ゲーテとの邂逅、そして不滅の恋人との瓦解
モンペリエのファーブル美術館に「今日は、クールベさん」という作品がある。「・・・・・・絵具箱を背負ってこれからスケッチに出かけようとするクールベが、路上でばったりブリュイヤスに出会ったところを、あたかもスナップ写真のように巧みに描き出したもので、クールベの性格がきわめてよくあらわされている。本来なら、ブリュイヤスはよく作品を買ってくれる保護者なので、鄭重に挨拶しなければいけないところだが、仕事着のまま杖を手にしたクールベは、昂然と顔を上げて、相手の挨拶を受けている。むしろ、保護者のブリュイヤスの方が、直立不動でかしこまっている。そこには『現在フランスにおけるもっとも重要な唯一の画家は私だ』と豪語したクールベの自信のほどがよくうかがわれる。彼は、他人の敬意を受けはしても、自ら敬意を払おうとはしない。・・・・・・」(「名画を見る眼」高階秀爾著岩波新書)。したがって作品の題名は「ボンジュール、ムッシュウ・ブリュイヤス」ではないのだ。この作品にはもうひとつ寓意的な題名が付けられる。「天才に敬意を捧げる富」である。一八五四年の作品であり、クールベの真骨頂をきわめてよく反映した作品であるが、しかしこうした逸話にかけてはベートーヴェンも人後に落ちない。
カールスバートに避暑を兼ねて休暇中のゲーテは、ワイマール公から呼ばれてテプリッツに赴く。その折この地に滞在していたベートーヴェンを訪ねた。一八一二年七月一九日のことである。ゲーテ六十三歳、ベートーヴェン四十二歳を迎える年であった。「私はいままでに、これほど強い集中力をもち、これほど精力的で、しかも内面的な芸術家というものを見たことがない。」とカールスバートに残してきた妻クリスティアーネに、早速手紙をしたためたゲーテの人物眼の確かさが窺われる。当代の一流の知識人、芸術家と交流してきたゲーテの最大の賛辞と評価であった。日を置かずして翌二〇日に両者は、テプリッツからほど近いビリンに馬車で喜遊し交友を深めている。両雄とはいえ長幼の序からすれば、ベートーヴェンにたいするゲーテの積極的な振る舞いは、破格の厚意を寄せたものといってよかった。翌二一日にテプリッツに戻ると、その夜訪ねて来たゲーテに、ベートーヴェンは自作の曲をピアノで聴かせたらしい。ベートーヴェンもゲーテに彼らしい好意をもって応えている。
そしておそらく二三日に両者は散策の折、皇室の一団と出会わしたのである。ベートーヴェンは昂然と歩を進め道を譲らず、脇に寄って道を譲ったのは皇室の方であった。ベートーヴェンは悪戯のつもりだったのか、本気だったのか、ゲーテにも勧めたが彼は道端に控え、皇室の一団に鄭重に礼を尽くした。ベートーヴェンはその光景を見てゲーテを揶揄するのである。だが長年宮廷に仕えてきたゲーテにしてみれば、みずからの慇懃な行動は官吏としての習い性であり、世事に長けた宮廷文化人としての矜持の表明であって、決して上の者にへつらう無様で卑屈な態度ではなかった。むしろそうすることがゲーテの内心の誇示であったが、そんな韜晦したゲーテの心の裡を詮索するベートーヴェンではなかった。外面的にはベートーヴェンに一本取られた恰好になる。心穏やかざるものがどちらに残ったのか、そこは老練なゲーテである。ベートーヴェンの為すがままに受け流した。おそらくゲーテの立場からすれば、ベートーヴェンの常軌をわきまえぬ礼を失した邪気な行動をたしなめることもできたであろう。
一方ベートーヴェンはのちにこの出来事を周囲に漏らしている。ベッティーナはベートーヴェンから聞いたこの経緯を、ベートーヴェンからの手紙という形で後世に残した。またベートーヴェンはブライトコップフ&ヘルテル社に、ゲーテについてつぎのような手紙を送っていた。「・・・・・・ゲーテは宮廷の雰囲気が気に入りすぎています。詩人に似つかわしくないくらいです。国民にとって最上の教師たるべき詩人たちが、こうした華やかさのために、ほかのすべてを忘れはてているなら、演奏名手たちの愚劣さを、だれが笑えるでしょうか。」
しかしゲーテ自身は自分の言動に矛盾を感じなかったばかりか、むしろ積極的にベートーヴェンに指摘された宮廷の雰囲気そのままの行動を示すのである。歯止めの効かない熱情や、稚拙な空想や暴力的な衝動を、洗練された抑制をもって振る舞うことがゲーテの理性である。前の世代がやるべきことをやっていれば、次の世代に革命が起こるはずはないし、革命を実行する人々を憎むが、またその原因を作り出す人々も憎むというゲーテの社会観であった。譲ることで諍いを避けるゲーテであり、相手の意向におかまいなく譲歩を求めるベートーヴェンである。両者の決定的な亀裂には至らなかったが、忸怩たる思いは両者のどちらに残ったのだろうか。
偉大な人物とみたゲーテへの体当りであり、父親に見立てて甘えるベートーヴェンが居たのかもしれない。まるで完成していた作品九二の酔狂が乗り移ったかのように、ベートーヴェンは昂揚した気分そのままを演じた。どんな瞬間にも冷静さを失わず、内心はどんなに荒れ狂っていても、外面は平静を保っているようにしなくてはならないゲーテは、これに冷静に応じたのである。ベートーヴェンには勝利の凱旋を促す未来が待っており、その期待と興奮が彼の心をいやが上にも昂心させていた。
このあとベートーヴェンはゲーテより一足先にカールスバートへ立ち寄り、そのままつぎの滞在地フランツェンスブルンに移動して、ここで一ヶ月を過ごす。手がけていたこの作品九三の完成を目指して創作に励んでいたものと思われる。おそらくペンの運びも滑らかに進んだに違いない。そしてテプリッツへの帰途、カールスバートに戻っていたゲーテと再会する。ゲーテは九月八日の日記に「ベートーヴェン来訪、昼頃われわれのために。ベートーヴェン。夕刻プラハ通りで」と記している。こののち両者は二度と会いまみえることはなかった。
この間のゲーテとの邂逅で、先の七月二三日の逸話が後世にまで伝えられることになったわけだが、ベートーヴェンの態度がゲーテの心証を甚だしく害したのであれば、再会の機会をゲーテは作らなかったはずである。あるいは寛容を示すゲーテの陽動だったとしても、彼の側にこの時点でまだベートーヴェンにたいする躊躇はなかったようである。
カール・フリードリッヒ・ツェルター(1758〜1832)は、ゲーテの音楽顧問的な立場にあった人物である。彼に宛て「ベートーヴェンとはテプリッツで知り合いになった。その才能には驚嘆したが、彼の不幸は、奔放きわまる個性をもっていることで、世界を嫌悪すべきものとみなす点は、間違いとも言いきれないのであるが、自分の態度によって、自分や他人のために、世界をいくらかでも楽しいものにする気が、とうていないのである。とはいっても、彼を弁護することは容易だし、大いに同情されるべきなのだ。というのは、聴力を失いつつあり、その点がたぶん、天性の音楽的な面よりも、対人的な面を損じているわけだから。彼はぶっきらぼうな性格であるが、この欠陥が災いして、二倍もそうなってしまうことだろう。」と書き送っている。したたかに人間関係の機微に長じていたゲーテの、炯眼な観察であった。
ベートーヴェンのぶっきらぼうと受け取られる性格は、聞き取りにくい耳の障害から生じていた。だが相手とのコミニュケーションの問題は、この頃にはすでにベートーヴェンは克服していたし、それを他者がどのように受け取るかであって、世界をいくらかでも楽しいものにするために、骨身を削って創作に精魂を傾けてきたのである。音楽は新しい創造を醸し出す葡萄酒です、そしてわたしは人間のためにこの精妙な葡萄酒を搾り出し、人間を酔わすバッカスです、とベッティーナに語っていたベートーヴェンは、現に機知とユーモアに富むこの作品九三を創作中であった。
ゲーテには理想を現実の世界に実現しようとして苦闘したり、その乖離に悩むことはなかった。現実は理想を追いかけることはできるが、決して追い越せるものではないのである。理想を実現できない現実に闘いを挑むよりも、現に生きている自分の境遇をしっかりと見つめながら、油断なく対処するのがゲーテの生き方である。権力には敵、味方の区別なくその要請に注意深く応え、身分にたいしては上下の利害や要求をよく観察しながら、どちらの不満も小さく抑える。先にナポレオンに閲見したゲーテは内心の栄誉を抑え切れず、周囲にその感慨を漏らすかと思えばオーストリア皇后の要請があれば、みずから詩を朗唱するのであった。
ベートーヴェンは逆に描いた理想を規準にして、現実に不条理を見ている。詩人ゲーテの作品に理想を膨らませ、作品を通じてゲーテを偶像化させていく。ベートーヴェンの観察は、シュトゥルム&ドラング時代のゲーテが、当時の視点として捉えていたものであった。シュトゥルム&ドラングが上からの啓蒙思想の反啓蒙主義として、悟性の専制や作為的なものへの反抗の形で現われた若い世代の文化的潮流であったことを、ベートーヴェンが蘇らせたようなものである。感動をもってゲーテに抱いていた憧憬は、ベートーヴェンの心にずっと生き続けていたのである。
ドイツの諸宮廷は競ってフランス文化を追いかけ、学問、文化、芸術の持つ美徳を、うわべの文化的洗練の道具として借用し、啓蒙思潮を専制的な官僚主義の強化に利用していた。趣味や媚態は外面的な立ち居振る舞いを優雅なものにする。だが表向きは華麗だが、裡なる邪悪と俗性を虚栄で糊塗した奴隷状態は、ルソーが主張したように、奴隷を支配する主人もまた奴隷である。宮廷にはびこる専制による悟性や、功利精神の歪んだ文化主義は、当時のゲーテたちにとってはがまんのならないものであり、こうした潮流にたいする抗議として彼等の文芸の意義があった。シュトルム&ドラングは人間の内発的な人間性の尊厳を主張していたはずであった。
初めて邂逅したベートーヴェンへの印象を、驚きをもって妻に書き送ったゲーテは、才能と境遇に恵まれて反フランス的文化の情熱に燃えた青春時代を経験していた。そしてワイマール公国の行政に携わることになり、体制内の知識文化人の世界で、みずからの人間形成を高貴なものに陶冶してきた。ベートーヴェンはそんなゲーテを、宮廷の雰囲気が気に入りすぎると観察した。だが名誉も地位も得ていたゲーテには、ベートーヴェンの行動は満たされない者の稚拙な振る舞いと映った。耳の疾患への同情も働いていた。邂逅は多少ベートーヴェンを失望させたようだが、少なくともそれは彼の作品に親しみ描いていたあるべきゲーテ像と、実際に会ったゲーテの印象のあいだに起きた小さな乖離だった云えよう。あの偉大なゲーテと出会った喜びと感動の方がはるかに大きかったに違いない。以後ベートーヴェンが益々ゲーテへ傾斜していったことは、この後にゲーテの詩による作品一一二「静かな海と楽しい航海」を作曲して、彼に献呈で応えていることからも推測することができる。
一八二二年にベートーヴェンを訪ねたヨハン・フリードリッヒ・ロホリッツ(1769〜1842)に、当時のテプリッツでのゲーテとの会見を回想しながら、つぎのように述べている。「当時はそのすべてが、どんなに自分を幸福にしてくれたことか。あの人物のためなら、私は一〇回以上でも死んでもよいところだ。・・・・・・あのカールスバートの夏以来、私は毎日のようにゲーテを読んでいます│何かを少しでも読むというときには。私にとって、ゲーテはクロプシュトックをないものにしてしまいました。・・・・・・」と手放しの称賛である。クロプシュトック(1724〜1803)はドイツで最初のいわば職業詩人として一生を送った芸術家で、その生き方への共感がベートーヴェンにあった。しかし彼の作品には死を感じさせるものがあるが、ゲーテには生きることへの生気があり、ゲーテほど詩人たる自分を作曲に導くような人はいない、だから彼の作品に作曲できるとも述べている。
ゲーテと三〇年来にわたって文通を続けていたロホリッツは、早くからベートーヴェンに注目をしていた批評家の一人である。ライプツィッヒのトーマス寺院の楽団の一員として活躍したのち、一七九八年にブライトコップフ&ヘルテル社の「一般音楽時報」が発刊されると、一八一八年まで主筆として評論活動を続けていた人物である。ロホリッツに述べたようにベートーヴェンはゲーテと邂逅の後も、彼に変わらぬ崇敬と感謝の念を抱いていたのである。
ゲーテはみずからとその周辺を、ベートーヴェンからまったく遮断したわけではなかったはずである。一八一七年にはモーツァルトの弟子であったヨーハン・ネポムック・フンメル(1778〜1837)がワイマールを訪れている。そして二年後の一八一九年にはここの宮廷楽長となり、その後の生涯をこの地で送ることになる。彼はベートーヴェンとピアノの好敵手でもあったが、ヴィーン時代をつうじて親しい関係になり、死の床に数度妻と見舞いに訪れ、ベートーヴェンを感激させている。ゲーテがフンメルをつうじてベートーヴェンのことをまったく聞いていないと考えるほうが不自然である。
ゲーテはベートーヴェンの音楽に現われるディオニュソス的狂乱とむき出しの情念が、彼の感性を眩惑することを怖れていたのではないだろうか。語るように唄い、歌うように語るレシタティーブに表現されるゲーテの詩は、抑揚と間合いと韻を踏む朗唱によって、その真価が発揮されたという。ゲーテには、詩に過度の情感を込めているように聴こえてくるアリアのような、大袈裟な表現を好まなかったのだ。ヘーゲルの指摘した、暴威や我執や悪意や激情やその他の極端に偏頗な情念の表出を、ゲーテは斥けたのである。
ゲーテには複層するリズムや劇的なコントラストが表現の主人公になるのではなく、言葉の持つ躍動感や韻の妙味をいかにして形式に収めるかその構成が重要であり、音楽はそれに添えるものという言葉の芸術を優先して当然であった。音楽と詩の結合はゲーテの場合、自分の詩の芸術性を優先し、付される音楽の助けを借りなくても、詩の持つ価値が損なわれるものではなかった。むしろ言葉の趣向を変形しかねない音楽の支援は、かえって迷惑だったかもしれない。彼の芸術は眼に映ったものを言語に捉えるのである。言語に表現する芸術世界が、音楽に乱される危険をゲーテの眼は感じていた。ゲーテ自身、自分の詩に曲を付けたベートーヴェンやシューベルトの作品よりも、ツェルターの方が気に入っていたと伝えられている。
ハイドンがベートーヴェンの作品一の三曲のピアノ三重奏曲のうち、第三番ハ短調は出版しないほうがよいと忠告したという逸話が残されている。この作品はベートーヴェンにはいよいよ作曲家として正式にデビューを飾る自信作であった。だがハイドンにすれば彼のピアノ三重奏曲のイメージを超えた作品であり、それは当時の一般的な潮流から逸脱したものと考えられたからであろう。到達した芸術観と新たな創造へ向かう者の感性の違いであった。おそらくハイドンに底意があったわけではなく、きわめて正直で率直な感想だったに違いない。こうした感慨はゲーテにもあったのである。
ベートーヴェンは、ゲーテの語彙や韻に含むリズムやテンポに曲想を触発され、それが独自の創造となって生み出される。ベートーヴェンに云わせれば、メロディは韻文の感覚的生命であり、一つの詩の精神的な内容を感覚的に掴めるようにしてくれるのはメロディだというのである。結局ゲーテの言語がベートーヴェンの音楽に翻訳されてしまうと、ゲーテの持つ言語の様式美はメロディの持つ生命力に屈してしまうことになる。
ベートーヴェンの音楽は、言語表現以前の世界から出発する。おそらく太古の人類のコミニュケーションは、文字を使う以前に他の生き物と同じように、唸り声や鳴き声で意思を交換するところから出発していたものと考えられる。二足歩行ができるようになった人間は、身体に表現する身振りや顔の表情が豊かになり、感情に関係する前頭葉が活性化して、精緻で洗練されたコミニュケーションシステムを作り上げていった。やがて身振りや発音が口や舌の動きを発達させ、意思や感情を表わす発話となって、音声言語が生まれたのだ。手の動きをはじめとする身体の部位の発達が、脳の指令を受け止めることができるようになり、音声言語を絵文字や記号に置き換えることを人類にもたらした。人間の場合、類人猿と較べ前頭葉が大きく発達している。脳につかさどる様々な領域の働きが複合して、交差活性化が活発に働いた結果であろうと考えられている。
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