んだんだ劇場2008年8月号 vol.116
遠田耕平

No85 つまるところ、ぼんやりのススメ

糞づまり攻略法
 女房から下ネタは固く禁じられているが、誘惑に勝てず話してしまう。実は、僕は最近珍しく糞づまりになった。マニラの事務局であった一週間の会議のせいだ。普段の僕は女房も羨むほどの快便である。その僕が詰まった。困った。ところが会議が終わるときになって今度は突然ピーシャーとなった。これも困った。期せずして、トイレに居る時間の長くなった僕は、つまらぬことをいろいろ考えて、いろいろと書きたくなってしまった。
 人間の体、特に腸の動きというやつは自分の思うようにならない。止まったり動いたりと、勝手なのである。実はこの思うようにならない腸の奔放な動きに悩む人が意外に多い。胃や腸には自律神経という、意識している脳の働きでは律しきれない、自分で勝手に動く神経が支配している。よく意味はわからないが、胃や腸を「考える臓器」とか「第二の脳」なんて呼ぶ研究者さえもいるらしい。
 自分で思うようにならないなら、放っておいたら、いやいっそ、任せてしまったらどうだろうかと考えた。「お通じ」はそれである。まさに自然に通じるのである。つまり自分の意思を働かせてはいけない。考えてはいけない。ひたすら「ぼんやり」した意識下の状態が大事なのである。犬に顔をべろべろ舐められて、顔中よだれだらけになって、やっと朝の到来を知る僕の朝は、本当にぼんやりである。目の前に出てくる毎日ほぼ同じ朝食を毎日ほぼ同じ順序で口に運ぶ。牛乳、ヨーグルト、果物、コーヒーとお腹に流し込んでいく。すると僕の腸はゆっくりと動き始める。そこでぼんやりと立ち上がって、ぼんやりとトイレの便座に座るのである。腸の動きに任せ、出るに任せ、お通じが完了する。僕は見事に腸を言いくるめて、快便を達成するのである。
 ところが朝から会議があるときは困る。話をしないとならない時はぼんやりした頭を無理やり揺り起こす。すると、腸のやつがピリピリし始める。まずいなと思っていると突然腸の動きが止まってお通じがなくなる。たまにはまったく逆に荒れ狂ったように動いて通じっぱなしになるときもある。これは不快である。自分の意思とはまったく反して、勝手に動かれるのであるからたまらない。
 自律神経とはよく名づけたと言える。人間の体の心臓や血管、腸管のように生命維持に欠かせない器官が愚かな人間の意識下の感情に左右されずにきちんと動くように自律的に制御するのである。勝手に動くそのお陰とでも言おうか、時に意識下の脳の行き過ぎた働きに警告を与えてくれる安全装置のようなこともできる。自律する神経には時に「あんまりピリピリすんなよ。」と言いたいところであるが、ピリピリした時はそれなりの理由、何らかのストレスがあるのだろうと思ったほうがいい。医学ではこの腸のピリピリを「過敏性腸症候群(irritablebowelsyndrome)と名づけている。「イライラ、ピリピリ腸」とはうまく名づけたものである。
 几帳面な女房は1-2年に一度、突然の激しいめまいと嘔吐に襲われ、バッタリ倒れてしまう。あの丈夫が取り得の女が倒れるのであるからさすがにぼんやりした気の弱い亭主もうろたえる。僕は「自律神経の嵐」と呼ぶ。突然やってくるので本人が一番驚いているのであるが、嵐が過ぎるのを注意深く待つしかない。点滴をしてやって、脈なんかを取るフリをしていると、だいたい一晩でおさまるのである。普段気丈夫に見える人ほど抑えてきたストレスの結末が嵐として現れるのかもしれない。うーん、つまりストレスが一杯あるらしい。
 僕は女房と違ってまったく気が弱い。ストレスがかかるとすぐ負けてしまう。だからなるべくストレスはかけないようにしている。そのせいでこんなダラーっとした大人になってしまったのかもしれない。それでもピリピリ腸は不意にやってくる。立ち向かおうものならすぐに逆襲されて、トイレに釘付けになる。悔しい。
 僕が思うにやっぱり、このピリピリ君をてなづける方法は唯一「ぼんやり」であると思うのである。ピリピリ君にご主人は馬鹿ですよ。何も考えていませんよと思わせる。もしくは、しょうもないアホな空想と妄想に耽るのもいい。実は僕はトイレではよくそうなる。
 「ぼんやりも空想も妄想も無理よ。」と言われる賢く生真面目な方のために妙案を一つ。それは似たような動作を繰り返すことです。運動でも食事でも音楽でも何でもいいのです。つまりワンパターンな動きをすると自然と体は頭を使わずに動き、頭はぼんやりと考えるようで考えない、考えないようで考えているという不思議な状態ができます。実は僕はワンパターンが得意なのです。
 女房にこの妙案を得意げに話したところ、「あなたは本当におめでたいわね。誰がぼんやりした頭で家事をやれるの。」…怒っている。「誰のお陰でぼんやり朝ごはんを食べていられるの。」…やっぱり怒っている。気の弱い僕は途端にピリピリ君が動いてしまった。本当に見えないストレスの多いこの女性を救う方法はないかと考えるのです。が、ストレスの原因が、もし、万一…。いや、まさか、そんな事は…考えちゃいけない。僕?ぼんやりの僕がストレスの原因であるわけがない。
 トイレに座ってぼんやりそんなことを考えていた時です。階下から女の声が、
「あなた、まだおトイレなの?」
「たまには遅刻しないでオフィスに行ったらどうなの?。モォー」
何であの女の言うことはいつも正しいのだろう。モォー。

カンボジアの空の下の選挙
 ぼんやりで思い出した。僕はまだ雲と空の話を引きずっている。しつこい様だが、僕は今日もメコンの上にかかるプノンペンの頭上の空と雲をぼんやりと飽きずに見ているのである。尊敬するクメール語の家庭教師のセタ先生にその話をしたら、先生もカンボジアの空がお好きだという。小さい頃はよく屋根の上に登って、空に向かって大声で叫んだそうだ。すると空からこだまが聞こえてくるように感じたという。「山もないのにおかしいでしょ。」と恥ずかしそうに肩をすくめた。実は僕も、声が返ってくると信じている。声は一度あの空の奥深く吸い込まれて戻ってくるのか、立ち上がる大きなあの積乱雲に跳ね返ってくるかはわからないが、聞こえてくるのである。
 あ、声が聞こえたぞと、耳を澄ました。いや、空からではない。地上からだ。不快に反響しあった人の声が壊れかけたマイクから流れ続けている。選挙だ。たくさんの小旗をなびかせ、同じ色のTシャツと帽子をかぶった集団を乗せた選挙キャンペーン用のトラックが、何台も連なって、マイクの音量全開で走り回っている。警察官も役人も露骨に参加して、道をいたるところで塞いでいる。
選挙キャンペーンのトラックの行列
キャンペーントラックにお坊さんもビックリ
 カンボジアに5年に一度の選挙キャンペーンが始まった。1993年のUNTACからの政権移譲で始まった第一回選挙から数えて4度目の選挙である。123の議席を11の党が争う。前回は倍以上の政党が立候補したらしいが、今回は登録料をとると言ったらいっぺんに減ったという。聞くところによると2500人以上の候補人がいるらしいが、選挙は比例代表制で、得票率に応じて割り当てられる議席数に党が適当に人選する。18歳以上の成人、800万人の有権者が1万五千の投票場に行く。そして、この選挙を250人の国際監視員と1万5千人以上の国内監視員たちが見守る。
 世間ではフンセン現首相が率いるカンボジア人民党が圧勝すると予想しているが、わからない。意外にもカンボジアの人たちのバランス感覚が働いて、これまでの対立政党への投票が伸びるかもしれない。最近、現政権の批判記事を書いたジャーナリストの親子が暗殺された。押し込み、強盗も増えている。これでも前回から比べればずっとよくなったと感じる人が多い。
 僕が赴任した5年前の2003年には選挙直前にタイ大使館の焼き討ち事件が起こった。タイの人気タレントがアンコールワットをタイのものだと言ったとか、言わないとか。流言蜚語が飛び交った直後に暴動が起こり、あっという間にタイの大使館が焼かれた。隣にあった日本大使館は大慌てだった。タイ資本のホテルや会社が多く襲撃された。タイは迅速に軍用機を飛ばしてタイ人を保護し、数日で暴動は収まった。政治的な誘導ともカンボジア人の気質とも言われるが、よくわからないまま、タイに多額の賠償金を払って、事はうやむやに収拾した。
 歴史の不思議な巡り合わせで、選挙を前に今年もまたタイとカンボジアの緊張が高まっている。先日のカナダで開かれたユネスコの国際会議で世界遺産に登録を認められた「プレビヒア遺跡」を巡ってである。プレビヒアの遺跡として素晴らしさはここでも「天空の城」という題で、僕が以前に紹介した事がある。タイとの国境の山の上にあるその石造神殿遺跡はアンコールワット王長期から遡ること数百年前に造られ、アンコールワットの建築の原型になった神殿である。
 弱体化した王朝のせいで、ベトナムとタイから領地を割譲され続けてきたカンボジアが国の威信をかけて守ろうとした場所でもある。1960年代に国際法廷で、その領有を認められている。ところがその後、ポルポト政権解体後の混乱に乗じて、タイが軍隊をプレビヒア遺跡に派兵し、小競り合いとにらみ合いが続き、国境は何度となく閉鎖と再開と繰り返してきた。その周辺の国境線については未だに妥協に至っていない。
 タイはプレビヒアがカンボジアの世界遺産として承認されたとの知らせを受けて、外務大臣が辞任し、急遽、軍隊が国境に派遣された。タイの兵隊の数は日に日に膨れ上がっている。プノンペンの巷はこの噂で持ちきりだ。タイのお金持ちの兵隊たちと睨み合っている「カンボジアの貧乏な兵隊さんやお坊さんたちを応援しよう。」と巷では寄付金集めが盛んに行われている。学校でも募金箱が回っているらしい。僕はプールで顔見知りの係員から募金を頼まれてビックリ。でも2ドル出した。「乞食の方まで1ドル寄付してくれました。」なんてテレビで放送している。すごい。物価高騰で苦しいはずの庶民たちが、身銭を切る。選挙は他人事だけど、カンボジアの歴史遺産は庶民にとって他人事じゃない。僕は「応援しているよ。でも、ソ−ム、オットモット(我慢してね)」と声をかける。
 どんな新政権ができるのだろう。バブル経済と金余りの中で、あくまで外国の支援に頼り続けようとする政府と足元を見られている援助産業。高級車を乗り回す政府高官と薄給に泣く公務員。腐敗したモラルの医療現場と見捨てられる貧しい人の命。この国はどうなっていくのだろうか。
 庶民の声にぼんやりの政府に過敏性腸症候群になりなさいとは言わないが、新政権にはせめて自律神経のような機能があるといいかもしれない。時にピリピリ君が働いて、糞づまりでもピーシャーでもいいから、行き過ぎを戒めてくれるとありがたいのだが。


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