んだんだ劇場2008年9月号 vol.117
No23
攻撃衝動と創造的破壊(3)

 さてここでひとつのモチーフを最後まで展開して聴かせた作品として、すぐ浮かぶのはラヴェル(1875〜1937)の「ボレロ」である。これこそひとつのモチーフを最後まで貫いた典型的な作品である。そしてモチーフだけではなく、リズムとテンポも同様に最後まで一つの調子を貫くのである。ボレロが刻む精密機械のようなリズムは、ベートーヴェンに溢れる情念の衝動をきれいさっぱり拭い去っている。理知的で効率的に淡々と奏でるテンポに支えられたリズムに乗せられて、私たちは感情の発露を伴わなくても、こうした怜悧な機能性の前に興奮する。リズムとメロディが拮抗して、薄氷を踏むように緊迫しながら進んで、最後まで弛緩することがない。
 単調なリズムを繰り返しながら一つのモチーフが誘導して、各楽器へ次々に受け継がれ反復しながらクレッシェンドしていく意識の昂揚が、肉体の興奮となり陶酔の極致に達する。リズムの旋律にたいする勝利なのか、リズムを制した旋律に凱歌が上がるのか、あるいはリズムと旋律の拮抗を楽しんでいるのか。それは感情にたいする合理的機能性の優越を誇示することになるのだろうか。感情を表わさない端正なラヴェルの肖像そのままに、醒めた理性の合理性に裏打ちされたような作品でありながら、私たちはついに興奮してしまうという不思議な魅力を持った作品である。だが見逃してならないのは、ラヴェルはこのリズムの持つ身体的な情動を、合理的機能性の裡に隠してしまったことである。この作品は理性の興奮を煽りながら、それを鎮める手だてに感情の助けを必要としない。
 こうした「ボレロ」と比べると、この交響曲第五番のリズムはもっと変化に富んで躍動的である。人間の心に快く刻む身体運動を率直に表現していることがよく分かる。このリズム運動に強弱が加わりテンポの緩急によって、私たちの心は昂揚したり思索的になったり、瞑想を帯びたり猛り狂う怒りを感じたりというように変容するのである。ベートーヴェンのテンポとリズムは、作品のなかに生命の息吹を注ぐ。そのテンポは、心臓の鼓動や歩く速度に似て身体機能と連動した一定の速度が基本になっている。もし心臓の鼓動が不規則であれば、私たちのからだはその機能を停止することになる。歩く速度が一定のテンポによらず、変則的なリズムだと歩行が困難になるのは明らかである。このようにベートーヴェンのテンポとリズムは、のちの作曲家たちとは違い弛緩するところがない。またワーグナーの叙情性とは対極に位置する。
 したがってテンポにアクセントを付加したりアゴーギグによる緩急を加えたりするには、そこに明確な理由や身体機能に合致した意味がなければならない。これにクレッシェンドやデクレッシェンドで指示しながら、ときには打音によるアクセントを交え、劇的効果を計算に入れながら変化するリズムに旋律を重ね合わせる。こうしてベートーヴェンはこの作品を、一つの有機体に仕上げていくのである。華麗なメロディに瀟洒なリズムを重ね合わせながら、心地よいダイナミズムで整えられたモーツァルトの音楽とは一変する。
 そこで以上のようなことを念頭に入れながら、これをフルトヴェングラーが指揮した一九五四年盤のヴィーンフィルハーモニーの演奏で聴いてみると、私には彼の解釈にいささか違和感を覚えた。ゆったりとしたテンポを基本にしながら、それに緩急を付けるのでリズムが重くなり、演奏にスピード感が欠けるのである。いかにも身体機能が弛緩したような演奏になる。テンポをこんなに動かさなくとも、身体機能に即して演奏を自然な流れに任せたほうがよい。休止符の間合いも曲の流れをぎこちないものにする。間伸びした感じになり、演奏に律動感が欠けるのである。フェルマータの扱いも仰々しく聴こえる。歌舞伎で表現するみえを切る動作が緩慢な上に、誇張が過ぎるのである。
 演奏はこの作品に潜んでいる攻撃衝動が、芸術的なエートスに昇華していく過程が聴き取れなければならないのに、このフルトヴェングラーの演奏ではそれが消えている。人間から攻撃衝動を取り去ってしまうと、感動とか勇気とか願望というような、高い目標への意欲も消滅するとのことである。この演奏は録音嫌いと云われていたフルトヴェングラーには、生涯の終りに生命エネルギーの衰えが表現する演奏の有様を、わざわざ後世に残してしまったことになる。彼の指揮した交響曲第三番「エロイカ」に聴かれた、心的昴揚の微妙な襞が錯綜しながら、興奮の坩堝と化して熱狂する生命衝動の圧倒的なエネルギーの表出は、この演奏では喪失している。この第五番は一九五四年二月二八日と三月一日に演奏の収録が行なわれ、一一月三〇日にはフルトヴェングラーは亡くなっている。
 この録音は、生命の尽きかけている偉大な芸術家が、生命衝動の最高点に達している作品を演奏する対照をよく捉えたということもできる。だが彼が演奏に望んでいた、作曲者、演奏者、聴衆の三者による「感動の共有体験」ということから云えば、この演奏には感動の共有を分かち合う聴衆がいなかったことになる。ましてベートーヴェンの音楽は、自分のなかにある情念を聴き手に伝えたいという、強い衝動が突き動かす音楽である。したがってその演奏は、聴衆を前にしてより一層力を発揮する。ベートーヴェンの音楽を、鋭い洞察によってその本質をよく捉えていたフルトヴェングラーだけに、この演奏は不本意だったと云わねばならない。
 この作品は心の闇から発しているのに、作品に表わしたときは形式に則った正気の世界で創られている。ベートーヴェンの作品には、まるで意思を持つ生き物のようにモチーフを扱う手腕と、その感情に流されない揺るぎない力が漲っていて、非合理とも言える情動の爆発を、ロゴスの合理的な形式に収めるのである。おそらくこの作品に限っては、演奏者側から能動的に働きかけて、その本質に迫ろうとして何かをすれば、その分手痛いしっペ返しに遭う。だが私たちはそれを超えて、ベートーヴェンの音楽に迫りたいという欲求と、その演奏に新たなベートーヴェンの発見を期待している。
 私たちが聴いているベートーヴェンは、彼の時代から較べると大きく変化を遂げている。それにともなって現代の私たちの感性も、ベートーヴェンの時代とはいささか違ったものになっているはずである。演奏というものは、当時の作曲家の演奏や時代状況を再現するに止まるものではなく、時代の予兆を映すものである。現代の感性で彼が書いた譜面を解釈すれば、表現するものは今日的なベートーヴェンたらざるを得なくなる。ベートーヴェンの作品は柔軟性と許容性を具えているからこそ現代に甦る。楽譜に忠実な演奏というのは、譜面を正確になぞりながら、その演奏に今日的な感性が反映されて表現されるものだ。演奏というものは、単に再現芸術というように作曲者やその時代に固定されるものではなく、それ自体一つの表現芸術として位置付けられるのでなければならない。作曲者の意図をぬかりなく聴き取りたいという欲求と、それを演奏者がどのように受け止め、解釈したのかという二つのことを、私たちは同時に聴き取りたいのである。
 以上のような視点からすればたかだか五十年という歳月とはいっても、先のフルトヴェングラーの演奏が、今日の感性に追い付かなくなったことを証左している。現在には現在を反映した演奏が求められ、語り継がれる過去の名演は現在で生き続けるものと、古典的な演奏として記録に残されていくものに淘汰されていくのだろうと思う。こんなふうにみてくるとこの作品六七は、それ自体に有機的で今日的な生命力を持っていることがあらためて分かる。この作品に聴こえてくるものは、こうした有機体が持っている生命の誕生から終焉にいたる間に、モチーフ自身の孕む今日的なドラマである。このモチーフに触発されて、聴き手はみずからのドラマを、その人生と重ねながら聴いている。
 そのこともあってこの第一楽章冒頭の二小節は、一度耳にしたら絶対に忘れない強烈な印象を残す。そうした効果をもたらす圧倒的で衝撃的なモチーフが、この運命の動機であった。その旋律とリズムとテンポが最小単位に凝縮していて、内在するエネルギーの大きさが実際に聴いた音響以上の衝撃となって記憶されるのである。その衝撃は身体にも記憶される。耳の記憶と心理的印象が相乗して、音のダイナミズムは原寸大の規準というものを設定し難いものにしている。一定の空間に音符がぎっしり詰まっていて、しかもその音符の一つ一つの重さのために、この作品の総重量がとてつもない質量に達していることに私たちは気付くのである。
 フルトヴェングラーは語る。「・・・・・・たとえばベートーヴェンにはフォルティシモ効果というものが存在し、それは、きわめてわずかな楽器で演奏される場合でも、内的な意図の迫力によって近代的オーケストラの巨大な爆発力すらをも凌駕するものとなる。それは演奏の際にも示され、この音楽の内的緊張を前にしては、私たちの洗練された音響芸術的な文化のすべてが無効」となり、「この『古典音楽家』にとって、『美の極限』などは通用しない。精神の灼熱によって、一切の楽器的ないしは声楽的な音響体が、いわば内部から鋳直されねばならぬ」のである。こうした鍛錬を通じてベートーヴェンは皮相なものを、本音によって白日の下に暴き出すのである。
 少数精鋭というのは、精鋭を少数集めるのではない。少数にすれば精鋭になるという考え方である。いうなればこの作品六七は灼熱の鉄塊を鍛造しながら、不純物を除いて純度の高い鋼を取り出す作業に似ている。モチーフを鍛えに鍛えながら、極限まで凝縮させて内的緊張を最後まで貫き通すのである。内的な意図の迫力が、みずからの緊張で音の極限などは通用しない状態まで収縮し、刻印したその音さえも外部に出られないというブラックホールの様相を帯びる。このモチーフはみずからを彫琢し精鋭化することによって、みずからが破壊される懼れをも省みず、破壊に向かって突き進むのである。このようにして精鋭化されたモチーフは、そのエネルギーを外部に拡散しようとしながら、みずからの内部に凝縮する。いわば崩れ去る破壊の轟きを聴きながら、新たな創造の槌音を同時に聴いている。
 音楽芸術に残るのは記憶だけである。旋律やリズム、ハーモニーやダイナミズムというような音楽の書法上の指示はもちろんのこと、それらをとおして聴き手に送る音のメッセージは一瞬のうちに消え去っていく。その刹那の瞬間に意図するところを間髪おかずに、いかに聴衆の耳や心に届け記憶に残すか。鮮明に記憶される衝撃的な印象を、聴く者の脳髄に刻印するためには、モチーフはきわめて単純に、そしてそのモチーフを究極の一点に凝縮させる必要があった。そのためにモチーフを鍛え極限まで磨いたのである。この作品六七は、拒絶=解放、開放=受容そして記憶への刻印が瞬時に行われ、聴衆の精神を組み替え、その刷り込みを狙っていたのである。
 私たちはベートーヴェンのフォルティッシモを、物理的な音のデシベルで聴いているだけではない。想像のフォルティッシモを、私たちは自分の設定した物差しで補完しながら聴いているのだ。おそらくその物差しは、この作品に刷り込まれた概念を相対に捉えながら、聴き手はそのダイナミズムを任意のままに設定する。だがベートーヴェンがここで試みた音塊は、私たちの想像を絶するエネルギーを秘めたものだったに違いない。私たちはこのモチーフを実際の音響に聴きながら、ベートーヴェンの絶対的なフォルティッシモを、なお想像する以外にない。
 この作品は、その完成をもって完結される性質のものではない。作曲者が譜面に表わした内的な意図を演奏者たちが演奏し、これを鑑賞する聴衆はその内的な意図の物理的な迫力を超えた、仮象の世界で聴いているのである。その仮象の世界は聴く者の数だけ存在する。各人の思い思いに描く作品の印象が一体となっても、彼の音楽はまだ完結しない。その総和が聴衆の一人一人に還元され、その心性は他者と呼応する。他者をみずからに受け入れ、それが一つの絆で結ばれたとき、ベートーヴェンの運命のフォルティッシモはその効果を顕す。人為的なはからいが契機を作りながら、おのずからしからしむるはからいによって還元され、それが再び構成員の総和を奏でたとき、彼の音楽は物理的総和を超えて、その本性を現わすのである。
 この作品から、勇猛果敢で闘争的で、独善的な正義の押し付けを容易に聴き取ることができるのは、私たちの心のなかに潜む傲慢さがあれば十分である。みずからを承認したいという自己認識の糸は他者と繋がっている。その他者とは、生まれながらに持つ境遇の不公平さを考慮せず、父性的競争原理を楯に建て前を押し付け、努力を強要し、支配を突き付けてくる者に投影される自己であった。他者を介して覚醒する自己に、みずからを優位に置きたいという衝動が、彷彿として頭をもたげてくる。人間の攻撃衝動は身体に向かうばかりではなく、他者を貶しめ嫉妬し差別するという形でも現われるのである。上から受けた屈辱は格下の者へ転化する。ベートーヴェンはこうした情念の悪しき我執を駆逐して、その彼我にあらたな人間性の価値を構築しようとするのである。一旦彼岸に向けたときのベートーヴェンの眼差しは、そこに力強くもやさしさに満ちた慈愛を湛えている。
 ベートーヴェンは心の闇を歩哨しながら現実の闇を照らし、言説の偽装を剥ぎ取り混乱を秩序に更め、情念の世界をつかさどる監察官であった。そして情念の世界に君臨する専制君主へ、闘いを挑んだ作曲家だったのである。このような深層に隠れている情念の世界を、白日の下に暴き出すベートーヴェンに、私たちは畏れを抱きながらも共鳴する。しかしこの果敢な精神の前に、かえって一方では、優柔不断で曖昧なままに揺れ動く心のうつろいが、東洋人である私たちに蘇ってくるのである。
 「自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、敲いても遂に顔さへ出して呉れなかった。ただ、『敲いても駄目だ。独りで開けて入れ』と云う声が聞こえただけであった。彼は何うしたら此門の閂を開けることが出来るかを考えた。そうして其手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。けれども夫を実地に開ける力は、少しも養成することが出来なかった。従って自分の立っている場所は、此問題を考えない昔と亳も異なる所がなかった。彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別を便に生きてきた。其分別が今は彼に祟ったのを口惜く思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもって生まれて来たものらしかった。夫れは是非もなかった。けれども、何うせ通れない門なら、わざわざ其所迄辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底又元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時迄も展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」
 作家夏目漱石が小説「門」の主人公宗助に語らせた心境である。島国に暮らす東洋人の行為に及んで躊躇逡巡する情念は、決断の遅速が生命を左右する西欧大陸の哲人には、理解を超えたものであろうか。情念の世界に潜む神秘性の否定は、理性の合理的精神に重要な意味を与えたには違いない。しかし繊細な機微を湛えた東洋人のオロオロしながら無為に立ち尽くす宗助は、私自身の姿でもあり、哲人ベートーヴェンの偉大な前進の後ろで、かえってこうした情景が私の郷愁を誘うのである。
 勤勉型の秀才である合理主義者たちには、天才の持つ情念の本質は理解し難いものだろう。論理的思考と科学的実証が理性を構成しているという考え方に、何の疑問も持たないであろう。順風満帆な人生を送る者には、自己の承認と肯定を聴いていることだろう。情念の暗い炎には気が付きもしないし、そのようなものは悪と見なすだろう。他者を支配し抑圧する者は、虐げられる者の悲劇性の何たるかは分からない。だがこの交響曲第五番が奏でる音楽は、不幸な者の嘆きを癒す音楽ではない。逆に自己陶冶を要求し境遇への感傷を斥けている。
 ベートーヴェンはこのモチーフを何度も取り上げ、その隠れた本質に最もふさわしい構想が熟成する時間を辛抱強く待っていた。そしておそらくこのモチーフの性格がどのようなものか、この作品に取り上げた時点ではまだ半信半疑だったかもしれない。このモチーフの原型は、すでに交響曲第三番のスケッチ帳に現われているという。だがその時点ではまだこのモチーフに潜在する力の大きさを扱いかねていた。そのために一旦この作品を棚上げにして、作品六〇と作品六一に取り掛かっている。またこの作品の英雄的悲劇性を、作品六二「コリオラン」序曲に取り上げた。
 この作品と交差するように書かれたピアノ協奏曲第四番や、ピアノソナタ第二三番「熱情」にも同じモチーフが取り上げられている。ヴァイオリン協奏曲の冒頭のティンパニーの連打も、交響曲第六番「田園」第一楽章の主題も、同じモチーフから生まれたものといってよい。ただこれらの作品ではこのモチーフを最後まで貫くことはせず、各々の作品に固有の性格と独自性を与えたのである。「ヴァルトシュタイン」ソナタの細かく刻む急くように煽動するリズムでさえ、この作品六七の部分として顔を出している。また弦楽四重奏曲第八番第一楽章に現われる旋律も同様である。
 傑作の森といわれる時期に書かれたベートーヴェンの作品には、この時期に共通するモチーフが様々な形で顔を出している。それは各々の作品を構成し、部分的だが重要な要素を担っている。しかしあくまでも部分に収まるものであって、全体を構成するものではなかった。ところがベートーヴェンはこうした作品を取り上げるうちに、このたったひとつのモチーフに多様な可能性が孕んでいることを掴んだのである。一曲の作品を構成するモチーフというものは、一つ一つのモチーフの単なる集合体ではなく、作者の構想を展開させていくための原初的な細胞であり、それが分裂を繰り返して発展し進化していく。その発展過程は作者の構想が導いたものだ。そのような楽曲を、構成要素であるモチーフに分解し、そのモチーフを分析する方法からは作品の全体像は掴めない。モチーフすべての働きの上に、作品の性格や意図が鮮明に浮かび上がってくるからである。
 ところがこの運命のモチーフにかぎって云えば、人間の持つ理性の世界も、感情の世界も、このモチーフから発せられ鍛え上げられて、再びこのモチーフに生還し統合されるのである。ベートーヴェンはその肖像画にみる眼差しで、音楽に潜む真理の宇宙を、このモチーフによって穿つことができると確信した。人間の持つ喜怒哀楽、理非曲直、正邪善悪などの一面をこのモチーフが表わすとともに、そのすべてがこのモチーフで表現できることの発見である。部分を構成しながら全体を包んでしまうことの発見であり、部分が全体に波及する効果の驚きであった。全体と部分が二つにして一つの関係にあることの発見であった。
 この作品六七の革新性は、人間の持つ茫漠とした心象風景のなかに、音楽芸術の側から楔を打ちこみ、モチーフのなかに概念を持ち込んだことである。もちろんモチーフは、楽曲を構成する最小単位であることはこの作品でも変わりはない。だがこの作品の場合、モチーフは形式から解放され、自立性が与えられ、形式への従属性から離れてモチーフそれ自身が、世界を構成する基本的な要素となったのである。このモチーフは主題を構成する要素でありながら、その翻訳を担っているというだけではなく、それ自身で力強い生命力と豊かな創造性を具えていた。交響曲第一番から飛び立ったベートーヴェンの情念は、人間の内陣に深く分け入り、この作品六七でその扉を開いたのである。
 この交響曲第五番を支配していたのは、運命の動機それ自身であった。投入したモチーフそのものの生命力が、作曲者の意図を超えて創造しようとしながら、作曲者の手腕がこのモチーフを制御した稀有な作品だったことが分かる。攻撃衝動に苛まれるこの闘争的なモチーフを、強固な意志によって芸術的創造に昇華するベートーヴェンの底力が遺憾なく発揮された作品である。心に持つ闇の世界、それは正邪善悪の価値判断で測れるものではなく、もっと本能的でなまなましい始原的な力を秘めて、狂気への誘惑を虎視坦々と狙っている。このモチーフは人々に心の闇を呼び起こし、その闘いを制して浄化され、よみがえった魂が生き物としての本来的性向を取り戻したときに、人間はみずからを実存させることができることを示した。ベートーヴェンはこの闘いの軌跡を人々とともに分かち合い、行き場を失った攻撃衝動を、芸術的創造へ導こうとしたのである。
 この作品は、人間の本質に迫る概念の脈略を抽象化して、音楽の世界に表わすことができることを示した。聴いてみればひどく単純で簡潔なモチーフでありながら、ほかの者には誰も生み出すことはできなかった。ベートーヴェンはこのモチーフを、人間性の根源から発する衝動と身体的律動から捉えたのである。形式というものを内容を表わす手段に用いたのであって、鋳型にはめ込んだのではない。それゆえにベートーヴェンの音楽は論理的でありながら自由であり、その展開は即興的に聴こえてくるのである。したがってその構成は形式をはみ出さなくても独創性に富むことになった。生き物に具わる自然的性向と、理性を獲得した人間性の超克するところに、みずからのアイデンティティを求めたのである。人間の本質にうごめく情念の世界に溢れる情動を誰よりも深く捉え、音楽で語ったのがベートーヴェンであった。私たちはこうしたベートーヴェンの創作過程を、共感と感動をもって追体験する。だが先のヘーゲルの指摘には、この感動が届かなかったのである。
 ベートーヴェンは人間の奥深くに眠る根源的な魂の世界を現出させるためには、意識、無意識の世界を包む一切の障碍を取り除き、修辞や形容のベールを剥ぎ取るのである。情念の坩堝で渦巻く心の闇に囚われた魂そのものを、解放させなければならなかった。そのためにすべてのことが同時に起こり、すべてのことが一箇所に集中し、あらゆる情念が一つの心性に結ばれなければならなかった。それゆえに世界のあらゆるものが、この運命のモチーフの一撃に凝縮されたのである。その一撃は人間の本能や遺伝子さえも打ち砕き、追い越し解放するものであった。生き物は自己を維持しのちの世代に再生産するために、一定の環境を求めるように仕組まれているという。だが人間の行動は種の保存と継承に結び付くものとは限らない。闇の世界にうごめく狂気を合わせ持っている。遺伝子を追い越し、生き物の本能を穿ち解放したところに、創造を担っているのが人間なのである。この運命のモチーフはそうした人間の深層深くを貫いていたのである。
 ベートーヴェンはのちに、作品一三五弦楽四重奏曲第一六番の第四楽章の草稿に、禅問答のような言葉とモチーフを残している。Muss es sein ?(そうでなければならないのか?)Es muss seinn.(そうでなければならぬ)。このメモは日常の仔細ない会話の応答とされているが、この交響曲第五番はまさにこの応答そのもののような必然に貫かれていた。こうしてもっとも単純で無限のエネルギーを秘めた、一度聴いた者には絶対に忘れることのできない、交響曲第五番第一楽章冒頭のモチーフは誕生したのである。


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