んだんだ劇場2008年7月号 vol.115
No57
水周りには手すりが似合うのだ

 「トイレとお風呂の手すりは,大工さんに取り付けてもらいます。今月の予定を確認したら,大工さんは忙しく,今月末しか工事ができないそうです。申し訳ありませんが,1ヶ月間,手すり無しの生活になりそうです」と福祉業者の方。
(仕方のないことだなぁ。ここまで,順調に進んだのだから)と,僕は思いました。
 トイレとお風呂に手すりがないと,僕は不便を感じます。お風呂の場合,浴槽に入るとき,手すりをつかんで浴槽の淵をまたいで,浴槽に入ります。身体のバランスを整えるために,手すりは必要です。また,浴槽から出るとき,手すりを掴んで立ち上がります。手すりが無いと,僕は浴槽から出ることができません。僕が入浴するとき,手すりは必要不可欠です。そして,浴槽の深さが50p以上あれば,足が浴槽の底に届きません。そのため,【浴室すのこ】を洗い場に敷いて,浴槽までの深さを50p以内に調整しています。【浴室すのこ】は,転倒防止の滑り止めが付いたマットです。僕の顔を見て,福祉業者の方は「プラスチック製で,水切りも良いマットです。三戸さんが気をつけることは,転倒ですよ。特に,一人暮らしは誰も助ける人がいませんからね」と言いました。「洗い場で転倒するなんて,今までなかったよ」と,僕は笑いながら言いました。でも,転倒して, どうやって起き上がるのかなぁと想像すると,暢気に笑っていられなくなりました。
 僕は浴槽に入ることができなく,シャワーを浴びていました。「湯船に浸かっていないから,あまり疲れがとれないなぁ」と,友人に愚痴っていました。浴槽の手すりが取り付くまで,毎週日曜日に友人が近くの銭湯に連れて行ってくれました。湯船に浸かり,足を大きく伸ばしたとき気持ちの良さ。「1週間ぶりの浴槽は,最高!!筋肉が緩んで,疲れがどっと感じるよ。ありがとう」と,感謝の気持ちを伝えました。「そう言ってくれると嬉しいなぁ。浴槽に手すりなんて,俺が気にもとめないことが,ガクちゃんの生活には大切だね」と友人。週1回の入浴で,心身がリラックスできました。"入浴する"という当たり前の行為ができなくなって,そのありがたさを実感しました。
 床から洗い場まで,27pの段差があります。この高さでは,僕の足は上がりません。そこで,写真のようなステップを置くことにしました。高さは13pのステップ。出入り口に手すりが付くまで,横の洗濯機に寄りかかり,ステップの上り下りをしていました。13pの高さならば,手すりなどの掴まるところがあれば,一人でも上り下りができます。何度も,この動作を繰り返しました。「1度できたとしても,偶然かもしれないしね。何回か同じ動作を繰り返して,できることになりますよ。それに,洗濯機にどれだけの力を加えているのか,把握したいので…」と福祉業者の方。これからの僕の生活を快適にするため,必要なこと。福祉業者の方は「いろいろな福祉用具がありますけど、利用者の使い方によって、適している用具が違います。一人ひとりの利用者に一番適している用具を見極めること、その用具を実際に使用していただいて、快適な生活を送っていただくことが仕事です」と話していました。
 トイレには,手すりはあった方が便利です。便座にゆっくりと座わったり,立ち上がったりするときに,手すりに掴まります。この動作は手すり無しでもできますが,手すりがあれば,動作がよりスムーズになります。今までのアパートには手すりを取り付けていたので,便座に座るときや便座から立ち上がるとき,無意識に僕の手が手すりを探していました。手すりがないことを意識すると,トイレットペーパーホルダーに片手を添えて,もう片方の手を壁に突っ張って,便座に座ったり,便座から立ち上がったりしていました。この動作も,福祉業者の方に見てもらいました。「トイレットペーパーホルダーに力を入れ過ぎると,壊れることがありますから,気をつけてくださいね」と,福祉業者の方が念を押しました。(もっともなこと)と思って,トイレに手すりが付くまで,気をつけました。
 「4月28日午前中に,大工さんが三戸さんの部屋に伺う予定です。その日の予定は,大丈夫ですか」と福祉業者の方から連絡がありました。「あと4日で,お風呂とトイレに手すりが付く…」と僕が少し高揚した気分で伝えると,「そうですよ。その日の予定は大丈夫そうなので,28日で大工さんと段取りをします」と福祉業者の方。「よろしくお願いします」と,僕は電話を切りました。その日の夕方のホームヘルパーさんに事情を話すと,「良かったね。手すりが取り付けば,やっと部屋の湯船に浸かることができますね。28日が待ち遠しいですね」と,喜んでくれました。
 部屋を歩けば,すぐそこに見える浴槽を遠くに感じていました。シャワーを浴びながら,(手すりが取り付くまで…)と割り切っていました。二十歳のころと比べて,三十歳の自分は考え方が変わったと実感しました。二十歳のとき,"手すり無しでも湯船に浸かってみよう"と,後先を考えないささやかなチャレンジ精神のような感情が芽生えていたと思い出しました。でも,三十歳を過ぎた僕は,"もし溺れたら,家族や職場の同僚,生徒に心配をかけるなぁ"と思うと,より安全な方を選んでいました。
 4月28日午前10時ころ,大工さんは来ました。早速,大工さんは手すりと工具を持ってきて,取り付けの準備をしました。最初に,手すりを取り付ける部分の強度を確認しました。「三戸さん,出来上がるまで,部屋でゆっくりとしても良いよ」と大工さんは言うものの,手すりをどのように取り付けるのか気になり,作業の様子を見ていました。そして,大工さんの許可を得て,写真を撮っていました。「壁に手すりを固定するだけですので,たいした作業ではないですよ。福祉業者の方に,手すりを取り付ける位置も聞いていますので…」と大工さん。あっという間に,浴槽とトイレの手すりを取り付けました。作業の様子を見ていると,(僕の不便さは,簡単に解決できる)と感じました。その簡単に解決できる不便さに,不便を感じていた自分が小さな人間に思えてきました。
 その日の夜,初めて湯船に浸かりました。いや〜気持ちが良いなぁ。やっぱり,部屋のお風呂だなぁ。1つの気苦労が減ったため,どっと1か月分の疲れを感じました。これで,ようやく由利本荘の新しい生活がスタートしたような気分でした。手すりがあると,無意識に手すりに手が伸ばしている自分に気づきました。手すりは僕の生活を快適にしてくれるものであり,生活必需品です。
 手すりの取り付けは,住宅改修と言います。トイレの手すり,お風呂の手すりとすのこは【居宅生活動作補助用具】【入浴補助用具】と呼ばれ,僕の自己負担額は14,700円でした。後日,福祉業者の方が集金に訪れました。「三戸さん,快適な生活を送っていますか」と言うので,「ハイ。絶好調です」と僕は答えました。「三戸さんのその笑顔が最高ですね」と福祉業者の方。思わず,僕は頷きました。


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