名古屋―東京は25分
おめでたい料理
昨年11月に結婚式を挙げた娘夫婦が来るというので、2月6日に、名古屋から、房総半島いすみ市の家に帰った。9日が、私の56歳の誕生日なので、それに合わせて来る、ということだった。
で、その夕食……かみさんが、「うまくできたかな?」と、オーブンから何か巨大なものを取り出した。
これ、なんだ? |
金づちで割る |
「ほう、ほう、塩釜じゃないか」
鯛を1尾、まるごと塩で包んで焼く料理である。「塩釜焼き」が正式名称らしい。
鯛はうろこを取り、内臓とエラも取る。卵白を混ぜ合わせた塩の上に昆布とアオジソを並べ、鯛を載せる。鯛の上にも昆布とアオジソを並べ、塩で包み、オーブンで焼く。私も一度は作ってみたいと思っていたが、けっこう手間がかかるし、ちょっと大きい鯛を使わなければならないから、めったに作れるものではない。もちろん、わが家で作るのは初めてだし、食べるのも初めてだった。
少しずつ塩を取り除くと、次第に鯛の全貌が見えて来る。塩がべったり貼りついて、尾の方は、塩と一緒に皮がはがれてしまった。が、そんなことは、かまわない。
鯛は愛媛産だそうで、日焼けの具合から養殖ものと知れる。それも、かまわない。
全身が見えてきた、塩釜焼きの鯛 |
頭は私がいただいた |
身には適度に塩が回り、ほのかにアオジソの香りもあった。身をみんなで取り分けたが、頭は私がいただいた。目玉の周囲のキョトキョトしたところが、うまい。
結婚したころ、かみさんは1尾丸ごとの魚がいじれなかった。アジなんかを丸ごと買って来ると、私がさばいたし、イカの処理も私が教えた。しかし、そのうち、かみさんは、シメ鯖も作れるようになった。そして、鯛の塩釜焼き……こういう料理にチャレンジする心意気がうれしい。
寒肥をまく
いすみ市の家から1キロほどのところに、牧場がある。と言っても、牧草地はなくて、牛舎で飼料を与えて乳牛を飼育しているのだが、ときどき、この時期、牧場へ堆肥を買いに行く。牧場では毎日出る牛糞におがくずなどを混ぜて、堆肥を作っていて、軽トラック1台分で2000円から3000円(熟成度によって値段が違う)。
軽トラックに堆肥を積む |
わが家の周囲の河川改修が終わり、家の裏(北)側に、少し平地ができた。父親が「花壇にすればいい」と言ったので、そうしようと思うが、この土は、近くのトンネル工事で出た残土を運んで押し固めたもので、何かを植えられる状態ではない。それで、堆肥を混ぜて耕すことにしたのである。それに、この寒い時期ならなんともないが、暖かくなってからでは、堆肥の臭いがものすごくて、撒き散らす作業などできたものではない。さいわい、「ムコ殿」が来ていたので、手伝ってもらってトラックから堆肥を下ろした。
裏の空き地に堆肥を下ろす |
耕運機で耕せば簡単なのだが、「トンネル残土」では、何が埋まっているかわからないので、まず、備中グワで掘り起こすことにした。そしたら、まあ、大きな石が埋まっていたり、木の杭が出て来たり……粘土質の土は、簡単には掘り起こせず、全体の3分の1程度しか作業が進まなかった。次の休みも、また土掘りになる。
牧場では、今ごろが最も堆肥の需要があると言っていた。寒肥をまくのは、夏野菜の準備かと思ったら、「そろそろジャガイモを植える人が多くてね」という。
まだ、2月である。霜の心配も残っている。それでもジャガイモを植えられる房総半島は、やはり温暖の地である。
今年も白鳥がやって来た
その温暖の地に白鳥が初めて飛来したのは、2年前だった。2006年の初め、近くの「トンボ沼」に舞い降りたのである。この冬は厳しい寒さで、わが家でもここに住み始めて8年目で初めて、畑に雪が積もった。たぶん、北国の沼や池が凍りついて、羽を休めることができず、こんな南まで飛んできたのだろうと思われた(その話は、「んだんだ劇場」2006年4月号にあります)。
「ああ、そう言えば、また白鳥が来てるよ」と、かみさんが言ったのは、正月休みから名古屋へ戻るのに、JR外房線・大原駅まで送ってもらう途中、車が「トンボ沼」のわきを通った時だった。「去年も来ていたみたい」とも言った。
「おい、おい、それじゃぁ証文の出し遅れみたいな話じゃないか」
それで今回は、2月7日の朝、7時ごろでかけてみた。すでにアマチュアカメラマンが2人いて、沼の奥まった方へレンズを向けていた。
この冬も飛来した白鳥 |
数えたら、12羽いた。一昨年は「最多で21羽確認した」と聞いているので、それよりは少ないが、こんな所で白鳥が見られるのは、うれしい。
白鳥は、午前8時ごろになると、どこかへ飛び立ち、暗くなってから沼に戻って来るようだ。一昨年は、「白鳥が来ている」という話を聞いたのがひな祭りのころで、行ってみたら、すでに姿はなかった。たぶん、今月の末には、シベリアへ向けて飛び立つのだろう。
向こうで家族が増えて、来年もまた来てくれるのを楽しみにしている。
初めて見た富士山
静岡市に立ち寄る用事があって、今回は、10日の午後4時6分、東京駅発の「ひかり」に乗った。そして、夕日にそびえ立つ富士山を見た。
新幹線から見えた富士山 |
名古屋へ単身赴任して2年以上すぎるが、実は、新幹線から富士山を見たのは、これが初めてだった。理由は簡単で、名古屋からいすみ市の家に帰るのは、名古屋駅発午後6時ごろの新幹線だし、逆もまた、東京駅発が6時ごろになるのが常だからだ。しかし理由は、それだけではない。
私は不思議なことに、新幹線に乗ってまず弁当を食べると、すぐに眠ってしまうのである。発車して10分後くらいだろう。名古屋から乗った時は、「新横浜」で目が覚める。そこから東京駅まで15分。逆方向の時は、三河安城駅で目覚める。名古屋駅までやはり15分。夏至のころなら、かすかに富士山が見えるかもしれないのだけれど、眠っていたのでは、見えるはずがない。
だから私は、いつも途中経過がすっ飛んで、「名古屋―東京間」を25分で移動していることになる。まことに便利に働く、ありがたい脳細胞である。
が、今回は、静岡で降りなければならないから、眠らずに本を読んでいた。おかげで、日本一の山、しかも雪をかぶった姿を堪能できた。
久しぶりに、新幹線で「旅をしている」気分になった。
(2008年2月11日)
狸だ、タヌキだ!
近くなった信楽の里
2月23日に、新名神高速道路が開通した。
「新名神」開通のテープカット |
現在の名神高速は、東名高速の続きで、関ヶ原を通って彦根へ抜ける。JR東海道新幹線に、ほぼ重なるルートだ。これに対して、新名神は、伊勢湾沿いに桑名、四日市と南下する東名阪(ひがしめいはん)自動車道から亀山で分かれて内陸に入り、鈴鹿峠をトンネルで貫いて草津へ抜け、現在の名神高速につながる。
実は、こちらの方が、旧東海道の道筋だった。
旧東海道を江戸から京へ向かうと、名古屋城下の手前、熱田神宮から海上7里を船で渡って桑名に上陸し、亀山から関宿、土山宿、水口宿などを経て草津に至った。どうしてこちらだったのか、と考えると、名古屋の北部を通過して関ヶ原に至るには、どうしても木曽川、長良川、揖斐川を越えなければならない。ところがこれが江戸時代は、大変な暴れ川で、ちょっと水が出れば渡れなかったからだろう。
それに今でも、関ヶ原から米原付近では大雪になることも多い。そのために名神高速は時々、通行止めになる。除雪が間に合わなくて、100q以上も車が立ち往生したこともあったほどだ。
「東海道復活」とも言える新名神高速道路も、鈴鹿峠付近は雪が降るが、関ヶ原ほどではない。ほとんどが徒歩しか交通手段のなかった時代の人々は、自然条件をよく考えて街道を選んでいたのである。
私は、この開通を心待ちにしていた。と言うのは、焼物の里「信楽」へは、信楽インターチェンジを下りて10分もかからなくなるからだ。そして、その先に、もっと行きたい場所があった。
私が今いる名古屋から信楽へ、鉄道では……新幹線で米原まで行って東海道本線に乗り換え、草津駅からJR草津線、さらに貴生川(きぶかわ)駅で第3セクターの信楽高原鉄道に乗り換える……ということになる。いやはや、その乗り換えの手間を考えただけでも、足が遠のく。
車の場合は、東名阪自動車道を亀山で下りて、国道1号で鈴鹿峠を越え、水口から国道307号で信楽へ向かう。しかし、この峠越えが、なかなかの急坂で苦労する。
それが新名神なら、インターから「すぐそこ」になる。開通を待ちきれず、その1週間前、事前取材に出かけた。
どうしてタヌキ?
信楽の市街地に入ると、笑い出したくなるほどたくさんの「タヌキの置物」が並んでいた。道の両側にある陶器店の店先は、これでもか、というほどのタヌキだ。
狸だ、タヌキだ! |
信楽焼は、鎌倉時代に始まったと言われているが、貧乏徳利と通帳を持ったタヌキ……これは「酒買小僧」と呼ばれる……の置物が、信楽を代表する焼物になったのは、それほど古いことではない。「しがらき狸学会」発行の『信楽焼たぬきの図録』によると、萩焼には江戸初期のタヌキがあるという。が、それは、単にタヌキを模したものだ。「酒買小僧」のタヌキは、明治から大正にかけて、備前や常滑で盛んに焼かれていて、そのころ、信楽でも焼き始めたが、それほど人気はなかったという。
その後、愛嬌のある顔や、真っ白い腹など、陶工たちの工夫で信楽のタヌキの人気が出て、売れるようになったら、みんなが作り始めて、そうなると技術も向上して、またまた人気が出るということになったのだそうだ。それが大正から昭和にかけてのこと。
大正時代、宮中の女官が、皇太子にタヌキの置物を差し上げたら、とても気に入って、もう一つ買いに来たという。それが昭和天皇で、戦後の昭和26年に天皇が信楽へおいでになった時、「をさなとき あつめしからに なつかしも 信楽焼の狸を見れば」という歌をお詠みになったのが、信楽のタヌキを一躍有名にしたのだそうだ。
そのタヌキは、どんな顔をしていたのだろう。
信楽の陶器店に立ってみると、実にさまざまな表情のタヌキがいる。野生動物に近い印象の怖い顔もあれば、まるでマンガのような顔もある。例の「八畳敷き」のない、メスダヌキもいる。
「タヌキ族」の一員である私としては、なんだか照れくさくなるような場所でもある。
伊賀焼の名工
実を言うと、信楽より、もっと前から訪ねたい場所があった。信楽から15分ほど車を走らせ、山を一つ越えた、三重県伊賀市丸柱という山村だ。
ここは、やはり鎌倉時代から続く「伊賀焼の里」である。
20年以上前に、日本の伝統工芸、伝統文化をこよなく愛した白洲正子さんの『日本のたくみ』(新潮文庫)を読んだ。しばらく忘れていたのだけれど、最近読み返して、福森雅武さんのことを思い出した。食べることが好きで、だから自分で料理して、自分が焼いた器に盛り付けて、味も彩りも楽しんでいる人である。
『日本のたくみ』には、底が浅く、蓋がやたらと大きい、独特の形をした福森さんの土鍋の写真があった。この蓋だと、大量の野菜でもほどよく蒸されて、色よく仕上がり、そして、野菜本来の味を引き出すのだという。
独特の土鍋と、福森雅武さん |
7代目になる福森さんの窯は、「土楽」という。16歳のときに父親がなくなって家業を継ぎ、以来、50年近く陶工の道を歩んできた。
蓋の大きな土鍋は、福森さんの創案である。それまで、こんな形の土鍋はなかった。
「食べるのが好きで、若いころから、京都へよく行って、いろいろなものを食べました。自分で料理もするから、いろいろ考えるんですよ」
その結論の一つが、この鍋である。が、もう一つ秘密の仕掛けがあった。それは、鍋の下の部分だ。鍋を取り上げると、下はこんなふうになっている。
伝統の知恵「水コンロ」 |
これは、「水コンロ」という。底に水を入れ、穴のあいた2段目に炭火を置き、その上に土鍋を載せる。こうすると、水が蒸発して、その効果で火力が強まるのだという。科学的に言うと、水蒸気の熱量はとても大きいので、炭火だけの火力をパワーアップさせる、ということなのだろうか。
「この辺では、昔から、こういうコンロがありました」と、福森さんは言う。
白洲正子さんも、この鍋で山里の恵みを堪能した一人である。
福森さんは自分で畑を耕し、四季折々の野菜を収穫する。周囲の山ではワラビなどの山菜、山椒、キノコが採れるし、川にはアユ、スッポンがいる。初夏にはジュンサイの採れる池があるそうだ。
「この辺のイノシシは、臭みがなくて、おいしいよ」というので、イノシシなんかどうやって入手するのかときいたら、「冬に、猟師が1匹持ってきて、置いていく」のだそうである。その「シシ鍋」を想像しただけで、何杯か酒が飲めそうな話だった。
そういう福森さんの1年を追いかけて、文化出版局が1999年に本を出した。
表題は、『土楽食楽』(現在4刷)。
本を開くと、私が理想とする、スローフードな暮らしがあふれていた。
(2008年2月24日)