んだんだ劇場2008年2月号 vol.110
No44
濁酒(どぶろく)と水枕

白川郷のどぶろく祭り
 昨年の暮れ、私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路、本社・名古屋市)の同僚から、濁酒をいただいた。世界遺産、岐阜県・白川郷の「どぶろく祭り 御神酒(おみき)」である。
 NEXCO中日本では、今年7月の全線開通を目指して東海北陸自動車道を建設している。残された最後の区間が、飛騨清見インターから白川郷インター間で、同僚は1年半ほど前まで工事現場を担当していた。
 「今年も、どぶろく祭りに行けなかった」と私が言うと、「それなら、1本、分けてあげますよ」と、自宅で保存していたのを持ってきてくれたのである。
 「どぶろく祭り」は、毎年10月中旬に行われる白川郷の秋祭りである。村の中心部にある3か所の八幡神社では、自家醸造した濁酒を参拝者に振る舞う。そのために、毎年1月下旬から、酒造にとりかかるという。酒は、酒造免許がなければ、密造酒になる。全国各地の神社では、一定量以下という制限はあるものの、祭礼の時などに参拝者へ振る舞うために、免許を受けているところが多い。
 が、売ってはいけない。白川郷の御神酒は、神社に2000円の「献灯料」を納めると、2合入りくらいのを1本いただけるのだそうだ。
 「完全に発酵が終わったわけではない」と言われたので、瓶が破裂しないよう冷蔵庫に入れておいて、年末に千葉県いすみ市の家に持ち帰った。
 栓を開けると、これは、これは……米の粒がまだ残っている酒で、しこたま、うまかった。しかも、強い酒だった。あとで調べたら、白川郷の濁酒は、度数19.6度もあるという。通常の市販清酒がせいぜい17度だから、かなり強い。そして、なんだか懐かしい味でもあった。

トロトロと流れ出る濁酒
 私の本棚に、「密造王国秋田のどぶろく史」と副題がついた『どぶろく物語』(長山幹丸著、秋田文化出版社、1977年)がある。明治になって酒造税ができ、さらに、日清戦争(明治27〜28年)、日露戦争(明治37年〜38年)の戦費を調達するために大増税されたことは、この本で知った。
 しかも明治32年、それまでわずかの監察料を払えば造ることができた個人酒造が、いっさい禁止となった。以来、国民は、国の都合で改定される税金を払って酒を飲まなければならなくなった。今でも、酒税は引き上げの相談ばかりされている。酒税が下がったのは、たった一度、消費税が導入されたのに伴って、1989(平成元)年4月、従価税(価格に税率をかけるので、原価の高い酒ほど最終的な値段がはねあがる)が廃止されて、従量税(アルコール量に応じて課税する)一律の税制になった時だけだ。おかげで、輸入ウイスキーやブランデーが、ぐんと安くなった。
 酒が安くなったのは、これしか記憶がない。
 のんべえとしては……エエィ! 腹が立つ。
 ところで、亡くなった母親の実家では、私が子供のころ、大いに濁酒を造っていた。もちろん、密造である。ばあ様が、濁酒造りの名人であった。
 母親の実家は、阿武隈山地の北辺に近い、福島県相馬郡飯館村にある。家の裏山に横穴が掘ってあって、「ここは、一年中、温度がそんなに変わらないから、酒を入れておくのにいいんだ」と、ばあ様が言っていた記憶がある。
 そのころには、だいぶ緩やかになっていたと思うが、税務署の摘発はあったはずだ。たぶん、そのずっと前のことだと思うが……「駐在が、村人を裏切った」事件があった。
 税務署員が村に来ることは、駐在所のお巡りさんが、こっそり村人に知らせておくのが慣例のようになっていたのが、ある時、新しく赴任して来た「真面目な警官」が、それを知らせなかった。だから、あちこちで密造の濁酒が見つかって、酒は捨てられるわ、罰金は取られるわで、村人は皆、逆上した。
 で、急きょ、村をあげての消防演習が行われた。
 村中にある消防ポンプを集めたのは、駐在所の前である。
 「目標、駐在所。放水開始」と、消防団長の指揮で、一斉に放水した。消防ポンプの勢いはすさまじい。駐在所の窓ガラスなど、粉々である。駐在所の中も水浸し。「真面目な警官」が、「勘弁してくれ。この次は、ちゃんと知らせるから」と言ったかどうかはしらないけれど、じい様が笑いながら話していたから、そんなに古い話ではないのだろう。
 秋田の『どぶろく物語』にも、税務署員と、濁酒密造農民の「戦いのエピソード」が、たくさん紹介されている。
 さて、ばあ様の濁酒……である。
 これは、我が父親も楽しみだったようだ。だが、飯館村から福島市まで、まだ泡がプツプツたっている発酵途中の濁酒を運ぶのは、容易じゃなかった。今は車で1時間もかからないが、当時は道路が悪く、バスで2時間もかかった。きっちり栓をした一升瓶では、ガタガタ揺られているうちに、発酵で出されるガスが溜まり、ポーンと栓が飛んでしまう。栓の代わりに稲ワラを瓶の口にギュウギュウ詰めると、ガスは適宜抜けるが、バスの中に酒の匂いが充満してしまう。こいつは密造酒だから、匂いが漏れては困るのである。
 そこで、ばあ様は考えた……
 私が小学校6年生の時(昭和38年)だったと思うが、1人で飯館村に遊びに行っていて、帰る時に、ばあ様が、「お父ちゃんに、酒持っていけ」と、私に渡したのは、ゴム製の水枕だった。
 「水枕がふくらんできたら、バスの窓を少し開けて、口金をそっと緩めて、ガスを外に出すんだ」
 ゴム製の水枕は丈夫なもので、かなりふくらんでも、破裂したり、口金がはずれたりすることもなかった。この手は、前に父親からも聞いていたので、私も「ちゃんと」できた。濁酒を運ぶために、母親の実家には、7個も8個も、水枕があった。
 白川郷の濁酒を飲みながら、私はそんなことを思い出したが、父親は、「濁酒を造りたいな」と言い出し、「貞仁から本を借りているんだ」と言った。『ドブロクをつくろう』(前田俊彦篇、農文協)という本だった。それを自分の部屋から持ってきた父親は、「房総半島は暖かいけど、今の時期なら、うまい濁酒が造れるはずだ」と言った。
 私の本棚には、『日曜日の遊び方 酒をつくる』(山田陽一著、雄鶏社)もある。
 かみさんでもいいから、濁酒を造ってくれないかと、私は期待している。

謹賀新年 七福神
 「正月飾りを買ってくるの、忘れた」と大晦日に言っていたかみさんが、元旦になったら、玄関の下駄箱の上に、七福神を飾っていた。

豆人形の七福神
 九谷焼風の皿の上に並べた、七福神の豆人形である。なるほど、正月らしい飾りだ。かみさんは、七福神を描いた盃も持っていて、娘や、弟一家がわが家で年越しをした時には、それでお屠蘇を飲んだこともあった。今年の正月は、父親と、かみさんと、私の3人だけだったから、そちらの出番はなかった。
 恵比寿、大黒、弁財天、毘沙門天、布袋、福禄寿、寿老人が、通常の七福神。この中で純粋に日本の神様は恵比寿だけらしい。大黒、毘沙門天、弁財天はヒンズー教に起源があり、布袋、福禄寿、寿老人は中国に由来するという。ずいぶんといい加減なものだとも思うが、いずれも福の神で、商売繁盛にご利益があるとか。七福神が勢ぞろいしたのは、室町時代だといわれるが、庶民の神様として次第に人気が出てきたそうだ。
 正月元旦から7日まで、七福神を祀る社寺を巡って、1年の福運を祈る七福神参りもあって、各地にそのコースがある。
 私が住んでいる房総半島、いすみ市周辺にも「外房七福神」なるものがある。全部を訪ねたことはないが、我が家から山ひとつ越えた辺りにある、西善寺には行ったことがある。本堂の前に、石の七福神が並んでいたが、ここは福禄寿の寺である。

ト西善寺の福禄寿
 お堂には、身の丈2メートルもの木彫が安置されていた。しかし、この福禄寿、なんだか、変だ。
 福禄寿といえば「短身長頭」のはずなのに、頭が長くないのである。
 「昔、遠くの彫刻師に頼んで、届いたら、普通の頭だった。でも、今さら作り直せとも言えなかったと聞いています」
 ご住職の奥さんが、そんなことを言っていた。なんともおかしな話だけれど、おかげで山里の小さな寺に、「福禄寿の珍品」がおわすことになったと思えば、これもまたよし。
 めでたし、めでたし……ということで、今年も「房総半島スローフード日記」を書き続けます。ご愛読を。
(2008年1月5日)



1月のソラマメ

柳橋中央市場
 最近、出勤のとき、名古屋駅から、地下鉄東山線で隣の伏見駅にある会社まで、歩いている。20分から25分の距離だ。もちろん健康のためだが、途中にある「柳橋中央市場」を見て歩くのが楽しいからでもある。

活気あふれる柳橋市場
 何軒あるか知らないが、魚、野菜の中卸商の市場で、小売店や料理屋が仕入れに来る。調味料や調理道具の店もあって、東京・築地場外市場に似た雰囲気だ。私はかつて毎週1回、通算で4年、築地に通って生鮮食品の記事を書いていたことがある。だから毎朝、名古屋の柳橋市場は、なんだか懐かしい思いもある。
 この時期に美味となる、サワラがあった。

寒の時期がおいしいサワラ
 漢字では魚に春(鰆)と書くサワラ。春になると産卵のために沿岸に近づくので、この名がある。特に瀬戸内海では、なじみの深い魚だ。しかしそれより、いまごろ揚がるのは寒鰆と言って、最もおいしいと言われる。魚体はやや小さいが、脂が乗って、しかも身が締まっている。刺身で食べたい。
 寒鰆は、東京では相模湾のものがよいとされているけれど、場所によってそれほどの違いはあるまい。写真に撮ったサワラは、日本海沿岸の舞鶴港(京都府)からのものだった。
 しかし青物屋で、さやに入ったソラマメがあったのには、首をかしげた。産地は鹿児島県である。

1月のソラマメ
 東京では、5月の大相撲夏場所のころがソラマメの季節と言われている。私が住んでいる房総半島、千葉県いすみ市では、4月の始めに田植えをしているあぜ道で、ソラマメの花が咲く光景を目にする。いくら暖かい鹿児島でも、今の時期にソラマメを出荷するとなると、ハウス栽培だろう。
 昔、築地市場に通っていたころ、「国産のタケノコが出て来るのは12月」と聞いて、仰天した覚えがある。竹林の地中に電熱線を入れて温め、しかも、鉄の棒をそっと突き刺して、地下に芽生えたタケノコを探すのだそうだ。そして東京に着くと、それは全部、「高級料亭」に引き取られるのだそうだ。
「初物は縁起がよい」とか、「初物を食べると75日長生きする」とか、日本人は走りのものが好きで、江戸時代、初ガツオに10両の値がついた記録がある。今なら80万円から100万円にも相当するだろう。
 千葉大学園芸学部教授だった青葉高(あおば・たかし)さんの『日本の野菜』(八坂書房)によると、関ヶ原の合戦があった1600年当時、静岡県の三保(静岡市)でナスの促成栽培が行われた記録があるという。そして、縁起のよい初夢が「一富士、二鷹、三ナスビ」というのも、初ナスビがあまりにも高価なので、駿府にいた家康が「一番高いのは富士山、二番目は足高山、三番目は初ナスビ」と言ったからだという説を紹介している。
 まあ、初夢の2番目は通常、鷹だから、家康の話だけでは説得力に欠けるけれど、三保の初ナスビがとても高いことを、家康が知っていたというところが、面白い。
 江戸近辺でも、今の江東区辺りではかなり早くから促成栽培が行われていたようだ。何かの本で、障子を立てまわして、その中で火を焚き、野菜の生長をうながした絵を見た覚えがある。しかしこれは、物価高騰にもつながるために、5代将軍綱吉の時代に、行き過ぎた早出しを禁じるお触れが出された。
 現代でも、時期をずらして出荷するのは、農家にとっては高収入になるから、やめろとは言わないけれど、12月のタケノコ、1月のソラマメがおいしいとは思えない。ついでに言うと、真冬のトマト、キュウリも同様だ。そういうものは、もの好きなお金持ちの口に入ればいいと思っている。

たぶん、白山
 名古屋の冬は寒い。ことに風が冷たい。しかし、だから私は、名古屋駅から会社まで、汗もかかずに歩けるのである。
 そして、空気が澄んでいて、遠くの山々がよく見える。
 私は今、NEXCO中日本(中日本高速道路)という会社の広報室にいる。ビルの16階に職場があり、たいていのビルを眼下にしている。
 で、私の席の窓からは、正面の遠くに雪嶺が見える。
 あの山はどこなのだろうと、前々から気になっていた。
  少し左に、岐阜城のある金華山がある。逆に目を右に転じると、やはり雪を頂いた山が見えて、それは木曾の御嶽山(おんたけさん)だと言われたことがあった。しかし、御嶽山を私に教えてくれた人も、正面の雪嶺は「さて、どこかな」と言うばかりだった。
 それで先日、地図でその方角をたどってみたら、どうも、白山らしい。「越中で立山、加賀では白山」と言われる、霊峰である。

名古屋の市街地の上に、白山遠望
 JR北陸本線の車窓から、白山は、そびえたつように見える。世界遺産、岐阜県・白川郷からは間近に見える。しかし、東海北陸自動車道を走り、白川郷へ行く飛騨清見インターの直前にある「ひるがの高原サービスエリア」から、頂上部分がわずかに見えるだけだった。だから、名古屋からは見えないと思い込んでいたのである。
  しかし、高いものは、かえって遠く離れた方がよく見えることもある。沼津からは手前の山がじゃまで富士山が見えないのに、冬の晴れた日は、東京から富士山がよく見えるようなものだ。
 故郷、福島市の西側には、冬には雪の奥羽山脈が連なっていた。それが見慣れた景色だった。だから、高い山が見えない東京はつまらなかった。今住んでいる、千葉県いすみ市も、低い山の連なりばかりで……それに、ほとんど雪が降らない……冬景色には物足りなさを感じていた。
 それが、名古屋では、雪山が遠望できるのである。
 私は、うれしい。 
(2008年1月20日)


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