いざなう自然(2)
やがて中世キリスト教世界を迎えると、神、人間、自然の一体性は崩れる。創造主と被造物者に切り分けられ、階層的であるばかりではなく異質な存在として分離される。神は超越者として自然の外に置かれ、人間と自然は神が創造したものとして、その内在性や同質性は解体されてしまう。神の名の下にキリスト教支配を進めていくには、神を万物を支配する全能者として位置付ける必要があったのである。人間にとって自然は外なる自然となり、独立した対象としてこれを客体化すると、人間が支配する自然に置き換えてしまった。そしてルネッサンスや宗教改革を迎える頃から、自然への眼差しは現代に繋がる転換期にさしかかる。それは教会の教理から離れ、ギリシア的自然観とも分かれる現代の科学的自然観に繋がる道を開いたのである。
コペルニクス(1473〜1543)は、ポーランドのトルンに生まれた。父は貿易商を営み、トルン市参事会々員であった。クラクス大学を卒業すると、さらにイタリアのボローニャ大学へ入学した。両大学とも天文学が充実しており、コペルニクスは月の観測をするうちに、プトレマイオスの数理的理論が観測結果と違うことを発見する。一五〇一年に一旦ポーランドに戻るが、同年秋に再びイタリアに戻りピサのパドヴァ大学で二年間医学を学ぶ。その後ポーランドに帰ったコペルニクスは、バルミアの参事会々員の職に就き、そのかたわら天文学の研究に携わる。一四九六年にヴェネチアで出版されたプトレマイオスの「アルマゲスト」の概説書を読んで、コペルニクスは天動説への疑いを強めていく。イタリア留学時代の月の観測や太陽の見かけの運動の研究をとおして、プトレマイオスの黄道傾斜角や離心率や歳差の値が、観測結果と異なることに注目した。天動説そのものに構造的欠陥があると考えたコペルニクスは、古代ギリシアの自然哲学を研究し、アリスタルコスが地動説を唱えていたことを知る。
そして太陽を中心とする天体運動が体系的な原理であるとすると、惑星の運動を統一的に説明できると考えたのである。しかし当時の教会の教理では、プトレマイオスの天動説を公認していたため、彼は地動説となるこの理論の発表を控えていた。コペルニクスは死の間際になって、ようやく「天体の回転について」を出版するが、その内容は従来の宇宙観を根底から覆えすものであった。コペルニクスはその刊行を見ないまま亡くなっている。しかしこの著作が発表されると、その理論はしだいにその後の研究者たちの間に広まっていくのである。
占星術師でもあったケプラー(1571〜1630)は、ドイツのビュルテンベルク公国ワイルに軍人の子として生まれた。十八歳でチュービンゲン大学に入学し、聖職者に就くための勉強をするうちにメストリン教授(1550〜1631)に学び、コペルニクスの地動説を知ることになる。当時は天球上の春分点から出発して春分点に戻る一太陽年と、地球が太陽の周りを一周する一恒星年に歳差のズレが累積し、暦年に正確さを欠いていた。ケプラーがコペルニクスの地動説を裏付けることになるのは、コペルニクスの考え方をもとに作った星辰運行表が、当時のものよりはるかに正確に作成できたためである。これによってケプラーは占星術師として名声を高め、コペルニクスの理論も注目されることになるのである。彼はプロテスタントにたいする迫害を怖れて一六〇〇年にプラハに逃れ、そこでティコ・ブラーエ(1546〜1601)の助手として観測を手伝いながら彼の仕事を引き継いだ。
ブラーエの観測資料などをもとにしながら火星の周回軌道を計算し、火星が太陽を中心に軌道を描いていることを発見する。その値が実際の観測値と八度だけ違うことに注目し、軌道が楕円を描いて周回しているとすれば、この差をうまく説明できることが分かった。このことから火星と同じように地球も太陽の惑星として、楕円軌道を描きながら太陽の周りを回っていることを確信したのである。ケプラーはこれをもとに三つの法則を打ち立てた。第一法則は、惑星の公転軌道は、太陽を焦点とする楕円であるとし、第二法則は、惑星と太陽を結ぶ動径は、一定時間に一定の面積を描くとした。そして第三法則は、惑星の平均距離の三乗が、公転周期の二乗に比例することを発見したのである。こうしてコペルニクスの地動説を、ケプラーは数理的に証明したのである。
そしてガリレオ(1564〜1642)は、イタリアのピサに貴族の子として生まれ、医学を学ぶためピサの大学に入学する。当時のフィレンツェは学問研究の盛んな土地柄であったが、アリストテレスの学問体系が一〇〇〇年を経てなお生きていた。ガリレオはオスティリオ・リッチ教授から数学やアルキメデスの静力学を学び、アリストテレスの自然学も勉強したが、アリストテレスの考え方に納得がいかなかった。自分で組み立てた望遠鏡で天体を観測し、木星の四つの衛星を発見する。この四つの衛星が日によって見え隠れすることから、木星の周りを回っているものと推測する。また金星にも月と同じように満ち欠けがあることを観測し、こうした観測をつうじて地球が太陽の周りを回っていると考えるようになったのである。
自作の望遠鏡で天体を観測したガリレオは、宇宙が無限の空間であると直感した。コペルニクスが宇宙の中心を地球から太陽に置き換えたが、それでもまだ宇宙は天蓋によって閉鎖されていたことには変わりはなかった。しかしガリレオは宇宙に向けて観測しながら、空間に固定されたように見える星が、はるか遠くの宇宙空間にあると考えたのである。ガリレオによれば、人類の前に開かれている巨大な宇宙のなかに哲学が書かれることになる。これを解読するための言語は、三角形、円などをはじめとする幾何学によって表わされるのである。真理に接近する科学的手法というものを、観察しながら仮説を立て、幾何学に置き換えて、実験を重ねながら実証し、法則として打ち立てたのがガリレオであった。
一六三二年、ガリレオは「天文学対話」を発表する。しかし教会はこの著作を一八二二年まで禁書にした。さらに地動説を唱えることを禁止し、宗教裁判でガリレオを幽閉してしまうのである。彼の名誉は二十世紀も末に迫った一九八三年五月、ローマ法皇ヨハネ・パウロ二世がガリレオ裁判での教会の過ちを初めて公式に認め、ガリレオの名誉がようやく回復されたのである。
このガリレオが亡くなった年にニュートン(1642〜1727)は生まれた。一六六一年に、ケンブリッジ大学で最大のトリニティ・カレッジに学僕として入学する。授業料が免除されるのである。この仕事のかたわら彼はユークリッドの「幾何原本」を独力で学習し、デカルトの解析幾何学にも取り組んでいる。こうして基礎を身に付け、生得的なひらめきによって彼は微積分法を考え出し、また地球に重力があることを発見する。宇宙のあらゆる物体は互いに引力で引き合っていて、その引力の大きさは、それらの質量の積に比例し、距離の平方に反比例するという定理を打ち立てたのである。そして光のスペクトル分解を発見すると、一六八七年には力学の集大成として「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」を刊行する。従来、自然哲学の一部であった自然への解析が、物理学という独立した学問となるのはこの頃からである。そして各地に科学アカデミーが創設されたのも、こうした時代背景が促したのである。コペルニクスが自然というものを、地球という世界から太陽系の宇宙へ視座を広げ、ケプラーは思弁による神秘的な自然哲学を覆えし、そしてガリレオは実験という手法を用いながら物理現象を実証し、ニュートンがこれを確立したのである。
この近代的自然観の焦点に画したのがデカルト(1596〜1650)であった。主体的で主知的な人間の視点から世界を捉えようという自覚を「われおもう、ゆえにわれあり」と述べ、純粋な思惟へ還元させるために、自然学に数学的手段を用いる。自然に潜む生命原理が排除され、自律性を欠いた自然観に転換させるのである。形相(eidos)と質量(hyle)の合成体である人間の魂は、肉体の現実態であるというアリストテレスの思考した人間観に懐疑的だったデカルトは、魂と肉体を二つに切り分ける。デカルトによれば、精神と物体とはお互いに独立な実体として区別される。精神は分かち難い思惟の連続性をともなっているものであり、物体は分割可能で個々の要素に還元できるというように考えた。これが近代の心身二元論の原型となるのである。自然にたいする人間の先入見を一切取り除いたところから、あらためて数学的な解析による自然哲学の構築を図ろうと企てたのである。数学者でもあったデカルトは、すべての森羅万象を、因果的数学的に解析することによって説明しようとする。人間は自然の一員ではなくなり、自然を観察する主体として君臨する。
デカルトの考えでは、精神は物質的要素をいささかも含まない、純粋な意識の世界を構築できるのである。その一方で彼は、自然から精神的な要素や有機的な生命を払拭し、機械的な物体として自然を呈示する。自然を理解するためには、その構成要素を機械を分解するように取り出して、その因果関係を明らかにし、これらの要素を世界に還元することができるというのである。このような機械論的自然観は一人デカルトだけのものではなく、当時の科学者たちによってもたらされた科学的気運であった。こうして人間は「自然の主人にして所有者」となる。自然の脱生命化、人間の脱自然化という見方に進み、自然を外から観察し実験的な操作を加えて、科学的に把握しようとする近代的自然観が、以後の文明を形作ってきたのである。
思惟を数学的解析に置き換え、天体観測から捉えた自然は、実験をとおして解明されるようになる。これと併行して人間は身体レベルを超えた夥しい道具を発明し、高度の技術を獲得していく。人類は道具の精度化と機能性によってその能率化を図り、益々人工的な要素を加えて地球の構成要素の一画を占めるようになり、人間の圏域を拡大していくのである。このコペルニクスからニュートンにいたる一五〇年のあいだに、十八世紀からの爆発的な科学や技術の胎動を孕み、この二つの相乗による身体能力を超える駆動力が準備されたのである。これをプロテスタンティズムの倫理が支え、産業革命から資本主義にいたる産業、経済、社会体制の新たなパラダイムが構築されていくのである。
こうして十九世紀初頭を迎えたベートーヴェンから一〇〇年前のヴィヴァルディ(1678〜1741)の時代は、まだ身近なところに自然が満ち溢れていた。彼の協奏曲集「和声と創意への試み」作品八に収められている第一曲から第四曲が有名な「四季」であるが、この作品に聴かれる描写は、生活実感がそのまま自然に重なっていた。当時の繁栄する都会であるヴェネツィアに暮らしながら、一歩外へ出ると至る所に自然の息吹が満ちていたことは、この曲が語っている。それはベートーヴェンの自然よりも、一層日常性に接近したものだった。これは科学の解明によるデカルトの機械論的自然観とはまったく次元の違う感性であった。
だがベートーヴェンから一〇〇年後の二十世紀初めになると、荒々しい殺伐とした自然が地肌を見せる。ストラヴィンスキー(1882〜1971)の「春の祭典」である。この作品は二部構成十四曲から成り、ロシアバレエ団のために作られたものだが、地球創生のダイナミックな胎動が、おどろおどろしいまでに眼の前に浮かび上がってくる。地の底から溶岩流が溢れ出し、大地は焼け焦げ、灼熱の海は赤く燃え、天からは雷雨が怒涛のごとく降り注ぐ。すべての現象が無軌道に動き出したような、驚天動地の世界である。原始的で土俗的でありながら、迫力に富んだ独創的なリズムは、もはや人間の鼓動が紡ぎ出す身体のリズムではなく、機械の刻む単調なリズムでもない。何の脈略もないかのようなリズムの不協和音がつぎつぎに襲いかかる。金管楽器はけたたましく咆哮し、弦楽器は大地を引っ裂く。すべての響きが暗いエネルギーの躍動に満ちた世界を描き出すのである。私たちの身体を構成する原初の生命は、こうした大地の鼓動のなかに育まれていたのである。
ストラヴィンスキーの前には、第一次世界大戦がその火蓋を切って落とそうと待ち構え、彼のロシアは大戦の混乱に乗じて、一〇月革命がヒタヒタと前方に迫っていた時期である。二十世紀前半期の人類の悲惨な二つの大禍を先取りするように、「春の祭典」はそのタイトルとは裏腹に、現代の底知れぬ闇の世界を前奏曲で奏でる。先の第五章で例えたムンクの「叫び」は、この「春の祭典」にこそふさわしいものであった。芸術家の直観とでもいうような洞察力は、時代の底流を穿ち、創造の裡に写し取っていたのである。ストラヴィンスキーの、あの獲物を捉えた鋭い透徹した眼は、時代の不安を見逃さなかった。その不毛とも思える荒涼とした大地に聴いた春の祭典は、人類の幸福とは無縁の世界であった。ベートーヴェンの「田園」とは対極に位置する世界である。科学や技術は人類に効用をもたらしたが、ついに自然の摂理から逸脱した、人間中心的な原理の顛末を奏でるのである。
人間の歴史は、ゼウスの持つ政治的技術知を求めて様々な体制を試みてきたが、これまでのところ最良の体制を見い出せないでいる。他の技術は長足の発展を遂げたにもかかわらず、人間社会を形成し万人を幸せに導く社会原理には到達し得ない。「春の祭典」は、現代に到達した人類がこのまま行くと、地球創生期のような猛々しく荒々しい人間性が待ち構えていることを示唆している。それはベートーヴェンの「田園」を奪うものである。ベートーヴェンの時代まで長い歳月を要して営々と蓄積してきたものを、私たち人類はたかだか一〇〇年で追い越し、その精神は「春の祭典」に行き着こうとしていることになる。
現代の後半の二十世紀は、地球の自然を追い越して宇宙の視座に自然を捉えると同時に、私たち人間を含めた極微の世界にも宇宙を発見した。壮大に広がる宇宙と、超微細なミクロの世界のどちらにも、宇宙の密みが反映していると考えられるようになった。今日までのところ万有引力があらゆる現象にあてはまる法則であるように、分子レベルの世界にも私たちや宇宙を構成する法則があることを発見する。二十世紀初頭に起こった量子力学の世界から、分子生物学や高分子化学が生まれ、脳科学に適用され、人間はみずからの思考のメカニズムの中枢へ迫ろうとしているのである。お互いに異質なものとして区別されたはずの純粋な思惟と機械論的な身体は、脳科学の側から、実際には相互に緊密に影響し合っていることが明らかにされる。二十世紀の目覚ましい科学の発展は、人間の内なる自然も外なる宇宙も、そのメカニズムを捉えることが可能な段階に到達したのである。
人間の脳は左右二つの大脳を持ち、その半球の表面は大脳皮質で被われ、ここには数万個のニューロンが束になり円柱状の構造をつくっている。このニューロンは、電気信号を伝える機能をつかさどり、一〇〇〇億個以上もの細胞が集まり、無数の樹状突起と各々のニューロンに一本の軸索を持っている。ニューロンどうしはシナプスを持ち、これは隙間が空いていて直接信号が伝わらないようになっている。大脳全体には一〇〇億個のニューロンがあり、一つのニューロンに持つシナプスの数を一万個とすると、シナプスの数は一〇〇兆個に達する。このシナプスの隙間に神経伝達物質と呼ばれる物質が放出されると、受容体がその物質を受け取り、受け取った側のニューロンで電気的な興奮が起きて、信号として伝えられるのだという。しぐさを各部位に伝えるために必要な触角ニューロンが機能的な集団をつくり、つまむ、握る、触れるという行為をつうじて伝達された信号がニューロンに伝わり、物体を認識することができる。こうして得た人間の経験は、自在に変形するシナプスの可塑性によって脳に記憶されるのである。
脳のなかの最高位に位置する前頭連合野は、社会性に関するコントロールセンターの役割を担っている。この前頭連合野は大脳皮質の三割を占め、脳全体をコントロールし、情動にブレーキをかける。眼や耳などから得られる身の周りの状況や、体内の環境にアクセスし、蓄えられた記憶や知覚の膨大な情報のなかから、自分にとって意味のある情報を選んで、行動や感情を調節する。まるでゼウスが前頭連合野に乗り移っているかのようである。こうした私たちの脳の働きは、いかなる部分をとってみても、そのなかに物質の反映があり、個別の要素に還元できない全体がある。このような脳の働きが心と呼ばれるものである。
古代ギリシアでは、脳内で繰り広げられるこうしたニューロンの世界は、当時にはまだ解明されていなかったから、その不分明な世界を形而上的に思考しながら、神々に映し霊的にとらえていたのである。しかし古代の人々は、現代人以上に研ぎ澄まされた感性をもって自然を洞察していた。人間性の根源から囁きかける魂の世界は、人類の誕生以来代々親から子へと受け継がれ、その遺伝子の精確さは完璧と云ってよい確率でその複製が次世代に顕われるというから、不分明な心の世界も遠い過去から受け継いできた遺産に等しい。
そもそも私たちのからだは、母親の胎内に発生したたった一個の受精卵が、分裂を繰り返して枝分かれしながら、お互いに結合し組織を作り、器官を形成していく。現在解明されただけでも二七四種類、六〇兆個の細胞から人体が出来上がっているという。そして母の胎内に育まれる十ヶ月足らずのあいだに、人間の脳は他の生き物が進化する過程を一気に駆け抜ける。私たちは生き物の進化の途方もない時間からすれば瞬く間もない一瞬のうちに、進化の過程を無意識のうちに通過していることになる。人間は生まれて数ヶ月もすれば寝返りを打ち、ハイハイをしながら四足歩行の名残を経験し、一年もすると立ち上がり二足歩行に転換する。それは一生意識にのぼらずに終わるかもしれないが、あたかも生命発生の起源から出発し、様々な生き物たちが辿った進化の過程を凝縮したかのような、一連の生長を想起させるのである。
ヨーロッパの知的伝統では、心というものを精神と感情に分けて、精神を上位に置こうとする。しかし私たちの思考は、客観的で論理的合理性を優先して成り立っているのではない。そもそも私たちは、からだの各部から伝えられるさまざまな情報を、脳で判断し行動している。その働きをする精神と感情は、強く相互に作用し合う関係で結ばれていることを、私たちは体験的に知っている。その精神と感情は脳に存在していると考えられるようになったが、脳全体が心をつかさどっていて、いまのところ脳のどこかに実体として存在していることを突き止めたわけではない。その心を精神と感情に分け、精神に優位を置くという考え方はかえって不合理なのである。
デカルトは精神と物質で構成する肉体を、二元なるものに分けて割り切ることに相克はなかったが、ベートーヴェンは創造するということを、心身二つに切り離して考えることはできなかったのである。のちに苦しい時期を迎えたベートーヴェンは、神と向かい合い、その救いを請いながら、依然として悔い改めを迫ってくるキリストの神に耐えきれなくなっていたのかもしれない。彼の残した日記には、インドの哲学や文学からの引用文が残されている。ベートーヴェンの始原的な世界が突き動かす衝動は、理性や感情を満たすことができず、心の闇がその調和を拒むのである。
意識の世界に表わすものは、無意識の世界の最終的な具象化だとすると、人間の言動にみられるあらゆる属性は、遠い過去に人類が進化の過程で獲得した記憶の一つの表われとみることもできる。一五八六年に「人間相貌学」を著したナポリの彫刻家ジャン・バティスタ・デラ・ポルタが考えたアナロジー・アニマル(動物類推)といわれるものは、ある人物がある動物に似ていれば、その動物の性向をその人物も持っていると類推する考え方である。動物を擬人化したものだが、人間の中に動物的性向の写しを捉えている。また遠くギリシア神話にみられる半獣半神なども、人間が動物に神の写しを読み取ったもので、いずれも人間の持つ動物的性向の名残が発想させたものである。人間は知脳を発達させるとともに、理性を駆使して一層その開発を進めながら、動物に観察した人間の性向をその理性で再構成しようとしたのかもしれない。単独生活能力者としての動物的性向を失った人類は、理性の営みの裡に単独生活能力者としての自己完結性や独立性の幻影を見ているのである。人類の大脳化は、人間に様々なモノや思考を提供し、土地に結ばれた伝統的な共同社会から人間を解放した。だが土地を失った現代の私たちは、動物的性向とともに来年に備え今年の一年を自然の暦に合わせて春耕秋穫するという自然の摂理や、基本的な労働の喜びを失ってしまったのである。
マルクス(1818〜1883)によれば、経済学の認識対象となるのは、生きた人間諸個人の活動とその成果であるという。この諸個人の共働が社会の物質代謝、つまり経済を成り立たせているが、その共働は個人の分業が支えている。しかしその分業は、社会的規模で計画的に編成されたものではなく、偶然な成り行きで自然発生的分業の上に出来上がっていく。諸個人の営みは私的なものとして扱われ、全体の動きを鳥瞰して認識することができない。こうして疎外という現象が生ずるというのである。諸個人の労働の総和である生産諸力は、個人の意識を離れ、人間にたいして独自な法則性をもって運動する客観的な過程と化すようになる。個人の力では太刀打ちできないような社会の動きが、個人と対立して支配するようになり、疎外の現象は社会の物化として現われ、人と人との関係が物と物との関係に置き換わる。古来自然に抱かれていた人類は、社会の規模が広がり複雑になるとともに、その個々人は社会の中に埋没し、自然原理よりも社会秩序や経済原理を優先させるようになる。近代社会をつくり上げた私たちは、自分たちのつくり上げた社会とも対立するようになるというのである。
このようなマルクスの理論を、ロシア革命に実践したのがレーニンであった。だがスターリンによってそれは変形され個人の独裁になり、その反省のもとに集団独裁体制を敷いたが、結局七〇年しか持ちこたえることができず、ソビエト社会主義連邦共和国は解体した。プロレタリアート独裁であったから、そこに身分制が成立することはなかったはずなのに階層が生まれ、人間と人間の関係が職務と権限に投影されたが、責任と義務を果たす者はいなかった。選ばれた官僚や共産党上層部による民主集中制というシステム的独裁が、倦怠と腐敗を招き機能不全に陥り、体制は内部から崩壊したのである。
マルクスの資本主義経済の洞察は、資本主義社会にだけ見い出される現象ではなく、社会主義体制にも通用したのである。正統性や崇高な理念に支えられたどのような体制であっても、支配層内部に汚職や腐敗をはびこらせ、その不公平な分配が内部の亀裂を生み、利害が絡んだ体制内部の論理は必ず破綻する。利害の亀裂は金銭や財産におよぶだけではなく、私たちの尊厳が不当に扱われることへの憤りであった。
人間と人間の関係が物と物との関係に投影されて、人間が見えなくなり疎外を生むと指摘したマルクスの時代から一〇〇年以上あとに、現代の私たちは生まれた。その私たちは、物と物との関係を利害に投影するようになる。私たち現代人は、機能と能率を経済的な効果で追及して、最も多く利潤を上げたものを合理的な成果とみるようになった。現代社会はその契機となるあらゆる現象を、心に依拠する言葉ではなく、モノに依存する言葉に表わしているように見える。しかしその一方で私などには超越的で遠い存在に見える宗教が、いまも人々を惹き付けているように映る。キリスト教やイスラム教をはじめ各宗教が、数々の危機に晒されながら、今日までその権威を保ち続けてきたのは、信仰に支えられた宗教上の理念が、いまだ心に掛かる言葉として人々に受け入れられてきたからである。
そして今日の私たちはマルクスが観察したものとは別の世界で、疎外感を抱くようになっているのではないだろうか。物と物との関係が、人間と人間の関係に投影される逆流現象を起こすようになると、今度は私たちの方から疎外するのである。私たち人間は、生き物たちの糧を生む肥沃な土地を占拠し、人工的で快適な生活を手に入れたが、それと引き替えに母なる大地を失ってしまう。そして貧しい土地はより貧しい人々に残され、彼等にだけその負担は重くのしかかる。
私たちは自然に働きかけ、自然からの働きを受ける。この応答を促してきたのが、人間の労働であった。いまだ労働という概念の芽生えさえなかった時代のことである。やがて道具を使って適応する道を発見したために、人間は自然に依存することから離れた。近代になると私たちはこの労働というものに、主体的な自己を実現することができると考えた。産業革命以降、資本主義経済の下に発展してきた合理的な労働の追及とその過程を通じて、労働が人間の本質であり自己実現の手段であり目的ともなり、人間を解放するという労働観が生まれた。労働とは私たちにとって、仕事を通じて自分らしく振る舞うことができたという満足感であり、同時にその達成感は一種の優越感をともなうものであり、またその仕事を忌避したときに感ずる、疚しさからの解放でもあるというものであった。先の交響曲第五番第四楽章の響きは、まさにそうした人間観を伝えたものであった。
しかしその反面、私たちは労働というものに、そのような人間観を投影できない現実を見ている。近代化を達成した私たちは、むしろ土の匂いの届かない労働を望み、人工化した環境のなかに労働を封じ込めてしまい、そのことで新たな環境に依存することになったのである。それは労働そのものが人間社会の内側に依存して適応しなければならなくなったということであり、その労働に人間が依存し適応しなければならないという拘束の二重性を免れ得なくなったのである。
マルクスは資本主義社会に生じた疎外というものの起因を、その経済活動のなかに捉え、この疎外というものを通じて獲得した自己に、近代的な個人を見るのである。彼の述べるところは自己を外部環境に企投して、普遍的な自己を獲得するというものである。その形成過程となるものが労働であり、この労働を媒介にしてみずからの疎外された精神を、他在に確証しながら自己への再帰性を疎外に見ている。マルクスはこうした疎外を通じて「労働が第一次的欲求になる社会」を、社会主義や共産主義の礎に置こうとしたのである。
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