んだんだ劇場2008年1月号 vol.109
No5
折り紙つきの旅

旅の計画・・・今年はどのフットパスを歩けるだろう
季節は冬。とりわけ寒がりの私は、暖かい季節が待ち遠しい。そして、暖かくなったら、今年もまたイギリスへ行きたいと思っている。その行きたい一心で、行くならどこがいいのか、あれやこれやと思いをめぐらせている。しかし、正直なところ「絶対、ここに行きたい」というところがない。もしかしたら、イギリスならどこでもいいような気がしているからだろうか。そうかもしれない。そこで、こんな時は地図担当(?)の妻の顔をみる。これまでのことを振り返り、妻がよさそうと思うところなら、多分いいのだろうと思っているから。ただ残念なことに、その妻もいまのところ、どこにしようか決めかねている。

ハドリアンズ・ウォールパス

パースレイ・ヘイのフットパス
行き先が決まらなかったら、まず一ヶ所(ひとつの町)だけは、これまででかけた「どこか」という手もある。現に3年目(2007年)は、2年目(2006年)印象に残った道をもう一度歩いてみたいと、同じ宿を予約。その同じ道を、多少コースを変えて、あるいはそこから先の新しい道を探したりしながら、歩いた。そんな道なら、いくつか思い浮かぶ。

2007年7月7日の日記
金曜夜、昨日より多くの若者たちが町に出ている感じがした。雨もなく、騒ぎ声が大きい。23時・1時・2時・3時と外の騒ぎに目を覚まし、そのたび窓際で写真パチリ。5:45起床、日記。腰の痛みを考え、抗生物質を一錠飲む。残り4泊。息子、最後が近くなり、元気。7:00妻の思いつき、あるプレゼントでもらったNTTカードで**に電話してみようと、ホテル前の公衆電話に三人で行く。いろいろ試し、どうにかかけられたが、応答なし。日本時間で土曜午後3時(休みの日)であることに気づく。二日後月曜7:00にかけよう。つながっていたら、おもしろかったはずとドキドキした気分が続いた。7:30食事前に折り紙で金平糖を作り、持参。7:30-8:00朝食、主人と今年の雨は最悪、日本人は年間50人位宿泊の話。出発予定9:30迄休憩、ゴロンゴロン、時折画像処理。
Bus Stationでは座れないだろうと昨年の反省から、Rail Stationへ。******* 10:00-10:40 Malham。10:45歩き始める。昨年歩いているので、全体の感じがつかめ、コースの見当もついて、気持ちが楽。2日前痛めた腰の具合を考え、自重して歩く。最初のShowerがやがて晴れてくる。全体に風が強い。12:05-25パン・チーズ・ミカンで昼食、ヨーロッパ各地からの留学生4人組と話す。いろいろな道がある中、できるだけ昨年のコースを外して歩く。妻が地図で確かめ、息子が続く。私写真パチパチ。Tarnから、昨年登った岩場に至るコース良好。岩場を降りるのがいやで、地図にないコースを先へ行ってみたら、思いがけない絶景。
マーラム(ヨークシャー・ディルズ国立公園)
絶景名残惜しく、急坂の草原を下る。息子が先になって、草原から車道へ向かう。私は多くの人が上っていく別の草原の方へ行きたかった。このままだと昨年歩いた車道かと思ったら、うまくフットパスがあって、実はこちらもみんなが歩くお決まりコース。平坦、楽な道でよかった。16:45のバス時間を気にして急いだが、30分早く着く。息子楽しみのアイス(1.2ポンド)。Malham 16:45 (Bus210) 17:15 *******。二人Marketで降り、私Morrisonで買物。戻って、湯につかり、後***へ夕食買いに行く。19:55-20:20豪華な夕食、21:00-22:00 ******でインターネット、22:30就寝。

新しいフットパスへの興味
こんな具合に、これまで歩いた道を歩くのもいいが、もし体や気持ちがまだ以前のようだったら、それまでは今迄行ったことのないところへも行ってみたい。そんなことで、妻が今年考えているのはノース・ヨークシャー国立公園のフットパス。昨年(2007年)、この辺のExplorer Map2冊を(自分たちへの)お土産として買ってきているので、これらを眺めれば、おおよそのフットパスの見当はつけられる。ただ宿をどこにするか、これがなかなか厄介。昨年もらってきたバスの時刻表を眺めていると、7月20日以降なら便も増えてくるようなので、時期的な兼ね合いもある。さて、どの町に宿をとるか。そろそろ決めた方がいいような気もするし、日程のことも気になりだしてきた。そこで頭に浮かんでくるのが、昨年(2007年)の宿に関する失敗談。

悪い予感
イギリスに到着して、しばらくは時差ぼけの調整もあって、比較的長く滞在したいと思い、目星をつけたその町の宿がなかなかみつからなかった。理由はファミリールームにこだわるから。宿は、バス利用の便、食料及び夕食調達の関係から、町の中心に近いところが希望という話は前に書いた。そんな中、インターネットで、これはと思える宿がみつかった。ホームページの写真をみて、まず心が動いた。書いてある文章から、静かな場所にあることは想像できた。そこで、これまでの感覚から、多分ここで大丈夫ではないかと思って、メールを送った。
悪い予感の最初は、そのメールが直接その宿に届く形ではなく、あるメールシステムを経由するもので、私のやり方が悪かったのかもしれないが、なかなか発信できなかったこと。ほかに簡単なメモ程度のものなら、フォームに従って発信できたので、今度はそちらに切り替えてメールしたが、その返事が来ない。なかなか来ない。あれこれ方法を変え、形を変え、何度も送ったら、やっと返信がきた。悪い予感のふたつ目はその内容。ファミリールームの料金100ポンドはかなり高い。10日ほどの滞在だから、安くならないかと問い合わせたら、これもそれなりの時間がかかって、95ポンドならOKという返事がきた。同時に、その時点で、最初予約しようと思っていた部屋が一杯になってしまったということも淡々と綴られていた。

悪い予感は続く
悪い予感の三つ目。なんとなく、そこには決めかねていたのだが、ほかに見つからないこともあって、いよいよお願いするBookingメールを送ったら、直接電話でクレジットカードの番号を知らせろという文面が返ってきた。メールでは、ほかにもれてしまう可能性がある・・・みたいなニュアンスの文面に思え、億劫ではあったが、国際電話をかけると、受話器の向こうでペラペラと早口の英語が繰り返され、なんともみじめな思いになる。(英語が決して達者でない話は後で書く) 一応、番号は伝えられたが、その後「デポジットとして、100%もらう」とメールがきた。これは初めてのこと。この先は、いまの私(たち)の英語力ではとても太刀打ちできそうにないと思え、二年目お世話になった宿(日本人オーナー)の方にその辺の事情を聞いてもらい、結局はデポジット50%ということになった。

ケズイックのキャッスルヘッド

ハドリアンズ・ウォールパス
いやな予感が残ったまま、その後、スーパー・マーケットの状況やバスの時刻表に関する問い合わせやお願い事のメールを送ったら、まもなく詳しくお知らせしますというメールの後、とうとう返事は最後まで来なかった。これも、今迄で初めてのこと。そんなもやもやした気分のまま、最終的に90ポンドとなった料金が料金だから、どこかに期待し、希望的に考えたのは、私たち特有の甘さだったと、これは実際宿に着いてみて、すぐに感じた。

やっぱり、予感はあたった
着いた時刻が悪かった。コペンハーゲン経由で成田から18時間かかって、マンチェスター到着が19時。入国手続きの後、20時15分発のバスに乗って、町へは21時45分到着。宿を探し当てたのが夜の10時。夏時間の夕方のうす暗さが夜の暗さになったばかりの時刻で、その時の宿の小さな明かりには、ほっとするというより、期待が外れ、やはり気になっていた通りだった・・・という後悔があった。宿の主がイギリス人ではない、そのことは問題ではなかったのだが、彼のちょっと横柄に思える感じが、旅の最初の宿に暗くなって着いた私(たち)には、第一印象として心地よくなかった。おまけに、ホームページを見て、内心期待していたリビングが寒々とした、人の気配を感じない、物置のように思えたことも意外。通された部屋の印象も、最初は決していいものではなく、薄っぺらな感じ。これは、おそらく夜という時間、そして薄暗い中での出会いということもあったのだろう。

しかし、ここからが私たちの旅
やはりという予感が当たり、これからこの宿で10日間過ごすことを考えると、一瞬、してはいけない後悔もしたが、まもなく気持ちを切り替えた。振り返って、似たような状況が、イギリスではないところで、これまで何度かあったことを思い出す。まずは、ここの良さをみつけ、ここを宿として、どう「うまく」使っていくか考えることが大切。まだ着いたばかりで、知らないことだらけなのだ。おそらく、この宿ならではのこともあるだろう。それを明日からみつけていけばいい。なにより、丸24時間に及んだ長旅の疲れをいやすことが先決だと思い直す。実際、人影が少ない(私たちの他に宿泊客はいないようにも思えた)この宿で、悪い予感が当たったことはいろいろあったが、反対にまわりの静けさとか、意外なことにバスタブのゆったりした感じとか、部屋の広さとか、(おかげで)気楽に過ごせる点だとか、上々の点もあれこれあったのだ。

運河沿いのフットパス

アンブルサイドにて
そして、学んでこと。半額のデポジットが最初の電話の後あっというまに引かれ、残りの半額は宿の滞在中に引かれていたことは最後の日に知ったのだが、これはその内容に問題がなければ、それで済む話。ホームページの写真にだまされてはいけない。過剰には期待しない。これは身にしみて感じた。そして、メールのやり取り(電子コミュニケーション)の中にも、そうした予感(事実)は潜んでいたはずだから、これは事前に察知すべきだったこと。ほかの宿が60〜75ポンドだったことを考えれば、ここだけが突出して、宿代は高かったが、それはそれ。総じてこの町が嫌いだったわけでもなく、フットパスを歩くという意味では充分に満足のできる日々であったこと。今後は、この経験を生かせばいいこと。もし、それでもうまくいかないことがあっても、旅全体を考えて、満足できれば、それでいいと思えること・・・などなど。
こんなことを思い出しながら、いまはまだインターネットをあれこれ眺めている段階で、ノース・ヨークシャーの宿は決まっていない。その代わり、2007年お世話になった、こちらはフットパスを歩く上でも、長い滞在という面でも、私たちの旅にはベスト(これ以上はない)と思えた宿を今年の最初の宿に決め、予約を済ませた。こんな具合に、今年もまたイギリスに向けて、少しずついろんなことが動いていくのだと思う。

パブリック・フットパス
ところで、私たちがこれまで歩いてきたイギリスのフットパス。それを、日本でたとえて言うなら、どんな道やどんな光景と言えるのだろうか。フットパスというものを、そんなふうに説明できたら、これを読んでいる方に少しは理解してもらえるだろう。しかし、これがなかなか思い浮かばない。いや、部分的な景色や道の様子なら、なくもないのだが、全体としてみれば、どうもぴったりこない。どこが違うのか。
決定的な違いは、フットパスらしいと思える光景や道が、日本では現実に長く続いていない点だろうか。あえて無茶な言い方をして、その違いをはっきりさせるなら、イギリスの場合はフットパスと呼ばれている道が歩くのにふさわしい道として、つまりイギリスのフットパスらしく、可能な限り長く続いていることではないだろうか。それらは、日本のように部分的に孤立しているのではなく、それらしい道として、無限に続いている(ように思える)ことではないか。それはなぜか。そのことは、イギリスのフットパスの成り立ちにさかのぼるのだと、多くの本が書いている。たとえば、次にあげる2冊の本。

『ウォーキング大国イギリス(フットパスを歩きながら自然を楽しむ』(平松紘著/明石書店刊)
『誰も知らなかった英国流ウォーキングの秘密』(市村操一著/山と渓谷社刊)

これらの本によれば、私たちが出会ったフットパスは、イギリスにおいて、人々が長い間にわたって要求し続けて、獲得した「歩く権利」が形になったものだということがわかる。だから、フットパスは公の誰でも歩ける道として、「パブリック・フットパス」とも呼ばれている。誰でも・・・ということは、イギリスからみれば、はるか遠い東の果てに住む私たち日本人も、当然のごとくに歩けるということなのだ。

ハドリアンズ・ウォールパス

アンブルサイドのフットパス
このように、人々が「歩く権利」を求めた結果、生まれたという歴史的な背景があるからこそ、それらの道(フットパス)はイギリスの国の中で、無限の網の目のように、可能な限りつながっていなければならない。そうでなければ、人々の歩く権利は満たされないわけだから。たとえ、その間にそれぞれの個人が所有する土地があったとしても。だから、道の途中に牧場があっても、その一部を堂々と「歩く権利」で通ることができる。日本のように(?)、草原の道から車道に迂回しなくても、草原の道のまま、分断されることが少なく、フットパスはつながっていくことになる。これは、日本にはない発想だろう。だから、イギリスのフットパスの世界(同じような状況)が日本には見当たらないのではないか。

イギリスの通行権
イギリスでは、市民の歩く権利は通行権として、法律でも守られている。だから、該当する土地の所有者はそれぞれの土地の一部をその状況に応じて、「フットパス」として提供しなければならない。ただ、その提供の仕方はそれぞれに違っている。
「この辺どこでも、お好きにどうぞ」というものから、「ここはいいけれども、ここ以外は絶対にだめ」とか、「(しょうがないから)ここは通してあげるけれど、その代わりこっちの庭をのぞかれるのはイヤ」と細い道のすぐそばに高い、向こう側はどんな仕上げになっているのかわからないが、こっち(フットパス)側は手で触ったら、とげをさしてしまいそうな荒い仕上げの塀ではっきり意思表示された形で、フットパスとなっている場合もある。それだけをみれば、なんとも狭苦しくて、うっとうしくも思えるのだが。この塀(仕切り)も、いろんな形があるから、ここに土地の提供者の思いが見え隠れする。

ヘイフィールドのフットパスのおしゃれな塀

庭を迂回するフットパス(ハドリアン・ウォールパス)
フットパスの標識をながめて
「フットパス」のため、土地の所有者がそれぞれ土地を提供するにあたって、いろいろな取り決め(規則)があるようで、そのひとつが標識。これは、歩く人への案内責任という意味合いのほか、ここ以外に入ってはならぬという警告の意味も込められている(と思う)。そんな両面から眺めてみると、フットパスを歩いていて、いたるところで出会う標識のありように、その土地の所有者の思いがいろいろ感じられて、おもしろい。
たとえば、例のExpolorer Mapには、確かに「フットパス」として表示されているのに、その入り口の場所がはっきりしない場合。入り口はみつけられても、そこから先の分かれ道のガイドがはっきりせず、おおいに迷う場合。標識がなく、見当のつけようもなく、この先にもフットパスらしい(つまり心地いい)道がありそうには思えない場合。あるにはあるが、そこは牛たちがたむろしていて、すっかり彼らの世界であって、とてもそこを通過できそうにない場合。羊たちなら、私たちが近づいていけば、驚いたように飛び跳ねて、逃げて道を譲ってくれるのだが、「あんた、どこの誰? 何の用があるの?」と言った顔で、たくさんの牛たちに睨まれ、すごまれる場合。

バイクウェルのフットパス

パースレイ・ヘイのフットパス
羊たちだって、わんさと群をなしていると、そこを通るのはとても無理に思え、これは遠回りするしかない場合がある。あるいは、犬に吠えられ、アヒルもガアガアわめき、そこにいる私たちが完全に不法侵入者としか思えない場合。そうかと思えば、目の前のここがフットパスとおぼしき道は、牛の糞尿が雨にとろとろ溶けた状態になっていて、その中を突き進むには、大いなる勇気を必要とする場合。道を探して、そこら辺をうろうろしていると、向こうから出てきて、詳しく道を教えてくれる人、途中迄送ってくれる人。実はそんな時、知らず知らず、その家の庭を横切っていたりする。

思いがけず、めぐりあう道
あるいは標識がなく、そんなこともあってか、人があまり歩かなくなり、草むらが生い茂った状態のまま、自然に道が分断された形になっている場合。そんな時、その日の天候、気分、これから残っている時間、バス時刻などを考え、先に進むことを諦めることもある。そうか、ここはあまり歓迎されていないのかもしれないと思ったりする場合。いやいや、そんな場合でも、地図とにらみ合わせて、思いがけなく道がみつかることもある。その道が意外によかったり、頑張ってみた先が車道だったり、その時々によって状況は違うのだが、いずれの場合も、私たちが思いがけずめぐりあった道。それは、誰かに連れてこられた道ではなく、自分たちが選んで、なにかの縁で、たまたまめぐりあった道。(私たちの場合、地図担当の妻が導いてくれることが圧倒的に多いのだが) そんな道だから、そのどれをも、私たちはイギリスのフットパスとして受け入れることができるような気がする。
振り返ってみれば、途中で断念した道も、もしかして逆方向から歩いたら、迷うことがなかったのかもしれない道もある。まあ、それはそれ。それでどうということもない。こんな感じで、私たちがイギリスのフットパスに対してゆったりした気分でいられるのは、いつも、ここだけで終わるイギリスのフットパスではないと思えるからではないか。たとえ、今日はこんな感じでも、気分を変えて、別の道を歩けばいい。時間さえあれば、フットパスはまだまだたくさんあるのだから。

リブルヘッド駅からの車道

デールズ・ウェイ

2006年7月10日の日記
朝5:45起床、7:00朝食、壁に備え付けられているテレビに妻頭ぶつける。いつか、誰かやると思っていた。8:45外へ、日本に帰国中の娘に電話(9:10)。******* 9:26 (Railway) 10:06 Ribblehead、10:15羊が道の脇に悠然としている、そんな草原の中の結構広い車道を歩き始めるが、不快ではない。10:50 フットパスの標識をみつけ、草原に入ったが、途中から道が途切れ、あちこち道を探す。農家で犬に吠えられながら、道を聞き、もう一度探してみるが、どうしても見つからず12;20あきらめ、Ribblehead Stnに戻る。仕事でLeezsにきて、今日はちょっと観光と、この辺を散策したという日本人3人に会い、発車迄20分ほど話した日本語が懐かしい。
今日の予定を大幅に変更。13:22 (Railway) 14:06 Keighley、Bus StationでKeighleyのインターネットカフェについて聞く。Keighley 14:36 (665BUS) 14:50 Haworth。15:40-17:40 Haworthのブロンテが歩いたという道を歩く。ここへは、もう一回来てもいいかな。17:50 (BUS664) 18:10 Keighley。駅まで歩く。Keighley 18:21 (Metro Train) 18:34 *******。Morrisonで買物、***で夕食調達。今日も豪華な夕食。妻珍しくワイン飲み過ぎ。今日も一日が過ぎる。

石垣を越える、たくさんのゲート
長く続いているフットパスは、いろんな人の土地を経由していくわけだが、そこは牧場であったり、牛や馬、羊たちが放牧されている草原だったりするので、多くの場合、たくさんの石垣で仕切られていることが多い。だから、フットパスが石垣を横切る場所では、そこに設置されたゲートを開け閉めするか、石垣に作られた踏み石を上って、越えなければならない。そのゲートにはいろいろな形があって、また鍵のかけ方もそれぞれであって、これはおもしろい。自転車が入らないようにという意図もあり、絶対に一人ずつしか通過できないキッシング・ゲート。石垣を越える踏み石は、疲れてくると、足をあげるのが億劫な時もあるのだが、形もそれぞれで、これらは歩いている時の気持ちの区切りにもなるし、私には写真の楽しみにもなる。

デールズ・ウェイ

ハドリアンズ・ウォールパス

キッシング・ゲート
そんな中で一番印象に残っているのが、2007年に歩いたKettlewell からGrassingtonまでのDales Wayでの踏み石。(上記写真左側) 3段に積まれた石段を上り終えた、すぐのところに小さなプレートがはめ込まれていて、そこには次のように書かれていた。

In loving memory of
R** P****
1932−2002
A man of warmth and houmour

イギリスでは、こうしたプレートをたくさんみかける。たとえば、至るところに設置されている長椅子ベンチの背もたれにも、同じようなプレートが張りつけられている。日本人にはなかなかできないものだが、イギリスにはこんなふうに自分の意志をはっきりさせるところ、自分の気持ちを形にしないではいられないところがあるのだろう。そんなベンチに、何度も腰をおろし、休ませてもらった。

イギリスの山へ登る
イギリスのフットパスを歩くということは、当然ながら、イギリスの山を歩くことも含まれている。

実は、私のこの話を続けるにあたって、もっと前に書いておくべきことがあった。それはイギリスという表現、祖の使い方についての説明。以下、その説明・・・イギリスとは、非独立の3つの王国(イングランド王国、スコットランド王国、ウェールズ王国)と一地域(北アイルランド)で構成される連合体をいう。本来は、グレート・ブリテン島にあるイングランド、スコットランド、ウェールズの3王国を併せて「グレート・ブリテン」と呼び、これにアイルランド島の北部地域である北アイルランドを加えた場合に「ユナイテッド・キングダム(UK)」と称する。
この意味でいうと、イギリスの最高峰はスコットランドのベンネビス山(1344m)で、この近くのネス湖は怪物ネッシーで有名。またウェールズの最高峰はスノードン山(1085m)で頂上まで鉄道が走っている。そして、イングランドの最高峰はレークディストリクトのスコーフェノレ山(977m)、北アイルランドはスヲーブドナノレド山(852m)で、いずれも1000mに満たない。

そんなイギリスの山の中で、私たちがこれまで体験したイングランドの山は、高くて600mから700mくらいのもの。ところが、ロンドンの位置で樺太の北部という緯度のせいもあって、その景観は日本で言えば、2000mから3000mの感じがする。そんな山へ、ちょっとそこらの里山へ登る感じでたどり着くことができる。もちろん、山であるから登りはあるのだが、日本のような急登は少なく、長い長い、ある意味ではうっとうしい樹林帯もない(といった方がいい)。
ラトリッグ山(ケズイック)
その山の天気も、イギリス風にころころと変わるのだが、アプローチが短い分だけ、気持ちは楽だし、それらは草原のフットパスの延長上にあることも多いから、何度か挑戦してみた。山を見れば、気持ちだけはつい登りたくなってしまうのだろう。

Yorkshire Three Paek Challenge
たまたまめぐりあった、ヨークシャー国立公園にある3つの山。それは、Pen−y−Ghent(691m)、Ingleborough(723m)、Whernside(728m)。これらの山にまつわる興味深いレースの話を聞いた。Horton−in−Ribblesdale 駅を発着点に、これら3つの山の頂上を上記の順番で走り抜けるレースで、総距離は24マイル、制限時間は12時間以内。もし、私が走ることに夢中だった頃、このレースのことを知っていたら、果たして挑戦していただろうか。もちろん、いまとなっては夢の中の話なのだが、30年ほど前、今も行なわれている富士山へ登る競争(標高差2900m、距離19キロ)に5年続けて参加したことがある私には、現在の自分とは全く関係なく、やはり話を聞けば、勝手に心騒ぐ世界なのである。(余談:富士登山競争挑戦最後の年、参加691名中完走390名、3時間33分33秒で67位という記録を思い出した)
それはそれとして、私たちは、これら3つの山へそれぞれ一日ずつ使って、登った。そして私たちの最後の山となったIngelborough山へ登る途中、これら3山を一日で登るのだという男性に会った。なるほど、体力に自信があれば、こういうチャレンジの仕方もあるのだと、そしてこういう単純なことが人を惹きつけるのだと、改めて感じる。以下、こちらは年をまたぎ、私たちなりの楽しみ方で登った山。イギリスの山には、草原のフットパスを歩いていると、ちょっと気分を変えて、登ってみたくなる感じがする。

2006年7月13日の日記・・・Whernside (728m)
5:25起床、久々にパソコンタイム。朝から快晴。7:30朝食、9:00外へ。******* 9:26 (Train) 10:06 Ribblehead、10:08歩き始め、4日前雨の中歩いたコースをDent方向へ逆の峠越えも考えたが、緩やかな上りを歩いているうち、手前に見える山へ登ってみたくなる。後ろから、結構肥満の女性も登ってきた。何度も休みながら12:40 Whernside山頂上へ。昼食。13:05 Ingleborough山方向へ下りる形で急な斜面を下山の後、牧場を横切るフットパス。今日は朝から上々の天気続く。15:10 Ribblehead 駅着、15:30 (Train) 16:05 *******。モリソンで買物。
二人は先に戻ってシャワー。二人が休養中、インターネット・カフェへ行くが、なぜか接続できず。あれこれ試み、50分ほど粘ったが、やっぱり駄目。今日は諦め、部屋に戻る。息子といつもの夕食を買いに行き、今日はチップスも追加。おかげで豪華なお食事。妻極度にお疲れ、マッサージする。保存のため、CDRに画像コピー。21:00過ぎ宿の主人にダイヤルアップによる方法を試みたいとコード持参で話すが、うまくいかず。その代わり、いろいろな話ができた。精一杯話せば、なんとか会話は通じるもの。21:30就寝。

ワーレンサイド山頂

ワーレンサイドからリブルヘッド駅へ
2006年7月14日の日記・・・Pen−y−Ghent (691m)
朝5:00起床、しかしゴロン。妻、今日は休養日を宣言。一人なら、どこへ行く。7:00-7:30三人で運河沿いを歩く。久しぶりの朝の散歩。7:30朝食、一人ででかける準備をしていたら、息子も一緒に行くと言い、急遽二人で9:10外へ、******* 9:26 (Train) 9:58 Horton-in-Ribblesdale 下車。Ingleborough (723m)へ行く予定が、降りた人たちは誰もそちらへは行かず。みんなが行くPen-y-ghent 山(694m)の方へ行く。フットパス手前で、犬を連れた女性に道を聞いたら、自分の家の途中迄案内してくれ、最初(行きの登り)は急なコースを勧められた。これがよかった。
10:30歩き始め、まもなく中学生らしいグループ3組と一緒になり、これも幸運。頂上手前の尾根で風強くなる。険しい岩場はこわかった。12:05 Pen-y-Ghent頂上、12:35まで昼食休憩。12:35下山14:27ツーリスト・インフォメーション着、さっきの中学生グループなど、みんなが休憩。息子、ファンタ&アイスで、ゆったりした時間を過ごす。Horton-in-Ribblesdale 15:35 (Train) 16:05 *******。スーパーマーケット(Morrison)の前で妻が待っていて、3人で買物。部屋に戻った後、******へ行き、インターネット。今日は接続できた。(17:20-18:30) 部屋に戻り、昨日同様息子シャワー手伝いの後、いつもの夕食を買いに***へ。今日はチップスを加えた、さらに豪華な夕食。21:30就寝。週末の若者のフィーバーあり、特に、朝3時頃から4時頃まで店を出た若者たちが騒々しかった。

ペニーガント山への登り

ペニーガント山へふもと
2007年7月5日の日記・・・Ingleborough (723m)
朝、路面が乾いていて、5時前あたりから青空がでてくる。例によって、保障の限りではないが、この天気ならIngleborough山は可能だろうか。妻のマッサージをする。息子高いびき。昨日の日記、その後画像をCDに取込。葉書3枚書く。7:30朝食。今日の山登りに備え、二人ベットにゴロン。8:45外は肌寒い。9:00 Station着。晴れの予想が今は曇り空。ベンチにあったMetro Newspaperで今日の予想はまあまあ、日の出4:45日の入21:36。******* 9:26 (Train) 9:58 Horton in Ribblesdale。10:03スタート、後ろから小学生らしいグループ3組。ゆっくりペースのこのグループの少し後ろを歩き、途中から先になる。天気は芳しくなく、予想を大きく外れ、少々ガッカリ。

いつか晴れるだろうと期待しながら歩くが、山には雲がかかったまま。途中パラパラあり。三山を一日で登ろうとしている中年男性に会う。若かったら、私もやっただろうか。記念写真。ミカン休憩(11:00-10)、チョコ・クロワッサンで昼食 (11:50-12:00)、頂上へのアプローチ前で息子は待つことになり(12:34-14:20)、二人で頂上目指す。ガスがかかっていて視界不良。頂上13:25は平らな大地の上、ガスのため、方向が一時わからなくなる。ほかの子どもたちグループの声が聞こえた。一瞬の風で視界利くことアリ。ずっと風強し。頂上のモニュメント付近で10分ほど滞在。ぎっくり腰の予感少しあり。下山しかけた時、Ribblehead の鉄橋が見え、向こうの山Whernside、Pen-y-ghent に続く光景も見え、いったん頂上に戻る。14:20 息子が待つ場所に戻る。息子元気回復。以後快調。15:00-10休憩。この時、尾てい骨を岩にぶつける。こんもりふわっとした草むらに腰をおろしたが、そこに先の尖った小さな岩があった。痛みその後続く。
この辺からまた空が暗くなり、16:00頃から雨落ちてくる。16:20Horton in Ribblesdale 駅到着。雨やまず。待合室で17:49の列車を待つ。この間、一時間半妻Metro掲載の数独やる。途中自転車旅行らしい青年入ってくる。汽車定刻。濡れた体に列車の暖かさが嬉しい。妻、車内で数独完成。18:10 *******着。Morrisonで買物、私がレジを待つ間、二人先に部屋へ。バスタブにお湯を張って漬かり、体を暖める。19:40雨の中夕食買いに***へ、折り紙キャンディボックスを二人の女性にプレゼント。20:00-20豪華な食事、そのまま20:40就寝。

イングルボロウ山頂

イングルボロウ山ふもと
マウンテンバイクはいきなり現れる
ところで、この3つの山を走り抜けるレースのほか、自転車のレースもある。Ingleborough山を歩いていると、あちこちに自転車のタイヤの跡があった。そういえば、イギリスのフットパスを歩いていると、突如自転車がやってくることがある。(正確にいうと、フットパスは駄目で、ブライドルウェイかバイウェイの場合なのだが)、あれはケズイック近郊、アルツウォーター湖のフットパスを歩いていたとき、あるいはハワーズのブロンテ・フォールを目指して歩いていたとき、マウンテンバイクがいきなり目の前に現れて、びっくりした。そんな世界に刺激されて、ここからは私の自転車の話。

自転車、それはその日の私のバロメーター
私は車の免許がなく、運転もできないから、妻が運転する車に乗せてもらうこともあるし、そうでなければ、依然としてマイカー(自転車)に乗ってでかけることもあるのだが、この頃きつくなってきた。まあ、なんとかでかけはするが、町へでかけて、戻ってくると、どっと疲れがでるようになった。住んでいる周辺には坂が多く、こちらはほぼ平坦な町へでかけるのは、どうしても坂を越えなければならない。その自転車ででかけようと思う時、気持ちが乗ってこないのは体調がよくない証拠。いざでかけ、坂を前にいつになく億劫と思って、気落ちする一方、腰を浮かして、一気に上ろうとペダルを踏み込んでいる時は、気持ちも弾んでいることが多い。つまりは、自転車はその日のバロメーター。
その自転車をこぎながら思う。いつまで、こんなことができるのだろうかと。いまのところ、車の免許を取りたいという野望は生まれそうにない。なんといっても、車の運転がこわい。そんな私には決して手の届かない車のわきを、若い頃から知らず身につけてしまった、車に対する怨念(?)のような思いを胸に秘めながら、自転車を走らせている。もちろん、自転車が心地いいと思う時もある。なにより、町では自転車の方が小回りも利くし、便利なのだ。それはわかっているのだが、時として、体がついてきてくれないことがあって、いま私はひとつの変わり目に来ているのかと思ったりする。

いきなりマウンテンバイク

山を走る
つまりは、体と気持ちのバランスが以前のようではなくなったから、少し軌道修正が必要ということなのだろう。答えは簡単。さっき坂道のことを書いたが、きついと思ったら、自転車を降りて、押して上ればいいだけなのだ。この間、あるご年配の女性が「そういうのって、問題を自分の方に引き寄せて考えてみると、楽になれるわよ」といってくれた。確かに、急な坂を無理して、頑張ってこぐことはないのだ。そう考えれば、楽になる(と頭ではわかっている)。

それでも、自転車は楽しい・・・が
最近、町でイヤホーンを耳に、なにか(多分音楽)を聞きながら、自転車に乗っている若者が多い。私は、自前のカーラジオを鳴らしながら、走っている。つまり、ウエストバックに入れたラジオのボリュームを多少大きくして、主に音楽を聞いている。昔から「ながら族」で、いつもそばに音楽がほしい。たとえば、いまこれを書いて(打って)いる時も、なんとなくそれにふさわしい(こんな感じかなという)音楽(CD)をかけている。これが、自転車に乗っている時はラジオ。なぜ、ラジオかというと、時に思いがけないものがめぐりあえるからだろうか。自転車で周りの状況が変わっていく感じと、その時かかっている音楽とが、時にぴったりのことも、ミスマッチのことも、あるいは思いがけない組合せだったすることもある。
もともと、音楽のジャンルにはこだわりがない。特に自転車の場合は、それなりにどの音楽も受け入れられる。ラジオのチャンネルは、一番感度がよく、CMなしに音楽番組が続くという理由で、NHKのFM局。最近の日本の若向きの音楽にはちょっと距離を感じるが、それもそれ。たまたま流れている音楽・・・とするなら、それもいい。昔から、クラシックも民謡も、歌謡曲や演歌も、ポピュラーも、それなりに好きだった。最近、朗読をやるようになったことがきっかけで、発声方法への興味から、邦楽も好きになった。そんなわけで、まだまだ自転車をあきらめたくはないが、これも旅の仕方同様、いま変わり目にきていることを感じる。

2006サッカー ワールド・カップ
自分では体験できない世界をみるのも旅のひとつ。たとえば、スポーツ観戦。この楽しみ、できればテレビではなく、ナマでみたい。贅沢なことではあるが、そう思う。この場合、ナマとはいえないが、2006年ドイツで行なわれたサッカーのワールドカップを、私はイギリスで体験した。

日本代表がオーストラリアにまさかの逆転負け。それも、試合終盤に立て続けの失点。そんな状景を頭の片隅に残しながら、日本を出発。そして、イギリスに着いた翌日、部屋の小さなテレビで、半分時差ぼけの状態でクロアチアと0−0で引き分けた試合をみる。海外で見るワールドカップはもちろん国際映像。しかも、イギリスからすれば、遥か遠く東の果て、この大会ではさして注目されているとも思えない日本の試合を、そばに長旅の疲れで眠りこけている妻や息子の寝息を聞きながら、日本の試合なのに、日本でないという、ちょっと妙な感じで眺めていて、アレレという間に試合終了。そして、ああこれで日本も終わったかなと思った。どう考えても、最終戦(三戦目)で、強豪のブラジルに大差で勝つなんてことはありえないわけだから。
それでも、やはり気になるその試合は、後半になって、宿の日本人オーナーからお誘いがあって、妻も一緒に、宿のリビングにはほかに日本の二人の青年もいて、ワインを飲みながら観戦。一人で小さく見ていた時とは違って、このイギリスで異様に盛り上がったけれど、あまりにも惨めな敗戦で、イギリスという国から日本はあっさり消えてしまった。

イングランドの試合をイングランドの地で見る
しかし、イギリスを旅行していての楽しみはイングランド。日本はあっけなく消えてしまったが、イングランドはまだ残っている。(注:予選にはイングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの4カ国が参加、その中で唯一本選の出場権を獲得したのがイングランド)。そのイングランドの試合をイングランドの地で見る。テレビで見る。そのテレビも、どうせなら一人ではなく、パブなんかで見たいと思った。果たして、それがどんなものなのか。興味があった。
しかし、最初の機会(予選リーグ:イングランドとスウェーデンの試合当日)、夕方からどしゃぶりの雨となり、おまけに夕飯でワインを飲みすぎたせいもあって、スーパービジョンがあるというその場所にはでかけられなかった。そんな失敗があったので、次の決勝トーナメント一回戦・エクアドルとの試合は、宿の近くのパブに目をつけ、事前に何度か様子をうかがい、当日はビクビクしながら堂々と入って、ビールを頼む。こういう場所には以前から縁がなかったから、隅で小さくなって、ビールをチビチビ飲みながら、眺めていた。試合はイングランド1−0の勝利。

ある町のパブで(イングランドVSエクアドル)

窓ガラスのイングランド選手たち
これで味をしめ、次の町へ移動したときも、やはり近くのパブで、イングランドとポルトガルの試合を観戦。今度はだいぶ雰囲気にもなれてきた。なにより、パブの中の熱気がすごく、その熱気にまぎれて、それでもやはり異国人の気分で眺めたその試合。延長を終えても0−0のまま、PK戦に入り、3本外したイングランドの負けが決まった瞬間、町中がひっそりしてしまう感覚をその時私は肌で味わった。そして、あの時私まで本当に悲しくなった。それは、こういう雰囲気をもう味わえなくなることへの寂しさでもあったのだろうか。それにしても、町のあちこちにたくさんのイングランドの旗が掲げられていた光景と日本とはあまりに違いすぎた。なにか、日本はまだ何十年も早いような気がした。日本がサッカーのワールドカップに、こんなに夢中になったのはここ十年かそこら。かたや100年近い、時間の重みがこの国にはある。
もし、何かの縁で、日本とイングランドが対戦することがあったら、その時はどんな形で試合をみたらいいのだろうか・・・なんて夢もあったのだが、これはまったくの夢でしかなかった。

タイのサッカー少年
ところで、2010年のサッカー・ワールドカップ(南アフリカ大会)の出場をめざす日本は、アジア三次予選でタイ、オマーン、バーレーンと最終予選への出場権をかけて戦うことが決まった。その初戦の相手がタイ。これからは2000年タイへ行った時の話。
妻がバンコクに着いて早々、街の排気ガスで喉をやられ、体調を崩し、病院へ行くはめになり、その後はホテルの部屋で安静状態となった。そこで、息子と二人、バンコクの駅から汽車に乗って、1時間半くらい経ったところで降り、そこからまた戻ってくるという旅をした。これは、ただ汽車に乗っているだけの旅だったが、ちょっとはミステリーな気分も味わえる。言ってみれば、せいぜいそれくらいの冒険しかできなかったというわけだが、文字も言葉も理解不能な国の駅で、じっくり時刻表をみて、1時間半くらい先の駅の名前を口にし、切符を買い、乗る汽車を探し、その汽車に乗って、切符に書かれた駅で降りて、戻ってくるだけでも、結構ドキドキもので、途中の景色や、車内(もちろん普通座席)の様子までがワクワクするものだった。
タイの子どもたち
降りた駅の名前は忘れてしまったが、帰りの汽車は定刻より大幅に遅れているらしく、どうもそんなことをいっている(らしい)駅員ののんびりした説明(?)を聞いた後、駅の近くをうろうろしていたら、サッカーをしている少年たちがいた。なぜか、その時、私はすんなりその少年たちの中に入ることができた。その頃の私はまだ若かった(?)ので、彼らの中では結構身軽に動けた(のだと思う)。中には裸足の子もいたが、そんな子へフェイントのような形で、ひょいとパスをするのが受けて、しばらく楽しく遊んだ。言葉はまるでわからなかったが、彼らの表情、とくに笑顔がよかった。
そしていま、その時の写真をみて、もしかしたら、この時の子どもたちがタイの代表選手かもしれないと思ったりする。いや、それは私のまったくの空想にすぎないのだが、そんなことを考えたりすると、実力からみて、日本の優位は変わらないだろうが、仮に激戦の結果、タイの勝利となっても、その時はこの子どもたちの笑顔につながっていく気がして、私はそれでもいいような気がしてくる。変かもしれないが、旅行をすると、そんな思い込みもできるようになる。

これは、たとえば、ドイツで見た少年たちにもいえる。ドイツで驚いたことは、サッカーをするところといえば、子どもたちであっても、ほとんどが芝生。これはイギリスも変わらない。そんな点でも、日本のサッカーは格段に遅れていると思うのだが、それはともかく、あの時眺めていた子どもたち、あるいはその隣りの芝生でサッカーを楽しんでいた老人たちのことを思えば、私はドイツという国もアリという気分になってしまう。そして、今迄旅をした国の分だけ、なにがなんでも日本でなければ・・・という気持ちが少なくなってくる。

イラン映画『オフサイド・ガールズ』
そういえば、最近みたイラン映画『オフサイド・ガールズ』も印象的だった。この国(イラン)の女性は、家の外で頭髪や肌を出してはならない、西洋の音楽や映画をみてはならない、スタジアムで男性のスポーツを観戦してはならないと法律に定められている。しかし、この映画では、それぞれの思いで「スタジアムのサッカー」を見たいと思った少女たちが男装してスタジアムヘ潜り込もうとする。うまく入れた女性もいただろうが、この映画の少女たちは、残念ながらみつかってしまう。そして、スタンドがすぐそこの、しかしなにも見えない場所に隔離されてしまう。
実は、この映画にはスタジアムでのサッカーの場面はほとんど出てこない。ただ、すぐそこから聞こえてくるものすごい歓声で、サッカーというものが、彼女たちにとっても、あるいはこの国の人たちにとっても、すごいものであって、理不尽にも(日本のように)自由に見ることができないサッカーへの思いが、すぐそばにいながら直接みることができないことで、いっそう掻き立てられていく。
この映画は、イランが2006年ドイツ・ワールドカップへの出場を決めたバーレーン戦の試合のスタジアムを使って撮影が行なわれ、おそらく、いまの日本には考えられないような熱狂ぶりが最後のシーンとなって爆発する。そして、一人の少女の思いが7本の小さな花火になったフィナーレに、私は涙が出た。この映画を見た前日(12月10日)、クラブチームのワールドカップで浦和レッズがイランのセパハンを3−1で破った。最近見たことがないような緊迫した試合のことも重なって、私には余計印象的な映画だった。

小さな小学校の校庭

イングランドがエクアドルに勝った瞬間
これは、私のまったく感傷的な部分なのだが、こうした映画を含めた旅を通して、接することができた国との試合の場合、日本代表を応援する気持ちの一方で、日本とは反対の立場で試合を眺めていることがある。そして試合の結果、勝負の行方が、それぞれの国のそれぞれの思いにつながっているのだということは、2006年ワールドカップのイングランドの試合のたびに感じたこと。イングランドのナマの歓声と落胆、これはイギリス旅行ならではのものだった。

折り紙のこと
今回の最後は、これまでのイギリス旅日記にも、よく出てくる「折り紙」について。その折り紙を始めて、6年になる。きっかけは、妻が募集案内をみて、出かけていった「折り紙講習会」。参加が許される条件は、この教室で学んだものを必ず誰かに教えるボランティアをすること。毎月開催のその教室から戻ってきた彼女は、その日作ったものを私に教えてくれたので、条件は満たした。以前から折り紙に興味はあったが、なかなかそのきっかけがつかずにいた私は、妻から教わっているうち、あっというまに夢中になった。これはと思えば、そこそこ以上にのめり込むのが私。そのうち、月一回では物足りなくなり、図書館から本を借りてくるようになった。
探してみれば、実にいろいろな本がある。それとは知らなかったが、折り紙は中高年(?)の女性の間では、それなりにブームでもあった。ともかくも、それなりの時間とエネルギーを費やして、まあまあのところ(?)まで達し、一応は日本折紙協会の「折り紙講師」の資格も取得するに至った。もっとも、これは体面上、いつか役立つことがあるかもしれないと思って取ったもので、そんなに意味のあることではない。ともかくも、折り紙と一緒に過ごした時間とそのエネルギーの分だけ、いまの私に蓄積はできた。

私の関心はコミュニケーション
ただ、私の関心はその技を人に見せて、得意になることでもなく、折り紙を通して、人とコミュニケーションするところにある。つまり、日常生活のなにかの折り、たまたま出会った人と、この折り紙を通して、楽しいと思える時間を持てたらいいなあというのが、いま折り紙に期待しているところ。だから、なにかの待ち時間、それが郵便局であったり、駅であったり、銀行であったり、バス停であったり、あるいは電車の中であったり、その場所その時それなりの状況にあって、この折り紙でどう遊べるかが、いつも私の頭をめぐっている。おかげで、見ず知らずの人と、束の間でも心なごむ(?)時間を過ごせることがある。そんな時の折り紙が好きなのだと思う。
実は、そんな時のためにこそ、ひそかにいろいろ身につけたいものがある。そのために、まるで数学の問題を解くみたいな感覚で、本や折り紙専門雑誌などに掲載されている折り図(作品の折り方を記した工程図)から、その作品を作るまでの過程を何度も繰り返している。思えば、そのための資料も随分集めているし、この世界はこれからしばらく続くような気がする。

旅の持ち物、折り紙一式
当然のごとく、旅をする時には折り紙に関する一式を持って歩くようになり、荷物はその分増えてしまうのだが、おかげでいろいろ思いがけない場面にめぐりあうことになる。そうなると、ますます折り紙がおもしろくなり、新しいことを、まだまだ知らない世界も覚えたくなるし、いま身につけているものに、さらに磨きをかけてみたくなる。
ある町の中華料理店
たとえば旅の途中、たまたま出会った人がこんな私につきあってくれるなら、その時々でいろんな場面が生まれる。思い返してみると、折り紙は忙しい人には向かない。やはり、それなりの時間がないと、折り紙の世界は生まれない。そして、私の望む世界も生まれない。そんなことから、否応なしに、あるいは仕方なしに(というか)、ほかにすることがない電車の中での時間というのは、もしその人がお付き合いしてくれるなら、またとないチャンスなのだ。もちろん、誰でも興味を持ってもらえるとは限らないから、とりあえずそれなりのパフォーマンスをする。いや、一人で勝手に折り紙を楽しんでいると、興味のある人はそんな私に声をかけてくれることが多い。そして、そこから会話が始まる。あるいは、なんとなくその場の状況を察して、もしかしたらと思って、私が調子に乗って、パフォーマンスに出ることもある。

地震で止まった新幹線の中で
2005年夏、こんなことがあった。私は旅からの帰り、新幹線に乗っていた。そこで地震に会い、新幹線はストップ。運転再開のめどはまったく立たないというアナウンスが何度も繰り返された。気持ちでは、少しでも早く我が家へ戻りたかったのだが、ほかに方法はないのだと思ったし、幸いなことに冷房までは止まらなかったので、私は落ち着いてきた。考えてみれば、無理して先を急ぐ必要もなかった。まずは、家に電話ができ、無事を伝えられただけで充分に思えた。そこで、急に人が少なくなった座席で、折り紙を始めた。
それを、隣の青年がみていて、話が始まり、彼と一緒に折っていると、まわりのおばさんたちが集まってきて、やがては折り紙教室のようになった。途中、それぞれがそれぞれに自宅と連絡を取ったりもしていたのだが、そのうちお互いにお土産の饅頭を出したり、手持ちのお菓子を出したり、折り紙が少なくなったと、駅ビルの文房具店に買いに行ったりと、代わりの電車が動くようになるまで、結局は6時間ほど一緒に折り紙をしていたことになる。知らない間に、それだけの時間が経っていて、これは驚きだった。児童館で子どもたちと折り紙で遊ぶ時間を4年ほど続けている私は、おかげでそんな時の「場持ち」ができるようになったのかもしれない。

電車の中の折り紙、海外版
海外での最初の体験は、2002年ドイツへ一人旅をした時のこと。折り紙は日本の伝統文化だという気持ちは確かにあったが、果たしてそれがどんな受け止め方をされるのか、全く見当はつかず、それでいて、なんとなくの予感だけはあった。ただ、こういう時の定番として、日本でよく考えられる「鶴」ではおもしろくないと思っていた。おそらく、そこから先の展開が、この「鶴」には期待できそうになかったからだろうか。

あれはボンへ向かう汽車の中、私たちのボックス、私の前には小さなお嬢さんとその母親がすわっていた。内心シメタと思った。私はドイツ語ができない。知っているのは、グーテンモルゲン(おはよう)、ダンケシェーン(ありがとう)、アウフビーダージーエン(さようなら)くらい。そこで、なにも喋らず、おもむろに折り紙を出して、あるものを折り始めた。目の前の母娘は、不思議そうな顔で、向かいの変なおじさん(つまり私)の手元を見ている。そんな視線にちょっとにっこりして、私は折り続ける。
こういう場合、パフォーマンスという意味合いが強いから、たいていのものは空中で折る。その方が、相手にもわかるし、折りながら、私は相手の顔をみることも、(それができれば)話すこともできる。この時作ったのはハートの指輪。これは、結構な早さで作ることができる。できあがったそのハートの指輪をお嬢さんへ差し出す。目の前の二人が、びっくりしたようににっこりする。そこで、お嬢さんの指にその指輪はめてあげた。そして、またにっこり。次はベビーシューズ。それから、おしゃべり蛙。クルクル回るコマ。そうして、それらを入れるキャンディー・ボックスと続く。あっという間に一時間以上経っていて、ここで、バイバイとなった。

ある町の少女

カーライルからの車中で
以後、似たようなことがよく起こるようになった。いつも、同じパターンではおもしろくないから、相手によって、中身を変えてみたりもした。そのために、新しい作品も必要になってきた。旅ではいろんな場面がめぐってくる。それが、空港のカウンターであったり、ツーリスト・インフォメーションであったり、インターネット・カフェであったり、そしてTAKE AWAYの店だったりする。夕食を買いに行くところでは、この折り紙によって、そのうち安くしてくれる店があったりもする。もちろん、それが目的ではないのだが、相手がおもしろがれば、ついその気になって、私は調子に乗る。教えてほしいとなれば、私はますます調子に乗る。

宿の中での折り紙
これが長く滞在する宿になると、必ずやそれなりの展開になる。まず、折り紙の作品をプレゼントして、こっそり反応をうかがう。その場の雰囲気で、宿に着いてすぐ渡すこともある。その後の展開は、その宿の雰囲気によって、あるいはオーナーの反応次第で違ってきて、時に結構なところまでエスカレートすることがある。宿のご夫婦の反応といっても、実のところ、私の勝手な思い込みなのだろうが、一番のポイントは「折り紙の世界」をおもしろがってくれるかどうかにある。また、思いがけず、同宿の人とのつかのまの会話に役立ったりする。

私のためにワゴンを用意してくれました

窓際の折り紙がふえていく
さて、どんな場面、どんな時間、どんなタイミングで渡すのか、これも宿によって違う。一番多いのは朝の食事の時で、「グッドモーニン(グ)」といいながら、にっこり渡す。なにより、息子がこの役を楽しみにしている。この時の反応で、その後毎朝届けるかどうかが、決まってくる。場合によっては、それ以外の時でも、折に触れて、持っていくことにもなる。そのために、なにかを作るということは、さして苦痛でもない。そんなことも想定して、あらかじめ途中迄作っているものも持参している。それに、私はお調子者のところがあるから、折り紙の作品(?)を飾る場所を作ってもらったり、そうした場所がみつかったりすると、もう止まらなくなる。それで、つい図に乗りすぎたかなというところがないでもないが、なりゆきによっては、そのうち折り紙教室ということになったりする。

ワインを飲みながら
ある宿では、おばあさんを含めたご家族と一緒に、ワインを飲みながら、折り紙時間を過ごしたこともあるし、私のために用意したボックスでは足りなくなり、ワゴンを用意してくれた時は、事あるたびに、そのワゴンに折り紙を運ぶことになり、ご覧のようになってしまったこともある。雨の日、とりあえずすることがなくて、そんな時の折り紙タイムの話は前にも書いた。
まあ、今後も旅に折り紙を持っていくことは変わらないだろうし、そのため新しい出し物(?)をみつけることも、これからの楽しみになっている。これは、歩くだけではもたなくなってきた体力のことを考えた、私なりの旅の方向転換なのかもしれない。

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