んだんだ劇場2008年1月号 vol.109
遠田耕平

No78 バカの壁とハノイの感傷

ハノイ再び
 仕事で再びハノイにやってきた。
 やっぱりベトナム語を忘れている。ベトナム語を話そうとすればするほど、カンボジア語が出てくる。そのくせカンボジアではカンボジア語を話そうと焦るとベトナム語が出てくる。なんと天邪鬼で意地悪な脳細胞だろう。実は女房も一緒に来ている。僕が焦れば焦るほど女房は落ち着きはらい、ゆっくりだがまともな発音のベトナム語を話す。簡単なベトナム語だが通じている。
 レベルの低い争いと思うだろうが、女房に負けて悔しい。
 カンボジアが今の時期、例年になく涼しいので、ハノイはさぞかし寒いだろうと覚悟してきた。だが、そうでもない。確かに涼しいが、湿気があって、動くと少し蒸し暑い。いつも曇っていて、ぼんやりとした空には太陽がどこあるのかわからない。そのうち雨が降ってきたりする。やっぱりこれがハノイだ。でも少し懐かしい。
 ハノイの郊外にあるノイバイ飛行場に降り立つと、15年前にはじめて降り立った時を思い出す。当時はまさに田んぼの中に降りたような感じだった。もちろん舗装された道路はなく、周囲は一面の田園。たくさんの農民たちがまるで街中の雑踏のように動き回り、休みなく働いている。刈った稲を運び、野菜を運び、牛車を操り、田に水を汲み入れ、雑草を刈り、脱穀した米を運ぶ。働く姿はまぶしく、賑やかで楽しそうなのである。
 戦前の日本の田園地帯もこうだったのではなかっただろうかと、見たことはない日本の昔を大いに想像させた。
 今は町まで高速道路が走り、周りの農地はほとんどが買収されて工業地帯になっている。大きな広告塔がビルのように立ち並び、日本で見慣れた企業の看板が目立つ。農村の人たちは本当にこの信じがたいほどの急速な変化に心が追いついているのだろうか。ふと、心にそんな想いがよぎった。
 いや、そんな想いは外部の人間の勝手な感傷だと一笑に伏されるかもしれない。ここに生きるベトナムの人たちは、過去のめまぐるしい時代の変化を見事に生き抜いてきた。そして、今の変化もしたたかに生き抜いている。それだけのことかもしれない。

バカの壁
 通いつけのホテルに着くと、顔なじみのフロントのスタッフが笑顔で「シンチャオ(こんにちは)」と挨拶してくれる。この前に来たのはちょうど一年前だ。すると彼は、すまなそうな顔で「今日は部屋がいっぱいなので、同じ料金でいいからスイートルームに泊まってください。」と言う。もちろんOKである。
 部屋を見て、びっくり。調度品の揃った大きな部屋が二つもあり、その上、僕の好きなベトナム人画家の絵が白い壁に4つも飾ってある。さらに、お風呂がジャグジーという、ボコボコ泡の出るやつだ。育ちの貧しい僕らは大いに興奮したのである。
 ところが興奮しすぎて、今手渡されたはずの部屋の鍵が見つからない。二人で広い部屋を探しまくったがやっぱり見つからない。とうとう諦めてフロントに「もらった鍵が見つからない。」と連絡して、部屋まで来てもらった。
 なんと鍵はドアの横の壁の自動点灯用の小さな穴に刺さっていたのである。僕らは鍵は下に置いてあるものだと心で決めていたのだ。まさにバカの壁である。思い込みは恐ろしい。
 気を取り直し、「ジャグジーの風呂に入るべ。」ということになった。ところがお湯がどこから出てくるのかわからない。いろいろ蛇口がついているが、どれを横にひねっても一向にお湯が出てこない。一滴の水さえも出てこない。
 さっき訊いたばかりでまた訊くのも、格好が悪いと、しばらく二人で必死に、蛇口を壊さんばかりに動かしてみたがやっぱりダメだ。諦めてフロントにまたもや来てもらう。なんと彼は蛇口のひねり棒を「クイッ」と上にひねり上げた。途端にジャーっとお湯が出たのである。
 横にひねらないで上に上げればよかったのである。それがわからなかった。 本当に正真正銘のバカの壁である。蛇口は横にひねるものだと心が決めていた。二人はすっかり意気消沈。思い込みは怖いものだ。いったん思い込むととてつもなく厚い壁を作ってしまう。焦ると壁は逆にどんどん厚くなる。うーん、歳かな、柔らかい心を持ちましょう。
ハノイのホアンキエム湖
池の周りに集うご老人の男性たち

バオニンのハノイ
 日曜日だったので、歩いて懐かしい街中を散策した。ぼんやりした冬の日差しが心地いいが、バイクも車も騒々しい。空気は排気ガスでなにやら息苦しい。ハノイの象徴の街路樹が辛うじて、心を和らげてくれる。
 太平洋戦争が終わった1945年9月、ゲリラ活動中のホーチミンがハノイに現れ、人民の前でフランスへの抗戦と独立を誓ったというオペラハウスの前のチャンティエン通りを歩く。
 僕は15年前、ホーチミン市に赴任する前の3ヶ月間をこの通りにある小さなホテルで過ごした。ベッドの下をネズミがよく走ったが余り気にもならなかった。今そこは高層ホテルの建て替えが進んでいる。国営の本屋とヤミの本屋が立ち並んでいた通りは、今は洒落た絵や写真のギャラリーが立ち並んでいる。
 その中のきれいに改装された国営の本屋に入ってみた。本の品揃えはたいしたものだ。お店の人に「バオニンという人が書いた"悲しみの戦争"という本を置いていますか?」と訊いてみた。
 「あるよ。」と言う。少し驚いた。見ると、きれいな紙を使ったコピー本を持ってきた。表表紙は英語、裏表紙はベトナム語になっていて、二ヶ国語で読める。この本がこんなに普通に書棚にあることに驚いたのである。今のベトナムの人は読んでいるのかしら?と思う。
 この本は僕がベトナムで仕事をしていた時に、たまたま友人から紹介された。そして本嫌いの僕が心から感動し、むさぼるように読んだ本だった。実はこの本、当時の人民委員会から発禁の扱いを受け、僕はヤミの本屋から買った。作者のバオニンは一兵士として従軍したそのベトナム戦争の過酷な実態をそのままに書いた。恋人を親を友人を亡くし、それでも心が渇望する恋人への想いを極限状態の中でも溢れる泉のように持ち続けた。極限の中でも心を持ち続けた一人の青年の姿をありのままに描いた。そして、戦争は悲しいと言ったのである。
 人民委員会は「兵士のくせに腰抜けで、国の恥だ。」とバオニンを非難し、その本を発禁にした。作品は国外に持ち出され、英訳され、国外で高い評価を得た。そうして、僕が読めたのである。
 それから15年、今、その本が何気なく国営書店の片隅にある。不思議な感じがする。僕はこの本を今、もう一度読んでみようと思って買った。なぜだろう。この激変するハノイを見ながら、当時のベトナムの人たちの心をもう一度感じてみたくなったのかもしれない。

 通りには人目も憚らずに頬を擦れ合うアベックがいる。その横を腰の曲がった小柄なお年寄りがゆっくりと通り過ぎる。40年前、このハノイの空にアメリカの爆弾が降り注いだ。その光景が老人たちの脳裏に今もはっきりと焼きついているはずだ。でも若者たちは戦後世代である。そんなことは何も実感がない。
 そんな目の前の若者たちを見ながら年老いた彼らは何を想っているのだろう。戦争で死んでいった仲間や家族たちを想っているだろうか。ふと、東京大空襲で生き残った亡き母を想った。僕だって火の海の東京を想像しながら東京での子供時代を過ごしたわけではない。母も重い口を開かなかった。僕も今のハノイの若者たちと同じだ。何があったかはやはり当事者たちの心の中にしかない。

ハノイ感傷
 町の中心に周囲1500メートル程度のホアンキエム湖というハノイの象徴的な池がある。15年前ハノイにいた3ヶ月の間、僕は毎朝この池の周りをジョギングしていた。
 ある朝のことだ。池の端でたくさんの人だかりがある。彼らの後ろから覗いて見ると、何か頭のようなものが水から出たり沈んだりしている。子供か、犬が溺れているように見えた。「どうしたの?」と訊くと、「コンズァ(スッポン)だ。大きな池の主のスッポンだ。」という。あとで、この話をホテルの人に言うと、「何十年で一回見られるかどうかだ。見た人はラッキーだよ。」という。
 当時のベトナムのWHO事務所の所長がツルッパゲのイタリア人で、人相も人柄も悪かったので僕は「コンズァ」とあだ名して呼んでいたのだが、現地のスタッフからは大うけだった。
 そのホアンキエム湖、今はどうなっているだろうか見てみたくなった。僕は苦手なワークショップで5日間ホテルに缶詰である。ストレスが溜まる。女房も日中はぶらぶらしているだけで運動不足気味だ。試しに朝薄暗い中を起きて、軽いジョギングをしてみることにした。
 やはり朝は面白かった。まだ薄闇がりの路上でお茶屋さん、フォー屋さん、ご飯屋さんが店を出し始める。本屋さんの裏通りでは、新聞配達の人たちが何十人も集まって路上で広告を新聞にはさんでいる。6時には池の周りはもう人でいっぱいだ。
 なにやらやたらと激しく腰を振る女性たちの一団。エアロビクスらしい。かと思うと、ひたすらゆっくりと体を動かす女性たちの集団がいくつもある。太極拳だ。さらに多くの人たちがゆっくりと朝靄に煙る池の周りをぞろぞろと歩いている。
朝の太極拳、女性たちは元気
街角の露天のおばさん
 お年寄りの女性たちが元気だ。とにかく活気がある。男性たちはどこにいるのかなと思って見渡すと、池のそばに座って、ぼんやりと静かに池を見ているお年寄りの多くが男性たちだと気がついた。一人でいる人もいれば二人でいる人もいるが、激しく腰を振っている人はいない。
 昔を想い、感傷に耽っているのかしら?動き続けることが女性の行動パターンのひとつだとすると、何の理由もなく立ち止まってしまうのが男たちの行動パターンかな。そんな男たちに、なんとなく同情してしまう僕の感情も男特有なのかしら。
 哲学者の三木清は「人生論ノート」に感傷のことをこう書いている。「感傷は愛、憎しみ、悲しみ、等、他の情念から区別され、(中略)それら情念のとりえるひとつの形式である。」と。つまり感傷は真の感情(情念)ではなく、ただそれらがとるひとつの形に過ぎないと定義している。「ひとつの情念はその活動をやめるとき、感傷として後を引き、感傷として終わる。」そしてその感情は静止する。「結局、自分自身に止まっているのであって、物の中に入っていかない。」と説明している。つまり感傷的な状態は、すでに真の怒りや悲しみ、喜びの中にいないという証で、それ自体あまり意味がない。感傷的になり易いのは静止の状態が文化の中に溶け込んでいる東洋独特の風土と関係があるのかもしれないとも言っている。
 少し噛み砕いて言うと、感傷は感情の排出行為のようなものかもしれない。感傷として出さないと複雑な感情は糞詰まりのようになってしまう。だからどんどん出してしまったほうがいい。僕はお通じがとてもよいのでまったく問題ない。(女房はひどい便秘であるが。)僕はそんな感情浄化作用としての感傷に実は十分意味を感じているのである。
 考えてみると、感傷は多くのさまざまな感情(情念)を経験したという証でもある。つまりは、深い想いを経験すればするほど感傷の回数も自然と増えるので、僕はそれは仕方のないことだと思うのである。要は、そんな感傷に深入りしすぎないのがいい。いかにあっさりとやり過ごして心を切り替えるか。腰を激しく振る女性たちの集団の横で、朝靄の池をぼんやりと見た後は、一息、大きなため息をつき、さっと立ち上がって、また歩き出せたらいいのである。
 一日坊主で終わると思ったジョギングは、結局一週間やりとおした。そのせいか朝飯がおいしくてよく食べた。女房はそのせいで結局太ってしまったと、プノンペンに帰って体重計に乗り、大いに嘆いた。実は毎晩僕の友人たちとばっちり夕食を食べていたのだから太らないほうがおかしい、と言いかけて止めた。

 バカの壁も感傷も全部ハノイに置いてきて、また灼熱の太陽の降り注ぐトロピカルなプノンペンの町に戻る。
 光を受けて鮮やかに反射する色彩が一週間かすんだ光の中に居た僕の目には眩しい。5年目のカンボジア。数え切れない程の想いを抱えて、数え切れない程の現地の人たちの優しさに支えられてきた。カンボジアにはいったいどれほどの感傷を流したらいいのだろうか…。そんなことをぼんやりと思いながら、今年が終わっていく 柔らかい心を持ちましょう。そして、たくさんの想いを経て、たくさんの感傷を流して、また歩いていきましょう。


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