んだんだ劇場2008年6月号 vol.114
遠田耕平

No83 終わりのない物語


 カンボジアの雨期が始まった。地球温暖化の異常気象とは無関係に、不思議な程例年通りに、涙が出るくらい例年通りにクメール正月のあとに雨の月(カエプリアン)がおとずれた。灰色の厚い雲が広いプノンペンの空を覆い、熱帯の太陽の熱を遮ってくれる。それだけでサッと温度が下がり、心地いい風が吹く。夜はしとしとと日本の梅雨のように雨が降る。一年で今だけが、街路樹が鮮やかな緑を取り戻し、湿気のある涼しい風が吹き抜ける。

 夜が眠りやすくなったと言うわけではないだろうが、よく夢を見る。いや、見ているらしい。僕はどうもよく覚えていないのである。ただとても長い物語の中にいたようにも思えるし、とても短かったようにも感じる。ぼんやりだが、いろんな人たちが現れたようで、ただよく顔を思い出せない。それでも、不安だったり怖かったり、悲しかったり嬉しかったようなさまざまな想いの匂いがどこかに残っている。
 朝が苦手な僕は、いわゆる朝のまどろみが大事である。何の夢を見ていたんだろうと一生懸命に夢の中に入ったり出たりしながらまどろみの中で考えるのである。女房にはこれが寝起きが悪いだらしない亭主だとうつる。言い訳のように聞こえるだろうが、考えているのである、今さっきまで見ていた物語はなんだろうと。ただ、考えている割にそれが何だったのかを覚えていない。と言うよりもほとんど一瞬に目覚めとともに記憶から失せてしまうのである。
 驚くのは僕の女房である。僕はまだまどろみから抜け切らない中、夢遊病者さながらの体で早朝の犬の散歩に出かける。すると女房が隣で話し始める。昨日見た夢はあーだった、こーだったと、実に面白そうに話す。しかも詳しくその状況から登場人物まで話すのであるから僕は本当に驚く。
何をしても楽しいスラムの子供たち
 それにしてもいったい「夢」ってなんだろう。僕は時々ふと、起きて覚醒していると思っている今が、実は「夢」じゃないかと思う時がある。現実が夢で、夢が現実…。夢から覚めたと思ったのは錯覚で、実は新しい夢に入ったんじゃないかとさえ…。いま目の前にいるこの人も、自分も、全てみんな夢じゃないかと。一瞬の夢か。うーーん、頭がごちゃごちゃしてきた。
 すると人生も一瞬の夢なのか?いっそのことみんな夢だったらどうだろうか。生きることはやっぱり大変で、自分自身も、自分の周りも、世界も、この地球もやっぱり大変だ。みんな夢だったらいいのにと思うとする。そして覚めれば何も憶えていない。でも、待てよ。覚めた時に何も覚えていないというのも困る。僅かだけど大事な思い出も一緒になくなってしまう。僅かだけど大事な家族や友人や愛する人たちとはぐくんだ思い出が確かあったはずだ。そう考えていたらある話を思い出した。

ネヴァーエンディングストーリー
 20年も前に映画で有名になったから知っている人も多いだろう。僕はこの作者であるミカエルエンデというドイツ人作家が書いた話に引き込まれ、英語に訳された本を読んだ。なぜ英語で読んだかわからないが、その内容が言葉の壁を越えてまるで生き物のように鮮明に頭に広がったので驚いた。言語にも想像力が大いに助けになるらしい。
 話は確かこうだ。セバスチャンといういじめられっこの男の子がいる。お母さんが亡くなり、お父さんはいつも悲しそうで、自分のことなんか愛していないと感じている。ある日いじめっ子に追いかけられて迷い込んだ本屋で「終わりのない物語」という題の本を見つける。授業をサボって学校の屋根裏でその本を読み始めたらもう止められない。その物語はファンタジアという世界が崩壊するという。その世界は人間の楽しい想像によって作られていたのだが、どんどん崩れてく。この崩壊を救えるのは一人の人間の子供しかいない。その子供を捜すために王女は勇者アトレーユにその使命を託すのである。
 アトレーユは命がけで辛く苦しい旅を超えて行く。友の愛馬を「悲しみの沼」で失い、空飛ぶ竜のファルコンに助けれられ旅は続く。しかし最後に辿り着いたところでもアトレーユはその子供には会えない。ファンタジアはとうとう崩れ、絶望と暗黒に包まれたその時、王女が言うのである。
「その人間の子はちゃんとここにいるわ。」
「え!」本を読んでいたはずのセバスチャンが思わず叫び声を上げる。まさか。
「そう、あなたよ。あなたが救いの主、その人間の子なのよ。」
本に夢中だったセバスチャンはいつしかこの物語の中に入り込んでいたのである。
(ああ、僕も子供の頃、セバスチャンのように本にのめり込んだ。)
「僕がファンタジアを救う王子?こんな背が小さくていじめられっ子の僕が?」
「そうよ、あなたよ。王子様。」
その時自分の前に立つ王女の瞳の中に逞しく美しい顔の少年が映った。それが自分の姿の反射で、王子に変身したセバスチャンだったのである。
 そこからセバスチャンとアトレーユの夢に満ちた冒険が始まる。ファンタジアは楽しい想像とともにどんどん広がっていくのである。ところが、しばらくして少しずつ何かがおかしくなっていく。昔のことがよく思い出せないのである。アトレーユはセバスチャンを心配して、何度も昔の楽しい記憶を忘れないように話をする。ところがセバスチャンはアトレーユが自分を羨ましがって王子になりたくて言うのだと思う。猜疑心からとうとう一番大事な親友のアトレーユを傷つけてしまう。
 とうとうセバスチャンは何も思い出せなくなる。廃人のようになって荒野をさまよう。すると荒野で地面を掘っている変な人に出会う。その人は地下の深いところから人間の写真のかけらを掘り出していた。そこにしばらくいたセバスチャンは自分のような顔をした少年と父親の写真のかけらを見つける。人間の記憶をかすかに取り戻したセバスチャンは初めてアトレーユが言おうとしていた意味がわかる。アトレーユが再びやって来て、セバスチャンを人間の世界に繋がる命の泉まで連れて行く。その泉をくぐったのその時、セバスチャンはもとの学校の夕暮れの屋根裏部屋にいたのである。
 急いで家に帰ったセバスチャンは、彼を探して心配し憔悴しきった父親に強く抱きすくめられる。その時セバスチャンはファンタジアでの冒険がほんの数日の出来事だったこと、そして父親がどれほど自分を愛してくれていたのかを知るのである。抱きしめる父親の顔を見ると、その目からは夕日に照らされた大粒の涙が頬を伝って流れている。その時セバスチャンはこれがアトレーユの言った命の泉なんだとわかる。セバスチャンはわかった。愛情の思い出が「終わりのない物語」を作ることを。小さくても愛情の思い出さえあれば、物語には終わりのないことを。今セバスチャンは何度でも本の中に帰ってファンタジアを助け、また何度でも人間の世界に戻ってこれる。大切な愛の思い出をもう忘れないから。

 僕はボロボロと涙を流しながらこの本の最後を読み終えた。そしていつの間にかセバスチャンと一緒に終わりのない物語の中にいたのである。
 僕はこの本を当時小学生だった3人の子どもたちに毎晩ベッドで読んで聞かせたことを思い出した。10年以上前、ベトナムに家族全員で住んでいた頃だった。毎夜ベッドに転がっては、子供たちの輝く瞳の中で本を読み聞かせる時間。僕は幸せだった。そしてこの本が3人の子どもたちに読み聞かせた最後の本になった。
村の仲良し女の子たち
 人生はどうも辛いことが多い。二度と思い出したくもないことも一杯ある。いっそのこと全部が夢で、目が覚めた瞬間に全部忘れてしまえたらいいだろうなと思うことがある。目が覚めて何も覚えていないのならなんとせいせいすることだろうと。でも、何も覚えていないのもやっぱり困る。僅かだが、大切にはぐくんだ思い出もある。家族や子供や愛する人たちとはぐくんだ想い出もある。それまでも消えてしまうとしたら困る。なぜって、その想いが実は生きる勇気を与えてくれ、背中を後押ししてくれているからだ。
 楽しい思い出を作ってあげることは、かつて子供だった大人から子供たちへの贈り物かもしれない。子供を小さな頃に塾に行かせて、いい大学に入れたら、その子の人生は楽になるのだと信じている親は本当におめでたい。順風満帆の人生なんてあるわけがない。苦しくて辛いことが一杯待っているのだから。辛いことにぶつかった時、そこをどう乗り越えていけるか。それは、多分その子供の胸にある楽しい思い出のかけらの数とその思い出に気づく力にかかっている。小さな楽しいことを大事にして忘れない。そのことに気がつく人は幸せだ。子供のときだけじゃない。大人になっても小さな楽しい思い出のかけらはある。すぐ傍に。それに気がつくかどうかはやっぱり心が決める。楽しい思い出のかけらを集めて僕もいつか自分の「終わりのない物語」を書いてみたい。

 それにしても朝になると夢を覚えていないぼんやりの僕は情けない。なんだか切ないような想いが残っているのだがどうにもやっぱり思い出せない。思い出せないと二度とそこには戻っていけないようでこれまた切ない。でも、ひとまず夢の世界は忘れよう。(目覚めていると錯覚しているかもしれないけど…。)今はこっちの世界のことだけを考えよう。こっちの世界では辛いことも一杯あるけど、楽しい思い出のかけらもあって、僕はそれをしっかりと覚えているから。
(ああ、今日も一日がんばるぞ!)そう心の中で掛け声をかけて、空を見上げたその時、
「あなた、ちゃんと前を向いて歩いてよー。」と言う女房の声が隣から聞こえた。
やっぱり、夢じゃなさそうだ。


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