んだんだ劇場2008年4月号 vol.112
No8
長距離ランナーのにんまり

3月の声を聞くと
 それだけで、昨日までの2月とはどこか違って、暖かく思えてくる。これは不思議。そういうことを、今年もまた感じられて、嬉しくなる。2月も半ばを過ぎた頃から、そんな気配があった。日差しが違って、少しずつまぶしくなってきた。最近、陰暦の季節のめぐり(二十四節気)というものが身近に感じられるようになってきた。年のせいだろうか。「小寒」(1月6日)、「大寒」(1月21日)、そしてまだまだ寒いと思える2月に入っての「立春」(2月4日)、雪が雨に変わり、雪や氷は溶けて水となり、忍びよる春の気配に草木がよみがえるという「雨水」(2月19日)、そして地中で眠っていた虫たちが姿をあらわす「啓蟄」(3月5日)、「春分」(3月20日)を迎え、もうすっかり春なのだと思える、そんな季節の足音。寒がりの私には、それが嬉しい。

老夫婦が仲良く釣りをしてた

春3月初めの海
 実際、3月に入ったら、急に外へでかけてみたくなった。日差しが誘いかけてくる感じがする。時に風が強く、肌寒くても、まぶしさだけに加えて、陽だまりの感じが違ってきた。こうして一度動き始めると、毎週のようにでかけることになる。でかけるのは、息子の作業所が休みになる週末が多い。やはり、彼には一週間のリズムが大切だし、そんな彼のリズムでめぐってきた週末、天気が良ければ、なぜか息子の方から「どっかへいこう」といい出してくる。ありがたいのは、こうしてひとつ屋根に暮す3人がそろって外歩きが好きということだろうか。実をいえば、これは子どもたちが小さかった頃からの我が家の習慣。天気のいい週末は必ずどこかへでかけるもの、でかけなければならない(?)という生活リズムからきた、当然なりゆきかもしれない。

悲しき習性
 「休みの日、晴れていたら、どこかへ出かけなければ・・・」という習性。最近はだいぶそうでもなくなったのだが、これは私が会社勤めを始めた頃からの名残り。晴れた日、家にじっとしていると、落ち着かないのだ。「こんな日はどこかへでかけないと損をする」と思ってしまう。これは、会社勤めの頃、やっとめぐってきた週末をなんとか「自分(たち)の時間」にしたいと、そのためにはどこかへ出かなければと、いつも頭をめぐらせていたからだ。週末がそんなわけだから、子どもたちが夏休みや正月休みの場合、それに便乗する形で、必ずどこかへでかけることを考えていた。会社でその時期、それなりに「長い休み」(?)が取りやすかったこともある。
 だから、頭のどこかにはいつも「長い休み」のことがあって、次はどこへいこうか、そんなことばかり考えていた。そして、直前に誰か具合を悪くしたり、よほどのことがなければ、必ずといっていいほど、でかけていた。娘が生まれてからは、彼女がまだ歩けないうちから、背負子に入れて、あちこち連れ歩いた。一歳の誕生日は小笠原、二歳の時は礼文島、三歳は吾妻の山小屋。そして夏休みは北の島でのキャンプか山の縦走、正月休みは伊豆七島のどこかでキャンプというのが定番。そして、無事精一杯の日程を終え、私は名残惜しく(子どもたちはホット一息ついて)戻ってくるのがほとんどだった。そんな中、キャンプ中に私が発熱、あるいは娘のことで、急遽戻ってきたこともある。そんないろいろ、いまなら聞くだけで疲れてしまいそうなことを、これが若さなのだろう、性懲りもなく続けられていた。

ケズイック郊外

ハドリアンズ・ウォ−ルパス
 悲しいかな、いまでも晴れた日家にいると、少し損をしたような気がしてくる。それは、どこかへでかけなければ・・・という脅迫感(?)の裏返し。ただ、だんだん体がいうことをきかなくなってきた。そこで、否応なしに、少しは自重することを覚えた。この点、妻などはどちらも楽しめるようで、羨ましい。聞けば、彼女の知人に 「晴れた日こそ家にいたい。布団を干して、家のあちこちを開け放して、晴れた日を精一杯感じるのが幸せ」という人もいるらしい。そんな話を聞くと、なるほどと思えて、これも羨ましい。ところが、こちらはまだまだ元気な息子に、私のかつての思いが引き継がれてしまったのか、今度は彼からしきりに誘いかけられて、あわてている私。

「行けば、行ったで・・・」
 ともかく、3月に入ってからは毎週のように外へでかけている。(例によって)息子には話していないが、来たるべき「その時」への準備ということもある。まずは家族3人それぞれ、晴れていれば、外へでかけたい気分になってきた。一声かければ、すぐに出かけられるところがいい。時に、それぞれ事情もあったりはするが、長年の経験(習慣)から、でかける時多少億劫に思えても、いざでかけてみれば、必ずそれなりのものがあるのだと、三人が三様に知っている。「行けば、行ったで、なにかいいことがある」ということが身にしみている。
 果たして、いつまでこういうことができるのかわからないが、一晩眠れば、気分が変わるように、あるいはそれなりの睡眠をとれば、新しい朝を迎えられるように、外へ出て、いつもの感じで歩いていると、目の前に厄介なことがあって、うじうじしていた時など、「ああ、こんな世界があったんだよねえ」と、お互いそれなりにつぶやいている。

お昼を食べに行く
 この頃でかけるのは、車で30分から一時間以内のところが多い。そういうところに、春先のこの季節、歩いてみたい道がいろいろある。比較的近くを選ぶのは、一度に歩ける距離が限られてきたからかもしれない。私たち二人は、間違いなく、続けて長い距離を歩けなくなった。適当なところで、思ったよりも早く疲れを感じるようになり、そんな時は「もうこの辺で十分かな」と思うようになった。大体2〜3時間も歩けば、十分。それも、途中にゆったりの休憩を入れての話。目安としては、お昼を食べに行くという感じだろうか。最近は、春の日差しの中を歩いて、お昼を食べて、そろそろ戻ろうかというパターンが多い。そのために、車はとても便利。依然として、私は運転ができないし、免許を取る意欲もないから、もっぱら車の運転は妻の負担(?)になっていて、その点では心苦しいのだが、おかげで時間的には無理をしなくなっている。

ファウンテン・アベイ(リポン)

ハドリアンズ・ウォ−ルパス
 出かけていくのは、子どもたちが小さかった頃行ったところがほとんど。あの頃は車などなかったから、バスを利用することが多く、時に奮発してタクシーのことも、逆に自転車を使ったりすることもあって、随分時間をかけ、たいていは一日がかり。いまは、そんな場所へ車であっさりと行ける。そして、のんびり歩いて、昼ごはんを食べて、その頃にはもう帰り道になっていて、また車でさっと戻ってきて、午後2時前後には帰宅。それから、ちょっと遅い昼寝を兼ねた一休みをするといった具合。これで十分満足できるようになった。これはイギリスでの過ごし方に似ている。要するに、歩くという世界の「いいところ」だけを満喫して、さっと戻ってくる。そのためには、たとえば600円少々の高速料金は許容範囲。
 いや、なにも遠くまで行くこともない。我が家から歩き始め、15分くらいで着く川の土手を3キロほど向こうまで行って、帰りは反対側の土手を戻ってくる。特別な場所ということでもないのだが、やっとめぐってきた春の陽射しを感じながら、のんびり歩くというなら、これでも十分。

「***通リズム」のツアー
 ちょっと遠くへという場合は、某社「***通リズム」のツアーを利用する。それも初級コースのものが多い。精一杯がんばって、山を極めるといったものは避ける。参加者には私たちより年上の方もいるような、楽なコースで、のんびり歩けるようなものを選ぶ。私自身、団体行動(ツアー)というものは原則苦手ではあるが、時と場合によって、行き帰りのすべて、歩き終えての温泉まで用意された、歩くという心地いい部分だけを利用する「わざ」を最近覚えた。
 それに、家族3人が一緒にでかける場合、それが遠くになると、車運転の妻の負担が大きいし、その点ではできるだけ無理はしたくない。バスに任せて、のんびりできるところがなにより。それに、息子は団体旅行が好き。いつもの3人とは違う雰囲気の中で、参加者で一番若いことが多い彼が、結構伸び伸びした感じで歩く。時に、自分の相手をしてくれそうな人をみつけて、あれこれ話をしながら、一緒に歩く。私たちは、遠くでそんな彼を眺めていればいい。

 ここで・・・花嫁の「パパ」ラッチ 後日談

記念集合写真
 娘の挙式の日から4週間ほどして、会場となったホテルの写真室から、新郎新婦の晴れ姿2組の写真と関係者が並んでいる集合写真がセットされたアルバム、そしてこの時代らしくDVDなるものが送られてきた。もちろん、これはホテルのサービスでもなく、それなりの金を払って、届いたもの。もちろん、私にとっては高額。しかし、新郎新婦がそれぞれ別仕立てで写っている記念写真。外国にいる彼らに先んじて眺めることになった私には、いつもとはいろんなことが違っていたはずのこの日の特別な状況の中、それらしく二人らしさが出ていて、その意味では記念の二枚だと思っている。当人たちが気に入るのかどうかはわからないが。

式場の十字架

式場を退場する二人
 写真のもう一枚は、二人のほか、それぞれの両親、親戚および、こういう場合写真に収まることになる(らしい)人たちの集合写真。総勢29名。こちら(新婦側)9名に、むこう様(新郎側)20名が、時間の止まったような瞬間の中に収まっている。こういうのを見ると、いつも思う。29人それぞれが同時に、自分の満足できる最良の顔や表情になる瞬間などありえないだろうと。そう思いながら、まず娘たちをみて、次に自分を探し、それから身近な人へと目が移っていく。

妻と私の了解事項
 いつも写真を撮る側の私は、自分の写真にお目にかかることはめったになく、最近はそんな自分の写真にこだわりもなくなってきているから、まあこんなものかと思う。ただ、妻は自分が自分のようではないと多少不満。これにはワケがある。娘のたってのお願い(?)で、妻は晴れの舞台用のお化粧を頼むことになった。これがそもそもの間違い。普段そういうことに念入りではない、むしろ素顔のことが多い妻は、プロの補正・修正を受け、まったく「よそのおヒト」になってしまった。それが、妻は残念と思い、私は*****円なる出費も惜しかったと思う。これも、いまとなっては思い出して笑えるひとつ。

娘たちからもらった花束、一ヶ月以上飾っていた

その日、娘がつけていた薔薇の花
 その女性の化粧について、私はおそろしく思うことがある。もし、私の身近な女性(妻)が厚化粧だったら・・・と。私はその舞台裏がこわい。化粧した時とそうでない時のギャップが大きすぎて、それだけで私は疲れてしまうに違いない。幸いなことに、妻と私の間で、化粧はそこそこでいい、むしろそのままでもOKという了解がある。妻が素顔の美人であるかどうかは秘密として、私は彼女がいつもスッピンであることに何の不満もない。だから、妻に大変身を求めることもないし、妻もそれが気楽ということで了解し合っている。そんな妻が、このビッグ・イベントの事の成り行きから、つい彼女らしい妥協をして、臨んだ結果の笑い話。まあ娘の笑顔がよければ、すべて、それでヨシ。
 ところで、これら記念写真アルバムの追加注文は一冊*****円とのこと。手持ちのパソコンやスキャナ、プリンターなどを駆使すると、結構なものが再生できて、私たちの関係者にはこれを送って、済ますことにした。

改まった表情
 ただ、普段は自然な表情のスナップが好きな私なのだが、こういう場合の改まった写真というのも、それなりにいいものだと思っている。初めて、こういう状況になった者同士、数名を除いては、私以上の年齢にも思える人たちが、この一瞬だけ和む・・・など不可能に近い状況の中、こうして一枚の写真に収まる、そのままを切り取った瞬間。それが、この時ならではの表情だと思えば、これこそ「時間というもの」に耐えられる写真ではないかとも思えてくる。

結婚式のDVD
 もうひとつ送られてきた、結婚式と披露宴の様子が収まっているDVD。これこそ、この世にたった一枚で十分のものだろうと思いながら、当日あちこち動き回り、それなりの部分を眺めたつもりでいる私としては、是非その一部始終を眺めてみたかった。ホテル専属の手馴れた人の手になると、あの日はどんなふうに記録・編集されるものかという興味もあって、あの日のいろいろを検証する感じで眺めていると、私には結構おもしろかった。実はこのDVD、最初の届け先になっている私たちのところから、その後外国にいる二人へ送ったのだが、娘の夫なる人が、このDVDをじっくりと眺め、さまざまな場面の人間観察を一度ならず、繰り返し楽しんでいると聞き、なるほどと思った。どこか、誰かに似ているぞ。以下、DVDを見ての私の感想。

ボルトン・アビイの紳士

式場での娘の友人たち
 前回書いた通り、当日の私は許される範囲において、しかし(おそらく)花嫁の父としては、かなり異常な行動を取っていたのだろうと思う。その当然の結果として、映像の至るところ、ちょこちょこ動いている私の姿が頻繁に登場する。さすがホテル専属の撮影者も、あまり頻繁に動き回る私の存在には困ったところもあったのだろう。私の気配を察知し、それが目障りになりそうになると、私を画面からさっと外してくれている。私が不意に飛び出していくと、カメラも私をさりげなく、さっと避ける・・・そんな四苦八苦の場面が随所にあって、それだけでも笑えるDVDだった。ただ、そうした撮影者の配慮によって、私の異常さが抑えられ、映像の流れを壊さずに済んでいるともいえるので、その意味では撮影者に感謝、感謝。

滑稽そのもの
 それにしても、カメラを構え、写真を撮っている時の私の姿は、どう見ても格好いいとはいえない。いろんな瞬間を狙って、片手に塊のようなカメラの持ち歩き、しょっちゅうそれを構え、ファインダーを覗いている時の私はまったくの無防備な状態で、滑稽そのもの。ましてや、燕尾服を着た人間の、もはやそういう立場であることも忘れているとしか思えないトンチンカンな動きになっているのだから、なおさらおかしい。これがたまに出てきたら、ご愛嬌。ところが、「ああ、また出てきた」という感じで、しょっちゅう登場しかけ、それが場面によって、さりげなく画面から外されていく静かな攻防は、知る人ぞ知る、私には楽しい舞台裏。
 私はいろんな場面にでかけていって、写真を撮った。それが、またDVDで再現されている。もちろん、私の知らない場面もたくさんあるのだが、これも自分で動き回っていた感覚からすれば、それなりに想像できるものであって、なるほどと思う。出席者をまんべんなく登場させるという最低条件を満たすため、撮影者もあちこち動き回る。そして、映像に残ったのは食べている姿。当然ながら、私のそうした姿はありようもないのだが、ほかの人たちが目の前の料理を食べている、本人は知らない無防備な状況というのも、場合によっては不本意なものであったりする。逆に言うと、食べている姿を撮るというのは、それだけ難しいということなのだろう。

私が撮れなかった私
 DVDで一番楽しみだったのは、あの瞬間のこと。式場で娘たちが退場する時になり、やっと写真が撮れると勢い込んで踏み出した私の一歩が娘のウェディング・ドレスの裾を踏んでしまい、涙を流したまま歩み出した娘が「あれっ?」と振り返ったその瞬間の映像。みれば、これが当然のように、バッチリそのままだった。あの時、私が撮った写真は極上の記念すべきピンボケとして形になったのだが、映像ではほんの一瞬の出来事として、スローモーションのようにさりげなく流れていた。それでも、それを知っている者には、見逃せない、忘れられないドラマ。

セント・メリー教会(リポン)

セント・メリー教会(リポン)
 もうひとつ、私が撮れなかったもの。それは、花嫁の父として、娘の手を引いて、式場へ入る場面。バージンロードなるものを歩き始める時のなんともぎこちない私、そして照れ笑いしながら、そのことを楽しんでいるように見える私。式場の至るところで、さりげなく涙を拭こうとして、それがビデオにはちゃんと映っている私。神妙にしているかと思えば、そのうちキョロキョロしている私。そういえば、娘だってキョロキョロしている。
 そのままといえば、私が「長持唄を歌う」と紹介された時の娘の驚いた様子を、DVDを見て、ああこうだったのだと納得できて、これもヨシ。私と司会者以外、誰も知らないサプライズを演出しようとした時のいたずら心。あの時、娘がどんな反応をするのか、それが一番の楽しみだったことを思い出す。こんな(?)妙なことをする言い訳のような、少々の挨拶をして、歌い始める私。そして、実際に歌っている私。歌い終わり、格好良く(?)新郎と握手して、その後言い忘れたことをいうために、もう一度マイクの前に戻る私。そんな自分を意外に照れることもなく、まるでもう一人の自分をみるような感じで、私は眺めていた。

年齢に気づく
 そんな自分を眺めていて、気づいたことがある。話している時の私にも、歌っている時の私にも、いつになく年齢というものを感じた。これは、私にはちょっとした新しい感覚だった。これまで、そしていまもなお、たいていの場合「年齢からすればかなり若い」と言われてきた私が、意外に、いやしっかりそのまま、それなりの年齢を感じさせていたこと。そのことに素直に納得する気持ちで、DVDの自分を眺めていた。考えてみれば、当然なことで、60歳を前にした男が青年のように見えるはずもない。顔のしわの具合や、歯の具合や、そして着実に増えてきているシラガの具合には、いましっかりと体に感じている年齢が出ている。なるほど、私はいま、ほかの人にはこんな具合に見えているのだ。

リポン大聖堂にて

セント・メリー教会への道
 同時に、こういう場面で精一杯のものを見せようとしている自分、あの時そうしないではいられなかった自分、したいと思ったら止まらない自分、そういうものすべてが、この時の私になっているのだと、これも納得して、眺めていた。だから、もっとこうしたら・・・とか、もっとうまく・・・とか、もっと格好よく・・・とか、そういう思いはほとんどなかった。最近、いろんなところで似たように感じることが多い。こんなはずじゃない・・・とか、これは私ではない・・・とか、そんなふうに思うことが少なくなった。年を取ってきたせいだろうか。その男がまたなにかやっているぞと、苦笑いが出てくる。

忘れていたこと
 苦笑いといえば、もうひとつある。実は、式の当日、私はひげを剃っていなかった。毎日の習慣として、他人の前に出る時は、間違いなく電気かみそりでひげを剃る。ところが、この日私は忘れていた。そのことに気づいたのは、後日娘と撮った唯一の写真をみた時で、それまでは知らずにいた。私なりに落ち着いていたと思ってはいたが、泊まったホテルの会場の様子を眺めに行ったり、あれやこれやと動いていたら、そこのところがすっぽり抜けてしまっていた。まあ、前日いろいろなことを思いながら、結構念入りに剃っていたおかげで、それほどみっともない無精ひげでもなかったが、確かにうっすらとしたひげが、ちょっと間の抜けた感じで伸びている。こんなこと、書かなければ、消えてしまうことなのに、書いてしまう私。

ホテルの支払い
 それなりの金額になったホテルへの支払い。すべてのことが、小さなサービスに至るまで、細かな料金として設定されていて、見栄やらナニやらくすぐられて、それらがひとつずつ積み上がって、料金が増えていく仕組みになっている。そういうところがイヤで、新郎の家族との最初の出会いを、私たちは我が家で行なうことにした。ホテルのペースでコトが進んでいくのも好きではなかった。しかし、相手があることなので、式についてはある妥協点で落ち着いた。私は燕尾服に、妻は和服。まあ、ここまでは仕方がないだろう。
 ただ、燕尾服には紐つきの靴がふさわしいといわれると、そういうものを持っていな私は、借りて1万円が惜しい。それで、会社時代名残りの革靴にした。妻はできれば洋服にしたかった。それなら、手持ちがある。これも向こう様に合わせて、留袖。彼女は一番安いものにしたかったのだが、これは寸法が足りず、二番目に安いものを選んだ。見る人が見れば、わかってしまうことなのだろうが、私たちは一致して、それでいいことになった。それぞれ、たった一度きりのこと。旅行には惜しくない(?)金が、こういうところでは惜しく思えてくる。

思いがけない光景
 前回書き忘れたが、当日強く印象に残ったことがある。それは、絶対そんなはずはない(と思っていた)新郎が、最後の挨拶になり、彼の中になにがどうこみ上げてきたのか、しばらく話せなくなった。そんな彼を、すぐわきに感じて、私はなぜか嬉しくなった。おそらく、彼にしてみれば、こういう場面では見せたくなかった姿だと思う。状況が状況だから、もちろんカメラは控えたのだが、彼のこんな一面を、もう一度映像で確かめられたことが嬉しい。
 「私にとってコーヒーとは、コミュニケーション」という彼は、現在そのコーヒーに関わることを生業にしている。だから、披露宴の始まりの乾杯も、彼が焙煎した豆で入れたアイスコーヒーという風変わりなものではあったが、これが意外に(?)好評。この日の随所に見られた彼らしさに、最後の一幕がブレンドされたところに、なんともいえない懐かしさを感じた。

セント・メリー教会前の鹿たち

式を終えた牧師

外の世界
 会社へ出勤するということがなくなり、家にいながら一日が過ぎてしまうこともあるのだが、そんな中、かろうじて二つだけ外の世界とのつながりがあって、でかけている。ひとつは、近くの児童館での「折り紙クラブ」の時間。ひとつは視覚障害の方々のための朗読ボランティア。

毎月、第三水曜日
 原則として、毎月第三水曜午後3時からの一時間が、私の児童館での「折り紙クラブ」の時間となっている。私の折り紙あそび(?)を知っている、同じ町内に住む妻の知人を通して、児童館から依頼があって始めた「折り紙クラブ」、来年度で5年目になる。息子や娘が通った小学校に隣接の児童館へ放課後やってくる、主に小学一年と二年を相手に折り紙を教えている。いや、教えているというより、折り紙をしながら、子どもたちと一緒の時間を過ごしているといった方がいいのかもしれない。

折り紙講師
 一応、私は「日本折紙協会公認・折り紙講師」の資格を持っている。もっとも、これはこの協会発行テキストに載っている58種類の基本形・応用形の折り紙作品を、その指示通りに折って送り、一ヶ所の間違いもなく折れていることが認定された時点で発行されるもので、折り紙を教える能力まで審査されたものではない。それでも、ないよりはあった方が、いろんなときに収まりがいいだろうと、講師審査申請料(2100円)を払い、審査に合格してからは登録料(15750円)を払い、年会費(8700円/これで毎月定期購読の雑誌が届く)を払って、現在講師の資格を保っている。

私の中にあった「夢」
 折り紙とは、人とのコミュニケーションのためにあると、私は勝手に思っているところがあって、そんなことからも、いつかは人に教えるということも経験してみたいと思っていた。だから、児童館から話があった時は、どんなふうにやったらいいのかまるでわからないまま、喜んで引き受けることにした。これまで、旅行中に演じたいろいろなパフォーマンスなどが頭にあって、あんな感じかなとも思っていたし、ひとつは私の中にある「夢」の実現でもあった。

アメリカン・レディー

コインランドリのおばさんたち
 実は、ある時から、私は小学校の先生になりたいと思っていた。強くそう思うようになったのは、11年前に出会ったS先生の存在が大きい。ここに詳しいことは書けないのだが、私はS先生の授業を何度も見ることができた。それは、私が描いていた理想に近いもので、学校の教室に限らず、子どもたちと一緒に過ごしている彼の授業には、いつも心ときめいていた。それでいて、それが結局は「夢」であることも感じていた。学校の先生といっても、学校という組織の中にあっては、これまでの会社と同様、しがらみはたくさんあるだろうし、いいところだけを勝手に選べる世界でもない。ただ、そんな思いがあったせいなのか、この「折り紙クラブ」の話が出てきた時、それなら形を変えて、これもいいかなと思うようになった。

子どもたちの求めるもの
「折り紙クラブ」だから、毎回折り紙をすることになっているのだが、家に戻って留守番をする時間、この児童館で過ごす小学一年、二年の子どもたちの求めているものは、折り紙そのものではなく、私と過ごす時間にある(らしい)ということはだんだんわかってきた。それが証拠に、折り紙そのものにはそんなに熱心ではない子もいる。それでいて、申し込んだ子どもたちはたいていやってくる。そんな子どもたちを、どんなふうに「折り紙の世界」へ引き込もうか、そのためにどんなことをしたらいいのか、いつのまにか、毎回これで頭を悩ますようになってしまった。

飛行機の中で

旅行センターの女性
 家に戻っても、母親が働いていて、不在らしい子、あるいはいろいろな事情で、父親が不在らしい子、おそらくは親と接する機会がそんなに多くはなさそうに思える子。そういう子が多いのは、4年間やってみると、それとなく伝わってくる。だから(なのだろう)、私に求めるのは「折り紙」そのものではないということも感じている。月に一回の私との時間は、当然ながら学校の教室とは違って、どこか解放的なところがある。そういえば、聞こえはいいが、これはちょっと間違うと、収拾のつかない状態になる可能性(危険性)を秘めてもいる。実際、そんな具合にあやうくなりかけた場面を何度か経験している。

4年が過ぎた
 子どもたちの数は多くて25人。普通は15人〜20人くらい。いずれにしても、その人数に一人で教えるのは無理。そこで、毎回妻にサポートしてもらっている。ほかにも、毎年継続して地域の大人の方にも交じっていただいている。とにかく4年が過ぎた。
 振り返ってみれば、いつも思い通りにいくはずもなかったのだが、児童館で子どもたちと一緒に過ごす時間には心ワクワクするものがある。最初のうち、一ヶ月に一回という回数は、随分間延びした間隔にも思えたのだが、次は何をどんなふうにしようか・・・などと考えているうち、あるいは他のことで動いているうちに、意外にあっけなく「次」がやってくる。その意味で、いまの私には、ちょうどいいタイミングなのかもしれない。

「あんぱんまん」
 2007年度最後の「折り紙クラブ」は3月19日。この日、私は思い切り遊んでみたくなった。そのヒントは、前回(2月)ある子の口からでた「あんぱんまん」の話にある。小学2年にもなれば、「あんぱんまん」は卒業し、ピカチューの世界に入っているらしいのだが、彼は「あんぱんまんは、いつもずるくて、きらい」だといった。そんな話から、子どもたちが「あんぱんまん」に出てくるキャラクターの名前をいろいろあげて、わいわい盛り上がった。
 私にとって、「あんぱんまん」は自分の子どもたちが小さかった頃に少し読んであげたくらいで、いまは絵本の世界も遠くなったし、テレビに至っては全く無縁。ただ、半年ほど前、「あんぱんまん」に夢中な二人の幼児に、「あんぱんまん」のキャラクターをいろいろ折り紙で作ってあげたら、これが意外に好評だったことがある。それで、次はそれらを内緒で作ってきて、子どもたちを驚かしてやろうと、この時とっさに思った。

あんぱんまんの仲間たちの折り紙作品

模造紙で作った一番大きな「アイスキューブ」
 その「あんぱんまん」で、一・二年生の子どもたちにも折れるものがひとつある。それ以外のものはかなり難しい。ただ、出来上がったそれぞれは、特徴をよくとらえていると思う。その辺は図書館で何冊か「あんぱんまん」シリーズを借りてきて、確認してある。なにより、「あんぱんまん」が好きという幼児に好評だったと実績(?)があるのだ。それで、次回はそれらをズラリ作ってきて、子どもたちを驚かしてやろうと思った。しかし、ただ見せるのではつまらない。

「アイスキューブ」からの思いつき
 そんなことを考えていたら、一枚の紙で箱ができる「アイスキューブ」(川手章子作)という折り紙を思い出した。これは、四方向から箱を閉じるようになっている。逆をいえば、箱は四方向に開けられる。開けたその中に、また同じような小さな箱が入っているという具合に少しずつ箱を小さくしていって、それぞれの表面には「あんぱんまん」のキャラクターの折り紙作品を貼りつけてみてはどうだろうか。バイキンマン、カレーパンマン、ドキンちゃん、ショクパンマン・・・と10種類くらいは折れる。そうして、最後の箱の中からでてくる「ハートのリング」を次回は作ってみようかと、まずはそんなストーリーを考えた。
 そのうちに欲が出てきて、箱の数をもっと増やしてみたくなった。ということは、さらに大きな紙を使って、大きな箱を作り、一方では小さくした紙で、どんどん小さな箱を作るということになる。別の形の箱では似たようなものを作ったことがある。こんなことを考えてくると、なぜか興奮してきて、止まらない。そして、どうせやるなら、とことん子どもたちを驚かせてみたくなる。
 「あんぱんまん」以外のキャラクターも入れてみようか。それなら、貼りつける折り紙には困らない。大きな紙はどうしよう。同じ色では、順番がわからなくなるので、色は順番に変えた方がいい。何種類かの色があって、大きさがあって、手軽に調達できるものといったら、模造紙だろう。模造紙を使えば、一番大きくて、短い辺(79.4センチ)を一辺とする正方形の紙ができる。たまたま持っていた模造紙で折ってみると、一辺が14.2センチの立方体の箱(アイスキューブ)ができた。

32個の箱
 そこで、この模造紙のサイズと、それからできた箱のサイズの割合を基本に、箱の重なり具合、さらにそれぞれの表面に折り紙を貼ることを考え、4.5センチくらいまでの箱は5ミリ刻みで、箱を順に小さくしていく。さらに、その先は3ミリずつ小さくする。これは、実際にいくつか作ってみて、感覚を確かめた。そのために、それぞれ何センチの紙を使ったらいいのか。この辺の計算はすべてパソコンまかせ。こういう場合、あっさりと計算をやってのけるパソコンは便利。

最初の模造紙裁断(正方形は半分に折る)

追加の模造紙裁断
 近くの文房具屋には4色(黄緑、ピンク、水色、黄色)の模造紙があった。この4色を順番に繰り返し使って、小さくしていくように模造紙を裁断すればいい。パソコンが出してくれた結果は、一番大きい一辺が14.2センチの箱を作るための79.4センチの紙から、一番小さい一辺が0.9センチの箱を作るための5.1センチの紙まで、全部で32枚(つまりは32個の箱を作るため)それぞれの紙をサイズがでた。やり始めると、もう止まらない。

どんどん欲が出てくる
 結局、32枚を裁断し、32個の箱を作ることにする。次に折り紙の作品。これらを32個の箱の表面に貼りつけるのだが、貼りつけられる大きさの箱まで、子どもたちが知っていて、喜びそうな折り紙にしよう。まずは、これをやるきっかけとなった「あんぱんまん」シリーズ、さらにはピカチュー、ミッキー・ミニー・・・。考えているうち、最初は一個の箱に折り紙はひとつと思っていたのだが、これでは寂しいから、大きな箱から箱がだんだん小さくなっていく順番に、ストーリーみたいなものをつけて、できる大きさまで二個以上でもいいかなと思えてくる。
 こうして頭の方はどんどん先へ進んでいくのだが、もちろん一日でできるものではない。かなりの時間がかかることは間違いない。一応時間だけはある。こういう時、なぜか私はめげない。そして、つくづく私は長距離ランナーだと思う。

長距離ランナー、いつかはたどりつく
 かつて、フルマラソン(42.195キロ)を走っていた頃の自分を思い出す。スピードはなかったが、しつこく走る持久力はあった気がする。走るのをやめて、もう20年になるが、それまで40回ほどフルマラソンに挑戦した私の取り柄は、なにをおいても完走できていること。記録は3時間そこそこ(ベストタイムは2時間45分)、あの頃の大会なら、最後尾に近いこともあったのだが、ともかく完走はした。走る続けることに自分でドラマを感じ、そのドラマはいつも完走することで終結した。マラソンといえば、順位や記録などより、完走がすべてだった。

モンサル・デールズのフットパス

セトル近郊のフットパス
 走り始めて、すぐに42キロ先のことなどは考えようもない。しかし、走り続けていくうちに、いつか必ずゴールがみえてくる。そんな果てしもないことを何度も経験している。そんなマラソンに、今度も似たようなものだろうか。よく、いろんなことをかつてのマラソンに似せて考えることがある。それで、そこそこの長い時間の作業というものに耐えられる。もちろん、自分がやりたくて仕方のないことに限る。今回、このびっくり箱を作るために、かれこれ3週間くらいの時間をかけた。もちろん一日ずっとはできるわけがない。疲れたらやめる。しかし、そのうちまた始めている。妻は、またかと呆れている。
 ところで、いまの私に、なぜこんなことができるのか。それは、これを子どもたちの前で披露できた時の子どもたちの驚く様子が目に浮かぶからだろう。私のエネルギー源はすべてこれ。なぜか、必ず子どもたちには受けると思って、いまは作っている。だから、作りながら、その時の光景を想像して、一人で勝手にニンマリしてくる。そして、その時どんなパフォーマンスがいいだろうか・・・なんてことも考えたりしている。

びっくり箱のための3週間
 時間にしたら、前口上などを含め、30分かそこらで終わってしまうことだろう。その一回きりのことに、こんなにエネルギーをつぎ込んでいる自分がおかしくもあるのだが、決して馬鹿馬鹿しいとは思っていない。作っている最中、頭の中には「あれもしたい、これもしたい」といろいろなことがめぐってきて、それがなかなか形にならないもどかしさもあるのだが、それでも作品は着実にひとつずつできていく。こうなれば、もう私の手持ちの資料を総動員(?)して、キャラクターの折り紙を作ってみようとも思い始めている。

どんどん増えていく折り紙

その折り紙を箱に貼っていく
 問題は、箱がだんだん小さくなっていくこと。そのことも考慮に入れながら、作品を作らなければならない。そこで、パソコンには折り紙作品のサイズも書き込んでいく。作ってみて、サイズが合わなければ、サイズを変えて、また作り直す。大体は小さくすることが多い。作品を小さくするということは、それだけ作るのが面倒になってくるのだが、小さいということは、それで驚きにもなっていくから、これはこれで、またニンマリしてくることでもある。

重さ560グラム
 パソコンに作ったリストには、縦の欄には32個の箱サイズのマスがあり、横の欄には紙の色とその寸法、箱の表面に貼りつける、それぞれ2〜3個ずつの折り紙作品の色と名前とそのサイズを書き込むマスができている。箱の色と折り紙の色とのバランス、折り紙の大きさ、小さくなっていく箱の順番にイメージしたストーリー(全体の流れ)を確かめながら、そのリストを少しずつ埋めていく。作っていた3週間、私の頭の中はいつもこのことで動いていた。もちろん、疲れたら、休む。一晩寝れば、また気分も変わってくる。そして、アイデアも沸いてくる。

小さな箱の中にまだ6個あります

至福の時間
 一番外側の箱にはあえて、なにも貼らなかった。最初の一枚の箱をめくったところで、思いがけないものが出てくる驚きを大きくするためだ。こうして、重さ560グラムのびっくり箱ができあがった。そして、3月19日午後3時、子どもたちの前で、私はこの3週間をかけた作品を披露できた。これはなんともいえない時間だった。

その日その時、至福の時間
 私は、その日やってきた子どもたち、そしてこの4年間ずっと一緒にやってきてくれた大人にも順番に箱を開いてもらった。その序章、同じ大きさの箱を二個作り、片やプチプチを入れただけの箱とどっちが重いだろうかと目で判断してもらう。軽い箱が決まって、これはその場で開けて分解、一枚の紙でできているところをみてもらう。次に重い(560グラムの)箱を持ってもらい、この中には何が入っているだろうという話に入る。もしかして、だんだん箱が小さくなっていくんじゃないかという子どもがでてきたところでシメタ。それじゃあ試してみようと、最初の箱をむく。出てきたのは特大ピカチューと、二桁数字のデジタル。実はここに32という数字が隠されていたのだが、みんなは見逃していた。だから、そのまま進む。さて、次はどうなるのかなと、いよいよ順番に箱を開けてもらう。

キャットベルにて

キャットベルにて
 途中、どれくらいの数の箱がでてくるだろうと、みんなに予想してもらったら、せいぜいが10個程度だったことにも、私はニンマリ。少しずつ小さくなっていく箱。その箱を開けて、次々に思いがけない折り紙のキャラクターをみつけて、びっくりの表情。箱を開けるたび、まわりを囲んだみんながそれをのぞきこみ、開ける順番にワクワクしている子どもたちの表情。私は順番にそんな子どもたちをけしかけながら、次の箱が出てくる時のさまを写真に収めて、一人で満足している。それらの写真は、子どもたちの許可を得ていないから、ここには掲載できないが、たった一回限りのその場面で、子どもたちはそれぞれにいい表情をしている。これが、私の折り紙ボランティアの代償とするなら、これ以上のものはないとも思える。おそらく、私が一番楽しんで、このびっくりタイムは終わった。

 いつか、別のところで、別の形で使えることもあるのだろうが、私として、この一年一緒にやってきた子どもたちの前でできたことだけで十分。さて、来年度も児童館から「折り紙クラブ」の依頼を受けたので、4月最初の時間は「あんぱんまんバッジ」を作ることにしている。来年度はどんな子どもたちがやってきて、どんな具合に騒々しくなっていくのだろうか。それから先、何をどうやっていくのか、また頭を悩ますのだろうが、先のことはその時になって考えればいい。

困ったこと
 私はひとつのことに夢中になると、途端にほかのことができなくなってしまう。これは、以前からそうで、会社勤めの頃もそうだった。さすがに会社の時はなんとかごまかしていたのだが、いまもってその癖だけは消えない。とにかく、このびっくり箱ができないと、ほかのことにとりかかれなかった。そんな状態が3週間も続いたことになる。ただし、家事見習いである時間帯と家族でどこかへでかける時は例外。そんな事情も頭にあって、今回はたっぷり時間を取ったつもりが、いつものように欲張ったせいで、結局できあがったのはぎりぎり。こうして、しなければならない一番大事な身の回りの整理はどんどん遅れていく。(この話は次回)

朗読ボランティア
 外へでかけていく、もうひとつの機会は朗読ボランティア。「これから、なにかをするなら、あなたの声を生かした朗読がいいのでは・・・」と、ある時ある人から勧められた。それまで、朗読の経験などまったくなかったのだが、試しに声に出して本を読んでみたら、意外に心地よかったので、県が募集していた「視覚障害者のための朗読ボランティア養成講座」に応募した。ちょうど3年前、会社をやめて、時間ができた。この時、20名の定員に78名の応募があったとか。スタジオに入っての録音テストでは、やっぱりあがってしまったのだが、なんとか最初の試験にはパスできたようで、その後一年間の結構厳しい「養成講座」なるものに通い、さらに一年間の研修期間を経て、晴れて(?)朗読のボランティアというものが可能になった。

音訳(テープに本の内容を吹き込む)
 そんな経緯から、現在視覚障害を持つ方々への三種類の朗読ボランティアに関わっている。ひとつは、カセットテープに本の内容を吹き込むこと。これは音訳といって、本に書いてあるものを一字一句正確に音にするもので、録音室に通い、中にこもって、ひたすら本を読み続ける。正しいアクセントと正確な読み。感情といった個人的なものをできる限り抑えた形で、なにより本の活字が正確に音声に変換されることが大切で、やってみると、これはかなり孤独な作業だった。それに、まだ慣れていないせいもあって、一冊読み終えるのにかなりの神経を使うものだということも知った。吹き込んだものを聞き直し、間違いを直し、これで大丈夫と思っても、読み違いは必ずあるもので、校正の方に意外なところを指摘されることも多い。

録音室の中

ボルトン・アビイ
 面倒なのは、カセットテープという、ちょっと時代から取り残されかけている媒体への録音。読み間違った箇所を直す場合、限られた場所にきっちりとその言葉をはさみこむのは特殊技能に近く、これにかなりの時間を使うのは応える。ただ、この4月からはDR−1というデジタル録音ができる機械も使えるようになり、これは自宅でも録音が可能なため、この機械に慣れさえすれば、随分楽になるような気がする。最近読んだのは、阿久悠著「生きっぱなしの記」(日本経済新聞社刊)。そして、次も彼の著作「清らかな厭世(言葉を失くした日本人へ)」(新潮社)。この著者が昨年(2007年)夏亡くなる前、NHKFMラジオ「ミュージックメモリー」の中で、アナウンサーの葛西誠司さんと語っていた内容に心が惹かれ、この番組を毎週聞くようになったのがきっかけ。彼の言葉をもっとじっくりかみ締めてみたい気がして、また彼の本を選んでみた。

対面朗読
 ふたつめは対面朗読。これも録音テストを経て、あるところに登録。時々そこからの要請があって、そのたび指定された本を相手の目の前で読む。この場合、初めて読む本がほとんどで、下読みもなく、ぶっつけ本番。これには、最初のうち結構緊張した。それに、私自身、まだまだ声の持久力はないようで、休憩をはさみながら、最大二時間という朗読時間は確かにくたびれるのだが、反応が一番直接的だし、初めての本をいきなり読むことにも慣れてきて、違った楽しさを感じるようになった。それに、自分では手に取ることもないような本を読み、思いがけない世界を知ることができたりする。依頼された方との話がおもしろかったりする。

「声の定期便」
 もうひとつは、毎月発行されている「声の定期便」というテープへの吹き込み。私には二ヶ月に一回、その担当がめぐってくる。その中で、私はスポーツ・コーナーを担当している。ここでおもしろい(?)のは、自分で話題をみつけ、原稿を書き、それをスタジオで読むこと。自分で文章を綴るため、読みにくい言い回しを避けた文章はできるのだが、その内容に欲が出てしまい、制限時間8分以内(時々これをオーバー)の原稿にとりかかるまでが億劫。自分なりの話題をみつけ、できればそれに自分の思いというものを組み込みたいと欲張るから、毎回その日が近くなってくると、落ち着かない。それでいて、形になって、それなりに役目を果たすと、それまでのことを忘れてしまう。

世界陸上大阪大会:男子400mリレー表彰式

大阪大会:惨敗に終わった日本選手団の胴上げ
 ところで、ネタはどんなところからみつけるかというと、ひとつは本。それで、図書館のスポーツ・コーナーの書棚はよくのぞく。本屋ものぞく。もちろん、インターネットものぞく。そんな具合に、あちこちをキョロキョロしていると、毎回のテーマはなんとなく、それとなくみつかってくるものだ。もうひとつの手として、実際のスポーツを見に行く。これも嫌いではない。ただ、たいていの場合、金がかかる。手軽なのは野球とサッカー。時に、私が好きな陸上競技を話題にすることもある。以下、それが目的ででかけたわけではないのだが、ついてーまにしたくなる、これは長年の夢のひとつだった「世界陸上」観戦記。

「世界陸上」への一人旅
 かつてマラソンランナーだったこともあって、私は陸上競技が好き。他人の評価で優劣がつくものではなく、走る・投げる・跳ぶという、シンプルなことで記録を競うところがいい。いつか生の「世界陸上」をこの目でみたいと思っていた。会社をやめ、時間だけはできた。陸上競技のテレビ観戦には興味がない。話は極端なのだが、スポーツ観戦なら、やはり「生」に限るといつも思っている。その意味で「世界陸上」は格好のイベントだった。どうせ見るなら、世界一流のものがみたかったから。会社をやめた時、まっさきに「世界陸上」のことが頭にうかんだ。そして2005年8月ヘルシンキで開催された第10回「世界陸上」へは、会社をやめた勢いででかけられたような気がする。(プラス、何かをあせっているような気持ちが少々)
 一人旅になったのは、「真夏の炎天下、一日中スタンドに座っているなんて、とんでもない。おまけに、それを9日間も続けるなんて、そんな気違いじみたことはできない」と妻にも同行を断られたせいだ。腰痛持ちの私も、体力に不安はあったのだが、いま行かなければ、もう行けないだろうという、いつもの言い草ででかけてみて、いまは本当によかったと思っている。

親しくなったカナダの人たち、手に折り紙

スタンドに広がるフィンランドの声援
 実を言えば、こんなにじっくりと陸上競技をみたのは生まれて初めてのこと。それに、日本ではマラソンを除けば、マイナーでしかない陸上競技を、こちらは国民の中に深く浸透しているヨーロッパ・フィンランドの地で見れたこと。そして日本では味わえない、フィンランドならでは(?)のスタンドの雰囲気を体験できたことは、私の人生の中でも画期的なことではなかったかと思っている。そして、今迄胸の中でくすぶっていた、いろいろなもやもやが晴れた。

無限のドラマ
 「世界陸上」といえば、日本では某社がテレビ中継を独占。織***がそのキャスターを務めている。この番組には、ずっとイヤなものを感じていた。独占した映像をうまいこと使って、たいていはテレビお決まりの日本向けドラマを作りあげ、それを一方的に押しつける感じで、やたら騒々しいスポーツ・バラエティーになっている。もしかしたら、ヘルシンキへ出かけようとしたのは、こうしたテレビの世界(目)に反発し、そうじゃないものがあることをこの目で確かめ、見つけたいという思いがあったからかもしれない。それを、私はみつけられたような気がする。
 やはり、スポーツ観戦は「生」に限る。そんなことをしみじみ実感できた。私が求めていたのは、競技の結果よりも、その場にいてこそ感じられるものだった。もちろん、それは競技そのものであったり、競技前後のことであったり、あるいは競技とは直接関係のないものであったりする。テレビカメラの都合で映されているものではない、自分の五感で体験できる世界とでもいったらいいのだろうか。
 だから、時にそれは競技そのものを離れたところにあったりする。実際のスタジアムでは、テレビほど詳細な情報があるとは限らない。おまけに、ほかのことに目が向いていて、大事な瞬間を見逃してしまうこともある。それでも、私がヘルシンキで実感できたもの、そして満足感はあのバラエティー番組「世界陸上」の比ではない。私がいるスタジアムには無限のドラマがあった。あとは、私が出会えるかどうか、みつけられるかどうか、感じられるかどうか・・・だけだった。

「観戦ツアー」体験
 2005年ヘルシンキ世界陸上へは、さる旅行会社の観戦ツアーに申し込んででかけた。一人では、チケットの購入やらなにやら面倒なことが多すぎた。それで、大会期間すべてのチケットが込みのツアーとなったのだが、こうしたツアーには陸上競技関係者や出場選手の関係者も混じっていて、ここでは思いがけず、戸惑う体験もあった。
 私の目的が日本選手を応援することではなかったからだ。世界陸上ならではの「世界一流の生」を見たいという思いが強く、日本選手にそれほどの関心があったとはいえない。むしろ、そうした応援でほかのシーンを見逃すのが惜しかった。その意味で、ちょっとだけ困った。大会期間を通して共通の席はそんな応援が目的の人たちと隣り合わせることになったからだ。

母親の声援

女子400m予選(大阪大会)
 それで、日本選手の応援という時間帯も当然でてきた。もちろん、選手の関係者、とりわけ選手の親という立場が理解できないわけではない。もしそういう状況になったら、おそらく私は人並み以上に目の色が変わってしまうに違いないと思うくらい、理解はできる。実際、そうしたご両親が隣にいて、話を聞けば聞くほど、その気持ちは痛いほどわかる。だから、思いがけず関係者の方々を「生」で感じ、そうした人たちの世界を体験できたことは嬉しい。しかし、それ以上に、なお魅力的な世界一流の選手たちの「生」が私の目の前にあった。

どしゃぶりの後の開会式第二部
 このヘルシンキ大会、期間中は連日のように雨が降った。しょっちゅう雨が降ってきて、しばらく降ってあがる、そんな繰り返しだった。会場へ傘の持込みは厳禁で、雨の時は合羽を着ての観戦になるのだが、雨などモノともしないフィンランドの人たちがまず印象に残った。初日、午前中に予選があって、夕方に開会セレモニーの後、再び競技が続き、女子10000m決勝が夜の最終種目。この時点ですでに10時に近い。プログラムによれば、この後開会式の第二部なのだが、雨が激しくなってきた。覚束ない英語で係りに聞いてみると、そのうち始まるという。ところが、そのうちがなかなか始まらない。雨は激しくなる一方で、日本のツアー客はあらかた宿に戻ってしまった。私も戻りかけて、やっぱり惜しいから、雨を避ける形で屋根のあるところに移動して、その時を待った。かなり待った。

どしゃぶりの中、じっと待つスタンドの人たち

やっと始まった開会式第二部セレモニー
 夜の10時半、一向に始まる気配のないスタンドでは、観客が合羽姿で雨に打たれたまま、その時を待っている。こういう光景はなかなか日本にはない。ましてや、陸上競技のスタンドでは。やがて雷が鳴り、どしゃぶりの雨はますます激しくなる。それでも動かない観客がいる。一体、どれくらいの時間が経ったのか、私にはその感覚がない。しかし、やがて突然、開会式第二部のデモンストレーションは始まった。カラフルな出で立ちの演技者たちがローラースケートで登場、それからセレモニーは深夜まで続いた。雨はいつのまにか、止んでいた。

連日の雨、しかし
 雨は、毎日降った。しかし、観客は平然としたものだ。雨はそのうちにあがる。そして、また降ってくる。夏の雨、心地いい時もあれば、肌寒く感じることもある。雨上がりの光景を何度もみた。日が沈むのが午後9時過ぎ。夜10時で、外はまだ薄暗い。そんな競技場へ連日通ってくる親子連れの姿が、いまも心に残っている。雨模様だから、合羽を着て、長靴をはき、リュックにはフィンランドの国旗をさしている。日本でも、ほかの競技で似たような光景はみかけるが、合羽に長靴はあまりない。
 この観客たちが、スタンドで思い思いに陸上競技を楽しんでいる。驚くのは、頻繁にウェーブが起こること。あちこちで、勝手にウェーブを起こす。たとえ、一度や二度不発に終わっても、しつこく何度か続けていると、やがてそれが大きなウェーブとなってスタンドに伝わり、広がっていく。このウェーブ、実は昨年の大阪大会では、大会の運営関係者(?)が事前にその予行演習を行なって、かろうじてなんとか形になった、実際に行なわれたのは二度か三度。

女子七種競技
 このヘルシンキで、それまで知っているようで知らなかった陸上競技を知った。その一番が混成競技。男子は十種(デカスロン)、女子は七種(ヘプタスロン)。日本では競技人口も少なく、知名度、人気もイマイチの競技だが、欧米では過酷なトレーニングによって万能な能力を備えた鉄人たちが競う種目として、高い注目を集めていて、この優勝者は男子なら「キング・オブ・アスリート」、女子なら「クイーン・オブ・アスリート」と呼ばれ、大きな尊敬を集めている。

 参考までに、それぞれの競技順は・・・<デカスロン>1日目=100m、走幅跳、砲丸投、走高跳、400m、2日目=110mハードル、円盤投、棒高跳、やり投、1500m、<ヘプタスロン>1日目=100mハードル、走高跳、砲丸投、200m、2日目=走幅跳、やり投、800m

 女子から始まるこの混成競技、最初はただ漫然と眺めていたような気がする。私には、ほかの種目の合間をぬって行なわれている感じがしたからだ。ところが、種目が進むにつれ、スタンドがその結果に敏感に反応し始める。そして、雰囲気が少しずつ変わってきた。そのうち、私にも個性的な選手たちが見分けられるようになってきた。まず、スウェーデンのカロリーナ・キュルフトが目を引いた。世界選手権連覇の彼女は、まさにエレガントな女王の風格があった。

その感激の光景
 なんといっても、一番の驚きは女子七種競技の最終種目800mが終わった後のこと。レースは6種目を終えた時点の得点で3組に分けられる。まず下位グループの1組。2日間にわたって7種目をこなし、精魂尽き果てたという感じで、走り終えた選手たちはトラックに腰をおろしたまま動けない、あるいはひっくり返ったまま。次の組が始まるまでのしばしの時間、この競技に限ってなのか、そういうお休みの時間がある。実は、それほどに過酷な競技なのだ。しばらくして、シューズをぬいだりしながら、選手たちはトラックの脇によける。2組がスタート。ゴール後また似たような光景。そして、優勝がかかった最終組。キュルフトはこの種目も2位でゴールし、優勝を決める。この組の選手たちもトラックにひっくり返り、優勝のキュルフトは腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいる。
 やがて、優勝したキュルフトのまわりに選手たちが集まっていく。彼女への祝福、そして他の選手同士、お互いの健闘をたたえあって、それぞれにハグしあい、握手を交わしている。ここまでは、そんなに不思議なことでもない。やがて選手たちは一列に手をつなぎ、トラックをまわり始めた。もちろん、スタンドの観客の声援に応えるためだ。シューズをぬいだままの選手もいる。そして、バックスタンドの前では、全員がつなぎあったその手を一斉にあげ、次にスタンドに向かって礼をする。こうして、最後まで残った選手たち全員がトラックを一周。そのための時間が、この日のプログラムにちゃんと組み込まれていた。この光景を私は初めてみた。すごい。

女子七種競技終了後(大阪大会)

全員によるウィニング・ラン(大阪大会)
 その同じ光景を、昨年夏、私は16年ぶりの日本開催となった大阪(長居スタジアム)でも見た。ところが、選手たちがトラック一周を終える前に、次の種目男子400M障害準決勝のため、メインスタンド前にはすでにハードルがセットされていて、全員のウィニング・ランが最後は尻切れトンボのような形で終わってしまい、とても残念。ところが、数人の選手たちは手をつないだまま、そろってそのハードルを飛び越えた。なんというジョーク・パフォーマンス。

[2007世界陸上]大阪大会
 私は、もう一度「世界陸上」をみたくなった。それで、昨年(2007年)8月、ゴールド・シートなる通しのチケットを買い、連日30度を超える大阪で、いま思えば、ヘルシンキ以上にハードな9日間を過ごした。世界212の国と地域から、約3200人の選手・役員が参加したこの大会、スタンドには各国から観戦や応援に訪れた人たちがたくさん。私の席の近くでは、スウェーデンのユニフォームをきた10人ほどのオジさんたちが、スウェーデン選手の跳躍のたび、ニックネームで呼び、奇声をあげ、手拍子と歓声で応援。ジャマイカからやってきた人たちは、国旗をかかげ、声を限りの大騒ぎ。びっくりしたのは、ヘルシンキで私の前に座っていたエストニアの若い夫婦が、5メートル先の席に座っていたこと。

再び出会ったエストニアの夫婦

ジャマイカの熱狂的な応援
 さて、ジャマイカ。この国は短距離などでメダリストや入賞者がたくさん出て、その熱狂ぶりはうらやましい。女子100mのベロニカ・キャンベルは、アメリカのローリン・ウイリアムズと同タイムの11秒01。きわどい写真判定で優勝。レースの興奮、終わった後のざわめきとはまったくの別世界がしばらく経って行なわれた表彰式。キャンベルのはにかむような笑顔と、ジャマイカの静かな、美しい旋律の国歌が心にしみた。表彰式で聞く国歌は圧倒的にアメリカ合衆国が多い。しかし、スタンド全員が起立、脱帽。国旗掲揚台を向いて、聞く国歌はどれもいい。

出場資格、参加条件
 女子100m一次予選第4組に出場のイエメン、ワセラファド・サードは顔をスカーフでおおい、長袖にタイツ姿で登場。6組に出場のアフガニスタン、ファティマ・モハマディもスカーフをし、半袖のシャツにトレパン姿。記録はそれぞれ14秒31、16秒17と他の選手に大差をつけられての最下位、それでもモハマディは自己記録を更新。世界陸上に出場できる条件は、前回の優勝者、各標準記録突破のほか、それができなかった国や地域では、10000m、3000m障害、混成競技を除いた種目に男女一名だけ参加が認められていて、ほかの種目にもそんな条件の選手が出場、彼らを応援するプラカードを持った人たちもスタンドにはいた。もうひとつ、世界陸上のあまり知られていない一面。それはトラックでの車椅子競技。大阪では男女1500mだけだったが、ヘルシンキ大会では男子車椅子やり投げ、女子弱視者200m、男子車椅子200m、100mがあった。

女子100m一次予選(大阪大会)

男子50キロ競歩、エーリック・テュッセのゴール(ノルウェー)
 男子競歩50キロ。炎天下をひたすら歩く。競技場を出て、一周2キロの周回コースを23周と4分の3し、競技場へ戻ってくる50キロ。歩き方の制約があって、3回の警告を受けた選手はその場で失格。日本の山崎は係員の誘導ミスで失格となったが、このレースで私が一番印象に残っているのは、3時間51分52秒の自己新記録で5位に入ったノルウェーのエーリック・テュッセ。ゴールした彼は、空に向かって、繰り返し、繰り返し大きな叫び声をあげた。炎天下、厳しい監視の中、やっとの思いでのゴール。天に向かって、叫びたくなる彼の気持ちがわかる。その後彼は、脱いだシューズを両手に持って、トラックのあちこちをはしゃぎまわった。ゴール後、足の痙攣で動けなくなった選手もいる。

猛暑大阪での9日間
 私もそんな炎天下の長居スタジアムに9日間通い続けた。ホテルは長居スタジアムからJRで4つ先の天王寺。朝8時(早朝スタートのマラソン・競歩がある時は6時)にホテルを出て、午前の部は遅くて2時頃までスタジアムで観戦。すぐさま、冷房の効いたホテルへ戻り、食事をしながら、体を冷やし、一休み。午後5時過ぎに再びホテルを出て、決勝種目が多い夜の部を見て、ホテルへ戻ってくるのは11時前後。こんなことを、言葉にはできないくらいに暑い大阪で9日間も続けた。おそらく見たい一心、勝手に沸いてくる興奮で、体が続いたのだと思う。

ゴールド・シート
 購入したチケットはゴールド・シート。これは、メインスタンドの結構いい席で、なにより嬉しかったのはVIP席に類したところ以外へは、自由に移動できたこと。幸か不幸か、大会期間中満員になることはほとんどなかったので、私は集中してみたい競技種目に合わせ、スタジアムの好みの場所へ身軽に移動していた。たとえ指定席でも、空席は必ずある。各国の各種目のコーチがそばにいることもあった。万が一、その席の人がきたら、また空いている席へ移動すればいい。それに、できるだけ日差しを避ける工夫もこれでできた。プログラムを見ながら、私はその日の移動スケジュールを立てる。この移動のため、スタジアムの中を随分歩くことにはなったが、おかげでいろんな場面に出会えたと思う。逆に、黙って自分の席にいれば、目の前で見られた場面を見逃したこともある。

男女混成競技、二日間のドラマ
 大阪で見た女子七種競技(ヘプタスロン)。若き女王、良家のお嬢様のようなスウェーデンのクリュフトと、じゃじゃ馬娘、野性味たっぷり、ウクライナのブロンスカとの対決は見ごたえがあった。あくまで華麗で、マナーがよく、社会的活動もして、優等生タイプのクリュフト。一方は破天荒、雄叫びをあげながら競技するブロンスカ。飲料用のペットボトルの入ったバケツで顔を洗ってみたり、トラックの上で自在に仰向けになって、気持ちを集中させる。競技のたび、私は観戦の場所を変え、その二人を中心に、心にひっかかってくる選手を追いかけていた。優勝は7種目中6種目でブロンスカを圧倒したクリュフト。そのクリュフトを唯一上回ったブロンスカの走り幅跳び3回目の記録は自己ベスト6m88。(因みに、日本記録は池田久美子の6m86) この時の鬼気迫る跳躍までの彼女を、私はすぐ目の前でみていた。

3回目の跳躍で自己ベスト6m88のブロンスカ(ウクライナ)

3回目の跳躍でやっと4m40をクリアのシェルブレ(チェコ)
 男子十種競技(デカスロン)。優勝は9026点という世界記録を持つチェコのロマン・シェルブレ。彼は8番目の種目・棒高跳びで大ピンチに追い込まれる。たいていの選手がパスをした、彼も楽々跳べるはずの4m40の高さを、なんと2回も続けて失敗。トップ争いをしている彼がもし3回目で失敗すれば、棒高跳びのポイントはゼロ。その時点で彼は脱落する。そんな絶体絶命で迎えた3回目の跳躍。私は、それまでの彼の動きをじっとみていた。彼はかなりの余裕を残して、バーを越え、空中で目頭を押さえる。その後棒高跳びの最終的な記録を4m80まで伸ばし、9番目の種目・やり投げで、ジャマイカのモーリス・スミスとの221点の差をひっくり返し、逆に44点の差をつける。この44点とは、最後の種目1500mに換算すればたった7秒の差。その1500mでは、先行するスミス選手を必死に追いかけ、1秒4の差でゴールし、シェルブレ優勝。そして、最後まで残った23人全員による場内一周のウィニング・ラン。

スタジアムの大歓声
 メダルが期待されたハンマー投げの室伏が登場すると、場内は大歓声。ハンマーが夜空に舞い上がると、その歓声がウォーという声に変わり、空中のハンマーを追いかける。やがてハンマーはドスンという音を立て、80mラインの手前に落ちて、今度はアーアというため息に変わる。3投目でやっと80m38。場内の歓声と一緒にハンマーを追いかけていると、1センチでも遠くへ飛んでほしいという思いが、空中のハンマーに届いていくような気がして、とても不思議。場内がひとつになった感じがした。
 しかし、この夜一番遠くへ飛ばしたのはベラルーシのイワン・ティホン。それまでファールが3回、80m77で4位だった彼の6投目、記録は83m63。最後に劇的な逆転優勝。2週間後の9月9日、イタリア・リエティのグランプリで、今度は室伏が最後の6投目で82m62を投げ、わずか1センチ差でティホン選手を抑え、優勝。これが、あの夜大阪で起こっていたらと思うのだが、そうはいかない。この夜、自分の投擲を待っている間の室伏は、見ているだけでドラマを感じた。6位に終わった彼が、優勝したティホンと一緒に場内を回ったことをどうこういう人もいたが、競技が終わった後のことなら、これはこれでいいではないか。

男子砲丸投げ決勝、それぞれにその時を待つ

男子400mリレー、日本5位入賞、歴史的声援だった
 収容人数5万の長居スタジアム。一番多い36000人の入場があったのは8日目(9月1日土曜)の夜。その中で一番盛り上がったのは日本チームが決勝に進出した男子4x100mリレー。スタート前、それまでのざわざわしたスタジアムに一瞬の静寂。そして、ピストルの音。一気に沸きあがった歓声は、スタジアムそのものがうなっている感じ。たとえて言うなら、私たちが運動会の最後のリレーで聞いたことがある、あの歓声が36000人分。レースは第四走者へのバトンタッチで一瞬遅れるまで、日本はあわやメダルも可能かという位置を走っていただけに、5位という結果はとても残念。しかし予選で出した38秒21というアジア新記録をさらに更新した38秒03は立派な記録。この夜の歓声は歴史的なものに思えた。こんな歓声、日本の陸上競技ではめったに聞けない(とみんながいっていた)。

どっちが大事
 最終日の女子マラソン、銅メダルと健闘した土佐礼子のゴールの後、私はこれが「いまの日本陸上」という光景を目にした。外国選手の多くは優勝やメダルが決まった瞬間、なにをおいても、まずその喜びを体一杯にあらわし、スタンドから投げられた国旗を身にまとい、あるいはそれをかざしながら、場内をウィニング・ランする。ところが、土佐は報道のインタビューにつかまってしまった。日本待望のメダルだから、仕方がないといえば仕方がない。しかし、そのインタビューはかなりの間続き、やっと解放された土佐は日本選手そろっての記念写真に収まった後、そのまま選手通路に向かおうとしていた。

選手通路に向かおうとしていた土佐

バックスタンドの人たちに応える土佐
 それを、私はこういう場合のどさくさで入ってしまったカメラマン席でみていて、なぜか反射的に叫んでしまった。「土佐、場内を回れ、回れ、みんなが待ってるぞー」と。彼女はびっくりしたようにこっちを見上げたので、私はバックスタンドを指差し、「回れ、回れ」ともう一度叫んだ。やがて、近くから彼女に日の丸が渡され、その日の丸を持って、彼女はトラックへ戻った。まわりのカメラマンからは、「あんた、一体何者なんだ」という顔をされたが、そんなことはどうでもよかった。テレビに向けたインタビューとは違う、もっと大事なものがあるはずだと私には思えた。これは、その場にいたからこそ、叫べたこと、感じたこと。かなりのふらふら状態(?)で選手通路に向かっていた土佐が、その時どういう状況だったのか、どんなことを考えていたのか、私はしらない。

 最後にもうひとつ、これは静かに叫ぶ。主に予選が行なわれた午前の第一部は平均15000人と空席が目立った。こういう機会を子どもたちに安い料金で提供するプログラムもあったようだが、私にはその数はやっぱり少なすぎた。あの大都市大阪で、せっかくこんな機会があったのに、とても残念。(注)実は調子に乗って(?)、もっともっと書きたいのだが、本筋(連載タイトル)から大きく外れてしまっているので、この辺で強制終了。

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