ゲーテとの邂逅(3)
タッソーは年輪を経て、世の中の不条理に動じない老獪なアントニオとして、ゲーテのなかに甦る。そのゲーテの前に、タッソーの化身であるベートーヴェンが立ち現われたのである。それも彼の描いた創造を遥かに超え、自己陶冶を遂げたタッソーであった。そして実際に会ってみたベートーヴェンとその音楽の衝撃は、ゲーテの感性を遥かに超えた世界を体現して立ち現われていたのである。だがタッソーをはるかに超えたベートーヴェンに共感することは、みずからの今日まで築き上げてきた芸術が問われることをゲーテは直感した。シュトゥルム&ドラングが攻守所を換えてゲーテの心に甦ったことだろう。ひと夏の感動的な場面を迎えたあと、ワイマールに戻ったゲーテはそのアイロニーをかみしめていたに違いない。
さてゲーテとの邂逅の一方で、ベートーヴェンとアントーニアを周る事態の収拾が図られていた。義妹ベッティーナ・ブレンターノとの邂逅が機縁となって、ベートーヴェンが頻繁にブレンターノ家に出入りするうちに、アントーニアはしだいにベートーヴェンに傾斜していく。そしてついに彼の懐に走ったのである。一八一二年に入りいよいよその結論を出さなければならなくなり、アントーニアと夫フランツは今後に向けて話し合いが行われ、ベートーヴェンが作品九二交響曲第七番で歓喜の雄叫びを上げたような方向に展開したかに見えた。
だがそこには運命の落し穴が待っていた。アントーニアが夫フランツの子を身ごもってしまったのである。自分が耐え忍びさえすれば、夫をこのような状況に巻き込むことはなかったという思いが、夫フランツの儀式の申し出に応じてしまったのかもしれない。錯乱状態に陥った彼女は、その取り乱した気持ちのままをベートーヴェンに伝えたのであろう。ベートーヴェンは動転した彼女の気持ちを鎮めようとして三通の手紙にしたためたのであった。
夫フランツが人倫をはずれた俗物根性まるだしの凡庸な人物であれば、アントーニアの気持ちはまだ救われたであろうし、彼の申し出を受け入れるはずもなかった。しかしフランツは、おそらく寛容と聡明な見識を具えた尊敬に値する人間だったのである。家族の肖像画に見るフランツの表情からも、彼の温厚で明朗な人柄が窺える。そして仕事がら冷静で沈着な洞察力を身に付けた人物であったと思われる。夫の側に原因があってその落度を非難できれば、別れ話を持ち出したアントーニアの葛藤を和らげることができたかもしれない。だが原因は自分の側にあるという呵責が、アントーニアの心を苛んでいた。
アントーニアは夫の子を懐妊してしまったことで、みずからの倫理をぎりぎりのところで踏ん張り支えていたものが、音を立てて崩れ去ったのであった。信念を貫きとおす生き方をみずからの意志で選んだとはいえ、夫フランツへの呵責に、心はずっと揺れ続けていた。それにしても夫を受け入れたこと自体、すでにベートーヴェンへの背信であった。そのうえ夫の子を身ごもるという衝撃に、アントーニアは呆然自失となり、ベートーヴェンに狼狽した気持ちのままを告げたのだろう。妊娠という予期しない事態は、二人の間に計画していた将来の設計に変更を迫られることになった。ベートーヴェンがアントーニアに宛てた三通の手紙には、彼女の混乱に取り乱した気持ちをなだめるように、そして抑え難い自分の無念を鎮めるように、アントーニアに自制を呼びかけている様子が文面からにじみ出ている。
アントーニアの決断には、倫理的懐疑が心の片隅に拭い去ることのできない小さな染みを作り、大きな悔恨に広がっていた。こうした顛末の後も、なおさらのことベートーヴェンへの助力を惜しまなかった夫フランツである。アントーニアはそういう夫の誠実で寛容な人柄を、ヴィーンで暮らす三年の生活のなかで、すこしずつ理解できるようになっていた。そうであればこそ、夫フランツの求めに応じてしまったと推測することもできる。だがさらに追い打ちをかけるように、おそらくヨゼフィーネもまたベートーヴェンの子を身ごもっていたのである。ベートーヴェンは、以前恋仲にあったヨゼフィーネの窮地を救うために、なにくれとなく援助の手を差し伸べていた。家政の心配にまで立ち入っていたのかもしれない。ヨゼフィーネはその誠意にたいして時遅くして応えたのである。
先のビゴー夫人への弁明の手紙で「もともとわたしは、人妻とは友人関係以外には決して立ち入らぬことを重要な信条の一つとしています。そうした関係を結ぶことによって、他日わたしと運命を共にするかも知れぬ女性に対し不信の念をわが胸に蟠らせ│さらにひいては最も美しい清い生活を自分の手で滅ぼすようなことはしません。」と記したが、運命は時間の遅早をかけ違えた。
おそらくベートーヴェンが求めたものではなかったであろう。ヨゼフィーネの情にほだされ、彼女のやむなき境遇への同情も手伝ってのことだったに違いない。過ぎ去ったこととはいえ、ヨゼフィーネはベートーヴェンが作品六一ヴァイオリン協奏曲ニ長調を生み出すに足る、かけがいのない恋人だった女性である。運命は皮肉な悪戯をした。アントーニアとの明日への希望が彼を有頂天にさせた瞬間、奈落の底にベートーヴェンを突き落としたのである。この事実は秘匿された。ヴィーン社交界のスキャンダルに広がることは目に見えている。
同じ時期に双方が不覚にも同じ過失を犯してしまっていたのだ。アントーニアばかりかベートーヴェンまでも。ベートーヴェンがこのことを、アントーニアに伝えたか定かではない。また果たしてヨゼフィーネの孕んだ子が、ベートーヴェンとの間の子かどうかその確実な証拠もない。しかし姉のテレーゼの日記や、生まれたミノナへの周囲の言動からその疑いは濃い。こうした事情を状況証拠を組み合わせながら推論した、青木やよひ氏の前掲の著書には説得力がある。
アントーニアとベートーヴェンは、お互いに相手を裏切る意識はまったくなかったにしろ、各々夫と昔の恋人の情にほだされて、おなじような心理状態や状況のなかで、結果の皮肉な一致をみたのである。少なくともアントーニアにとって懐妊は、未来を打ち砕くには十分な破壊力を持っていた。ギリシャの神々には平気なことであっても、いまのアントーニアには許されるはずはない。アントーニアは運命の皮肉に愕然として、神が二人を祝福していないことを悟らざるを得なかったであろう。少女時代を修道院の戒律のなかで育まれた彼女のエートスが、どこまで耐えられたかは、彼女の心の裡に聞くしかない。
さらにアントーニアの夫フランツの立場で云えば、夫婦でありながらそこにベートーヴェンを入れた三者の関係では、第三者的な位置に立たされていたと云わねばならなかった。妻アントーニアの強い意志を覆えすことができず、彼の説得もアントーニアの耳には届かなかった。しかしフランツも妻を愛する気持ちには変わりはなかった。三人の子供とともに妻の後を追い、フランクフルトの事業を弟に任せヴィーンで三年を過ごしている。第三者的な位置に立たされながら、フランツは三者の打開の方策に悩んでいたことだろう。そうしているうちに妻から妊娠の事実を告げられたのかもしれない。第三者的保護者の立場で解決の道をさぐっていたフランツは、このときから当事者としてこの問題の前面に出てこざるを得ないことを自覚したのではないだろうか。
アントーニアの妊娠という事実は、二人の関係を対等なものに戻した。フランツにしたところで、積極的にアントーニアをベートーヴェンへ譲りたかったわけではない。お腹の子を出産し妻の体調が戻るまで、一端フランクフルトへ戻ることで説得したと考えられる。ほとぼりが冷めるまで三者の間に取り交わされた合意を猶予したとの推測も成り立つ。夫としての責任と義務をフランツがどのように果たそうとしたのか、フランツの意思を確かめるようなものはなにも残ってはいない。どのようなことでも勝手な憶測が成り立つが、少なくともフランツがベートーヴェンへ意趣返しをもくろんだとは考えられない。フランツェンスブルンでの一ヶ月の滞在後、テプリッツに戻ったベートーヴェンの上機嫌はまだ続いていたのである。三者の合意はこの時点でまだ有効だったとみてよい。
この瓦解の時期が、この年のおそらく九月下旬にかけてのことだったのではないかと、青木やよひ氏は状況を傍証しながら推理している。ベートーヴェンの上機嫌と絶望にいたるおよそ二週間の間に何が起こったのか、まったく不明であるが、アントーニア本人の気持ちに変化があり、それが二人の瓦解に繋がったものと見られる。アントーニアに端を発した三者を周る問題は、結局アントーニアの妥協によって表面上は何事もなく終わったことになる。こうしてベートーヴェンとフランツの二人には、突風に翻弄された一八一二年の夏であった。だがアントーニアは二人の男を弄ぶ小悪魔的な女性だったのではない。みずからの人生の不条理に悩み、心に傷を負い、それを二人の男が各々の立場で救い出そうとして苦しんだのである。だが運命の糸はベートーヴェンのために解きほぐれることはなかった。このあとベートーヴェンは、ヴィーンから数百キロも離れた下の弟ヨハンの住むリンツに引きこもる。そして弟の結婚をめぐって嵐のように暴れるのである。
ベートーヴェンとヨゼフィーネ、アントーニアと夫フランツの四人の間のどこにも悪意はなかった。各々が悩み苦しみ、誠意と慈愛が巻き起こした不条理というほかはなかった。運命の悪戯はその意志表示だったのである。ベートーヴェンはその後も未練を残しながら、しかしついにその実現の機会は訪れることはなかった。そしてこの試練を潜り抜けるためにベートーヴェンは苦汁の数年を費やすことになるのである。
やがてベートーヴェンは、日記帳の第一ページにつぎのように記すことになる。「服従、おまえの運命への心底からの服従、それのみがおまえに犠牲を│献身としての犠牲を負わせうるのだ│おお、きびしいたたかい!│全力をつくして、遠方への旅に必要な計画を立てよ│すべておまえがすべきだ│おまえの至福の望みを叶えるものを、おまえは万難を排して手に入れるほかはない│この志操を絶対に守りぬこう。
おまえは自分のための人間であってはならぬ、ひたすら他者のためにだけに。おまえにとって幸福は、おまえ自身の中、おまえの芸術の中でしか得られないのだ│おお神よ!自分に打ち克つ力を与えたまえ、もはや私には、自分を人生につなぎとめる何ものもあってはならないのだ。│こうして、Aとのことはすべて崩壊にいたる│」(ベートーヴェンの日記 岩波書店)。ベートーヴェンとアントーニアは、お互いに相手への誠実な気持ちを慮りながら不本意な結果を招いた。みずからの生き方に妥協を許さず、それを貫こうとして破局にいたったのである。
心酔していたゲーテと邂逅した一八一二年の夏は、ベートーヴェンにとってハイリゲンシュタットの「遺書」以来の重大な岐路に立たされた年だったのである。「いくつかの声部が厳密に結び付いていると、概して一つの声部から他の声部への進行を妨げる│」と後日ベートーヴェンは慚愧の念に打ちのめされながら、この事態を隠喩として象徴的に日記に記すことになる。
ベートーヴェンの強靭な精神はどのような辛く厳しい試練に遭っても、受けた試練を豊かな創造に甦らせて、私たちにかけがいのない贈りものとして届けてきた。だが今回ばかりはよほど堪えた。不滅の恋人アントーニアとの瓦解は、彼に立ち直れないほどの挫折と絶望をもたらしてしまったのである。そのうえ皮肉なことに、この作品は奈落の底に突き落とされる直前の、歓喜の絶頂時に作り上げられようとしていた。曲はそんな二人の破局を知らず、両者を祝福するように軽快に奏でる。
この曲の上機嫌で愉悦に満ちた気分に、何かそぐわない引っかかりを感じたのだろうか。ベルギーで生まれフランスで活躍した音楽家で批評家のフェティス(一七八四〜一八七一)は、一八三二年二月一九日のパリでのこの作品の初演を聴いて、つぎのような印象を述べている。「ベートーヴェンの『第八交響曲』は若干の部分が同じ作者の他の諸作品とはあまりに違いすぎる点で、なにかわれわれには知られない条件のもとに書かれたと信ずべき理由があり、その条件によってのみ、なぜベートーヴェンが幾つもの大作、なかんずく『英雄交響曲』を書いてから彼の感じ方に似つかわしい雄大、豁達な方途を急に棄ておいて、その天才の躍動を抑制したかも解きあかされるであろう。ただ、規模が狭いからといって、感歎にあたいする諸点が認められないというのではない。筆者が指摘する奇異な点とは、これが書かれた時期や、その際にベートーヴェンの方途が衝動的に変わったこと」なのである(「ベートーヴェンの交響曲」ベルリオーズ 橘 西路 訳編 角川文庫)。
作品九三交響曲第八番ヘ長調、この作品は小節数で見ると、楽章の構成は両端楽章の規模が大きいというより、間の二つの楽章が極端に小さいのである。第一楽章が三七三小節、第四楽章の五〇二小節は交響曲第九番に次ぐ規模の大きさになっているものの、第二楽章が八一小節、第三楽章が七八小節である。この二つの楽章は、ほかの八曲の交響曲と較べても半分以下、三分の一といってよいくらいの規模である。フェティスの指摘する奇異な点は、四つの楽章の小節の配分から見ても明らかである。幸先に心が奪われていて、この作品の完成を急いだのではないかと当て推量をしてみたくなる。
楽曲の解説ではこの作品を古典様式への回帰とみる向きもあるが、私には聴感上は九曲の交響曲のなかで最も前衛的に聴こえてくる。その第一楽章の開始は、交響曲第三番第四楽章やこのあとの第九番第四楽章と同じく、音符が一斉に降り注ぐようにトゥッティで奏でられる。ここでは内心の喜びをつつしみ隠そうとしながら、抑え切れない喜悦が顔を出している。小ぶりだがきりっと引き締まった造形に重厚感があるが、ハーモニーの美しさを狙ったものではない。終結は冒頭の主題を呈示すると、体言止めしたようにピアニッシモで終わるのは、はしゃぎすぎを自戒しているようでもある。
第二楽章の正確で陽気に刻むリズムとテンポは、逸る気持ちそのままに疾走する。テンポがものすごく速いうえに、スタッカートの指定が頻々に現われるので、非常にきびきびとして端正に聴こえる楽章である。正確にメトロノームを刻みながら、心はここにあらずというようにせっかちな歩みである。童心に還ったベートーヴェンは、機械の持つ精確な刻みと競争するように、大急ぎで音符を書き込んでいく。そして最後はこの稚戯な遊びに照れを隠すように、ベートーヴェンは高笑いして終わる。彼はいま幸福の絶頂に立っていたのである。
第三楽章はその中庸なテンポを、メヌエットのようにと指示したものだが、メヌエットそのものといってもよく優雅で気品に溢れている。ここでは、ベートーヴェンになぜモーツァルトが聴こえるのかという、交響曲第一番とは逆の驚きである。典雅で愉悦に満ち、掌中の宝物を愛でるベートーヴェンの私的な世界が浮かんでくる。彼は芸術的には大望を抱きながら、生活者としてはほんのささやかな幸せしか望んでいなかったことがよく分かる。
第四楽章、人々は遠くから軽快な足取りで、しだいにこちらに近づいてくる。細かく刻むリズムは嬉しい期待に胸を弾ませ、その日の到来を日待ち顔に数えるあどけない子供の笑顔である。先の交響曲第三番や第六番の各第三楽章の冒頭と同じように、細かく刻むリズムは待ち望んでいたものがいよいよ到来する喜びである。人々が広場に参集すると、歓喜の舞踏を踊り出すのである。先のヴァイオリン協奏曲が静かな至福の味わいだとすれば、こちらは賑やかなカーニバルである。第七番と同様に奔放に時空を駆け巡っていて、囚われのない精神の舞踊である。前途には明るい希望がその視界に開けていたのである。
だがこうしてベートーヴェンはこの曲とはまったく対照的に、一夏の夢に破局を迎える頃、ナポレオンはロシア侵攻の途次に酷暑のなかの強行軍で早くも飢えと疫病に襲われ、侵攻は停滞を余儀なくされる。先々では灰儘と化した街に迎えられ見知らぬ土地をさまよい、酷寒のロシアに追われてナポレオンは敗北するのである。
おおきな虚脱感をかみしめ一人はヴィーンへ、そしてもう一人はパリへ生還する。ふたりは支配する者とその抑圧に苦しむ者の関係にあった。その両者がこの一八一二年の年に、人生最大の挫折を迎えることになったのである。音楽の英雄は支配の専制者にみずからの作品を献呈しようとした時期があったが、その卑俗性を見破り撤回した。専制の支配者は楽聖を歯牙にもかけなかった。一人はほんのささやかな家庭の幸福を求めて瓦解した。一方は世界制覇への野望を断たれて決定的に敗北した。この二人の心に去来する感慨に相違があろうはずはない。この世に生まれいかなる大望を抱こうと、その規模の大小が達成感や挫折感の多寡に繋がるものではない。結局最後は個人に帰すべき容量に収まるのである。
そしてゲーテは内なる世界の安寧に閉じ籠る。この社会を形成しているのは欲望や情熱に突き動かされ、性格や才能から発する人間の行動であり、こうした人々の営為が生み出したものである。だがゲーテには営為の人々を衆愚と見る傾きがあった。ゲーテにすれば、これを秩序の下に統合するのが英雄の果たす役割なのである。しかし民衆を衆愚と貶しめるほどに高潔な言説は、自身の私的な生活では言動と一致していなかったようである。
「・・・・・・ドイツ人が、ただひそかに個々を尊敬しあうだけでなく、その気持を心から親愛感をこめて打ち明けあうことが何にもまして必要であります。なぜなら、まったくのところ、国民相互のあいだに不信と不満がみちあふれているからです。不和軋轢の種でもあると、これをかきたてるほどたやすいことはないから、大勢よってたかってこれを針小棒大にしてしまいます。これに反して、節度と公正心を呼び起こすのは困難ですから、誰もそんな役など買って出ようとしません。人間関係でも学問研究でも、互いに協力してやれるはずなのに、つまらぬことが原因になって角つきあわせてしまうのです。・・・・・・」とひとつの卓見を述べる。
だが自分の息子が戦場の危険に晒されることを危惧したゲーテは、その地位と情実を利用して息子の徴兵を逃れる。外部へは節度と公正心のなさを傍観的に批判しながら、私的な事柄ではどこまでもその私情の論理を貫くのである。公私に論理的整合性が欠けていながら、その葛藤が見られないことは当然周囲の顰蹙を買い、シュタイン夫人やシラー未亡人シャルロッテの批判を浴びている。風見鶏のように無定見で無節操に見えるゲーテの言動の本質は、満ち足りた者の悟性に支えられて成功した、体制派文化人の人生観が見え隠れする。
カールスバードでナポレオンの皇妃マリー・ルイズに謁見したゲーテは、イギリスにたいするナポレオンの大陸封鎖を讃える詩を朗唱するかと思えば、ハプスブルグ家の王妃に召されると、いそいそとテプリッツに赴くのであった。それは狭い了見とは違う彼の度量から出た行動であるといくら弁護しても、その私的な言動と合わせて見たとき、彼の行動は右顧左眄の結果というものではなく、彼の如才のなさを証明するだけである。論理的正当性を身にまといながらゲーテは私情の倫理に均衡していく。
良識と節度のなかに人生の目標を置いている人々は、ひとつの理性的な限界のなかで自律を求め価値を判断する。良識や節度を犠牲にしてまで、自己実現を求めることはしない。かれらの理性的な限界のおよぶ範囲は、政治的な影響力をもって民衆を動かすほど大きいものではないとヘーゲルは述べる。時の支配者は体制派知識人の言動をよく見抜き、ゲーテは自分の本分をよくわきまえていたことになる。しかしゲーテの世界は当時の民衆のレベルからは格段の良識と節度の広がりと、理性的な限界の大きな時空を獲得していたのである。ゲーテの寛容は、ベートーヴェンの狭量を包み込むことができるほど大きなものだったはずである。ひそかに個々を尊敬しあうだけでなく、その気持を心から親愛感をこめて打ち明けあうことが何にもまして必要だとゲーテは表明していた。だが、持てざる者への寛容は、それによって体制に手なずけるものでなければならない。その範囲を超えた寛容は、相手の牙を磨き体制崩壊につながることを、体制派知識人はよく熟知していたのである。ゲーテは体制派のなかの少数派であり、ベートーヴェンは芸術家のなかの少数派であった。
精神の本質は自由であり、自由が精神の飛翔をもたらすと述べたヘーゲルは、地平線の内側に世界を観照したが、ベートーヴェンは地平線の彼方に世界を想像した。そしてゲーテは波打ち際に己の分別を敷いた。ベートーヴェンの創造は、専制の土壌に革新の種を蒔く。自由とは抑圧からの解放に止まらず、地位や名誉や権力や財力から解放され、みずからを開放し始原世界に芽生える生命原理に従うことであった。彼の創造は奇抜なアイデアの発見ではなく、醸成し磨いてきた法則にたえず新しい生命を注ぎ、変革の刺激を与え続けるものなのである。
響宴のあとの余韻が醒めやらぬまま、この作品九三交響曲第八番は無心に戯れる。作品九二交響曲第七番が奔放にして雄大なディオニュソスの宴なら、この作品九三交響曲第八番は軽快で優雅な乙女の舞踏である。ベートーヴェンとアントーニアは、この二つの作品が表わすように、良識や節度の垣根を越えて、音楽の世界では理性の境界を突き抜けていたのである。
一八一二年の夏、ベートーヴェンは愛妻エウリュディケを喪ったオルフェウスとなり、彼の内なるディオニュソスは姿を消した。アポロンの下にひれ伏し、内なる世界を観照する孤独の森をさまようのである。だが作品の上では、六年前のヨゼフィーネへの追憶の彼方に刻み付けるような憧憬とは違い、ここでのベートーヴェンとアントーニアはお互いに呼応し合い、相聞歌の陶酔に歓喜のリズムを打ち続けるのである。前作の二つの交響曲のように、この二つの作品も双生児といってよい。しかしそれは兄弟姉妹ではなく、夫婦として番いを成すものであった。それはあたかも求愛を表わす二羽の白鳥の舞踏である。音楽の世界で永久の夫婦となった二人は、その喜びを永遠に踊り続けるのであった。
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