遠田耕平
クメール語の境地 僕のクメール語は5年の歳月を経て、ついにクメール語の通訳を必要としない境地に達したのである。「やったぁー!」である。「クメール語でクメール人に話しているのに、何でクメール語の通訳が要るの?」と思われる読者もいるだろう。当然な疑問。でも要るのである。僕の摩訶不思議な日本人なまりの発音のクメール語を、保健省の友人が、誠心誠意、正しく聞き取れるまともなクメール語の発音に直してもう一度話してくれるのである。これがどれほど有り難いか。つまり僕のクメール語はその程度なのである。 しかし今回はちょっと違った。現地の衛生局の職員など100人余りを前にして僕が数分のスピーチをした。話し終わって、「スダップ、バーン?(聞きとれました?)」と訊くと全員がニヤリと笑みを浮かべて「バーン!(聞きとれたよ!)」と言ってくれたのである。それでも自信のない僕は「ボップラエ トゥルーカー テー(ちゃんとしたクメール語に訳さなくていいの?)」と訊いてみたが、いいというのである。感動と恍惚の瞬間。 おはぁよござまーちゅ そもそも外国人が話す現地語というのは現地の人たちには滑稽に聞こえるだろうと想像するのは難くない。「R」と「L」がうまく発音できない日本人は特に変な外国人である。たとえば、「おはようございます」とクメール語で言おうとして、「ア ルン スオスダイ」と言うと通じない。つまり「R」の音をはっきりと強調した「アロン」でないとダメだ。多分、「おはぁよ、ござまーちゅ」なんて聞こえているんだろう。「わたし」というクメール語もさらりと「クニョン」と言ってしまうとこれも通じない。最後に「ム」と、唇を横に結んだ、うなり声のような音を強調して「クニョンム」と言わないと、多分「わたちー」とか「あたちー」とか聞こえているのかもしれない。あいさつの冒頭から「おはぁよござまーちゅ、わたちーの名前はトダでーちゅ。」なんて聞こえているのかと思うとなんとも恥ずかっちぃー。 また時に意味が完全に異なってしまうこともある。たとえば、「ソムラップ」という言葉がある。「ら」をRと読むかLと読むかでは意味が全然違う。Rで読むと「〜のために」だが、Lで読むと「殺す」となってしまう。「私のためにお願いね!」と言おうと思ったら、「私を殺して!」になってしまう。 さらにクメール語には日本語にはない子音の大事な発音が一杯ある。特に困るのは、「ちゃ、ちゅ、ちょ・・・」の似た発音の異なる意味の言葉が山のようにあることだ。例えば、チョップ(止める)とチャップ(速く)である。外国人の旅行者が、バイクタクシーに乗って、「ここで止めて!(チョップ!)」と言おうとして「チャップ!(速く!、速く!)」と大声で叫ぶものだから、バイクのドライバーさんは必死で疾走を続けたという笑い話がある。 「チュアップ(会う)」と、「チョアップ(結合する、動物が性交する)」という言葉ある。僕はよく保健省のスタッフに仕事が終わると、「また明日会おうね。」と声をかけて帰るのであるが、実はこれが時に発音を間違え、「また明日性交しようね。」と声をかけていたかと思うと本当に赤面の極みなのである。 実は最近この事実がわかって、スタッフたちがにやりと笑っていた理由を理解した次第である。 恥ずかっちぃー。 もう一つ「チューイ(助ける)」という言葉がある。これをちょっと間違えて「チョーイ」と言うと英語のFuck(性交)という意味になって大変なことになる。聞いた話だが、フランスから来た神父さんが市場で買い物をしていて荷物が重くなった。「ソーム チューイ(ちょっと手伝って!)」と言おうとして、大声で「ソーム チョーイ(Please fuck me)」と言ったものだから市場の中は爆笑の渦になったらしい。訳のわからない神父はさらに「早くして!」とまくし立てたものだから、市場の人たちはまたまた笑い転げたという。 文脈の大切さ ここでいみじくも思うのは文脈の大切さである。前後の関係と状況、文の流れから相手の意図するところをくみ取って理解するという類まれな能力を人類は持っている。外国人の摩訶不思議なクメール語を聞かされるクメールの人たちは、随分とこの努力しているのだろうと察する。僕のクメール語スピーチの原稿には未だにカタカナを振ってある。これを読むのであるが、彼らにはお経を読んでいるように聞こえているのかなと思う。まるでお坊さんが「ハンニャーハーラーミーダァー…」と「般若心経」を読んでいるような音かもしれない。それでもかなりを理解してくれるというのはまさに聞く側の限りない愛に満ちた、文脈から意味を察し、相手をおもんばかる努力の結晶である。「おはぁよござまーちゅ、わたちの名前はトダでーちゅ、どーかわたちを殺してくださーい。また明日性交してくださーい。」なんて言ってもわかってくれるのである。 文脈から理解するというのは、相手がきっとこんなことを言いたいのだろうとおもんばかる力でもある。相手を理解しよう、理解したいと思ってはじめて成功する。 伝達にはこの想像力と相手を思いやる心が大事なのである。言葉が単に巧みに話せたらそれで伝達が成立すると思っている人がいるとしたらそれは大きな間違いだ。実は僕はこの相手を思いやる気持ちが伝達の一番大事な要素の一つであるとかねがね感じているのである。僕は未だに未熟であるが…。 不実な美女か ロシア語同時通訳の第一人者で作家の米原万里さんの著書「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」(新潮文庫)には、こんな苦労話が満載である。彼女は、直訳ではなく、別な言葉を使って、相手の言いたい事をよりうまく伝える通訳を「不実な美女」と冗談交じりにたとえている。これとは逆に、体裁は悪く、ぎこちない言葉でも、きちんと伝える通訳を「貞淑な醜女」とたとえる。通訳の立場としてはこの間に「貞淑な美女」もあれば「不実な醜女」もあるという。臨機応変である。僕の生活の中では言葉が正確ではなくても、想像力を逞しく、相手の心をおもんばかり、相手の言いたいことを探り当てて適切な言葉を見つけ出す「不実な美女」が大いに活躍しているようなのである。 ここまで考えてきて、言葉はわかってもらいたいと願う人の気持ちだなー、と思う。下手な言葉でも通じるんだ、と思えてくる。それは、目の前にいる自分の好きな人たちにわかってもらいたいと思う気持ちである。逆に僕が長年国連で働いても英語が上達しない理由もそんなところにあるのかもしれない。わかって当たり前だろうと言わんばかりにまくし立ててくる英語を母国語とする連中に辟易とする事の多い日常。一方、好きでもないこの連中にわかってもらいたくもないと思う本音。するとますます言葉がうまく出なくなるのである。わかってもらいたいという心は好きだという心に似ているのかもしれない。僕はカンボジアの人が好きである。 英語特訓大作戦? 文脈から相手の言わんとすることを察知する想像力を毎日磨いている人たちが実は僕のすぐ傍にいる。我が家のお手伝いさんのリエップさんと運転手のウエイトさんである。彼らは毎日僕と女房が話しかける摩訶不思議な発音のクメール語を深い思いやりと優しさで理解してくれている人たちである。有難い話ではあるが、実は困った事があると、ある日女房が気づいた。それは彼らが英語を話せないということである。 リエップさんは働き始めた頃、英語をかなり話せたのであるが、最近はまったく話す気配さえ見せない。僕らとの会話は全てクメール語で済ませてしまう。僕らも今や下手でもクメール語のほうが早く通じてしまうのである。しかし、女房曰く、もしこの人たちがいつか僕たち以外の外国人の下で働くとしたら、英語が話せなければ彼ら自身がとても困るだろうというのである。至極ごもっとも。 英語の学校に行かせるという手もあったが、時間が合わない。そこで我が家での特訓大作戦が始まった。僕らが彼らに話すときには極力クメール語を使わず、英語で話しかけるという作戦だ。「なぁーんだ、単純!」と思われるかもしれないが、結構これが複雑なのである。まず英語で話しかけ、彼らがわかったかどうかを、「クメール語でもう一回言ってごらん」とクメール語で確認する。もしわかっていなければ、僕らが下手なクメール語を駆使して英語を説明してあげるのである。もっとも会話の内容は「何通りのどんな店に行く」とか、「どこでどんな買い物をする」とか、「何時にどこで待っていて」とか、実用的なもの。それでも、わかってもらえるように、教えるのはかなり大変だなぁーと痛感する毎日である。 そこで気がついたのであるが、彼らには聞き取りづらく、発音しにくい英語の音がいくつかあるらしい。例えばstreet(通り)とstraight(まっすぐ)の「イー」と「エイ」の母音の発音である。区別してうまく発音できない。そこで一計を案じた勤勉な女房は、クメール語の母音表記をクメール文字に書いて見せて理解させたのである。これには感服。 また、子音の発音でもstreetの語尾の「t」のような軽い破裂音が発音できないから「ストリー」になる。困ったことに、クメール語の子音表記にないので、さすがの女房も説明できない。 日本語の発音にも苦手があるらしい。我が家の犬は食事をする時は必ず「待て」といって、お座りをして待たせ、「よし」といって食べ始める。お手伝いのリエップさんがこれを時々やってくれるが、初めは大変だった。「よし」がうまく発音できないのである。「よし」と言おうとすると「よす」になる。犬の耳はすばらしい。犬の耳には「よす」はどう逆立ちして聞いてみても「よし」には聞こえない。僕がふと見ると、哀れな犬はよだれをダラダタ垂らして、必死で待っているのである。 リエップさんも「何でわかってくれないの。早く食べてよ。」と「よす」を連発している。耳のいいカンボジアの人にとっても苦手な発音というのはやはり存在するらしい。 大作戦は今日も一応続いているのであるが、どうも僕らの方がぎこちない。クメール語には便利な言葉がいくつかある。例えば「トーマダー(いつものようにね!)」という言葉である。これはこの一言で、いろんな状況で使える便利な言葉だ。「いつもの時間にね」とか、「いつものメニューね」とか、この一言で済むのである。ところが英語では、何がいつものようなのかを言わないとならないので、なんとも長ったらしい言い方になる。「ああ、簡単なクメール語で済ませたい!」と心でつぶやきながら、今日もぎこちない特訓大作戦は続いているのである。 |