んだんだ劇場2008年2月号 vol.110
No6
うずく

イギリスに一番遠い季節
 季節は冬。寒がりの私には、この季節が一番こたえる。雪国に生まれ、育ったはずなのに、年々寒さには怖気づいていくし、寒さへの抵抗力もどんどんなくなっているような気がする。いくら重ね着をしても、部屋を暖めても、以前のように体は温まらず、冷たい膜がしょっちゅう体の表面に張りついたようになっていて、どうしても寒さから逃れられず、ますます冬が苦手になっていく。かつては、こんな寒さなど物ともせず(?)、外へでかけていたことが、本当に嘘みたいに思えてくる。
 そんなわけで、この季節、ずっと習慣になっている朝の散歩も、日が昇って暖かくなってからでかけることが多い。そんな意味でも、冬は私にとってイギリスに一番遠い季節のように思えている。冬は冬で、季節のひとつとして、旅の趣もあるのだろうが、旅と言えば、どうしても歩くことを一緒に考えてしまうので、この季節のイギリスはなかなか身近に感じられない。それで、いまは「あの愛すべき、夏のイギリスの草原」を心に思い描きながら、ひたすら来るべきイギリスのフットパスの旅を夢みている。

グラシングトンのデールズ・ウェイ

グラシングトンのデールズ・ウェイ

「別人28号」
 ところで、毎回こうした旅の話を書いていると、知らず知らず、自分がとてもバイタリティあふれた人間であるかのような錯覚に陥ってしまう。これを読まれている方には、果たしてどう映っているのだろう。実をいえば、この私、連載の最初にも書いたように、慢性的な腰痛持ちのまま、今年還暦を迎えようとしている人間。2年半前、その腰痛が原因で会社を辞める決断をした、なんとも土台のぐらついている男なのである。そんな男が、旅になるとどうして、いつもの生活からは考えられないようなスーパーマン(?)になれるのか。不思議といえば、不思議。この不思議、できれば今年もまた、しっかり続いてほしいと思ってはいるが、振り返ってみれば、これまでの人生同様、旅の前後のあれこれを合わせて、すべてにちゃんとつじつまがあっているのである。そんな話を書く。

1983年夏・焼尻島(北海道)、キャンプ用一式をリヤカーで運ぶ

1982年夏・粟島(新潟県)でのキャンプ
 確かに、旅に出ると、自分でも驚くくらいの変身ができて、私は異常に活動的になる。なぜか、体のあちこちから、ふだんは絶対に出ないようなエネルギーが出て、どんどん動けてしまう。だから、旅の間のそんな自分を、私は「別人28号」と呼んでいる。

旅になれば、はじけるエネルギー
 多分、これは会社勤めをしていた時に身につけたものではないだろうか。振り返ってみると、あの頃の休暇の取り方の名残りだろうと思っている。もうすでに過去の話になってしまったあの頃、会社へ通いながら、私はどこかへでかけたくて、うずうずしていた。そんな思いが、ようやくめぐってきた休暇(旅)の中で、いつも一気にはじけていた。限られたその休暇の間に、これまでできなかった「モト」を一気に取ろうとしていた。そして、旅のすべてを我が物にしようとしていた。そのため、旅に出ると、それまでに温存していた(?)エネルギーを一気に発散していたように思う。実は、この旅のためにこそ働いていたと思える部分もあって、旅の人になると、私は一気にはじけるのだった。会社勤めの時、そんな繰り返しがなによりの励み(目の前のニンジン)だった話は前にも書いた。

ふぬけた「別人28号」
 しかし、当然ながら、これには必ずツケが回ってくる。会社勤めの頃、取得した休暇を最大限に使って旅をして、休みの終わった翌日、あるいはそのまま朝に出社することもあった。この時は、それが宿命なのだと、なんとか体面を保つことができた。いま思えば、よくできたと思う。これがあの頃の生きがいだったからだろうか。ところが、会社という存在が消えてなくなったいま、体の方はなんとも正直に反応し、「別人28号」は旅が終わると一気に消滅するようになった。そして以前の、いや以前をさらにふやかしたような、ふぬけた男にあっけなく逆戻りしてしまうのだ。そして、逆戻りしたその状態は、事情が許す限り、かなりの間続く。つまり、なんとも情けない状態で、しばらくゴロゴロすることになる。

モンサル・デールズ(ピーク・ディストリクト)

オックスフォードにて
 反動で完全にふぬけているから、もはや意志の力などは働きようがない。体が求めるまま、然るべき時まで、自然体のまま(?)ダラダラした状態が続く。そのうち時間が経てば、必ず復活するはず・・・と思いながら、ついつい続けてしまう。考えてみれば、いまはそれが案外自由にできる状態なので、安心してグウタラするのだろうし、そうなることが保証されているから、年々衰えていく体力とは別のところで、余計に動き回れているのかもしれない。
 時に、そのツケというものが、旅の途中、意外に早くめぐってくることがある。「あっ、やばい」と思う以前に軌道修正できるようになったのは、まあ年の甲かもしれないが、ひととき自重はしても、そのうちまた「せっかくの旅だから、めったにできない旅だから」と、動けそうになった自分を確かめて、私は動き始める。この辺の調整はうまくなったと思う。いまのところ旅行中、大事に至ったことはないが、先のことはわからない。

変身のための準備
 実をいえば、最近はでかける前に「別人28号」となるための準備をするようになった。いまのような(会社へでかけることがないという)状況になってからは、旅にでかける前しばらくの間、戻ってきた時と同様、だらしなくダラダラ体を休めるようになった。昨年などは、はっきり意識して、ゴロゴロするようになった。つまり、体力の消耗をできるだけ避けるように、休み貯めをするわけだ。果たして、これにどれほどの効果があるのかわからないが、旅の前には決して無理をしないよう、意識して心がけるようになった。
 つまり、なにをおいても「イギリスへの旅」を優先に考えるのだ。これは、最近の状況から考えた保身術かもしれない。もはや、そうでもしなければ、あの「別人28号」にはなりえないと思うからだろう。なにも、そこまで変身しなくてもいいのにと思われるだろうが、悲しいかな、これは我が身についてしまった「旅のさが」だろうと思う。
 ただ、年齢が年齢。だんだん以前のようにはいかなくなりつつある。実は、いろんなところで、そんな自分をひしひしと感じ始めてもいる。そして、いまその過渡期にさしかかってきているのだと、これを書きながら、我が身に言い聞かせている。これからは、年なりに旅を楽しむことが大切なのだろうと、そんなことを肝に銘じるため、以下我が身、そして旅の仲間に起こったイギリスでの事件をふたつばかり。

歯のうずき
 突然、何の前触れもなく、右奥上にあるその歯がズキズキ痛み始めた。歯の痛みというもの、一度起こってしまうと、たいていの場合がそうであるように、ある時ピタリと痛みが消える・・・などということはまったくなくて、それまで旅を満喫、有頂天になっていた私をあざ笑うかのように、しつこく痛み続ける。中でもつらいのは、これが旅行の楽しみのひとつ、腹が減ったら、なんでもおいしいという類の毎度の食事が、私に限って、まったく悲惨な状態になってしまったこと。腹はへっているし、もちろん気持ちは食べたいのだが、物をかむだけで、歯がズキンとくる。これで、それまで楽しかった旅の至福の時間が一転、ただただ苦痛をかみしめるだけの時間になる。たとえ、ほかにいくら楽しいことがあっても、これがすべてをひっくり返してしまう、自分ではどうにもならないズキズキうずく歯の痛み。

目の前の食事

デザートいろいろ
 あれはイギリス一年目、ちょうど二週間ほど過ぎた頃。振り返って思えば、この時歯の痛みに関した備えがまるでなかった。その歯の痛みが突然に起こった。もしやという奇蹟など起こりようもなく、痛みは日に日に強くなっていく。やがて、まともにモノが噛めなくなってしまった。寝ていても、ズキズキするから、惨めな気持ちばかりが先にくる。いよいよ我慢の度合いを超えたので、宿の電話を借りて、海外傷害保険の問い合わせ場所に電話。ところが、これがなかなかつながらない。やっとつながったと思ったら、時間外だったのか、まったく要領を得ない。
 そこで、わらをもつかむ思いで宿の主人に助けを求めた。親切な彼は、町の心当たりに電話してくれ、これからそこへ連れていってあげるがどうかという。こうなれば、行くしかないのだが、費用はどれくらいなのか気になった。旅行傷害保険でなんとかうまくやりたいと思うのだが、それをどう説明できるものか。その辺の仕組みについては、英語モードで私の頭は完全にこんがらかっていた。いや、そんなことより、歯が痛い。ズキズキ痛い。

ありがたき、神の恵み
 主人の車に乗って、彼が探してくれた町の歯医者へ行く。車好きの息子は、まさかイギリスでこんな形で車に乗れるとは思ってもいなかったから、私の痛みとはまったく関係なく、おおいに喜んだ。イギリスのある町の歯医者。外からみれば、普通の家と全く変わりないドアを入っていく。奥に受付らしい窓口があり、リビングみたいなその部屋が待合室ということらしい。宿の主人が事情を説明してくれ、順番が来ると、受付の若い女性に二階を指示された。その時は、私たちが泊まっている宿の二階へ上がっていくような、なんとも妙な感じだった。
 ところが、二階の部屋に入って、それらしい情景をみて、やっとここが歯医者なのだと納得できた。さて、招かれた診察台に横になり、そんな状態で話すものだから、私の英語は余計にたどたどしくなってしまったのだが、とにかく思いの限りの言葉を並べ、身振り手振りで状況を説明、後はただただ神に祈るような気持ちになった。
 私の口の中、さわっても痛いその部分をチョイチョイという感じで眺めていた同年代の歯医者さん、私の痛みはやはり見ての通り(?)だったと、これは私の英語力を察知したせいか、ゆっくりとした口調で説明してくれた。その聞き取れるだけの単語、そして彼の身振り手振りから想像するに、ここでは抜いたり、削ったりの治療はせず、それは日本へ戻ってからがいい。薬を出すから、これを飲みなさいということだろうか。結局はそれだけ。治療費はこの薬代だけの25ポンド。一瞬、高いなあとも思ったが、このくらいで収まったことにほっとした気持ちもあった。薬がなんであるのか不安でもあったので、薬の名前をしっかり書いてもらった。日本に戻って、歯医者に聞いてみたら、それは抗生物質だった。

ケズイック郊外にて

バクストン郊外にて
 実は、この薬(抗生物質)であっけなく痛みは引いてしまった。普段、薬などほとんど飲んだことがないから、異常に利いたのだろうか。おそるおそる様子をうかがう感じで飲んだら、ほんとに嘘みたいに痛みが引いてしまった。これはおそらく、この薬が効いている間だけのこと。そこで、落ち着いてからは、残りの数と滞在日数を計算しながら、適当に間隔をあけて、これをまるで神の恵みのように大事に飲んだ。(後日談:後で確認したら、歯は旅行保険の対象外とか)

今度は息子
 実は、同じ日に息子も病院へ行くハメになった。自分のことが一段落ついたら、私にも息子の様子を眺めるゆとりができた。そういえば、前の日あたりから、彼は「目がかゆい、かゆい」といっていた。よくみれば、今日になって、目ん玉の黒い部分あたりがどろんとして、その輪郭がぼやけた感じになっている。我が家では、これまで花粉症には縁がなかったのだが、もしかしてこれが花粉症というものなのだろうか。草原の中を歩いていて、こんなことになったのかもしれないとも、あるいは汚れた手で目をこすったからではないだろうかとも、勝手に推測するのだが、まずは大事に至らない前にと(いやすでに大事になっているのかもしれない)、またまた宿の主人に状況を話し、こちらも電話で連絡を取ってもらい、息子を救急患者ということで、町の救急病院(?)へ連れて行ってもらうことにした。
 その病院、ひっそりとした大学の構内のような感じで、建物の中には人がいる気配もなく、最初は不気味な感じもしたが、廊下をめぐって、たどり着いた待合室にかろうじて順番を待つ親子連れが数組いて、初めてほっとした。こちらは、いつも買物をするショッピングセンターの近くだったこともあり、主人には戻ってもらい、後はなかなか呼ばれない順番を待つ。ほとほと待ちくたびれた頃に順番がめぐってきて、黒人の医師が息子を診察。そんな状況に、息子はかなり緊張した様子だったが、結果としては、こちらも薬をもらうことになった。

もしかしたら、花粉症(?)
 果たして、これで大丈夫なのかどうか、よくはわからない。ただこうなれば、信じるしかない。そんな不安な気持ちのまま、待合室に戻り、今度は最後の診察料がどんなことになるのか、こちらもハラハラしながら、薬がでるまで、またまた長い待ち時間となった。もうひとつの不安は、もしこれがイギリスの草原の草に反応した花粉症だとしたら、これからフットパスを歩くのはどうなのかと考えなくてはならず、そんなことにあれやこれや頭をめぐらしているうちに時間は過ぎた。その間、この広い病院の庭に出て、あちこちを眺めたりもした。あらかじめ一日のスケジュールが決まっているわけでもない私たちの旅の中で、これも思いがけない旅時間だったような気がする。そして最後、治療代が無料だったことにびっくりする。救急患者の場合、外国人のせいなのかどうか、お金はかからないのだといわれ、とても不思議な気もしたし、申し訳ないような、もうけたような気分でもあった。そして息子、数日後には元の彼に戻ってくれ、いつのまにか、私たちは花粉症のことを忘れ、またフットパスを歩いていた。

イブレイのデールズ・ウェイ

グラシングトンのデールズ・ウェイ
 余談になるが、この日私はどちらの待合室でも折り紙をしていた。歯医者の受付の女性には、順番を待つ間に作ったあれこれをプレゼントし、救急病院の待合室では、そばにいた子どもたちに折り紙のパフォーマンスをした。そういう状況になっても、なぜか私は折り紙セットを持っていくことだけは忘れない。

あっけなく、歯を一本失う
 ところで、日本に戻って、さっそく歯医者にでかけ、診察してもらった結果、私はあっさりとその奥歯を抜くことになった。この時になって、すでにその歯はぐらぐらし始めていた。大事な奥歯を失ったことは、これまでにないショックだった。当たり前のことだが、これは我が身から一本の歯が消えたということ。以来歯に対しては、徹底して注意を払うようになる。もちろんのこと、全部の歯を点検してもらい、治療が必要な歯はそれからしばらくの期間をかけて治療し、翌年(二年目)イギリスへでかける時には、もう一度事前の点検をして、念のため抗生物質まで処方してもらい、万一の場合に備えることにした。
 歯については、さらにその後定期的に二ヶ月に一回の割合で、歯医者でクリーニングするようになり、自分でも意識して、歯の手入れを行なうようになった。やはり、一度失った歯はもう取り戻すことができないと知ったことが大きい。それに、点検の結果、あちこちの歯は歯槽膿漏の可能性が大きいことも判明。これからの手入れ次第では、先の歯同様抜いてしまわなければならないとの厳しい診察結果を聞かされ、ドキリとした。自分の歯を失ってしまうことへの恐怖は、この年になると、今迄以上に大きい。それは、この年代で一番「老いていく」ということを実感できる出来事のように思える。だから、残された自分の歯は、自分で守るしかない。
 ところが、ところが、余談にならない余談。そんな思いで過ごしてきた折りも折り、どういうめぐり合わせなのか、この文章を綴っている時に、今度は左下の奥歯が痛み出し、急いで診てもらったら、かなりの重症らしい。なんとか治療できれば、いいのだが。

還暦を迎えて
 昭和23年(ねずみ年)生まれの私は、大勢の団塊の世代の仲間たちと一緒に今年が還暦。そのことを口にするのがどこかこそばゆいのは、以前から外見はとてもそんなふうには見えないといわれ続けてきたせいだろうか。確かに、気持ちの上ではそんなに年を取ったつもりはない。しかし体力的には、はっきりと以前のようではなくなってきている。

折り紙(二匹のねずみ)

児童館の子どもたちと作った折り紙のねずみ
 今年の成人式のニュースを見ながら、思った。かつての私もそうだったが、相変わらずきらきらした、その分だけ、やっぱり薄っぺらな感じがする光景を眺めながら、私には今年が3度目の成人式なのだと気がついた。そういえば、40歳の時も似たようなことを考えた。ただ、あの時は毎日があわただしくて、忙しく走りながら、ちょっとだけ足を止めてみた感じだったと思う。それが、いまはゆっくりと歩きながら、空に向かって、「ああ、3度目か」とつぶやいている。40歳の頃には随分遠い先に思えたその20年先に、いつのまにか到達。ここからさらに20年先となれば、それはもっと遠いような、近いような。いや、そういう自分があるのかどうか。かろうじて思い描けるとしたら、83歳で生涯を終えた父の姿を通しての私だろうか。
 まもなく、私は60歳。これまでの時間を振り返ってみれば、会社勤めということが、いろんなところで私におおいかぶさっていたと、いまさらながらに思う。その私、いつも(?)どこかで、目の前のレールから外れてみたいと思いながら、結局はうまいこと、会社勤めを続けられて、その時間は随分長かったような気はするけれども、内心待ち望んでいた「いま」にたどりついて、まもなく60歳。そんな私の中で、もう戻りたいとは思わない、いや戻れない、あの頃の自分が時々チラチラ顔を出す。少しずつ、遠くへかすみかけていくはずのものなのに、思いがけず舞い戻ってくることがある。そんな時は決まって、あの頃の自分と今の自分を同時に眺めている私がいる。そして、思う。あの頃にくらべて、いろんなことを随分ゆっくりやっているなあと。言葉を変えて言えば、とろくなってきている・・・ということなのだが。

だからこそ
 つい2年半前までは、限られた時間で、目の前にある問題や課題、処理すべき事柄をできるだけ早く、さすがと思われる形でこなすことにエネルギーを使い、そのことを競っていたように思う。そんな足かせが、いまなくなった。とたん、物事をそんなにキリキリとは考えなくなり、おかげで時間がゆるやかに流れるようになり、かなりのことを先延ばしに考えるようになり、いろんなことが間延びするようになった。結果、一日にできることが、いつのまにか、かなり限られるようにもなってきた。そのくせ、ちょっと無理をすると、すぐに体が疲れて、休みたくなる。まれに外へ出て、過ごす日を除けば、一日のリズムとして、昼寝もよくする。そうでもしないと、体がもたなくなってきた。

ケズイック郊外にて

ケズイック郊外にて
 そして、まだまだゆっくりとではあるが、ひとつひとつ、いろんなことができなくなってきている感じがする。自分のできることが、少しずつ限られてきているような気がする。そんな自分を眺めて、思う。いつかもっともっと、いろんなことができなくなる時がくるだろうと。だからこそ、心からしたくないことは、できるだけしないで済まそうと。さらに、いましたいこと、どうしてもしたいことを最優先に考えようと。その一番がいまは家族でイギリスへ行って、フットパスを歩くこと。

私の殺し文句
 そんなわけで、今年(2008年)の夏もイギリスへ行こうと思う。そうそう、旅の計画の前に、妻とは確認しておかなければならないことがあった。それは、一ヶ月という旅行期間のこと。一ヶ月は長い・・・これは、最初の年から妻にいわれてきたこと。そして、今年も彼女からしつこく念を押されたのだが、「そこをなんとか」と私はまたも哀願する。そしてまた、あの殺し文句を使う。「今年が最後になるかもしれないのだ」と。これを聞いて、妻が喜んで納得したわけではないが、私が(以下のように)宿探しに奮闘している間、今年もまた「なんとなく一ヶ月」ということになって、私はシメタと思っている。ところで、なぜに一ヶ月なのか。それは、でかけたら、すぐには帰りたくなくなる、私の欲張り心なのだろう。

宿の予約
 旅の準備では、何をおいても宿の予約。そのために、まず滞在する町を決めること。すべてはこれに尽きる。ほかに航空チケット、これはまだ早い。それ以外はそんなにたいしたことでもない。これから半年の間、思いついた時にやればいいし、出発の時元気でありさえすれば、後は向こうに行ってから、どうにでもなることばかり(?)。
 三回目の昨年(2007年)、宿のことを考え始めたのは、事情もあって、4月も半ばに入ってから。今回(2008年)は前の年の12月後半になって、始めた。きっと、どうしても行きたいという思いが昨年より強いからだろうと思う。どうしても行きたいと思う気持ちは、そのうちきっと行けなくなるだろうと思う気持ちの裏返し。金銭的なことはもちろん、私を含めた三人の歩く体力のこと、そしてなにより「イギリスの草原を歩きたい」と思う気持ちが、このままずっと三人に共通して続くのかどうか、これは誰にもわからない。だから、三人がどうしても行きたい時が「華」であって、そのことがすべてに優先する。

今年は3つの町
 最初の年(2005年)は到着する町(Oxford)だけの予約をし、その後は現地で行き先を決め、宿探しをしたこともあって、結局7つの町を移動することになった。この現地での宿探しは結構なエネルギーを使った。それに「イギリスのフットパスを歩く」楽しみを知ったこともあって、その旅を快適にするためにも、宿は日本にいる間に決めることにした。二年目(2006年)は主にガイドブックをみて、三年目(2007年)からはインターネットを使い、帰国便のため、余裕を持って一泊することにした最後のマンチェスターを除けば、それぞれ一ヶ月で四つの町を宿泊地と考えた。ただ、これでも移動が面倒だったので、今年は試しに三ヶ所にしてみようと思う。
 まず考えたのは、イギリスに着いてしばらく、時差を取り戻していくために必要な体調回復期間のこと。この意味で、最初の宿は絶対に心地よく過ごせるところがいい。そこで、昨年(2007年)の旅で快適だった、あの町のあの宿が浮かんできた。妻も同意見。

私たちには別荘のような宿

マーラム(ヨークシャー・デールズ国立公園)
 さて3ヶ所なら、どんな移動経路が気持ちとしてスムースなのか。最初は、まだどこでも可能なわけだから、あちこちと目移りして、なかなかこれといった決定的なものが出てこない。ところが、何度もイギリスの地図を眺めていると、実に不思議、勝手に旅のイメージができあがってくる。町を選ぶ条件は、周辺へのバス(列車)の便、あるいはあちこちへ移動しやすい町であること。そんなことを頭に置きながら、それなりに遠くない距離を移動する形で、最初は例の宿がある小さな町、次がちょっとは大きな町、そして最後はそんなに大きくない町という感じにまとまった。なんとなく、そんな感じになってきた。

旅行の日程
 次に旅行の時期。まず、その周辺のバスの便が多い期間を含むことにする。次に、日本・イギリスそれぞれの出発日は週末を避け、イギリス国内の移動も、交通手段が少なくなる週末を避ける。これは、宿のことを考え、週末は必ず連泊するということでもある。こうして、出発日が決まり、それぞれの宿に12泊、7泊、11泊、そして最後マンチェスターで1泊、計31泊という日程が決まった。この日程の配分は、あくまで感覚的なもの。それぞれの過ごし方は、現地に着いて、その時々の状況に応じて、考えればいいこと。
 最初の宿はすでにお馴染みになっているから、すぐにOK。そのメールのやり取りは、ちょうどクリスマスカードが送られてくるタイミングと重なった。ついで、こちらもお馴染みのマンチェスターの宿は、すでにお客様リストに載っているらしく、すぐにOKの返事がきた。それから、いよいよ初めての町(2番目、3番目の町)の宿を探し始める。念のため、ガイドブックを見たのだが、これだけでは不十分に思えたので、昨年同様インターネットでの検索となる。まずは、その町でホームページが作られている宿を呼び出してきて、これを一軒ずつ眺めていく。今回、これは私の役目となった。一応、いまの私には時間がある。

泊まりたい宿の条件
 これは前にも書いたが、私たちが泊まりたい宿には条件がある。まず、私たち3人が一緒に過ごせる、それなりに広いファミリールームがあること。当然ながら、部屋の中にシャワー・トイレなどがあること。これらが共同使用で安い宿は、現在の私たちの一ヶ月の旅にはちょっときつい。歩くということが基本の旅であるから、長期的に体を心地よい状態に保っておきたい。このためにも、歩きから戻って、いつでもシャワーが使え、疲れた時にはいつでも休めるような部屋が絶対に必要。
 次に宿のある場所。まず、駅かバス・ステーションにできるだけ近いこと。これは、数少ない交通機関をできるだけ有効に使うための条件。こういう場所は、これまでの経験上、スーパーマーケットも近くにあることが多い。料金は3人で一泊75ポンドが一応の目安。今年は、これにインターネットが使えるかどうかも条件に加えた。私の楽しみである画像処理(これには直接インターネットは関係ないが)、外国にいる娘との交信などのため、これまでは町のインターネットショップを探し、そこへでかけていたのだが、これもだんだん体への負担が大きくなってきたので、今年はこの点でも楽をしたいと思う。
 以上のような条件で、インターネットで眺めた宿の中から候補を選んでみる。これらの条件に合うかどうかわからない宿は、とりあえず候補に入れておいて、次にそれぞれの宿にこちらの状況、条件をまとめたメールを送る。その返事が来る。折り返し、不明な点を尋ねるメールを送る。その返事が来る。そんなことを、私はかれこれ半月もやっていたことになる。(もちろん、一日中というわけではない) 以下、今年の事前イギリス旅行のお話。

ラトリッグ山(ケズイック)

キャット・ベル
メールの返信
 メールの返信がない宿も結構ある。そんなところへは、なにかの間違いがあったのかもしれないと、3〜4日おいて、もう一度送信してみる。ここで、今年も面白いことに気づく。最終的に決めたところは、やっぱりすぐに反応があった宿。すぐに返事をもらっても、最終的に条件が合わないところもあるにはあったが、総じてメールの反応がいいところは「とりあえずマル」という感覚が私にはある。もちろん、例外は必ずある。とにかく、送った半分くらいのメールが返信となって、飛んでくる。遠く離れたイギリスの方向から気軽に(?)飛んでくる。
 日本とイギリスとの時差は、この季節(12月)で8時間。だから、夜の9時(イギリス午後1時)の(私の)就寝時間までにメールを送っておけば、翌朝にはその返事が届いていたりする。まれに、日本の早朝に出したメールの返信がすぐにきたりすることもあるが、まあ一晩の間に行って戻ってくるというのが標準で、なにかのタイミングで翌々朝になることがあったとして、まあその辺までが、インターネット上での私なりのイギリスの宿との距離感かなと思う。

宿の反応はさまざま
 返信の内容もさまざま。まず、一度ならず、二度のBOOKING ENQUIRYのメールに音沙汰のない宿がある。予想されるのは、3人用の部屋(ファミリールーム)がない場合。丁寧に、希望の部屋がないと返事をくれる宿がある一方で、お客にならないとなれば、その時点で返信無用となるのかもしれない。もうひとつ、持ち込みのパソコンによるインターネットへの接続ができない場合も同様だろうか。まさか、私の英語が通じていないわけでもあるまいが、問合せをした半分くらいから返信がなかったのは意外といえば意外。
 そんなメールを結構な数みるようになって感じたこと。好感が持てる内容なのは、たいてい翌朝か、翌々朝の返信がある宿。さらには、毎度英文の返信メールを眺めていると、微妙な英語の言い回し、さすがと思える簡潔な表現に出会ったりして、それだけで嬉しくなってくる。これこそ、生きた実用英語というものなのだろう。もらったメールの内容に不明な点があったり、もう少し聞きたいところがあれば、その都度、ONE MORE QUESTIONとして、さらに内容を確認する。正確な位置はどの辺か。近くのスーパーマーケット、あるいは駅やバス・ステーションまで、歩いてどれくらいか。部屋は静かな通りに面しているか。私たちが泊まれる部屋の写真があったら、それはどれなのか・・・とか。

アンブルサイドの町で

ヒルトップ(湖水地方)への道
町の地図を作る
 2つの町の宿を決めるにあたって、私はひとつの作業をした。身近なガイドブックには、その町の通りの名前を詳細に記載した広範囲の地図は載っていない。そこで、インターネットから、その町の通りの名前まで読み取れる地図を部分的に印刷し、これを縦横に貼り合わせた町の地図を作ってみることにした。1つは6枚、もうひとつは14枚を貼り合わせて、その地図はできた。これは結構面倒な作業だったが、作りながら、私たちが知りたい駅やバスセンターを含んだ、その町の様子が少しずつ目に見えてきて、意外に面白かった。その地図へ、ホームページや返信メールから割り出したその宿の位置を書き込んでいくと、自ずとその町との距離感もつかめてくる。
 私たちの場合、フットパスを歩いた後、たいていはバスや列車で宿のある町へ戻ってくる。(まれに、どちらも使わない日はあるのだが) そうして戻ってきた町のバスセンターや駅から宿までの間を毎日のように歩いて往復する。これが日課になることが多いので、町におけるそうした距離感というものが大切になる。おまけに、その途中の道の様子にも希望やら好みが出てくる。やがて通い慣れていく道、それはどうせなら、歩いて心地いい、それなりの道であった方がいい。まあ、何度か歩いていると、そのうち回り道や近道がみつかることも多いのだが、いつも通る道なら、車がひっきりなしに走る大きな国道じゃない方がいい。
 もちろん、実際にその町へ行ったら、予想とはまったく違った感覚を味わうことはたびたびある。それはそれでいい。いまはホームページに出ている写真や通りの状況から、その宿の周辺のイメージを描いてみたりするだけのこと。これはまったくの想像の世界。実際に訪ねて、すぐに壊れてしまうことを承知で、私は宿探しの間、仮想の町の散策を楽しんだ。

最後の決め手は料金
 ところで、イギリスの町はほとんど例外なく(?)、通りには、袋小路の小さな私道に近い通りにまで名前がついている。おかげで、私が作った町の地図と宿のホームページの「FIND US」という部分の表示と合わせて眺めていると、たいていの位置は把握できる。こうして、地図に宿の位置を書き入れ、主だった場所との位置関係を眺めていると、自ずと宿は決まってくる。場所の条件で、最後まで残った候補の中から宿を選ぶ次の決め手は料金。メールでの問合せには、長期の滞在(?)で割引はあるのかと書いてみたが、これに対する反応もさまざま。
 夏の時期(High Season)は間違いなく部屋がふさがるので、割引など問題外(!)という表現もあれば、あらかじめ、6日宿泊なら5日分でOKという宿もある。いずれにしても、こういうことは聞いてみなければ、わからない。そんな割引がないのであれば、それはそれ。実は、「割引なし」といわれた宿の中にちょっと惹かれたところもあったが、一人当たり一泊34ポンド(週末は39ポンド)。やはり、これは高い。最後は駅やバスセンター迄の近さを取り、4人用の部屋120ポンドを90ポンドにまけてくれた宿に決定。これは、三人で一泊75ポンドという目安を大きくこえてはいるが、この町は7日間だし、部屋の広さが最後の決め手になった。

今年の宿泊代
今年、まだでかけているわけではないが、結果として、12日間(700ポンド)、7日間(90x7ポンド)、11日間(600ポンド)、最終日マンチェスター50ポンド、31日間の合計が1980ポンド。一日平均が3人で64ポンドというのは、予約の段階では上出来。一ヶ所だけ50ポンドのデポジットはあったが、昨年(2007年)が2260ポンド、一昨年(2006年)が2140ポンドだったことを考えると、まあまあだと思う。果たして、実際に泊まってみて、どんなことになるのか。たとえ、思いがけないことがあったとしても、それはそれ。そんな時は、これまでいろんな(?)宿を泊まりこなしてきたことを考えればいい。

トラウベックにて

ダーウェント湖(湖水地方)の近く
買物は歩いて
 話は日本のことに戻る。毎日ではないが、普通の日の生活のリズムとして、妻と一緒に、近くの生協へ散歩を兼ねながらの買物へ出かけることが多い。背中には、折りたたむと小さくなる、旅行の時にも持ち歩く、かさばらないリュックを背負っている。日によって、歩いて15分のその生協へ、往復だけで終わることもあるが、たいていは回り道をした散歩を兼ねる。どちらが目的かというと、どちらもそうだから、結局こんな形になるのだろう。そんなわけで、一回に買う量もそんなには多くはないし、まとめ買いをする必要もない。歩きながら思う。これは、私たちの日々のリズムなのだと。
 前にも書いたが、私の現在の職業は「家事見習い」ということになっている。いまだ、その見習いの域を抜け出ることはできず、そんなに早く、この見習いという称号を外したいとも思っていない。ただ、いつまでもこのままでいいのだと思う一方で、少しずつではあるが見習いらしくなってきたのかなとも感じている。つまり、一応家事のことはかじりかけている。
 料理にこだわるとか、家事の一芸に秀でたいというものではなく、これまで妻が見せてくれていた(に違いない)家事全般のとても当たり前なことに、少しずつ興味がわいてきた。それでいて、夢中というわけでもない。ゆっくり、ゆっくり、いつか身についてくれたらいいと思うくらいだから、心のどこかには、ずるけたところがたくさんある。ただ「家事は大切」という意識は少しずつかみしめている。同時に、こちらは体の衰えを少しでも遅らせたいと思って、ほぼ毎日歩く。これは、決してイヤなことではない。一度ならず、二度三度、時間があれば歩く。それで、買物と散歩が日課になった。

老いに向けて(?)、二人で歩く
 日中は二人で過ごしていることが多いから、二人で歩くことも日課になった。なにしろ妻とは、息子も含めた旅仲間。もうひとつ、私たちには、お互いにお互いの老いていくところを、なんとか食い止めたいという思いがある。この年代で「老い」という言葉はどうかとも思うが、そんな影が確実に忍び寄ってきていることだけは感じている。だから、また話は飛躍するのだが、この元気を続けていって、できる時にこそ、またどこかへでかけたいと思う。その具体的な形のひとつが「イギリスのフットパスを歩く」ということになる。

バクストンの公園で

セトル郊外
 めまぐるしく、また買物の話。私たちが行く生協は、最近市内のあちこち、大型店の雰囲気に模様替えしているほかの店舗にくらべると、随分遅れをとったような、昔からのこじんまりとした店だ。もしかしたらこのままでは店の存在も危ういのではないかとも思えるが、ありがたいことに続いているから、私たちも通うことができる。もしこの店がなくなったら、周辺の人たちはどうするのだろう。そんな思いもあって、ひそかに応援する気持ちで通っている。大型店にくらべれば、品数も少ないし、いつもお決まりの品・・・という感じもするが、日々の食料品なら、このくらいで充分ではないかとも思う。たまに気分を変えたい時は、最近はやりのほかの店へ行けばいい。なにより、この店は私たちにとって、歩いていける手頃な距離。いや、果たしていつまで、ここへ歩いて買物ができるだろうか。そんなことをぼんやりと考えたりもする。もちろん、店の存続同様、先のことはわからない。

一人で歩く
 一人で歩くこともある。これはこれでいい。独り言の世界がある。歩きながら、これまでの自分を振り返って、あれこれ思うことが多い。最近、自分を落ち着いて眺められるようになった。そして、いろんな夢が「やはり夢は夢だった」と思えて、ほっとする。確かに、こうありたいと背伸びをしていた私があった。もしかしたら、自分にはできるかもしれないと思ったことがたくさんあった。そんないろいろなことが、やっぱり自分には高すぎた望みだったと、割りと静かに納得できて、それが不思議と悔しいことでもなくなってきた。要するに、私は欲張りすぎていただけだと思うようになってきた。考えつくところで、人より秀でたいという思いだけはあったが、その領域に達するだけの気構えや性根というものが、私にはなかったのだと素直に納得する。そして、いろんな選択の結果、いまこの自分があるのだと納得する。歩きながら、そんなことを考える。

夕方の6時
 最近、我が家の夕食は6時前に始まる。かつて会社勤めをしていた時、私は「食事は可能な限り家族で一緒に」と、考えようによっては超難題にこだわっていた。もちろん、それがいつもできていたわけではないが、そのためにそれなりの努力や奮闘をしていた頃を思えば、いまのこの状況は夢のような展開だと思う。あの頃からすれば、家族は一人減って、三人。つまり、イギリスへでかける旅仲間の三人家族。息子が作業所から戻るのは、たいてい夕方の5時過ぎ。その前に夕食の準備は始まっていて、6時にはもう食べ始めている。
 そんな時、ふとキャンプのことを思い出す。キャンプで何が楽しみかというと、一日それなりに動きまわって、テントに戻り、夕食を迎える時だった。これはイギリスの旅にも共通している。キャンプの時は、とっくに腹がへっていて、待ち遠しい気持ちをこらえながら、食事の準備をする。準備に時間をかけた割りに、食事は意外にあっけなく終わってしまう。そして、もう寝るだけで、ほかに何もなくなってしまうのだが、それでもこの時間がなんとも嬉しかった。イギリスでは、夏時間ということで、時に夕方の時間が大きくずれこんでしまうこともあったりするのだが、それでも昔から続いている、待ち遠しいキャンプの夕食の感じは変わらない。

マーラム(ヨークシャー・デールズ国立公園)

ハドリアンズ・ウォールパス
私流、焼酎の飲み方
 どちらかというと、酒が好きな私は最近よく焼酎を飲んでいる。なぜ焼酎なのか、理由はいろいろ。一番はお金がかからないことだろう。買ってくるのは、紙パック1.8gで1135円の麦焼酎。酒の味(鑑識)に関してはまったく自信がない。ただ、安い大量生産の酒がまずいということだけはわかる。どの銘柄がどうという講釈はもちろんできず、従って絶対に「どれ」でなければというこだわりはない。最近、決まって買ってくるのは、ある時飲んでみて、これならいいかなと思った25度の焼酎。「モンドセレクション」受賞が宣伝文句で、これに乗せられたところも確かにある。しかし、なにより値段が一番の魅力だった。
 この季節、なぜ焼酎かというと、お湯で割ると結構長持ち(!)するからだ。最近、ちょっとおもしろい飲み方を発見した。それは、最初大きなコーヒーカップに3分の2ほどの焼酎を注ぎ、これに少々の熱いお湯を加える。最初のこの段階では、焼酎はぬるま湯程度。まず、その濃さでチビチビ始める。そのうち、カップの中身がわずかに減ってくる。そこで、これもあらかじめ用意しておいた、熱湯入りのふたつきマグカップから、減った分を補充する形で、お湯を注ぐ。コーヒーカップの焼酎は少しあったまって、同時に少しだけ薄まる。嬉しいのは、カップの焼酎が最初と同じ満タンで、全然減っていないこと。そうやって、またチビチビやって、心持ち減ったところで、さっきと同じ要領でお湯を足す。だから、カップの中はいつも満タンのまま。私はある歌を思い出す。「ポケットの中にはビスケットがひとつ、ポケットをたたくと、ビスケットがふえる」

ハドリアンズ・ウォールパス

バクストン郊外
 そうやって、同じことを繰り返しながら、大きなコーヒーカップ一杯の焼酎を飲み続ける。時間をかけて、ゆっくり飲んでいるから、そのうちゆっくりと酔いがまわってきて、ほろ酔い状態になって、焼酎の濃さも少しずつぼんやりしてくる。やがて、ふたつきマグカップのお湯もなくなって、焼酎は増えることもなく、この辺で私は充分な気がしてくる。そして、最後の一滴を飲み干して、今日の晩酌は終了。ビールでも、日本酒でもこんなことはできない。ウイスキーはどうか。こちらはまだ試してはいない。
 焼酎といえば、私の中ではすぐキャンプにつながる。薄めて飲めるから重宝で、よくその土地の焼酎を買って、これをチビチビやっていた。子どもたちにはジュースも買ってやらないで、私は一家の主なのだと、堂々と焼酎を飲んでいた光景は、いまとなっては恥ずかしいばかりだが、最低状態の(住まいともいえる)テントの中での焼酎つきの夕食。ほろ酔いついでに、そういう状況で家族四人過ごした時間があったことを懐かしく思い出す。そして、いろんなものを失っても、この時の情景だけは忘れないような気がしてくる。我ながら、まったく勝手なものだ。

映画館は旅の気分
 旅をしていない時の「イギリスの楽しみ方」といったら、こうして「イギリスでの時間」を振り返るほかに、映画を見ることだろうか。私には、映画も旅のひとつに思える。その映画に関して、私なりのちょっとしたこだわりがある。映画はできれば映画館でみたいと、いまでも思っている。テレビやビデオで手軽に、安く見る方法もあるにはあるのだが、なぜか「映画は映画館でみるのが当たり前」という意識がいまだに抜けない。
 私にとって、ビデオの難点は、便利の逆、見る時間が自分の自由になること。加えて、その場限り、一回限りでないこと。おまけに、まわりが明るくて、そばに人がチラチラしていると、それだけで気が散って、落ち着かない。そんなわけで、できることなら、映画はわざわざ映画館へ行って、あの暗がりの自分一人の世界で楽しみたい。ちょっと気取っているようでもあるが、このわざわざでかける、わくわくした気持ちがあって、私にとって映画は初めて映画になるような気がする。そこのところが、旅に共通する点なのだろうか。
 ただそうしたことも、いまの体力との兼ね合いもあって、いつまでできるものか、危なっかしい。妻が一緒の時は、妻の車に便乗することもできる。そうでない時は、たいてい自転車ででかける。これが、時に億劫なこともある。そのせいで、見に行けないこともある。そんな時は、バスなんかを使えばいいはずなのに、それがどこかもったいない気がして、自分でもおかしくなる。ともかく、気持ちが元気な時、あるいは天気がそれらしく(?)さえあれば、自転車に乗って映画を見に行くのは楽しい。「さあ、これから自転車をこいで、出かけるぞ」という時の気分が、旅に出る時の気分と似て、いいのだろうか。

モンサル・デールズ(ピーク・ディストリクト)

グラシングトン郊外
 映画は、バイオレンスもの、オカルトものは生理的に好きではないので、たとえ名作(?)といわれても、ほとんど見る気がしない。どんな映画を選ぶのか。これは、結構感覚的なことが多い。もうひとつは、旅をしたい気分で選ぶところがある。映画で嬉しいのは、自分では経験できない世界を感じたり、眺めたりできることだろう。その意味では、映画を見ることで、自分のできない旅をしている感じもする。映画で嬉しいもうひとつは、いろんな国の風景がでてくること。自分が知っている場所、行ったことがある場所、あるいはそうでない場所でも、スクリーンの風景の中に、自分がこれまでの旅で味わった雨や風の具合とか、光や匂いや音といったもの、あるいは暑さや寒さの感じだとか、そんなかつて体験したものを無意識に重ね合わせたりしている時は、一層旅をしている気分に近くなる。
 イギリス映画の場合でいえば、老夫婦が草原を散歩している光景なんかが出てくると、反射的に私たちが歩いていたイギリスのフットパスの草の感触などがよみがえってくるし、町の情景として、当たり前に登場している街の通りには、石畳のでこぼこした感じの上を歩いた時の感触や、初めての町の通りに入り込んだ時の右往左往する感じだとか、部屋の中から聞いた、石畳の上を走っている車のタイヤの音だとか、思いがけず、懐かしくよみがえってくることがある。それらが、私たちが触れていたイギリス時間と妙な具合につながってくる感じがする。

ホリングワースにて

ロングデンデール・トレイルにて
 最近、以前にも増して、しかも体の状況に反して、映画を映画館でみたいと思うのは、もしかして以前よりも強く、映画に(現実ではできない)旅の世界を求めているせいかもしれない。元々旅というものは、その現地へ自分ででかけていかなければ、旅ではない(と勝手に思っている)。その一方で、もともと行ける場所ではない、そこまでして行きたいところでもない、それでいて興味をそそられる世界というのがある。あるいは、自分ができない世界だからこそ、のぞいてみたいものもある。そんな世界へ旅をするには、自宅に居ながらではなく、わざわざ現地(映画館)へでかけていくという状況を作って、旅らしくしたいと思うのだろうか。そうすることで、いつもと違った世界に一層わくわくさせようとするのだろうか。そういう舞台装置を作ることで、その気になりやすいように暗示をかけるということなのだろうか。

映画館の暗闇の魔力
 映画館のあの暗闇には、ちょうど飛行機に乗って、どこか見知らぬ場所へ一気に飛んで行ける、そんな魔力を感じる。もしかしたら、映画館へでかけるのは、そんな魔力を感じるための儀式のようにも思える。そして映画料金。これは、そんな飛行機のチケット代(期待料)にも思えてくる。もちろん、通常の1800円でみることは絶対にない。これは高すぎる。1000円が限界。だから、妻と一緒の夫婦割引であったり、会員制の入場料1000円であったり、ほかの町で見る時は、なんとかして安いチケットを探す努力をする。もっとも、今年のある時からは、念願のシルバー割引で、全国どこでも堂々と1000円で見られる。これは嬉しい。

2007年11月

2008年1月
 いま、外は珍しく吹雪。今年初めての雪が降っている。雪の時に聞きたいCDがある。夜ならば、姫神の『雪譜』、朝ならば、アンドレ・ギャニオンの『雪の祈り』。こんな天気の時は、もちろん散歩などはできない。苦手な冬の季節、できる限りの想像力で、頭の中の旅をする。

年賀状を書かなくなった
 もうどれくらいになるのだろう、年賀状を書かなくなった。子どもたちが小さかった頃、版画の年賀状に凝っていて、これにはちょっとした生きがいを感じていた。しかし、仕事柄、年の暮れが忙しくなってきて、そんなあわただしい中で年賀状を作ることが重荷になってきて、ある時思い切ってやめてしまった。最初は後ろめたい気持ちもあったのだが、何年かすると、そのうち慣れてきた。そんな私に、それでも毎年年賀状をくれる人たちがいる。こちらからは出さないから、疎遠になっていった人もいるが、いただいた年賀状には必ず返事を書くから、また翌年も送ってくれるのだろうか。ただ、私の返事は極端にきまぐれで、すぐということではなく、それからの一年に間延びする。たとえば、旅行中であったり、その時々の気分で書くことが多い。それでも、毎年年賀状は届く。今年も、また届いた。その返事を、今年もまたポツポツ書き始めている。返事は絵葉書が多い。絵葉書はこれまでの旅行で買ったものを使う。

おみやげと絵葉書
 最近、旅行でお土産をほとんど買わない。3回目(2007年)のイギリスでも、妻が留守中お世話になっている人に買うほんの少々と、息子が通っている作業所へのお土産くらい。私の場合、ほかの人へのお土産という意味ではほとんど買わない。理由はいろいろ。まずはお金が惜しい。次に、私がこれまで、まれにもらったお土産で、これはというものがほとんどなかったこと。さらに、これまで(会社あるいは親戚知人その他においても)、お中元やお歳暮の類には全く無縁だったこともあって、義理でお土産を買うという発想が元々ない。それに、たいていの場合、こっそりでかけることが多いから、わざわざお土産を買って、これを公にすることもない。
 そして、これが一番の理由、せっかくでかけた旅行先で、お土産を買うために時間を使うのがもったいない。さらに、そのお土産を道中持ち歩くなんて面倒なことはしたくない。要するに、すべて自分勝手な理由なのだが、旅行とお土産とは、私の中ではまったく結びつかない。ついでに気障な言い方をすれば、旅のお土産なら、土産話。これが一番だと思っている。

ラトリッグ山(ケズイック)

エルターウォーターにて
 そんな私だから、ずっと以前「安さ」で選んだフリープランのツアーで、帰国のため、まとめて飛行場へ運ばれる途中に設定されていた、お決まりのショッピングタイムには、結構イライラしたのを覚えている。いまは極力そういうツアーは避けているし、まれにそんなことがあっても、さほどイライラはしない。物を買うということはほとんどないが、その場の光景を眺めて、楽しめるようになった。買うとしたら、いまはかろうじて絵葉書だけ。ただし、セットのものは買わない。自分が気に入ったものをどっさり何枚も買う。これは、旅行先で使い切るのが理想。しかし、やはり余ることもあって、そうして持ち帰ったものが、いつのまにか結構な数になっている。
 お土産を持ち帰る代わり、旅先で絵葉書を書く。旅に出ると、なぜか誰彼となく便りを書きたくなる。最初は思いつくままに書いていたが、最近はなんとなくわきまえるようになった。送った相手に妙な「誤解」をされるのもイヤだから、旅先で住所録を見て、「この人なら大丈夫」と思う人に書く。「外国へ行けば便りをくれる友」 新聞にこんな川柳があった。私が外国で絵葉書を書く時に感じることを、両面から言い当てているようで、苦笑い。

ポストの中に消えていく
 前にも書いたが、旅行中に絵葉書を書くのは、妻や息子が疲れて横になっていて、こちらはまだ休まずにいられる、そんな私にめぐってきた自由時間に書く。イギリスから日本へは一週間前後(早ければ4〜5日)で着くみたいだが、ある時間その人のことを思い浮かべて書いた、その絵葉書が果たして無事に届くのかどうか。どんな旅をして、届くのか。ポストに投函する一瞬、ここ(イギリス)が日本から遠く離れた場所なのだということを一番強く感じる。投函してしまえば、そのあとに起こる旅行中のあれやこれやで、書いた内容さえ忘れてしまうことも多いのだが、この時の「絵葉書がポストの中に消えていく」感じがきらいでもない。
 そんなわけで、私の出費で「切手代」というのが意外に多い。2007年の夏イギリスから日本へ絵葉書を送るのに54ペンス。2006年は50ペンス。この国では、絵葉書の大きさには関係なく、同じ料金で送れる。日本だと絵葉書の大きさで郵便料金が違ってくる。一日一回の収集、しかも週末はお休みだが、元々急ぐものでもない。先を急がない、お任せの感じがいい。
 これと全く違うのがインターネットの世界。こちらは、一昨年から持参するようになったパソコンを使ったメールのやりとりなのだが、前にも書いた通り、現在のところ娘への連絡のほかほとんど使っていない。相手にすぐ伝わってしまうのが、なんだかもったいないような気がするからだ。電話も同じ理由で、ほとんど使わないが、最後に一番嬉しかった電話の話を書く。

びっくりプレゼント
 ある年の私の誕生日の夕方午後7時、ドイツから国際電話がかってきた。いきなり「こちらドイツです」とその人の声。続いて「誕生日おめでとう、約束のプレゼントです」とその後に、あの町の教会の鐘の音がしばらく続き、「それじゃあ、お元気で!」と電話は切れた。私は、その鐘の音を聞きながら、ドイツで出会った彼が「いつか必ず、びっくりプレゼント(!)するから」と言っていたのを思い出した。電話の向こうから、まさに絶妙のタイミングで聞こえてきた、ドイツ正午の鐘の音。どんなテレビの生中継(デジタル放送)も、いまだこれにはかなわない。

ケズイック校外のストーン・サークル

ある街角で

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