んだんだ劇場2009年5月号 vol.125
No31
ゲーテとの邂逅(2)

 ベートーヴェンは幼児期から音楽的な環境で育ち、鍵盤楽器をつうじて人間の脳に記憶している原初的な感情や意思の領域を活性化させた。それは長期間にわたって持続する感覚経験となり、彼の心の裡に潜在した。意識にのぼらない膨大な情報の蓄積である「潜在認知」や「潜在学習」は、外部からの刺激に促されて顕在化し、彼の無意識にうごめく原初的な生命の情動を、ベートーヴェンは音楽の世界に写し取るのである。
 天才の芸術的創造は無意識の世界にその芽生えが潜んでいる。それが意識の裡に処理されて外部化される。始原世界から導かれる無意識の体験に、内省的な思考が主観的な印象となって増幅され、ベートーヴェンの場合は音楽上の創造となって現われる。ベートーヴェンは幼少の頃からの過酷な訓練をむしろ喜んで受け入れ、人間の脳に刻まれた原初的な世界を開いていたのである。またベートーヴェンが好んで散歩に出かけ、自然の息吹に触れながら野を歩き回ったのは、遠くに眠る遺伝子を覚醒させる効果があった。意識が言語を突き抜けて世界を開くためには、脳内の活性が身体的なレベルで呼び覚まされることを、ベートーヴェンは体得していた。彼の音楽に聴こえてくる生命の律動や、打ち続ける身体的な鼓動を思わせるリズムやテンポは、理性をも包含する生命原理の広がりを持っていたのである。
 人間を動かしている動機の多くは無意識的なもので、近縁の霊長類は優におよばず、あらゆる哺乳類が持つ本能に支配されているのと人間も変わりはない。人間の行動も本来は、原始的で動物的な内なる野性に従うはずだった。だが人間の心の仕組みが、無意識的で始原的な欲求を抑制した。人間は進化の過程で言葉を獲得し、文字を使うようになった段階から理性的になったのである。ベートーヴェンは理性が隠した扉を打ち破って、無意識の記憶を呼び戻そうとする。潜在する本能的な欲求を意識にのぼらせ、何が意識的自我を支配しているのか、その正体を探り出そうとするのである。人間には意識下の潜在願望があり、ベートーヴェンは幼い頃からの音楽上の鍛練によって豊かな情操を獲得していたのだ。ゲーテの直感は、始原的な世界までも穿つベートーヴェンの洞察力を見抜いていた。
 ベートーヴェンがベッティーナに語ったように、音楽は精神生活を感覚的生命として捉えたものの具象化であり、智の世界への唯一の形のない入口で、しかも手で捉えようとしてもできない世界であった。ベートーヴェンの世界は、ゲーテの言語では追い付かない始原世界を飛翔する。人間には、言語の限界へ向かって突進しようという衝動があることを、ウィトゲンシュタイン(1889〜1951)は指摘していたが、ベートーヴェンの音楽は言語芸術の世界を超越していたのである。情念の奥底から駆り立てるような楽音の衝動に、ゲーテは心をかき乱さずにはおかない焦燥感を敏感に察知していた。言葉で語り得ぬ世界は自制して黙すべきだという芸術家の誇り│それは眼で捉えたものに言葉で表わせないものはないという自信の現われなのだが│は、ベートーヴェンの音楽を前にしてゲーテを沈黙させたというべきかもしれない。
 音楽は若い感性との出会いがその後の音楽体験を規定する。ゲーテの聴き馴染んだ音楽は貴族の娯楽の延長にあって、「意義ある粗野」よりも「無意味な滑らかさ」に彼の音楽体験があったのかもしれない。あるいはゲーテにはベートーヴェンが音楽に意図したことは、すでに自分の作品に達成しているという自負があって、それを音楽の世界に抽象化されることに、抵抗が生じていたのかもしれない。私たちは自分の能力や理解を超えた途方もないものを認めるには、みずからの矜持を譲らなければならない。それは芸術家にとって、そうたやすく引き下がることのできるものではない。ゲーテはその人物と生み出す音楽の核心に潜む正体を捉えながら、その内在するものへの驚きが、ベートーヴェンの音楽を遠ざけることになったのである。
 ベートーヴェンが作品のなかで訴える崇高となるものは、原初的な潜在願望に含まれる核心のことであった。そうした内なる野性が蛮性に逸脱する危険をふくんでいることは、ヘーゲルの指摘するところである。怒りに支配される攻撃性、恐怖が襲う不安、探究がもたらす快楽の追及、対人関係をつうじて促される愛憎の覚醒など、近縁の霊長類や哺乳類と変わらぬ始原的なものに含まれる情動の横溢のなかに、崇高を導く核心が潜んでいる。ゲーテは芸術家の直感で、そうしたものに征服されることを避けたのである。
 イタリア旅行から帰国したゲーテは、それまで多岐にわたった行政の仕事から文化関係の仕事へ移行している。一七九一年には宮廷劇場の監督に就任し一八一七年の辞任まで続いている。ゲーテがそれをやろうと思えば、音楽的環境はいくらでも整えることができたはずである。ベートーヴェンの手紙の返書に、ワイマールでの「エグモント」上演を計画していることを述べており、単なる外交辞令に止まるものではなかったと思われる。無遠慮で粗野で聞えない耳からくる奇矯な言動が、ゲーテを辟易させることがあっても、その内面に隠れている奔放だが洞察に優れたベートーヴェンの芸術的資質を、ゲーテの眼力は的確に捉えていたのである。
 ゲーテはシラーへの共感をベートーヴェンに感じていた。逸話に伝えられるベートーヴェンの言動は、先達を自負するゲーテには稚拙な振る舞いと映ったが、その本質に触れたとき、ゲーテは芸術の上での欺慢と虚栄の苦さをかみしめていたのだろうか。ベートーヴェンは創造のなかに譲歩と妥協を持ち込まないよう、みずからの芸術を押し貫いた音楽家である。ベートーヴェンの作品には二極に分かれても中間はない。ベートーヴェンの芸術的な人格は深化していく。中庸に判断を求め、譲歩に答を見い出すゲーテは、世界観に胸襟を開く同志的な絆に接近しながら択一を迫られたとき、言語芸術と音楽芸術の境界をベートーヴェンとのあいだに引いたのである。
 人間の情念に渦巻く葛藤は、人知を超えた運命のいたずらなどではなく、その人自身の生き方とその態度による。人間が犯す罪や過失は、みずからに具わった徳性によって救われなければならない。心の闇に潜む善性を呼び起こし、心性に潜在する普遍の魂を呈示したのが作品六七交響曲第五番の意図したものであった。そしてこの作品九三と前の作品九二では、虚栄で取り繕う体裁を放り出して、ベートーヴェンは闊達な自分をさらけ出している。もはや自分と他者を隔てる境界はなくなっている。こうした人間の崇高な精神に到達する物語は、ゲーテ自身が作品に表わしたものでもあったはずである。ベッティーナがビュークラー・ムスカウ侯に宛てた一八三二年の手紙に、当時のベートーヴェンがゲーテとのいきさつを語った心境が述べられている。そのなかでゲーテの戯曲「タッソー」を引き合いに出して、ベートーヴェンがゲーテを揶揄する描写があるが、いうなれば激情するタッソーと老練で思慮深いアントニオの対照を、ベートーヴェンは自分とゲーテに重ねたのである。
 ベートーヴェンはゲーテの作品に傾倒し精通していた。ベートーヴェンの手紙が残されていないので、ベッティーナの手紙に脚色が入り込んでいるかどうか確かめようはないが、おそらく彼女が描いたようなやり取りが、テプリッツの邂逅でベートーヴェンとゲーテの間にはあったと推測できる。ワイマール宮廷で厚遇されながら、周囲の眼と人間関係に腐心する政治家ゲーテは、ベートーヴェンの貴族との関係に照応するのである。そのベートーヴェンは共感をもってこの作品を読んでいたに違いない。この戯曲「トルクヴァート・タッソー」はある一日の出来事を、五人の登場人物のハーモニーで構成される心理劇である。
 自己の情念に呪縛された詩人タッソーは、周囲の人々の厚意にたいして猜疑心と邪推に囚われている。その疑心暗鬼のために人間不信に陥っており、主人アルフォンスをして「お前は何を考えても何を行っても結局は必ずお前自身のなかに深くおちこんでしまうのだな。吾々の周囲には、運命の掘った深淵がいくつもいくつも控えている。が、この吾々の胸のなかにあるのが最も深い深淵だ。そして吾々はついふらふらとそのなかにとびこみたくなるものだ。お願いだから、お前自身からむりにも離れることだ。詩人として失うものを、人間としては獲得するのだから。」と云わしめる。
 寵臣アントニオが重用されていることへの嫉妬から、タッソーはほんのちょっとの感情の行き違いでアントニオに剣を抜いてしまう。そして激情に駆られた彼は、何かと自分を理解してくれていた主人アルフォンスの妹レオノーレ・フォン・エステの信頼も失ってしまうのである。アルフォンスもまた彼の気性を認めながら、その才能に注目しているのだが「人間を知らない者だけが人間をこわがるのだ。そして人間を避ける者は、やがて人間を誤解するようになる。あの男の場合がこれなのだ。だからのびやかな心が次第次第に乱れてこだわりがちになる。たとえばあの男はわしの厚意を得るのにしばし見っともないほど汲々としている。あの男の敵でもなんでもない多くの人間に、あの男は不信を抱いている。それどころか、ふと手紙が誤配されたり、召使があの男の許からほかへ勤めがえをしたり、原稿があの男の許からなくなったりすると、たちまちあの男はそこに自分の運命をくつがえすような故意をみとめ、裏切りを、わるだくみをみとめるのだ。」(傍線筆者)というように何とか彼の人間的成長を願い、多少の行き過ぎには眼をつむっていたのだが、タッソーにはそういう主人の厚意さえ猜疑の対象であった。どこか伝えられるベートーヴェンの日常の言動に通じるものがある。
 レオノーレ・フォン・エステの友人スカンジアーノ伯爵夫人レオノーレが「あの人の心は遠く散っているものを寄せ集め、あの人の感情は命のないものに命を吹きこみます。私たちの陳腐だと思っていたものが度々あの人の手で貴いものになり、私たちの珍重していたものがあの人にあうと無価値になってしまいます。そういう独特の玄妙な世界をさまよいながら、あのすばらしい人は私たちをひきつけて、共にさまよいたい、心をわかち合いたいという気持ちをおこさせるのです。近づいてくると見えながら相変わらずへだたっていますし、こちらを見つめているように見えても、実は私たちの代わりにふしぎな幻影が眼に見えているのでしょう。」と独白するように、周りの者たちはタッソーの才能を認めているのである。この述懐がベッティーナのベートーヴェンを差すものだとしても違和感はない。
 だがタッソーは、世知に長け老獪で君子然とした自信家に見える寵臣アントニオのような人物を見ていると、それだけでいらいらが募るのである。「私は常々あのぎこちない才子ぶりと、たえず師匠ぶってばかりいる癖とをいまいましく思っていました。聴き手の精神がすでにひとりで正常な道を踏んでいるかどうかなぞ見きわめようともせず、こちらのほうが更によく更に深く感じていることを、いろいろ教えてくれるばかりで、こちらから言うことはいっこうに耳に入れませんから、いつまでたってもこちらは認められないのです。認められずにいる―微笑しながらこちらを無視した気でいるそういう高慢な男に認められずにいるのはたまりません。」とタッソーは憤懣をぶちまける。
 一方アントニオはタッソーを「ある時は全世界を胸に宿しているかのごとく、自分の世界では自分だけで十分だといわんばかりに、自己のなかへ没入してしまいます。すると周囲の一切は彼の頭から消え去ります。一切を往くにまかせ、一切を落ちるにまかせ、一切を排除して自己のなかに休らいます。と思うと急に、人しれぬ火花が地雷火に點火するごとく、喜びにせよ悲しみにせよ怒りにせよまたは気まぐれにせよ、すさまじく爆発するのです。そうなるとすべてを掴みすべてを保とうとします。幾年も準備してかかるべきことをただ一瞬にしてでき上がらせようとしたり、何年苦心しても解決のおぼつかないことを、ただ一瞬にして片づけようとします。自分自身に対して不可能なことを要求しますが、それは他人に対して同じことを要求しうるためなのです。あの男の精神は萬物の窮極を把握しようとしますが、それは何百萬人中の一人にすらめったにできないことです。それにあの男はそんな柄ではありません。結局はなんの発展もなく再び自己のなかへ落込んでしまうのです。」と観察している。これなどは、まさしくベートーヴェンの音楽の特徴を云い当てている。
 そして「自分のことに没頭するのは、それで利益がありさえすれば、さぞおもしろいことだろうが、内省するだけではいかなる人間も自己の本體を会得するのはむずかしい。それは自分の尺度で自分を過小に測ったり、残念ながらしばしば過大に測ったりするからだ。人間は人間と交わってのみ自己を会得する。実生活だけが各人にその本来の面目を教える。」
 「迷っている人間は、正しい洞察と力量との足りない分を激情で埋めあわせるものです。」そういうタッソーを禍へと駆り立てるその短気を和らげるのが、年長者としての自分の義務だとアントニオは彼に述べるが、そのこと自体がタッソーにとっては気に入らないのである。自分のことをすべて分かったようなその口ぶりがタッソーには傲慢に映る。
 それでいながら詩人としての自分にたいしてタッソーは「大衆は芸術家をまごつかせおじけさせます。ただあなた方に似た人だけが理解もし同感もしてくれます。そういう人からのみ批判と報酬をえたいと私は思うのです。」と哀願するのであるが、だからといって猜疑心と邪推の囚われから解放されることはなく、悶々とした心の日々を送るのである。


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