んだんだ劇場2008年8月号 vol.116
No22
攻撃衝動と創造的破壊(2)

 こうした攻撃衝動の危険を避けるために、生き物たちは各々の集団の知恵で攻撃衝動を緩和したり、抑制しながら種の保存を図ってきた。適応するための行動様式にもともとあった攻撃衝動を昇華させる道を工夫して、攻撃衝動が悪しき機能に陥らないように回避してきたのである。このような過程をローレンツは「儀式化」と呼んでいる。生き物たちが系統発生的に生み出した新たな機能となるのである。攻撃の対象や方向を転換させることは、攻撃を無害な方向へ導きながら種を継承していくために、生き物たちが考え出した優れた知恵であった。この儀式化に共通する類似点は習慣であるという。因果関連を人間のように洞察することのない生き物には、危険のないことがはっきりした行動に固執することが、生き延びていく上で大変有利なことなのだ。儀式化はこうして生き物たちの固有な習性となり、行動様式のなかに組み込まれていく。
 また群れを作る集団では、他の集団にたいする防御と攻撃性は必要な機能であって、そのためにも自分たちの集団内部での闘争は、極力避けなければならない。そこで考え出されたのが「順位制」である。これは誰が自分よりも強くて、誰が自分より弱いかということを経験的に学習することで、順位が隔たっているほど下位への敵意や緊張が小さくなる。また隣り合う下位どうしの争いには上位の者が干渉し、いわゆる強きを挫き弱きを扶ける働きによって、順位制は直接に弱者を庇護する機能を持っていることになる。集団を成している種内で、個体間の絆による共同生活が成り立つためには、相手のことをよく知り、愛情や信頼関係が十分に発達していなければならない。個体どうしの結び付きを身体で表現するのは、種内攻撃を儀式化して再定位することであり、これによって種内の秩序を保ってきたのである。いったん再定位された儀式化は、これが攻撃衝動に代わる不可欠な行動となる。
 こうしてみると人間どうしに発生する恋愛感情や友情といったものや、同志的連帯というものは、他の生き物と同じように、攻撃衝動と対を成す原初的で生得的なものなのかもしれない。だが人間の場合その仲間たちとの結び付きが、外部との環境と関係なく作用すると、目的とは無縁の内攻的な闘争に至る危険を常に抱えているのである。親密な個体どうしの繋がりのなかにこそ、溢れるばかりの攻撃衝動が満ちているのである。
 機能や対象の転換というものは、種の生存という本来の目的に、従来の行動が不都合になったとき、その補償作用として転換するのである。こうした和平への転換は、相手が自分と同盟を結んだものに限られており、親疎の隔たりがある。しかしこのような愛の対象にたいして、両面価値を持つ攻撃衝動がまったく消滅したわけではなく、何かの誤作動が生じて、忘れられていた古い記憶が突然蘇ってくることがある。今日のわが国で発生している模糊とした動機による殺傷事件は、愛の対象を喪失した現代人の心の闇が、歪んだ形で現われたものなのだろうか。本来なら対象とはならないはずの何の利害も関わりも持たない他者に、無差別に攻撃を加える通り魔的な殺人は、動物的性向の境界を逸脱している。
 他の生き物では行動生理学的なしくみの発達のなかにも、攻撃を抑制する働きが見られるという。シチメンチョウの雌は、雛の鳴き声を聞くことで攻撃行動が抑えられるようになっている。この雌を聾にすると、自分の雛を襲うようになる。本来的な行動である羽毛に包まれたものにたいする攻撃衝動が刺激されるためである。シチメンチョウには本来の母性本能とか育児衝動と呼ばれるものは存在しない。生まれつきの図式によって自分の雛を識別する能力は備わっていないのである。雛の鳴き声が雌を母親に駆り立てる。この「駆り立て」という行為も攻撃衝動の抑止に繋がっている。私たちが乳幼児の泣き声に慈しみの感情が呼び起こされ、庇護の手を差し伸べる行動に駆られるのも、生命本能に持っている健全な反応なのである。だがときとしてこれに反する残酷な仕打ちにおよぶのは、聾になった人間の心に、乳幼児の泣き声が届かなくなったからであろうか。
 このように人間以外の生き物は、自分のからだに持つ機能の発達と並行して、種の存続を脅かしかねない攻撃衝動を抑制する知恵を発達させてきた。ところが人間は触角と視覚が応答し合いながら、身体に与えられたものの延長に、道具としての武器を作ってしまう。武器が道具としてからだから分かれた結果、殺戮能力とその抑制能力の均衡を破ってしまったのである。拳を振るうような身体の部位を使った程度のレベルでは、相手の苦痛や戦闘意欲の喪失などをからだで感じ取り手加減することを覚えていた。しかし身体から離れた武器は、その破壊力の大きさや武器の届く距離を拡大して、その結果がもたらす悲惨さが感情に伝わる前に、衝動を抑制する反応時間を失ったのである。拳で腹部にパンチを加えることと、刃物でひと突きにすることの違いを人間は認識していながら、衝動的な行為を押し止める反応時間はもはや間に合わない。さらに武器の発達が進むと、核弾頭を積んだミサイルの発射ボタンを押しても、機関銃の引き金を引いても、それが命令によって行なわれてしまうと、本来同種への攻撃衝動を抑制するはずの動物的性向は、理性に従属するという逆作用をもたらす。人間は人間になる前から引き継いできた性向の健全性にズレが生じ、その差異化を惹き起こすのである。
 人間に固有な行動様式というものも、進化の歴史から見れば他の生き物が進化していく速度と同じように、じつにゆっくりとした緩慢な時間の歩みである。人間の生得的な攻撃抑止力は、いまだ人間の身体に備わった機能にしか同調できない。道具として身体能力を超えて発明された過剰な武器は、人間の心に伝わるスピードを上回り、手加減の感覚を離れてしまっている。いまや人間は動物的性向を原始的で野蛮なものと怖れるよりも、理性や感情のつまずきを補完する健全な抑止力として、その復権が期待されるようになったのではないだろうか。
 私たちは他者の親切から出た行為が、ほんとうに暖かい気持ちから出た行為なのかどうか疑い始めている。ただそれが嬉しいからそうしたいのだというような行為が、人間関係や社会に有効な機能を果たすなどということは信じられなくなる。また社会や集団の秩序や道徳的要求に、意識して平素からそれに応えようと考えている人でも、あまりに多くの努力を要求されると、その負担を放棄してしまう。この二つをつなぐ正義や公正というものを、安定的に伝えていく場が脅かされ、その前提となる道徳や倫理などの価値観が解体して、美徳の対象として評価されなくなっているのである。
 カント(1724〜1804)の道徳律では、人間の理性は内的法則性の原理に従って、道理の矛盾した行為を望むことはできないことになっている。人間は悟性の働きによって、論理的矛盾による行為を抑制することができると云うのである。だが人間の情念に潜む心の闇は、理性や感情を狂気の世界へ引きずり込もうとしている。理性や感情で認識したことを命令に転換しても、それを実行するときに感情や理性そのものが抑止力として働かなければ、攻撃衝動を止めることはできない。健全な理性と善なる感情の二つのいずれが損なわれても、どちらにも負の影響が及ぶのだ。
 私たちは人間社会という共同体を形成している以上、その構成員は、社会秩序に従うことを期待されている。そうした期待に自由が抑制されるために、私たちは身動きができないのだと感じている。私たちは主体的な判断の拠り所である理性や感情に、意志の自由を確保しておきたいのである。人間の最も偉大で崇高な自由は、カントの考えに従えば人間の内なる道徳律と一致していいはずである。だが、私たちが抑圧と感ずるのは、社会秩序の拘束が私たちの妨げとなっているだけではない。心の闇のなかで行き場を失っている攻撃衝動が機能転換できずに、その余剰なエネルギーが駆り立てる闇の教唆との闘いなのである。理性と感情が判断して、やってはならないことを認識しながら、その境界を突破したいという衝動との相克である。
 自我を獲得した人間の自己完結性といい、また独立性といっても、それはそれ自体が自由気ままに、他者と無関係に獲得した完結性でも独立性でもない。むしろ他者とともに人間社会の一員となって獲得したものである。こうした自由を獲得した個人で構成した人間社会であればこそ、放っておけば動物的性向の限界を突き破り、善悪を超えてあらゆること成そうとする衝動を人間は抱えている。それゆえ動物たちがやらなかったことを、人間の理性は動物世界に無縁の行為を拾い出して、規定した犯罪すべてを禁止したり、倫理や道徳で規制をかけなければならなかったのである。攻撃衝動という抗し難い願望は、心に巣食う闇の世界と結託して、正邪、善悪の判断を踏み越えさせてしまうのである。そしてさらに厄介なことに、攻撃衝動を抑制するはずの理性や感情が反転して、その刃を無差別に無関係な隣人に向けてくる。
 攻撃性=Aggresionは人間の行動様式を規定する重要な働きを持っており、その原語であるAggrediは広い意味で、課題や問題を捉えること、みずからを重んじること、という概念を含んでいるということである。人間はみずからの攻撃衝動を課題に置き換えて、思索を抽象的に鍛えることで世界を認識し、みずからの存在を確かめてきた。私であることを銘記したいという願望は、余念の世界で複雑な網目を作り、生得的なものと経験的なものの相互作用からすべての原動力となって生まれてくる。そこでは愛と友情が育まれ、様々な感情や美への感覚が養われると同時に、その裏側では、自己実現を求める捐介で屈折した、予想もつかない突飛な衝動を抱えているのである。
 シェークスピア(1564〜1616)がハムレットに独白させた「To be or not to be that is the question.」という有名な慨嘆に魅了されるのも、人間に生まれついたがゆえの悩みであって、他の生き物には無縁の意識に違いない。この世に生を授かり、生の意思をもってこの世に在ることをどのように証明するのか。時代や国や民族や宗教や貧富を超えて、近代的自我に目覚めた人間が意識する不条理への懐疑なのである。他の生き物にとっては必然性も必要性もないことに、私たち人間は拘泥し挑戦し、征服したい欲求に駆り立てられている。
 この交響曲第五番はこうした人間の情念に潜む攻撃衝動を、聴き手に呼び覚ますのである。彫琢を重ね激しく打ち据え鍛造した結果、残ったものは人間の持つ尊大で傲慢で攻撃的な意志だけで、それをモチーフにして凝り固めたような作品に映る。だがそれはベートーヴェンみずからの行動が語っているように、人間の尊厳を卑しめるものに妥協しない、強靭な精神によって支えられた闘いの世界なのである。この作品は支配、権力、覇権、闘争、破壊、創造、尊厳、名誉、正義、崇高などといった概念を音で表すとこうなるのだと云わんばかりに聴こえてくる。その意図するものは、鋼のように鍛え上げられたモチーフを使って、聴き手の意識無意識の世界にある心の深層を自覚させ、意識の俎上にのせるためだったのである。ベートーヴェンには、聴き手の深層にあるものを叩き出し覚醒させるために、そういうものと対等にわたり合える強靭なモチーフが必要であった。
 その結果「私は、こうしてはいられない。」と焦燥感に苛まれたり、煽動されて不安にかられたり、恫喝されて強迫感を抱いたりというように、ベートーヴェンの強い支配を感じてしまうのである。聴く者に作曲者への服従を要求しているようにみえながら、その過程で訴える生命本能の衝動が、聴く者の情念を突き動かすのである。この衝動を唆すような強迫感は、ベートーヴェンがこの作品に注いだモチーフが訴える解放の叫びであった。だがこれに共震して心が改悛したときに起こる呵責は、言葉の本当の意味での改悛が聴き手に欠けていると、このモチーフに支配や傲慢を感じて、これに抗うのである。
 フルトヴェングラーは指摘する。ベートーヴェンの音楽は「第一印象に反し、バッハとならんで最も純粋な、正真正銘の純=音楽家であるとされる彼が『文学的』な理解になにひとつ手がかりを与えてくれないという点にある。・・・・・・みずからに基盤を有し、それ自体で存在する彼の作品は、畢竟このような外部からの試みに対して、固く殻を閉ざしている」のである。だが私には、ベートーヴェンが固く殻を閉ざしているのではなく、その開放を促しているように聴こえてくる。言説のなかに含まれる様々な語彙は、たくみに表現しようとして言葉の不足に悩むというよりも、かえって真理を表現する言葉を隠してしまう。巧みな言葉の誘惑が、肝腎な意図を粉飾して私たちに都合のいい幻想を抱かせる。むしろ言葉で表現するにはもどかしいこうした人間の根源的な生命の衝動を、ベートーヴェンは率直に音の世界に表わしたのである。
 私たちは現在の外的環境のなかで物事を捉え、その事実を規準にしながら理性的な判断を下していると思っている。それが合理的で論理的統一性に合致した妥当な考え方であり、行動であることを疑わない。いわば客体との関係に判断の規準を求め、客体の都合に反応しながらみずからの利害や位置を計算している。そのうち重要な決断や行動までも、客体を照射した客観的な状況に左右されるようになる。あるとき突発的で衝撃的な出来事に遭遇し、みずからの主体的な意志の自由を問われたときに、規準となるような内的な確信を喪失していることに気付くのである。その契機となるのが、まさしくこの運命の動機なのであった。しかしこのような衝撃に出会う機会がなければ、あいかわらず習慣的な日常のなかで、意志の自由は眠りにつく。
 そして自己同一化の認識対象が、帰属集団との関係で形成されると、集団の論理に妥当性を見い出したり、価値基準を集団の論理に同化させる。帰属集団への自己同一化は、人間の内部から批判精神を奪い、自浄作用を喪失して自己陶冶を放棄してしまうのである。この隙間を突いて集団の意志は、支配者に都合のよい自己陶冶を強要してくる。先の連合赤軍による一連の事件はその典型だったとも言える。今日のように人間の外的世界にたいする働きかけが進み、外部環境が人工化され、個人が組織のうちに取り込まれると、人間関係そのものが組織のメカニズムとして「物化」する。私たちは外部からの働きかけにたいして、受動的な位置に立たざるを得なくなっている。こうして客体化された外的世界は私たちの手を離れ、むしろ私たちが客体からの支配を感ずるようになる。
 そのうちにみずからの意志で支配してきたものから支配されるという反撃に晒されてみると、それにたいする反動から、私たちの無意識の世界に渦巻く心の闇が衝動となって、爆発の機会を狙っているのである。こうした状況へのアンチテーゼが、オウムサリン事件のような奇怪な姿をとって現われる。それは物化された他者への攻撃衝動となって、物を扱うと同じように残酷になれるのである。実際に動機の不明瞭な得体の知れない犯罪が、私たちを脅かしている。霊長類の頂点に立った人間は、種の保存のための健全な機能を受け継いでおきながら、自然状態では絶えて見られなかった性向が、人間の属性として現われてくる。哺乳類から受け継いだ自然的性向を人間の理性の下に置くと、本来人間が置かれていた動物的性向を理性が唆し、みずからを無名の群れに隠して、他者との絆を断ってしまうのである。
 本来動物生態学でいう群れというのは、何か一つの因縁がきっかけとなり、お互いが一緒に暮らすことを許し合う関係である。単独の個体として生きていける能力を具えているのに、同じ仲間を求めるようになる。それは種の保存とか繁殖のためというだけではなく、生き物の意志による家族の萌芽と見なしてよいのかもしれない。したがって種内攻撃を儀式化して、相手を苛んだり傷つけることを回避する知恵を発達させたのである。だが人間の知性は、他者を人格として識別できる上に、連帯の絆を結べる知恵を持ち合わせていながら、ときとしてそのことが煩わしくなる。それゆえに理性で隔て感情で遠ざけ、その関係を物化した無名の群れとして扱い、隣人との関係を遮断してしまうのである。人間社会のなかで起きる人間関係の非個人化は、自己実現の欲求を達成しようとする個人を匿名にして孤立させる。物化した人間関係は、高い知性と認識力を持った攻撃的な無名の群れを誕生させたことになる。
 人間を理解可能な社会的存在であるとする論理的合理性の裏側にあるものは、人間とはいざというときに何をするかわからない、奇怪な可能性をもつ存在であるという闇の世界への怖れである。人間の理性を還元し、その総和をもって人間の理解が可能となるという論理は、もしかすると優生な生き物であると錯覚した人間の野蛮性を表わすものなのではないか。近代的理性は、人間の持つ感覚的な世界や直観を、主観的で恣意的なものとして闇の世界に封じ込める。だが科学的で論理的で客観的に証明されたように見える合理的精神のなかに、人間の蛮性が潜んでいる。理性の優位を認めようとする一方で、人間の行為は善意なものであれ邪悪なものであれ、論理的な因果の鎖をいつでも断ち切る奈落の意識を懐に忍ばせている。
 正邪善悪の間に横たわる曖昧な境界を、人間は理性や感情をもって正確に判別できるのだろうか。人間とは究極的には了解しえない存在かもしれない。人間の理性とは自己欺瞞の自覚を巧妙に避けて、改悛せずに向ける他者への攻撃性であるとともに、みずからに向けた自虐の意識なのではないか。現代は人間が持つ心の闇が彷彿として、これまで私たちが解明してきた動機では推し測ることのできない、茫洋としてつかみどころのない心因が犯罪を生んでいる。自分にとって利害とは何なのかその判別を曖昧にしたまま、たやすく他者の命を奪い取ることに何のためらいもないように映る。
 理性と感情、この二つは私たちの心に同居する一体性の二つである。二つにして一つであるために、どちらも攻撃衝動の促進と抑止の働きを持っている。この二つの均衡が破れたときそれは不協和音を奏で、これを心の闇が弄ぶのである。そしてこの一体性の二つが文字どおり一体となったとき、芸術家の内面的な緊張と相克が世界を穿ち、日常の世界からは測り得ないような創造を生み出すのである。この交響曲第五番はその音符一つ一つが秩序を破壊しながら、そのこと自体が秩序を形作るという両面性を持っている。そして現世の根本からの再構築を呼びかけるのである。ベートーヴェンの内側から衝き動かす芸術的エートスは、他のあらゆる欲望を制し、そのすべてのエネルギーを芸術的創造に注ぎ込む。能動的禁欲とでもいうべきものがこの運命のモチーフに凝縮されて、破壊と創造を同時に達成している音楽なのである。
 日本の茶道や生け花などに代表される、型を通じて内なる精神に到達しようとする東洋的で神秘的な沈思の実践が一方にある。行儀作法や体裁などの外形的な価値観に現われる審美的な秩序感覚である。他方では内なる精神の発露をその根源にまで遡り、論理的な働きによって一つ一つの因子を掘り下げ組み合わせながら、その積み重ねの上に外形的な姿が浮かび上がってくる。型から入り込みながら内なる精神に到達するというプロセスと、内なるものを重ねながら一つの精神に形象化していくという二つの方法を、この交響曲第五番では同時に達成しているのである。
 さて第二楽章は、内なるデーモンが情念の世界を跳梁したあとの憩いである。チェロとヴィオラが奏でる開始は、運命のモチーフが安らいだときの気分を表わしている。運命のモチーフは安寧と充足の場を獲得したわけではなく、つぎなる闘争に向けて束の間の休息を味わいながら、あらたな対象を求めて舌舐めずりをしている。うたた寝にまどろみながら時折運命のリズムを叩く。軽い睡魔に襲われながら、遠い幼い日々の幸福を夢見ているような、あどけない表情がデーモンのまどろみに現われる。この愛らしい寝顔が一度目覚めると、暴威を振るう絶対者に変身するのである。この寛いだ姿には、ものに動じない悠然とした王者の風格を感じさせるとともに、外貌にみる稚児と内なるデーモンが同居している。暫しの憩いから目覚めたデーモンは、気息が整ったところで第三楽章へおもむろに動き出すのである。
 第三楽章は、オドロオドロしい情念の胎動する闇の世界である。チェロとコントラバスがピアニッシモでモチーフを奏でるが、その弱奏には実体の見えない大きな力が、狂気を孕んで闇の世界に横たわっている。口頭試問官のようなチェロとコントラバスの査問にデーモンが答えると、それが肯定の回答であることを示すように、一斉に各声部が咆哮する。地の底に通じているような闇の洞窟を潜り抜け、手探りしながら突き進んでいくと、運命の戸を叩くようにホルンが吠える。内なるデーモンは試練を与えられ、地上では見たこともないようなイリュージョンの世界へ投げ込まれ、その幻影との闘いに挑む。突き進むうちに、ティンパニーが運命のモチーフをトレモロ風に刻み出す。そのリズムに駆き立てられながら、デーモンは何かを発見する。前方に針の穴ほどの白い点が宙に浮かんでいるのが見えたのである。
 闇に闇を重ねたような暗黒のなかに浮かんだ白い点は次第に大きさを増し、それは射し込んでくる陽の光であることが分かる。デーモンの脚は、しだいに足早となりさらに駆け足となる。白い点は前方に大きな口を開けた空隙となって、来る者を待ち受けていたのである。それは内なるデーモンの突破口となる一筋の光明であった。デーモンはこの一筋の光明に向かって走り出す。別れを告げる暇もないまま、弾みをつけてこの第三楽章を突き破り、一気に第四楽章に突入するのである。
 第四楽章は、暗い闇から一転して光の洗礼によって音符が弾ける。このモチーフは作品三七ピアノ協奏曲第三番第一楽章の主題を導くモチーフと同型である。だがこのピアノ協奏曲第三番のほうは、解放された勝利の凱歌からは程遠く、暗く沈んでいて捕囚の檻から叫ぶ嘆きのように聞こえていた。モチーフが上向しながらその障碍を打ち破ることができず、檻の中でもがいている。ところがこの同じモチーフがこの作品ではついに突破して、あらゆるものの開放とあらゆるものが肯定された世界へ導くのである。まことに雄渾な楽章である。勝利の雄叫びは何度も確認するかのように、音符を叩き付ける。これまでの重圧から逃れた喜びではない。その重圧をみずからの手でねじ伏せたことの達成感なのである。情念の暗闇にうごめく攻撃衝動が、あらたな創造へ転換したときの歓喜である。みずからの意志で闇の世界を制圧できることを証明した喜びであった。
 「心よりいず、願わくば再び心に至らんことを」とベートーヴェンはミサソレムニスの譜面に書き記している。人々に心の発露を促すためには、最小のモチーフをもって全心を震撼させる衝撃が必要だとベートーヴェンは考えた。そして甦りの心を再びその発露に還元させるには、そのモチーフをもって達成させなければならなかった。破壊のモチーフと創造のモチーフは、二つを合わせた一体である。この作品六七が一つのモチーフで全曲を貫かねばならない理由がそこにあったのである。
 創造は破壊のエネルギーとの交換である。等価等量の移動のことを物理学ではポテンシャル理論というそうだが、彼はこれを音楽の上で試みたのである。人間の持つあらゆる属性をこのモチーフに凝縮させ、一気に粉砕する。とって返してそのエネルギーを還元し、聴き手の心の蘇生を促すという離れ業に挑んだのである。


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