んだんだ劇場2008年4月号 vol.112
No46
ちょっと民俗学

田県神社の豊年祭
 今年は3月15日が土曜日だったので、愛知県小牧市の田県(たがた)神社へ行ってみた。例年この日に行われる「豊年祭」を見物するためだ。
 で、どんな祭りか、と言うと……

田県神社の豊年祭神輿
 こんな神輿を担いで練り歩くのである。
 昨年、通勤で乗っている名鉄の電車で、中吊り広告のこの写真を見た時は、いやはや、たまげた。人前に、こんな物を出していいのか!
 いいのである。
 古来、延々と受け継がれた祭りであり、五穀豊穣、子孫繁栄への素朴な願いが込められている「田県神社のご神体」なのだから。
 昔、秋田県の大曲(現大仙市)にいたころ、当時の田沢湖町教育委員会の方に、「金精様」というほこらを見せていただいたことがあった。小さなほこらだったが、中には、大小のこういうものが所狭しと並べてあった。子宝に恵まれない女性が、子どもを授けてほしいと、自分で木を削って、ここに奉納しているということだった。
 3年前に訪ねた群馬県の草津温泉でも、道端でこんな物を見つけた。

草津温泉にあった道祖神
 これは、道祖神である。
 福島県の奥会津地方では、大きな家の屋根裏に、とてつもなく大きなこれが吊り下げてあったりする。それは火除け神なのだそうだ。
 道祖神や火除け神に、なぜこれが用いられるのか、民俗学にそれほど精通していない私としては理解に苦しむが、「五穀豊穣」とか、「子孫繁栄」なら、だれでもすぐに理解できるだろう。それは自然のいとなみであり、そのメカニズムは解明されているものの、自分がこの世に生を受けたこと自体が、大変に確立の低い偶然によるものなのだから、尊厳が伴うことなのである。
 と、偉そうに言ってみたけれど、田県神社の神輿の前を歩いていた巫女さんたちは、だれもが、なんだか、うれしそうだった。彼女たちは1体ずつ「ミニご神体」を抱きかかえ、沿道の人々に、「触ってください」と差し出すのである。

「ミニご神体」を抱きかかえる巫女さんたち
 そして、「オー」などと言いながら「ミニご神体」に手を出す外国人、それも欧米人らしい観光客が、やたらと多かった。ほかの祭りでは見かけない光景である。
 私の本棚に、本の名前は忘れたが、なんでもかんでも、まあ、よくもこれだけデータを集めたものだと感心させられる江戸時代の年表があって、それを読んでいたら、「イチモツ比べ」というのが江戸で開催されたという記録があった。優勝者は「あぐらをかきて、畳に余るところ三寸」(二寸だったかな?)だったそうだ。
 と、まあ、そんなふうに、昔の日本では、こうしたことが意外とあけっぴろげで、逆に言えば、欧米では「隠すべきこと」らしいから、田県神社の豊年祭は、彼らにとって「驚異の奇祭」なのかもしれない。
 この祭りは、毎年3月15日だから、来年は日曜である。名古屋から名鉄で犬山方面への電車に乗り、犬山で乗り換えて3つめの「田県神社前」で降りる。ここまで書いておけば、「よし、来年は……」と思う方もいらっしゃるのでは?

生還した人たち
 「お父さん、絶対にいい話だから、読んで」と、結婚した娘が夫婦で来た時、マンガの本を2冊買って来た。
 『岳』(石塚真一著、小学館)の1、2巻である。すぐに私はひきこまれ、今発売中の第6巻までを買いそろえた。

山岳救助隊を描いたマンガ『岳』
 主人公の青年、島崎三歩は、長野県警山岳救助隊をサポートするボランティアの救助隊員。富士山などは、1合目から駆け足で登ってしまうという、スーパーマン的な山男だ。この体力があるから、遭難者を背負って救助ヘリコプターが着陸できる地点まで登り、ある時は、途中まで担ぎ上げた遭難者が背中で息を引き取るという悲運も味わう。
 遭難者、救助隊員、時には山小屋の「おばちゃん」にも人間ドラマが展開され、ふと涙がこぼれる物語に満ちたマンガである。
 新聞記者の先輩で、世界7大陸の最高峰に登った(すべて登頂したわけではないが)という北村節子さんは、「遭難者の遺体は、もっと無残で、汚いよ」と言う。現実はそうなのだろうが、このマンガでも、その辺はかなりリアルである。
 第5巻に「その一杯」という、生還者の物語があった。
 会社を(おそらくは定年で)辞めて、たぶん松本(はっきり書いてはいないが、前後の関係から長野県松本市)で喫茶店を始めた男性が、4月に北アルプスの燕(つばくろ)岳に登って遭難する。帰りに登山道を見失い、2日間を山で過ごすことになるが、天候が変わって吹雪になり、大きな木の根元にできた空洞に入って寒さに耐えている時、島崎三歩が彼を見つけてくれた。男性は、三歩が持って来てくれた握り飯を食べようとするが、長時間寒気にさらされていたために、あごが動かなくなっている。
 すると三歩は、すぐに湯をわかしてコーヒーをいれてくれた。その温かさであごが動くようになり、飯を食べることができた。
 生還した男性は、究極のブレンドコーヒーを研究し、ついにオリジナルのコーヒー豆を作りあげる。命名は「燕」(つばくろ)。その最初の一杯を飲んでもらうために、山から島崎三歩を招く。
 この物語を読んで、私は、別のことを思い浮かべた。主として、日本海沿岸各地の神社に奉納されている、「難船絵馬」である。

石川県加賀市橋立の「北前船の里資料館」に展示されていた難船絵馬
 江戸時代中期から明治30年ごろまで、大阪と北海道を日本海回りで航行していた商船、「北前船」がある。船主や船頭が、各地の神社に、航海の安全を祈願して奉納した船絵馬がたくさん残っている。その中に、数は少ないが、荒波にもてあそばれる船を描いた、こうした絵馬がある。
 めったにないが、もとどり(髻)を切って板に打ち付けた絵馬もある。荒天に遭遇した時、大事な髷(まげ)切って神仏に祈った船乗りたちが、生還できたことを感謝するために、その髷を奉納したものだ。
 こうした絵馬が数少ないのは当たり前で、帆1枚しか動力のなかった和船が、沖合いで天候が急変すれば、どうしようもなく、北前船の歴史は「死屍累々の歴史」と言ってもいいほどだからだ。北前船が立ち寄った港の史料を読めば、遭難船の記録にあふれている。全国津々浦々に捜索願が出されたのに、全く消息が消えてしまった船もあれば、中には、岸壁からすぐ沖合いなのに、救助に向かうこともできず、船がばらばらに破壊されていくのを岸からみているしかなかった、という記録もあった。
 だからこそ、生きて再び地面を踏むことができた人たちの喜びは、計り知れない。
 松本の喫茶店主もまた、生還できた喜びを深く心に刻んだ1人である。
 島崎三歩は遭難者を発見した時、それが生存者でも、不幸にして遺体であっても、必ず「よく頑張ったね」と声をかける。そこに私は、極限の状況に置かれた人間への、慈愛のようなものを感じた。
 そして私は、娘が、こういうヒューマンストーリーに共感できる大人に育ってくれたことが、とてもうれしい。
(2008年3月16日)


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