んだんだ劇場2009年3月号 vol.123
No29
二人の芸術家(3)

 節度と調和を通じて内なる安寧の世界を求めるゲーテ、デモーニッシュな衝動が炸裂するベートーヴェン、この二人が出会ったとき、ギリシアのアッティカ悲劇に相当する芸術の一大絵巻が生まれる可能性があった。だがこの作品九二に見られる自由奔放な精神の飛翔は、ゲーテの立場からすれば、彼の安寧を乱す闖入者であり、狂気に繋がる世界であった。こうした二人の境遇は、女性との関係にも対照的に現われていた。
 ベートーヴェンはエロスの射かけた・愛の矢・によって、貴族の夫人たちや娘たちに恋の対象を求めた。しかし彼女たちはエロスの二本目の・愛から逃走する矢・を射かけられ、ベートーヴェンとは結ばれないのである。ゲーテは洗練された貴族趣味的な教養を身にまといながら、市井の娘に憩の家庭を築く。貴族たちの内側で仕事をしてきたゲーテには、貴族たちとの交流をつうじて、貴族にたいして憧憬したり特別視する謂われはなくなっていた。だがベートーヴェンは女性のなかに、投影したレオノーレの理想を求めていた。
 ベートーヴェンの死後発見された恋人への三通の手紙は、誰に宛たものか長い間の謎であったが、その不滅の恋人がアントーニア・ブレンターノであることが二十世紀後半になって明らかにされた。この事実を丹念に証明したのがアメリカの音楽学者メイナード・ソロモンである(ベートーヴェン上・下 岩波書店刊)。ただし逸早くアントーニア・ブレンターノの存在に注目したのは「ロマン・ロラン全集」の編集に携わるかたわら、ベートーヴェン研究を続けていた青木やよひ氏であった。氏の著作「ベートーヴェン・不滅の恋人・の謎を解く」(講談社現代新書)は推理小説を読むような謎解きの面白さを味わえるとともに、その迫真性に富んだ描写は当時のベートーヴェンの生き様や周囲の人物像を彷彿とさせ、時空を忘れて当時が鮮やかに甦ってくる。是非一読をお奨めしたい。私にとって近寄り難かったベートーヴェンが急に身近なものとなったのは、この一冊のおかげである。
 ベッティーナ・ブレンターノと邂逅したベートーヴェンは、彼女をつうじて彼女の異母兄フランツやその妻アントーニアとも親交を深めていく。アントーニアの父ビルケンシュトック(1738〜1809)は宮廷顧問官であった。おなじく宮廷顧問官ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルス(1733〜1817)の夫人がビルケンシュトック夫人の姉である。このゾンネンフェルスに、以前ベートーヴェンは作品二八ピアノ・ソナタ第二五番を献呈している。ゾンネンフェルスは政治学者として、オーストリア皇帝ヨーゼフ二世の啓蒙政策を支えた人物である。みずから主宰する週刊誌「偏見なき人」を発行するかたわら、ヴィーン大学の教授として官房学や警察学を教え、官吏の養成に尽くした。また司法改革の助言に当り、行政ドイツ語の創造や教育制度改革、税制改革にも尽力する。そしてカトリックのオーストリアに、プロテスタントやギリシャ正教をみとめる寛容令の発布に力を貸している。
 アントーニアは八歳で母を亡くし女子修道院で教育を受けたのち、ヴィーンへ戻ったのは十五歳になってからである。アントーニア(1780〜1869)は見初められて一七九八年にフランクフルトの実業家フランツ・ブレンターノ(1765〜1844)と結婚する。フランクフルトのザントガッセにあるブレンターノ家の家長の妻として、イタリア系の大家族のなかに放り出され、その役割を演じながら次々に五人の子を出産する。第一子は出産後まもなく亡くしている。そして第五子を出産した前後から心身症の兆候があらわれたという。
 そうした状態が続いていた一八〇九年六月、父ビルケンシュトックが病で倒れた知らせを受けると、長女とともに九月にヴィーンに戻る。フランス兵がヴィーンを徘徊する騒然とした時期に、父はアントーニアに看取られながら一〇月三〇日に他界する。それから三年にわたり彼女はこの地に留まることになったのである。父の遺産の整理と処分がその理由であった。アントーニアと知り合った当初、ベートーヴェンが彼女に恋愛感情を抱いたとは考えにくい。実業家の夫と子供たちに囲まれた幸福そうなブレンターノ一家に羨望があったかもしれないが、ブレンターノ夫人アントーニアに特別な感情を抱いていたわけではなかっただろうと思う。むしろベッティーナに関心があったに違いない。この頃のベートーヴェンは、貴族の夫人たちとのつきあい方の境界を、十分に認識できるだけの経験を積んでいたはずである。彼の女性たちとの交流は、恋愛感情を超えた内面的な信頼関係で結ばれていた。
 ドロテア・エルトマン男爵夫人(1781〜1849)はヴィーンの音楽界にベートーヴェンの作品を広めたことに力のあった女性である。ただ将校夫人ということのために、公開演奏会への出演は認められなかったが、ピアノの実力は相当なものだったようで、ベートーヴェンのピアノ作品によく精通していた。彼女のことをベートーヴェンはドロテア・ツェツィーリア(音楽庇護の聖女)と愛称していた。彼女が愛児を亡くしたときベートーヴェンはエルトマン夫人に、無言のうちにピアノを演奏し終えると悲しげに夫人の手を握り、そのまま立ち去ったという逸話が残されている。
 またアンナ・マリー・エルデーディ伯爵夫人(1779〜1837)は、その結婚生活はけっして幸福だったとはいえず、はやくに夫と別居生活を送るようになっていた。仮に離婚したとすれば妻の貴族身分は剥奪され子供の養育権も失うことから、形式だけの夫婦の状態を続けていたようである。ベートーヴェンは彼女のことを懺悔聴聞僧と呼んで、内面的な悩みを打ち明けられる数少ない友人の一人であったといわれる。
 ナポレオンが弟ジェロームのためにでっち上げたヴェストファーレンという王国を作ると、ベートーヴェンをその居城のあるカッセルの宮廷楽長に招こうという計画が伝えられる。アンナ・マリーはベートーヴェンをヴィーンに引き留めようとグライヒェンシュタイン男爵と尽力し、ヨハン・ヨーゼフ・ライナー・ルドルフ大公(1788〜1831)、フランツ・ヨーゼフ・マキシミリアン・ロブコヴィッツ侯爵(1772〜1816)、ファウスト・フェルディナント・キンスキー侯爵(1781〜1812)の三人からベートーヴェンへの年金の保証を仲介している。だがせっかくの年金契約も明くる一八〇九年五月にはフランス軍の二度目のヴィーン侵攻により、戦乱に続くインフレは通貨の貨幣価値を下げ、なお悪いことにロブコヴィッツ侯爵は破産に陥り、キンスキー侯爵は落馬で命を落とすことになり、まともに年金を受け取ることが不可能になった。その後ベートーヴェンは遺族を相手に訴訟を起こすまでになるのである。
 そしてマリー・ビゴー夫人(1786〜1820)とはちょっとしたいざこざを起こしている。彼女はピアノの名手でもあり、のちのフェリックス・メンデルスゾーン(1809〜1847)も一八一六年頃一時彼女の弟子であったという。一八〇六年秋にリヒノフスキーと大喧嘩をしてグレーツの侯邸を飛び出し、ヴィーンへの帰途ベートーヴェンがビゴー家を訪れている。このとき彼女は雨に濡れた作品五七「熱情」ソナタの草稿を初見で弾き、彼を驚かせたことが伝えられている。この草稿はのちに夫人に贈呈される。
 夫のビゴーは駐在ロシア大使ラズモフスキー伯爵の司書として、この時期ヴィーンに滞在していた。ある日ベートーヴェンが、夫人を馬車で散策に連れ出そうと強引な申出をして断わられたのだが、夫妻の心証を悪くしたのである。いくら不羈奔放なベートーヴェンにしても、今日からみても常軌を逸した行為として非難されるべきものである。弁解の手紙にも不遜な気分が見え隠れしており、下心のまったくない自分が避難されることの抗議と受け取られかねない謝罪である。
 この他にもベートーヴェンは何人かの女性たちとの艶聞が伝えられているが、華やかな独身貴族の令嬢たちとは諧謔的な関係に止まることの方が多かった。彼が惹き付けられるた女性は、自律した人間として社会に関わったり、内面的な強靭さを具えた女性であった。少女から娘へ、妻から母へそしてひとりの自立した人間として目覚め、変貌していく女性たちであった。男性社会に埋没させられながら、ゆるぎない生活態度からにじみ出てくる人間としての尊厳を具えた、自我の発露が感じられる女性たちである。他者には用心深く陽動的に振る舞うことが多かったベートーヴェンだが、こうした夫人たちに何の屈託もなく胸襟を開くことができたようである。芸術の世界で帝王を演ずる彼は、現実の生活では素直に甘えられる慰めを、自立した夫人たちに求めたのかもしれない。かつてベートーヴェンは愛するがゆえに、ヨゼフィーネにたいして男女間の愛と崇高な愛の二つを同時に求めて、彼女の心を困惑させたのであろう。
 このようなベートーヴェンの女性観は、ボン時代のヘレーネ・ブロイニング夫人一家との交流まで遡ることができるかもしれない。家庭に恵まれなかったベートーヴェンは、ブロイニング家にそのあるべき暖かさと落ち着いた秩序を見い出し、従属を強いられた母マリア・マグダレーナとは違う自立した女性の姿をヘレーネ夫人に投影していた。彼にとって愛する母であったが、苦労するばかりで報われない母への哀惜が、貴族の夫人たちの生き方に、あるべき母親像として投影されていたのかもしれない。男性社会に従属させられた裏側でたくましく生きる夫人たちに、身分の障壁を超えて人間としての共感が働いたのは、ベートーヴェン自身の境遇と重なり合うものがあり、レオノーレを歌劇にしたのも彼の人間関係の理想をレオノーレに投影していたからである。ベートーヴェンはこの歌劇のタイトルを「レオノーレ」とすることに執着したのは単に意地を通すためではなかった。ディオニュソス的共感はベートーヴェンにもあったのである。ゲーテが数々の女性との交流を重ねながら、庶民のクリスティアーネ・ヴルピウスを周りの批判に耐えながら長年かかって妻として迎えたが、ベートーヴェンの相手は貴族であった。
 さてベッティーナ・ブレンターノは独身であったが、すでにアルニムとの婚約の話しが取り沙汰されており、ベートーヴェンの入り込む余地はなかった。そのベッティーナが縁となり、アントーニアと家族ぐるみの親密な交流を重ねるうちに、ベートーヴェンはアントーニアと静かな信頼を深めていった。人前でピアノを演奏することを嫌うようになっていたベートーヴェンだったが、心を病んでいたアントーニアの許を訪れたときは、彼女にピアノで語りかけ慰めるのである。
 そのアントーニアはフランクフルトでの生活に馴染めなかった。当時の十八歳はけっして早婚というわけではなかった。彼女は母を早くに亡くし、修道院での静かで敬虔な生活を終えると、ヴィーンで束の間の父娘のつつましい日々を過ごす。その貴族身分を捨てて世間をほとんど経験しないまま、実業家の大家族の家長に嫁いだのである。イタリア系の闊達で感情過多な大家族に囲まれ、事業に群がる人々の喧騒な毎日と仕事に忙殺される夫との間に、濃やかな心の交歓など期待できるはずはなかった。ヴィーンでの生活との乖離は甚だしいものであったに違いない。アントーニアには存在すべき居場所がなかったであろう。
 十五歳離れた夫は大人社会の人であり、伴侶というよりはむしろ彼女の庇護者であり、心の避難先としては遠い存在であった。第五子を生む前後から心身症を病むのである。父の看病を口実にヴィーンに戻ったアントーニアは、そのまま永住するつもりで上の女の子を連れてフランクフルトをあとにしたのかもしれない。おそらく夫のフランツも事態の重大さに気付き、残された三人の子供を伴い妻を追って慌ててヴィーンにやって来た。そして一家はこの地で三年を過ごすのである。その父が亡くなり、アントーニアは今後の身の振り方を真剣に考えるようになったと思われる。古美術や絵画の蒐集に熱心だった父ビルケンシュトックの遺産を整理し、競売にかけて換金したことに、アントーニアの決心と密かな計画が育っていたのかもしれない。
 そして親密度が増していったベートーヴェンに、悩みや計画を漏らしたとしても、アントーニアは彼を巻き込むつもりはなかったであろう。だがそこから二人の関係が急転していったとも考えられる。ベートーヴェンの悪化をたどる耳の疾患は、二人のコミュニケーションの障碍ではなく、それを補い合う心の通い合いが育まれていた。難聴が原因となって、思い込みの強い人間であったことがベートーヴェンに認められる。しかし思い込みを助長するメッセージがアントーニアから与えられなければ、ベートーヴェンの心は動かされなかったはずである。ベートーヴェンとアントーニアはこの先の人生を二人の未来に重ねて、何らかの計画を持つようになっていたのかもしれない。いまベートーヴェンはこの作品を完成するに当たって、実生活に好転の兆しを予感していたのである。
 一方フランツは夫として妻の悩みを察してやれなかったばかりか、ベートーヴェンまでも巻き込んでしまったことへの負い目が働いたとも考えられる。世間の注視の的となるような、あからさまなゴシップを虞る意識が働いたことも当然だろう。事は内密に進められ、希望を胸に抱いてベートーヴェンはテプリッツへ向かおうとしていたのである。一八一二年六月、ナポレオンはポーランドに六七万の兵力を集結させ、ロシア侵攻へと向かう。ナポレオンの野望はフランス国内を従えるだけでは飽き足らず、ヨーロッパ全土に支配の手を広げる。帝位を奪ったナポレオンは革命的同志よりも、嬉々としておもねる家来を望むようになっていた。地上の世界はいま、ゼウスに化身したナポレオンが号令しようとしていたのである。一方ベートーヴェンはあらたな人生への希望をこの作品九二に託してテプリッツへ、ともに人生の岐路に立った二人は異夢を抱いて己の人生を賭けたのである。
 この作品九二交響曲第七番イ長調は、抑え切れない喜びを英雄的矜持に表現したときの狂踏乱舞である。第一楽章は、何か巨大なものが厳かに駆動するように、全奏の一撃が振り降ろされると、おもむろに動き出す。威風堂々、近寄り難い威厳が辺りを払うような序奏である。序奏といっても六二小節と規模が大きく、これはもう序奏というよりブラックホールの巨大な質量を動かすために、駆動を開始した合図である。この全奏の一撃に持つ駆動力は、交響曲第三番の第一楽章で炸裂するスピード感を要求しても不可能である。巨大な質量を抱えた慣性は、その起動に莫大なエネルギーを要する。
 まさにアトラスが背負う世界を想起させる、偉大で神がかり的な力がおもむろに動き出す瞬間である。アトラスはプロメテウスやエピメテウスと兄弟であった。彼はその肩と両腕で天と地を支える巨人で、後にゴルゴンの計略によって石になってしまうが、これが西アフリカのアトラス山脈と云われるようになり、その西の海が大西洋(アトランティックオーシャン)と呼ばれることになる。こうした巨大なものが動き出すごとく、第一楽章はそのブラックホールのとてつもない凝縮した質量を駆動させたのである。
 闘いにもし聖戦というようなものがあるとすれば、この序奏はまさに聖戦に向かう出陣の儀式として普遍性を備えている。この聖戦はもはや武器を必要としない。武力で敵を殺戮し制圧することが無意味になる闘いである。圧倒的で偉大なものの告解によって、人々を納得させる威厳が、おのずから世界を制するのである。この第一楽章の開始は、そのような神々しい威厳が聴く者を圧倒する。そして木管楽器と弦楽器が掛け合い、応答しながら序奏部を引き継ぎ、タッタタ、タッタタとリズムを刻むと、まもなくフルートが十六分休符の入ったタン・タタッ、タン・タタッのリズムが一つに統合され第一主題を奏でる(譜例1)。この楽章には、基底するリズムを支える計り知れないエネルギーが潜んでいるが、その始まりは密やかで慎ましい。これが鎌首をもたげるように巨大化して、人々の歓喜を誘いディオニュソスの宴へと導いていくのである。
 フルートとオーボエが奏でる主題は、辺りを払う序奏部の威厳とは対照的で、じつに愛くるしい旋律である。そして各楽器が掛け合いながらこの主題に合流すると、奔流となって怒涛のごとく突き進んで行く。軽快というよりは、低音弦の厚みがハーモニーに重量感を与え、力強く重々しい推進力となって牽引する。材質に仕上げが施されておらず、一刀彫りで削ったような粗い木肌はその質感を残したままで、彩色をほどこしたり表面に磨きをかけたりはしない。この二つのリズムが掛け合いながら、この楽章を基底するモチーフとなるのである。「リズム動機」と云われるものだが、このようなリズムによって第一楽章全体の骨格が決定される。
 しかもこの二つのリズムは明確に区別して弾き分けられ、さらにこの二つを重ね合わせたりしながら展開していくのである。ラヴェルの「ボレロ」に聴くような単調なリズムの反復が昂揚していくのではなく、複層したリズムと圧倒的なダイナミズムが聴く者の興奮を誘う。この第一楽章の主題は、旋律の動きにシンコペーションの引っ掛けが随所に顔を出し、意識的に障碍を設け、それを乗り越えていく荒々しい律動感がある。モーツァルトのような軽やかな音符の躍動が、優雅な旋律を刻む澄んだ渓流とは対照的で、ゴツゴツと推進していく濁流が渦を成して、岩をも押し退けていく巨大な駆動力を持っているのである。
 だが第二楽章冒頭、哀愁を帯びたアウロスの笛が不安な一吹きを漏らす(譜例2)。そしてタン・タ・タ・タン・タン、タン・タ・タ・タン・タンと刻むアレグレットのリズムが、沈んで哀愁に満ちた気分を醸し出す。人間の感情表現を饒舌に語るのは旋律だけではなく、こうしたリズムの反復で表現できることに、私たちはベートーヴェンの天才的表現を聴くのである。何かの予兆ででもあったのだろうか。第一楽章の喜悦に満ちた陽気な気分はすっかり影を潜め、うつむきながら足取り重く行進するベートーヴェンの姿がある。これは死を連想させる葬送の行進ではない。けれども埋め難い空白を慟哭するように、その心は深い憂いに沈んでいる。
 この重苦しさは二者択一のいずれを取るかというような苦悩ではなく、決断して導き出した結論への自省と回顧である。善意からさえも生ずる癒し難い罪の意識に囚われた孤独な感傷である。決断の是非は妥当だったのかどうか、その倫理的葛藤に来し方行く末への懐疑をかみしめているのである。したがってそれは甘美な哀愁ではない。峻厳でもの悲しげな旋律は、決断したことの大きさに圧倒されながら、希望と後悔が錯綜している。低弦楽器がうつむきながら深い憂いに満ちたリズムを刻んで、ヴァイオリンがそのリズムに寄り添うように語り出すのである。
 狂騒の裡に隠された人々の開放を求める切なる願いと、その願いの周りで翻弄された不幸な人々の不条理を、その哀惜をもって感得できるのは、熱狂のなかに発見する人間の孤独なのだ。ベートーヴェンの心は、ディオニュソスの熱狂にアポロンの日射しが差し込んで、メランコリーな気分に沈んでいる。事態を悲観して考えないことだというように一旦気分を転ずるものの、ベートーヴェンの予感は好転しない。旋律は再び深い憂いに戻ってしまうのである。どのように考え巡らしても肯定的な解答を見い出せぬまま、その足取りは重い。そして冒頭のアウロスの溜息を漏らし、弦楽器がそれを覆い隠すように寄り添いながら曲を閉じる。あとの三つの楽章が上機嫌なディオニュソスの宴を留めているだけに、この第二楽章の憂愁はきわめて対照的である。
 第三楽章は一転して、酔っ払ったディオニュソスが乱れて、床板を踏み外すような音を立てて開始する。九曲の交響曲のスケルツォ楽章のなかで最も規模が大きく、交響曲第三番第一楽章に匹敵する小節数を持つ。人間社会の摂理や秩序などどこ吹く風とでもいったように、一徹な意志を押し通す。この堅固で力強いリズムは、ここではもう何の遠慮も要らず屈託もない。蒸気機関車が煙を吐きながら逞しく牽引していく光景である。重厚だが軽快なスケルツォである。熱狂も追い付かぬスケルツォが乱舞する。そして交響曲第五番の煽り立て急くようなリズムが、酔狂のなかに現われる。歓喜の陶酔から醒めたとき、この陶酔が夢と消えないよう踊り続けるのである。その前進を妨げるように管楽器の憂愁が念を押すように問いかけるが(譜例3)、思い直したように再び曲は前進を始める。そして最後は管楽器の憂いと不安を吹き飛ばすように、断定してこの楽章を閉じる。
 第四楽章ではもはや決心に迷いはない。床板の強度を確かめるように二回踏み鳴らすと、決断を下した前途には成就あるのみである。「自由と平等はただ狂気の陶酔の中でのみ享受されうる」と看破したゲーテの言説が、音楽の上ではここに達成されたことになる。英雄的狂乱というべき舞踏である。ギリシア神話の奔放で野放図な神々の宴が始まったような大騒ぎだ。身体に伝わる律動は生命の衝動に合致するだけではなく、精神の奥深くに隠れていた理性の制動を打ち破るのである。 
 リズムは運動性とつながっており、土俗的な舞踏も貴族たちによって媚態とマナーに磨き上げられたが、本来リズムは人間の感情が突き動かす身体的律動の表現であり、そのリズムは本来は私たちの内部に持つ原初的でまがまがしい情念のマグマなのだ。一つの詩の精神的な内容を、感覚的に掴めるようにしてくれるのはメロディであり、音楽の本質を捉えるのは精神のリズムのなす技だと、ベッティーナに熱く語ったベートーヴェンが、人間の本質を穿つ精神のリズムを、身体的律動に表現したのがリズム動機であった。
 器楽作曲家として、ヴィーンの音楽界に揺るぎない地歩を固めたベートーヴェンには、芸術上の束縛は何もない。この作品九二交響曲第七番がその宣言であった。ディオニュソスの狂乱は正邪善悪の規矩を超えて、あらゆるものから解き放たれた熱狂と酩酊の世界を、ベートーヴェンはこの作品に語ったのである。この作品は初演のときから好評だったという。その第二楽章はたびたびアンコールされたというから、心性の根源から発する深い哀しみの本質を、この第二楽章のリズムはよく捉えていたのである。
 だがそれにしてもこの第二楽章冒頭の、ディオニュソスが奏でる憂いに満ちたアウロスの笛の溜息は、一抹の不安となって耳を離れない。あとの三つの楽章が天衣無縫のディオニュソスの宴であればあるほど、アウロスの笛の不可解な音色は、この響宴を吹き飛ばす巨大な一吹きのように迫ってくる。この作品で奏でるスケルツォの響宴は、二人の恋の成就に凱歌を上げながら、二人が神の倫理へ介入しようとしたとき、ヘラのゼウスにたいする感覚は、人倫の世界には適用されたのである。


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