたという感慨である。それは根源的で原理的な世界を垣間見た緊張をともなう快い疲労感であった。第一楽章の冒頭に起こった、突拍子もない重圧から解放されてみると、それはまるで遠い昔の出来事のように懐かしく思い返される。気分はいまだ昂揚したままなのだが、流した汗の爽快感はまことに得難い経験だったことを、あらためて思い知るのである。
 ひとつのモチーフは主題を提示すると、まるで生命体のように動き出しながら、その解決に向かって合意に達したとき曲は終局を迎える。だがこの作品のモチーフは投入した途端に、その終焉を迎えることを拒むのである。ベートーヴェンが収束に導いてやる手だてを模索しているうちに、曲はなお前進を続けて駆動を止めようとしない。みずから意志を持ったモチーフは、そのとてつもなく大きな慣性で、制動を突き破るのである。
 モチーフは作曲者の手を逃れて、みずからの人生を自分の意志で生きようとしている。冒頭に立てられた主題は、異議を唱え解決を拒み、問題の提示、論議、検証、考量、解決という作曲者の構想を離れて、解き放たれた情動を全うしようとするのである。言語であれば意味の備わった単語を組み合わせて、脈絡を為す文章を連ね一つのまとまった論証として提示できる。しかしこれが五線紙という場に生命が与えられると、あらゆる情念は凝縮された一つの熱い塊となって、譜面の上を自由奔放に動き回り始めたのである。
 出来上がった作品は作者の手を離れて、一人歩きをすると云われる。ところがこの作品の場合は、与えられた最小のモチーフが完成を俟たずに勝手に動き出して、成長し発展するのである。収束に向かうどころか、あらたな飛躍をめざして展開しようとする。作曲者としてはできることなら事態の顛末をこのモチーフ自身に語らせて、その終焉を見届けたかったに違いない。しかしそれでは収拾がつかなくなる虞が十分にあった。なにしろこのモチーフは奔放に動き回り、みずからの意志を自由に行使しようとする。したがって作曲者は五線紙からはみ出る音符を叩きのめしながら、この第四楽章を強引に収拾せざるを得なかったのである。この奔放な躍動感に溢れるモチーフは、危険な魅力と狂気に満ちていたのである。
 ベートーヴェンの念を推すような終結部は、凡そ彼の作品に聴かれる特徴の一つでもあるが、この作品六七ではあとの八曲の交響曲に較べて、決断と断定による一層力強い終結を演出しているように見える。困難を克服した大きな喜びが凱歌となって、大団円を迎える勝利の雄叫びのようにも聴こえる。いずれこのモチーフの持つ圧倒的な生命力を手放すのは、いかにも惜しいのである。作曲者はみずからを納得させ言い聞かせるように、云うなれば力には力をもって解決するような、激的なやり方で収拾を図ったのである。最初から最後までこの作品を貫く、こうした運命の動機の持つ生命力とは、いったい何ものなのであろうか。
 この作品六七は、一度聴いたら二度と忘れることのできない、運命の動機で開始される。無意識の世界に対象を発見し、混沌のなかに隠れている何ものかを捉えようとして、その正体を狩り出すように、冒頭でダダダダーン、ダダダダーンと敲きつける。内面の衝動が外形に相応するモチーフを捉えたときの緊張と統合が起こる瞬間である。この闘争心をむき出しにしたような一撃は、何の前触れもないまったくの晴天の霹靂を聴き手に食らわす。いわば不意打ちから生ずる生成を、人間そのもののなかに発見し、いきなり聴く者の脳裏にその衝撃を叩き込むのである。私たちは、あらためてそれと自覚することのなかったこのモチーフを突きつけられると、非常な衝撃を受ける。しかし一旦これを耳にした後は、ずっと以前から聴き馴れたあまりにも身近なモチーフのように、容易に受け入れてしまう。
 先の交響曲第三番とは違い、爆発のまえの漂うような生成の気配は一切ない。譜面は八分休符から始まり、この休止符は時空のすべてを切断する。何の脈絡もないところから一気呵成に爆発した戦慄は、いわばまったく予測不能な突発事故に遭ったようなものである。威圧するエネルギーは寸時を置かず上からのしかかり、その危険は避けようもない。日常の安定や継続する時間や、執り掛けの用事などといった一切のものを遮断してしまう。気が付いたときにはすでに事態は進行しており、私たちはそのなかに巻き込まれてしまっているのである。日常から非日常への強引な転換である。この招かざる一撃が、聴く者の心を揺さぶり「私は、こうしてはいられない。」という苛立ちを、みずからの心に発見するのである。聴く者の心を恫喝し、私たちは何かに急き立てられるような不安な気持ちになる。
 心は焦燥感に苛まれ不安は増大する。人を威嚇しながら、屈服させようとする強大な力の一撃に一瞬怯みながら、いわれのない受難や絶対者の力を聴いてしまうのである。弱者に鞭打つような音楽はやめてくれ!とつい叫びたくなる。ムンク(1863〜1944)の「叫び」に重なる情景が浮かんでくるのだ。このモチーフに潜む専横的で威圧的な強引さに、作曲者の矯慢を覚えてしまう。一体この聴き手を駆り立てる威圧的な衝撃は、私と何の関係があるのだという腹立たしさである。被害者意識が先に立ち、強迫観念がつきまとい、何かを教唆されているような教条的な支配を感じてしまい、独善や傲慢さが荒れ狂う音楽のような印象を抱いてしまう。土足で人の心に上がり込んで、勝手放題に暴れ回る。私たちは自分の短所を自分で厭うのではなく、それを見せつける他者を忌まわしく疎ましいと感ずるのである。人は他者の持つ善なるものに感動しながら、その醜なるものを見て安心する。だがこの場合は、自分のなかにある醜なるものを自覚させる不快感なのである。
 ベートーヴェンのテンポは、心臓が鼓動を正確に打ち続けるように執拗に打ち続ける。「私は、こうしてはいられない。」と形容するよりほかないように、彼のテンポやリズムに翻弄されるのである。これはまさに人間の根源から発する生命エネルギーの衝動が送り出すテンポとリズムである。この作品を貫く急かすようなリズムは、情念に潜む心の闇がその軛を断ち切って、光の世界に躍り出たことを表わしている。生命の根源から発する人間の止むに止まれぬエネルギーの衝動というものは、言うなれば人間の持つ余念の世界である。その余念の世界は、動物の持つ自然的性向を喪失した人間が、その代償を求めて昇華しようとする場なのではないか。本能の衝動から見れば、非合理とも思える余念の世界に飛翔を求めること自体、人間の心が持つ自己認識への願望であり、その衝動を押さえられない自己実現の欲求なのである。
 ヘーゲル(1770〜1831)は、ベートーヴェンの音楽を直接名指ししたわけではないが、時流の音楽についてつぎのように述べている。
 「今日の劇音楽は往々芸術的技巧をこらして相反する情念をせめぎあわせつつ同一曲中におしこめ、この強引な対照にその効果を求めている。それはたとえば慶事や婚礼や華やかな祝祭を表現するとともに、そのなかへ憎悪や敵意や復讐の念をわりこませ、かくて快楽や歓喜や舞踏楽のあいだに同時に激しい抗争や忌しい分裂を暴発させる。かような支離滅裂の対照はわれわれを一方から他方へ転々浮動させて統一を失わせるもので、真向から対立するものをあわせて描いてそれぞれの特徴をきわだたせるようになればなるほど、美の調和性に反し、メロディにおける内面性の享受や自己回帰はもはや不可能になる。一般に旋律的表出と特性描写の合一は、描写をはっきりさせようとする方向へ傾くにしたがって、ややもすれば音楽美の破れやすい境界線から逸脱する危険をともなう。ことに暴威や我執や悪意や激情やその他の極端に偏頗な情念の表出を事とするばあいにおいてそうである。このばあい音楽が一面的に特性描写の明確さを追及することにはしれば、たちまち邪道におちいることをさけがたく、とげとげしく、荒々しくて、まったくメロディや音楽性を欠いたものになり、不調和なものさえ濫用することになる。」(ヘーゲル全集「美学」竹内敏雄訳 岩波書店)
 音楽に表現するということには、限界があることは認めなければならない。聴いて快いと感ずる音と不快を催す音といったような、人間の感性に具わった好悪と、楽器の音色に具わった限界である。その一定の条件のなかで、作者はその構想を楽音に調和を図りながら展開させる。したがってリズム、メロディ、ハーモニー、テンポの扱いや、その組み合わせと音量の大きさは、作者の楽想と感性の違いによって聴き手に快、不快の感情をもたらす。ヘーゲルにとって逸脱する危険なことが、ベートーヴェンには心的一貫性を表現するうえできわめて有効な手段であり、むしろそうすることが彼の意図に叶う方法だったのである。
 ヘーゲルはヴュルテンベルク公国の首都シュトゥットガルトに生まれている。父は公国財務局書記官であった。幼くしてヘーゲルはドイツ語学校で学び、その後ラテン語学校に入り十七歳になるとギムナジウムに通う。そして一七八八年一〇月にはテュービンゲン大学に入学し神学を専攻する。テュービンゲン大学は、一四七七年に初代君主エーベルハルトによって創設され、以後教師と聖職者の養成機関として続いてきた伝統のある大学である。ヘーゲルの先祖は篤信なプロテスタントであったために、オーストリアのケルテン地方から逃れて、この南ドイツのシュヴァーベンに移住してきた。シュヴァーベン地方は、ルターの宗教改革以来の正統なプロテスタンティズムの伝統を守る土地柄であった。領邦教会はこうした信仰に支えられて、領主の支配にもかかわらず宗教的な影響力を持っていて、多くの聖職者を輩出していたのである。ヘーゲルの両親が息子に神学者や聖職者の道を希望したのも、こうした土地柄が背景にあった。カール・オイゲンのような暴君の圧政を味わったヘーゲルにしてみれば、品下る小領主が威張り散らす領邦を、自由と解放の下に蹴散らしたナポレオンに拍手を送ったとしても無理からぬことかもしれない。一八〇六年一〇月、イエーナ大学の講師をしていたヘーゲルは、凱旋したナポレオンと遭遇しその英雄ぶりを賞賛している。
 この同じ頃にベートーヴェンはグレーツのリヒノフスキー邸に滞在して居た。そして侯爵と諍いを起こすのである。リヒノフスキー邸に客として招いていたフランス将校たちに、侯爵がピアノを演奏するように求めたが、ベートーヴェンはこれを拒んだのである。再三にわたって強要されたベートーヴェンは、怒りを爆発させてリヒノフスキー邸を飛び出してしまう。
 リヒノフスキー侯(1756〜1814)は彼のパトロンである。ヴィーンに出てきたベートーヴェンを支援し六〇〇グルデンの年金を与え、四丁の弦楽器を贈り、夫人クリスティーネ(1765〜1841)ともども何くれとなく便宜を図ってくれた恩人である。歌劇「レオノーレ」の改作では親身になって助言し上演の成功を願っていた夫妻であった。「侯爵よ、あなたが現在あるのは、たまたま生まれがそうだったからにすぎない。私が現在あるのは、私自身の努力によってなのだ。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろう。でもベートーヴェンはたった一人しかいないのだ。」こう書き残してベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵と決裂してしまうのである。
 自分の苦労と努力ではなく、他者の苦労で尊厳を纂奪する者への怒りであった。ベートーヴェンの野心に溢れる芸術的栄達を実現していくためには、こうした貴族たちの支援が不可欠であった。だが彼は相手がたとえパトロンであっても、自分の主人にはしなかった。貴族の庇護に頼ることは一つの不条理であり、こうした相克が運命のモチーフを狂おし気に敲き続けるのである。みずからの生き方と生き物としての営みのあいだに、尊厳を貶める抗し難い葛藤が生じて、私たちは不条理を自覚するのである。
 この作品に聴こえてくるベートーヴェンの生涯は、みずからの裡なる攻撃衝動との闘いであった。自分でも始末に負えない心の闇と、徳と芸術の融合を図ろうとする格闘が、この作品をつうじて聴こえてくるのである。人間の尊厳には貴賤はない、しかし生き方には貴賤がある。人間は罪を犯すことなしに生きることはできない。それでも何の呵責も改悛もなく平然としていられるなら、それは纂奪者としての自覚のない虚栄と欺慢にすぎない。ベートーヴェンの心の闇に隠れていた攻撃衝動は、こうしたものへの激しい苛立ちのために、灼熱の塊となって爆発するのである。この攻撃衝動は、本来的な動物的性向を超えて獲得した人間の理性が突き動かすものであった。人間の内なる動物的性向は理性の暴走に抗い、理性は動物的性向を超越しようとする。
 攻撃衝動は自然のもとでは、個を維持するための自然的性向であった。最小限の必要悪と考えられ、有効に機能してきたといってもよい。動物社会の比較行動学の創始者として知られるコンラート・ローレンツ(1903〜1989)は、長年にわたる様々な動物たちとの実際の暮らしや観察を通じて、彼等の生態を明らかにしながらその根拠を述べている(「攻撃」悪の自然誌 日高敏高/久保和彦訳みすず書房)。
 自然界の生き物には彼等に特有の攻撃行動が見られ、それが種の維持継承をしていくうえで、自然の働きとして認められるものだ。狭い意味での生存競争は、異なった種の間に起こる争いのことではなく、近縁な仲間どうしの競争であると云われる。この生存競争を行動形態として支えてきたものの一つが、生き物たちに備わった攻撃本能である。自然界では攻撃は悪のイメージとは反対に、種を維持していく上で健全な機能を果たすものなのである。同種の生き物の密度が高すぎて、生存の確保が困難になるのを避けるためにも、生活圏ができるだけ均等に分布している方が、種にとっては都合がよい。なわばりという一定の範囲に、互いに相手を寄せつけないための解決方法として、種内攻撃という知恵を発達させたのである。したがって人間以外の生き物は、その目的が達せられれば相手の命を奪うことは、機能の誤作動以外にはほとんどないのである。
 生き物たちの間で起こる種内攻撃は、なわばりの中心との距離が近くなっていくほど、攻撃衝動は上昇する。お互いのからだの大きさや力の強さが勝敗を分けるのではなく、自分のなわばりにより近い方が勝つ。自分が最も安全だと感じている場所、つまりなわばりの中心点に近いほど逃走の気分は減少し、逆に攻撃性は高くなる。こうなると最低値の刺激よって、相手に攻撃の刃を向ける。相手は攻撃側とは反対の立場にあるので、条件が変わらないかぎり、なわばりの中心点に近い方が勝利を収めることになるわけである。
 種の進化上の位置が高い生き物ほど、経験と学習による行動のレベルが上がっていく。それとともに生得的な生命衝動によって生じる攻撃行動は、機能転換を図りながら影を潜める。全く無くなるわけではなく、DNAの記憶のなかに遠く刻印されるのである。しかし本能的な行動様式がかなりの期間にわたって抑制されると、その衝動を引き起こす限界値が低下してゼロになることもあるという。そうなるとこれといった明確な刺激もないのに、堰止められた衝動が突発して予想もしない行動に出ることがある。種の維持に適応する環境を取り去ると、そのストレスの解放を求めてほんの少しの刺激にも反応してしまうのである。ストレスは過度の抑圧に晒されるために生ずるだけではなく、十分な多様性を提供されずに、衝動を発散する対象を発見できないことからも起こる。
 人間の場合、お互いに相手にしか頼ることができない状況や、自分たちのグループ以外の者との接触が遮断されると、そのグループの中で攻撃衝動が発生する。グループ内のメンバーはお互いをよく知っており、その絆が深くなるほど攻撃衝動も幅と厚みを増し、この衝動を堰止めておくのは危険な結果を生むことになる。組織や集団が閉鎖的になり、攻撃衝動の対象を外部に向けることができなくなると、その衝動のはけ口を内部に求めて、悲惨な状況を生むことも稀ではない。連合赤軍のメンバーが占拠したあさま山荘事件に端を発して、総括という名のもとに次々に仲間が粛清されていった一連の事件は、こうした攻撃衝動が歪んだ形で現われたものである。
 一九七二年二月一九日、警察に追われていた連合赤軍メンバー五人が、南軽井沢の新興別荘地にある楽器製造会社の保養寮を占拠する。武力革命を目指す革命左派グループがアジトを山岳に移し、軍事訓練を行なっていたが、警察の追及するところとなり、そのうちの五人があさま山荘に逃げ込んだのである。管理人の妻を人質にして山荘に立て籠り、一〇日間にわたって抵抗した事件である。人質となった管理人の妻を救出するまでの九時間余りをテレビで実況中継し、各社の視聴率を合わせると九〇%近くに達したというから、多くの国民がテレビに釘付けになったことになる。この事件で警官二名が殉職し、市民一名も射殺され負傷者二七名を出し事件は解決したかに見えた。だがこれ以前にすでに凄惨な事件が行なわれていたことが発覚する。
 彼等の遺留品に疑問を抱いた警察官がなお捜査を続けるうちに、集団リンチ殺害事件が発覚したのである。メンバー内で総括という名目による粛清が行なわれ、そのうちの一二名が集団リンチを受けて殺害されたり、酷寒の山中に手足を縛られて放置され凍死したのである。リンチに加わった者には、自分が手を下して殺害したという意識はなかったに違いない。事故と思い込みたい弁解も働いていたと思われる。またリーダーの命令でやったことで、やむを得ないことだったという釈明もあっただろう。集団内部で狭窄状態に陥った集団ヒステリーに、個々のメンバーは良識と恐怖が錯綜して、意義申し立てができる雰囲気はなく、かえって理性や感情が凶器と化したのである。
 この連合赤軍という集団は、武装闘争によって日米安保体制を打倒し、日本の社会主義化を目指そうというグループで、京浜安保共闘という革命左派と赤軍派が合体し結成した集団である。この集団のリーダーや幹部が、思想や意識の高揚と集団内部の引き締めを図るために、仲間に総括を求めたのがきっかけであった。武装闘争は共産主義思想に支えられた兵士によってのみ達成されるのであるから、兵士は徹底した共産主義思想に生まれ変わらなければならないのである。だが誰を総括の対象とするかは、リーダーの胸一つであった。対象となった者は、それまでの闘いと取り組む姿勢を全員の前で披瀝して自己批判をする。他の者はその誤りを指摘し、本人は革命戦士として闘い抜く決意を新たにするのである。しかしこうした総括は内攻的になり、日常の生活態度や習慣、果ては本人の性癖にまで及び、相手への意趣を含みその尊厳を否定する。そして本人を死に至らしめると、総括のできない敗北死として、精神の死が肉体に及んだという理屈で粛清したのである。
 この事件は革命への幻想を打ち砕くとともに、理念を一にする連帯の絆で結ばれた集団が内攻したときの怖さを目のあたりに見せつけられ、変革の気運に冷水を浴びせるものであった。集団が内部に籠り、個人がその集団に同一化しながら、仲間内で主導権を争い、連帯の絆を喪失した集団の恐ろしさを示したこの事件は、後のオウムサリン事件の不気味さに繋がっていく。思想や宗教というものは、必ずしも日向に開く美しい花とは限らない。その日陰で大胆に咲き誇る狂気の種をばら蒔いている。だがこうした現象は決して特殊なものではなく、組織集団に発生する攻撃衝動が極端な形であらわれたもので、他者を苛むことに快感を覚えるいじめの感覚は、その衝動を抱えたままである。児童生徒のいじめの問題は、大人社会の組織内部にこそ病根を抱えている。


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