んだんだ劇場2009年2月号 vol.122
No28
二人の芸術家(2)

 芸術家として語り合いたい真の芸術家ゲーテを想い描き、憧れていたベートーヴェンの積年の思いがベッティーナに吐露される。芸術家としての矜持が、仰ぎ見る偉大な芸術家ゲーテのなかに、内なる凱旋を夢みていたのかもしれない。
 また一八一一年四月一二日付けのゲーテへの手紙は、ベートーヴェンにしては異例なほど、相手にたいして謙虚で遜った心の内がその文面から伝わってくる。この手紙は友人であるフランツ・オリーヴァが商用の途次に、ベートーヴェンが彼に託したもので、「エグモント」への作曲とその批評の申し出であった。ベートーヴェンはゲーテへの接近にはきわめて慎重だった。単刀直入なやり方ではなくベッティーナを介し、また人をつうじて手紙を届け「エグモント」の献辞についてはブライトコップフ&ヘルテル社へ念を押して催促している。ゲーテにたいする畏敬の念が慎重にさせていたと思われる。それも総てゲーテの作品をつうじて描いていたベートーヴェンのゲーテ像に依るものであった。その心酔と尊敬には並々ならぬファン心理が働いていたのではないだろうか。
 ベートーヴェンは若いころからゲーテへの憧憬と尊敬の念を抱き続けていた。一七九九年に彼の詩「君を思う」による歌曲と六つの変奏曲ニ長調というピアノ連弾の作品WoO七四を作っている。この作品は献辞を添えてブルンスヴィック姉妹に捧げられている。また作品七五「六つの歌」はその第一曲からの三曲を彼の詩に曲を付けている。そして作品八四「エグモント」を作曲する。一八一一年二月一〇日付けのベッティーナに宛てた手紙で「それはわたしを幸福にしてくれる彼の詩をひたすら愛するから作曲したのです。│しかし一国民の至宝たる偉大な詩人に十分な感謝を表わすことなど誰にできましょうか。」とベートーヴェンはゲーテへの賛辞を惜しまない。
 後に一八二三年二月八日付けの手紙でも、作品一一二カンタータ「静かな海と楽しい航海」のゲーテへの献呈と「ミサソレムニス」の予約募集を鄭重に依頼しているが、その態度は依然として畏敬に溢れたものであった。ゲーテをつうじて君主カール・アウグスト公への口添えを申し出たのであるが、これが実現していればおそらくベートーヴェンの喜びは、この作品が表わしているような、ディオニュソス的熱狂の頂点に達していただろう。しかしこの時期のゲーテは、からだの不調や精神的に不安定だったことが重なって、このベートーヴェンの依頼に沈黙している。
 だがゲーテは一八〇六年六月、このときフランス軍の侵入により生活に窮していたヘーゲルに、カール・アウグストをつうじて一〇〇ターラーの年金を支給させている。それに添えて「ヘーゲル博士、これを少なくとも私があなたのために陰ながら働くことをやめていない証拠とお考えいただきたい」と述べている。ゲーテの意図がどこにあったのか詮索せずとも、ヘーゲルには干天の慈雨であったことは確かだ。その一〇月にも再びクネーベルから窮状が伝えられると、直ちにゲーテは一〇ターラーをヘーゲルに送るよう指示している。周囲への配慮をかかさないゲーテにしては、ベートーヴェンへの対応には何やら意識した無関心を感じさせる。
 そのヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749〜1832)は、帝国都市の一つフランクフルト・アム・マインの富裕な上流市民の家に生まれている。幼年時代は父親と家庭教師に英才教育を施され、一七六五年十六歳でライプツィヒ大学に入学する。年間の仕送りが一二〇〇グルデンだったと云われている。ベートーヴェンの父ヨハンが結婚した一七六七年の彼の年棒給が二五〇グルデンだったという。その後五年間で七五グルデン昇給して約三二五グルデンになる。またベートーヴェンが宮廷礼拝堂のオルガン奏者となった一七八四年の年棒給が一五〇グルデンだった。領邦国家間の価格レートを考慮してもゲーテの一二〇〇グルデンは、一人の学生の仕送り金額としては破格の高額であった。ゲーテは当時の市民階層のなかでも、最上級に属する裕福な家庭に生まれていたのである。財を為したのは、仕立職人だった彼の祖父がフランクフルトにやってきて、二度目の妻の財産をさらに殖財し莫大な財産を遺したからである。その息子である父はパトロンのようなことをしながら、一生を送ることができるほどの遺産を引き継いでいたのである。
 ライプツィヒでのゲーテの生活は勉学を程々に、当時のドイツ文化を吸収したり世間模様の実体験を重ねながら、文学への志向も芽生えていく。大学には新旧二つのドイツ文学の潮流を代表するゴットシェート(1700〜1766)とゲラート(1715〜1769)がおり、当時のドイツ文学界を展望できる絶好の機会を得ている。ゴットシェートはフランス古典主義文学のような「三一致の法則」(演劇における同じ一つの場で一日のうちに一つのまとまった筋によって演じられる様式)を提唱し、洗練された典雅な作劇作法を求めた。
 この規則的なやり方に反発し、想像力の復権を主張したのがゲラートを代表とする「感性の文学」の流れであった。ゴットシェートのような倫理と教訓の教化と結び付いた合理主義的な文学論は、想像力の余地を狭くし、自然界の模倣を悟性の枠に収めてしまうことへの批判である。レッシング(1729〜1781)もその一人であり、彼はまた造形美術と言語芸術の相違を明らかにし、その感化に触れたゲーテは美術、工芸、建築などへの関心を深める。絵画についてはライプツィヒ美術学校の校長だったエーザー(1717〜1799)に学んでいる。素人趣味を超えた絵の数々をゲーテは残している。ゲーテはこうしたドイツ文化の潮目の現場に立ち合うことができたのである。
 一七六八年八月、ゲーテは療養のためフランクフルトへ帰郷する。ライプツィヒでの放蕩がたたったと思われる。一七七〇年三月までの約一年半を故郷で療養した後、父の反対があったが今度はシュトラースブルクへ遊学することになる。当時のシュトラースブルクはフランス領になっており、ドイツ文化の土壌の上をフランス趣味が被い始めていた。しかし高貴で老成したフランスものにゲーテは関心を向けなかったばかりか、かえってこの対照から、彼はドイツ語とその文化の持つ独自な価値を発見する。こうした時期のゲーテに大きな影響を与えたのが、この地に滞在していたヘルダーであった。彼は民族文化の固有性をその言語の発生に注目し、彼の造語である「民謡」をつうじて民族文化のドイツ的統一を提唱するのである。
 当時のドイツの諸領邦分立の状態は、ドイツの統一を妨げていた。上からの啓蒙主義は文化のフランス化をもたらし、下からの啓蒙思潮のドイツ的勃興を拒否するという捻れ現象が起こっていたのである。それが新興ブルジョワジーのドイツ的文化の発展を阻止していたが、その反発が民族の歴史や固有の文化への回帰という形で、民族再生への道を芸術文化に求めることになったのである。ヘルダーとの邂逅は、フランス文化の模倣から脱却をめざしていたゲーテには力強い刺激となる。フランス文化の「無意味な滑らかさ」よりも自国の文化の固有性と、ドイッチュラントの民族の歴史を重視する「意義ある粗野」へと開眼していくのである。このような地域に根差した固有な文化や芸術こそ、唯一真実のドイッチュラントの文化であるという自覚であった。皮相的な様式美を捨て、人間の内面的なものへ迫っていこうとする志向は後のベートーヴェンとも重なるものである。
 またゲーテはこの遊学で敬虔主義にも触れる。過去にルターが目指した宗教改革は、教会ヒエラルヒーを否定するところからの出発だったが、ローマ教会や神聖ローマ帝国に対抗するために領邦国家と結び付いた。結局世俗の権力を受け入れる寛容な教会に堕したことから、敬虔主義が提唱したのは教会の教理よりも、神を求める個人の信仰をつうじて、教会内部を再生させようという運動である。この敬虔主義運動は古い権威を否定するという点で、ドイツの芸術的志向が内面の世界に向かう契機を作っていたのである。ゲーテはこうした潮流のなかでみずからの芸術を醸成していくのである。
 一七七一年シュトラースブルクの遊学を終えたゲーテは、フランクフルトに戻り弁護士の実務に就き、翌年五月から九月までヴェッツラーの帝国最高法院で法律実務の修習を積む。ここでゲーテはシャルロッテ・ブッフ(1753〜1828)と出会う。彼女にはケストナーという許婚者がいたが、ゲーテは二人の結婚後も厚かましくも彼等の間に立ち入ろうとする。この経験が「若きヴェルテルの悩み」の下敷きとなった。小説「若きヴェルテルの悩み」の発表は社会現象ともなり、主人公ヴェルテルの服装が流行したり自殺者がでたり大きな反響を呼んだ。この時期には戯曲「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」も完成している。
 シャルロッテ・ブッフヘの情熱が醒めやらぬうちに、ゲーテはフランクフルトの銀行家の娘リリー・シェーネマン(1758〜1817)と婚約することになるが、この婚約を早晩解消したのも、先に小邑ゼーゼンハイムのフリデリーケ・ブリーオン(1752〜1813)と別れたときと同様の気持ちが働いていたためだったと推測できる。まだ人生のビジョンが明確に定まらぬ時期に、結婚という前提が先にやってきたことへの彼の戸惑いがあったのかもしれない。彼の恵まれた環境を家庭に封印する安定よりも、飛躍を夢みたゲーテの野心が、この結婚を押し止めたのかもしれない。
 こうした時期の一七七四年一二月、ゲーテはザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国の君主カール・アウグスト公爵(1757〜1828)と邂逅する。翌一七七五年九月、結婚の途次再びフランクフルトに立ち寄った公爵は、ゲーテをワイマールに招聘する。ゲーテにはその人格から醸し出す得も言われぬ雰囲気に、他者をして惹き付ける魅力を具えていたらしい。ここから彼は行政官僚としての長期に亘る政治生活が始まるのである。ゲーテが赴いた当時の公国は人口一〇万八〇〇〇、領土約二〇〇〇平方キロメートルの領邦であった。
 この地でゲーテのその後の人生に大きな影響を与えた、七歳年上のシャーロッテ・フォン・シュタイン夫人(1742〜1827)との親交が始まる。ゲーテはゆたかな教養に裏打ちされたそつのない立ち居振る舞いと、婦女子の心を惹く貴公子然とした容姿を兼ね具えており、夫人の関心を引いたのである。彼女は一七六四年にフリードリッヒ・フォン・シュタイン男爵と結婚し、一〇年間に七人の子供を生んでいる。この体験が夫婦の交わりを忌まわしいものと感じるようになり、プラトニックな愛に理想を描くようになったようだ。ゲーテにその理想を仮託して、精神の交流を求めたようである。ゲーテはシュタイン夫人へ一八〇〇通に達する手紙を送っている。
 一七七六年六月、カール・アウグストはゲーテを枢密参議会へ出席できる陪席参議官に任命し、一七七九年には枢密参議官となり、宮廷政府の中心的存在として行政に携わることになる。この頃の年棒が約一八〇〇グルデンであった。他所者を嫌う旧弊で閉鎖的な君主国で破格の抜擢をしたのは、君主カール・アウグストの英断によるものであった。ヘルダーもゲーテの推薦により、一七七六年にワイマールの教会管区総督と宗務局参事官に任命されている。枢密参議会は三名の参議官で構成され、行政府の最高決定機関である。この他にカール・アウグストは君主直属の各種委員会を設置してこれをゲーテに委ねる。ゲーテは君主の信任の許に、大きな権限を手中に収め政府の中枢を担うことになる。ヘルダーをしてワイマールの「何でも屋」「最高の道路番兼道路掃除夫」などと皮肉られるように、ゲーテは日常の些事なくさぐさなことにまで関わっていたのである。新進気鋭の詩人ゲーテは芸術を離れ政治家ゲーテとして邁進する。
 一七八二年にはゲーテは貴族に叙され、また国の財政を握る財務長官に就任する。これにより彼はワイマール政府の全権を掌握したことになる。就任したゲーテは国の財政の立て直しのため経費削減を図る一方、収入の開発にも力を注ぐが、順調に運んだというわけにはいかなかった。イルメナウ地区の鉱山開発は、多額の投資をしたにもかかわらず失敗に終わっている。しかし小国であるがゆえの領民たちへの細やかな配慮は、政治に携わる者の責任であり、上に立つ者がやるべきことをやっていれば、領民たちの不満を抑えることができるというのがゲーテの行政官としての信念であった。
 ゲーテは身分制社会を否定するものではなかった。若きヴェルテルに「われわれは平等ではない、またありえもしない。かといって威厳を保たんがために賤民から遠ざかる必要があると信じている人間は、敗北を怖れて敵から身を隠す卑怯者と、同じ非難に値いする」と云わせる。民衆との間には超えることのできない秩序と身分の枠があり、民衆への共感はこの身分制を前提とするのがゲーテの社会観である。「成人といえども、じつは子供とおなじように、この地上によろめきながら、いずくより来りいずくに行くかをも知らず、真の目的にしたがって行為することもなく、やはりビスケットや菓子や白樺の笞によって操縦されているものなのだ。」とヴェルテルは云う。そしてルソーが述べていたように人間は何かの鉄鎖に繋がれている。しかし繋がれている状態にあってもゲーテにとって各人は、その境遇を超えて精神は解放されていなければならないのである。
 ゲーテが解放しなければならないものは、こうした軛からの精神の解放であって、原因である軛そのものを断ち切り、新たな社会秩序を形成することではなかった。各人の心の持ち方が問題なのであって、身分によって卑屈になることもないし、奢ることもない。身分に関係なく繋がれた鉄鎖のせいにして、その境遇に甘んじて自己陶冶を放棄してしまう人間にたいする嫌悪であった。たとえ身分制に絡め取られていても、精一杯生きている姿が彼にとっての感動なのである。ゲーテは子供たちの些細なことのなかにも、美徳や力の萌芽を発見する。「強情の中には将来の不屈不撓が、わるふざけの中にはやがてこの世の艱難をしのいでゆくべき楽天的な気軽な気質が、うかがえる」のである。こうした人間の持つ内面の自由の前に立ちはだかるもの、それが封建的なものであれ身分制であれ市民社会であれ、彼の嫌悪の対象となる。だがそれはあくまでも現実の社会を前提とするものであって、ゲーテは体制という枠組みを超えるつもりも壊すつもりもなかったのである。
 こうした視点は、与えられた境遇を運命として受け入れながら精神の活路を見い出すべきであって、その枠組みを超えたり否定してまで口を出すなということと同じである。君主を頂点に上の者が下の者を安堵し、下の者が上の者に従い、各々の本分を守りながら社会秩序を維持する現状肯定に繋がっていく。当時の社会は下の者が上の社会に参入するための規制が歴然としており、分相応の枠をはみ出すことは身分制秩序を乱し、体制破壊に繋がる危険を支配層は察知している。「下の方で一日に調達されるよりも多くのものが、上の方で一日の間に使い果たされてしまう」ことをゲーテは知っていた。したがってゲーテは、上の者はその本分に従い上から施しながら、下の不満を未然に防がなければならないと考えるのである。
 本来の「貴族的」なものとは、感情を抑制し威厳を裡に秘め、立ち居振るまいに高慢な態度を表わしてはならず「どんなことにも感動のそぶりを見せず、なにごとにも心を動かされず、けっして軽率に走らず、どんな瞬間にも冷静さを失わず、内心はどんなに荒れ狂っていても、外面は平静を保っているようにしなくてはならない」(ヴィルヘルム・マイスターの修業時代第五巻一六章)のである。これは持てる者が持たざる者を黙らせるために、奢りを巧妙に隠すことにつながる。富める状態から出発した者と、生活基盤を築くことから苦労を始めなければならない者に、精神の自由を求めても、その達成にともなう困難は天地の違いほど大きい。
 「誰であれ何かそれ以上になろうとする者を侮蔑」していることにゲーテも変わりない。自分自身を支配する力より大きな支配も小さな支配も持ちえないとは謂いながら、各々が既定の条件から出発しなければならないからこそ、私たちは取り巻く利害に目くじらを立てる。私たちは平等の地平に立っているわけではない。それを打開するために芸術と徳をもって対抗し、作品の創造に心血を注いで格闘したのがベートーヴェンであった。
 ゲーテは一見何の関わりもない、隣国フランスで起きたマリー・アントワネットをめぐるダイヤの首飾り詐取事件に衝撃を受けたのも、そこに支配階層の権威の失墜や腐敗と堕落を嗅ぎ取ったからである。この事件は一七八五年に起きたもので、ストラスブール大司教で宮中司祭のローアン枢機卿が、王妃の御機嫌を窺おうとしていたことに始まる。豪華なダイヤの首飾りを作った宝石商が買い手を探していたところ、ローアン枢機卿の愛人とも云われるラ・モット伯爵夫人を名乗る女が、一六〇万リーブルのダイヤの首飾りの仲介を持ちかけ、当事者双方を騙して金と首飾りを持ち逃げした事件である。支配層の堕落が寝た子を起こし、民衆の騒擾に繋がる危険を感知していたゲーテには、この事件は対岸の火事では済まされなかったのである。
 さてゲーテはワイマールの行政に没頭する日々を過ごすうちに、彼の関心は再び芸術や自然研究へと向けられる。長期に亘る政治への関わりが、ゲーテに停滞と倦怠感をもたらしていた。君主カール・アウグスト公の政治にたいする情熱が醒めつつあったことも影響していたものと思われる。人口一一万弱の小国家を維持し改革しながら、成長発展させていこうと意欲を燃やしたが、停滞を食い止め衰退の道を回避することは至難の技だったのである。その打開を求めて、カール・アウグストの関心は外へ向けられる。彼は「第三のドイツ」の構想を抱き、中小の領邦を結集してオーストリアとプロイセンに対抗しながら、第三の枢軸として神聖ローマ帝国の再生を図ろうという計画であった。精力に溢れた彼の野心は大きな政治の世界へ向けられたが、結局プロイセン主導の諸国同盟に加わることになる。ゲーテはこうした状況のなかで、しだいに疲労を感じるようになっていた。
 ゲーテは一七八六年七月に避暑と保養をかねてカールスバートに滞在し、九月に不定期の休暇を君主カール・アウグスト公に願い出て、誰にも告げずにイタリア旅行へと出発する。この間にゲーテはローマで歴史劇「エグモント」を完成し、またこの旅行を挟んで「イフゲーニエ」と「トルクヴァート・タッソー」を完成する。この旅行は一七八八年六月までの二年近くにおよび、ゲーテは芸術家としての自己を再確認するのである。このイタリア旅行が転機となって、帰国したゲーテは行政の中枢的な実務から徐々に離れ、国政への関与を限定的なものにしていき、図書館、博物館、植物園、劇場、イエーナ大学などの文化関係の仕事に重点を移していく。それでも年棒は二七〇〇グルデンに達していたから、当時のベートーヴェンとは比較にならない収入であった。
 そして帰国後の一七八八年にはクリスティアーネ・ヴルピウス(1765〜1816)と出会い同棲する。この内縁関係が宮廷関係者の顰蹙を買ったことはいうまでもない。遁走するようにして出かけたイタリア旅行はいわば職場放棄である。わがまま勝手とみられてもしかたがないところに帰国しての同棲である。ゲーテに向けられるべき非難はクリスティアーネに集中する。シュタイン夫人との関係もこれを境に疎遠になっていく。クリスティアーネと正式に結婚するのは一八年後の一八〇六年になってからである。彼女はシャーロッテ・フォン・シュタイン夫人に求めるものは何も具わってはいなかったが、市井の生活感覚に富み快活で飾らない性格は、ゲーテの安らぎと気楽に過ごせる憩の場を提供してくれたのである。
 一七九二年四月、フランス革命軍がオーストリアに宣戦すると、同盟国であるプロイセンも出兵する。プロイセン軍の連隊長を勤めるカール・アウグストは軍隊を引き連れて出陣するが、ゲーテもその八月に従軍する。九月二〇日両軍はヴァルミーで開戦したが、フランス軍の旺盛な士気の前に圧倒された連合軍は、本格的な交戦もままならず退却する。彼がワイマールに帰郷したのは一二月に入ってからである。フランス革命勃発当初の熱狂にも背を向けていたゲーテには、この敗戦も他人ごとであった。「自由と平等はただ狂気の陶酔の中でのみ享受されうる」とフランス革命前の一七八八年に「ローマの謝肉祭」に記したゲーテは、フランス革命を社会の前進と見るより、衆愚による秩序の破壊と映った。「多数ほどいとわしいものはない。それは少数の強力な音頭取りと、大勢順応のならず者と、わけもわからずついてゆく群衆とから成り立っている」からである。
 ゲーテは後に述懐しているように、暴力的な革命は良いものが得られると同じくらい、良いものが失われることになるから「革命を実行する人びとを憎むが、またその原因をつくり出す人びとも憎む」のである。彼は「どんな大きな革命も決して民衆に責任があるのではなく、政府に責任があると堅く信じて」いた。革命は結果でありその原因に目を向けることなく、その原因をつくり出した人びとが熱狂するのを、ゲーテはアイロニーをもって眺めている。ゲーテはワイマールの政治と関わりフランス革命をつうじて、政治への関心に意識的に背を向けるのである。本来的に彼のなかにあった個人主義的自由が、衆愚の徒党に距離を置く。自分に要請されていることに誠実に従い、地歩を固め外部の動静に動揺することなく、みずからの世界を形成していくことがゲーテの人生なのである。したがってそうした安寧の世界を乱すものには、対象が何であれ嫌悪の目を向ける。
 フランクフルトの資産家に生まれたゲーテは生活の前提が保障されており、生活の糧を心配する必要はなかった。さらにワイマール公国の官僚に就いて高額な年棒が支給され、生活に憂慮することなしに、己の世界に沈潜することができる恵まれた環境にあった。もちろんこうした環境に放蕩して身を持ち崩すことなく、才能を開花させ自己陶冶を遂げていったその努力が減価償却されるものではない。彼は与えられた環境を最大限に利用することのできた羨むべき芸術家であった。ベートーヴェンが望んだ以上のもの、そして結局叶えられなかったものを、ゲーテは総て満たしていたのである。


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