んだんだ劇場2009年7月号 vol.127
No33
甥のカール、挫折から歓喜へいたる道

 一八一二年の夏を境にベートーヴェンの創作活動は停滞する。交響曲第七番と第八番の頂から眺めた世界は、美しき神々の火花に祝福される楽園が広がっているはずであった。だが現実にベートーヴェンが見たものは、地平線の先まで蔽い尽くす荒涼と広がる不毛の大地であった。何も育たないこの荒野を突っ切るために、ベートーヴェンは数年を要することになる。伴侶となるべき女性アントーニアとの破局を迎え、ベートーヴェンは失意のどん底に突き落とされてしまったのである。対象を喪失した虚脱感は、このあと創作への情熱はもちろんのこと、生きることの意欲を失い、寂寞とした日々を過ごす。ここに彼の人生の最大の危機を迎えたのであった。
 西洋に陰陽道に云う厄年の概念があるのかどうか。人生の周期を突いて襲ってくる厄難に油断なく対処しようという東洋人の戒めでもあるが、一八一二年はベートーヴェンにとってまさに本厄を迎える年であった。ベートーヴェンはこの間の心のうつろいを、「日記」とも云えない体裁のまま、覚え書きのように記している。この期間はおよそ六年に及んでいるが、これは彼の創作の停滞期とほぼ重なっている。「一八一三年五月一三日 大事な行為とは、何もせずにしておくということでもありうる│おお、私の中でしばしば思い描かれていた無為な生活とはなんたる相違か│おお、なんとひどい状況、家庭生活に対する私の思いは押し殺さずに、その実現をはばむとは、おお神よ、神よ、不幸なBにお目を注がれ、もうこんなことが続かぬようになしたまえ│」(「ベートーヴェンの日記」 メイナード・ソロモン編青木やよひ訳 岩波書店)と日記に記している。
 私たちは何をもって生きがいとし、みずからの何を肯定して納得のうちに、人生を全うしたと云えるのだろうか。もう交響曲第一番で奏でたような可能性が前途に広がっているわけではない。未来は足音高く前方から迫って来ている。無為な生活からの脱出は「仕事に没頭するのが一番だ」とみずからに言い聞かせながら、「わたしを人生にしっかりと結びつけなければならぬものは、もう何もない。」と独白する。孤独は人の心を苛む。ひとつの偉大な力が働いていたベートーヴェンの創造は、一転してその内なる栄光を失ったかのようである。いまベートーヴェンの心は荒涼として、砂を噛むような味気なさにやり場を失っていた。みずからを奮い立たせた芸術への情熱は、遠い過去へ押しやられてしまったのである。
 私はベートーヴェンの人生に、まさか虚無と厭世が覆い被さってくるとは考えてもみなかった。たとえどんな不幸に見舞われようと、それを克服していく強靭な精神を湛えていたベートーヴェンの音楽である。徳と芸術に導かれた明晰なイデアの世界、穏やかな情動がもたらす静謐な世界、そうしたものに鎮静された情念の静かな興奮は、成熟した後半のベートーヴェンを彩るはずであった。だが現実はささやかな計画や感傷からベートーヴェンを切り裂いたのである。
 かつて作品一五ピアノ協奏曲第一番に表わした若き貴公子の颯爽とした威厳や、溌剌とした気分は、遥か後景へと追いやられてしまったのである。私たちがあの運命のモチーフが乗り移ったかのような作品の数々に魅了されたのは、その強靭な意志が奏でる自己意識の覚醒と、それがもたらす興奮と熱狂が浄化にいたる感動であった。ヒューマニズムの虚妄を聴きたいために彼の音楽を求めたのではなかった。ベートーヴェンの魂が発する倫理性を信じ、覆えることのないヒューマニズムの真髄に憧れて、耳を傾けてきたのである。だがそのベートーヴェンが無為の感覚に襲われ、人生の行方を断念したかに見えたのである。創造を通じて陶冶し続けてきたみずからの誇り高い精神は、妥協と譲歩を許さなかったこれまでの軌跡の延長になお、未来を描こうともがいていた。
 ベートーヴェンが希望に馳せて向かったフランツェンスブルンのブレンターノ夫妻との密会は、テプリッツやカールスバートで親しく交歓したゲーテと二重映しとなって思い出される。敬愛するゲーテを歓喜の頂点で貶めた傲岸の極みを、テプリッツでの邂逅とともに蘇ってくるベートーヴェンであった。誇りと自信に満ちて振る舞った一八一二年の夏、ディオニュソスの熱狂に酔いしれたベートーヴェンはここでは見る影もない。芸術の上でみずから訴えてきたことの総てが、現実の彼の身に降りかかり、芸術の高みから世界を観照し創造に打ち込んできたベートーヴェンに、当事者として現実の問題が突きつけられ、その解決を迫ってきたのである。
 いまここに居るベートーヴェンは、魂を消失し生きる意欲を無くしかけて、悄然とたたずむ中年男の背中である。俗世的な利害を求めることなく、ハイリゲンシュタットの苦悩を忘れず、ひたすら音楽を通してみずからの陶冶を願っていたベートーヴェンだったが、目の前の現実の綻びにその手当を迫られていた。ベートーヴェンの創作は二つの交響曲を仕上げてから停滞する。かつての傑作の森で生み出した創造の活力はまったく影を潜める。一八一七年から翌年にかけて作られた作品一〇六ピアノソナタ第二九番ハンマークラヴィーアが現われるまで、回復の兆しは見えない。その影響は一八二〇年を過ぎてもいまだ及んでいたと私には見える。
 一八一三年から一八一七年までのベートーヴェンの創作した作品番号の付いた作品は、管弦楽伴奏や混声合唱を含めた声楽曲七曲、器楽曲・室内楽曲六曲、管弦楽曲二曲、そして歌劇フィデリオの第三稿とフィデリオ序曲を合わせた一六作品と、数年にわたって手がけていた作品一〇八スコットランドの歌曲二五曲の編曲(1812〜1818)がある。作品五五交響曲第三番を起点にした傑作の森といわれた中期の作品に較べると、その作品の規模と質においてとても比較の対象となるような創作内容ではない。このほか作品番号の付いていない三十数曲の作品を残しているが、そのうちの半数は数分に満たない声楽曲や、独唱をともなう合唱曲である。また手紙や記念帳への即興的な走り書きのカノンやリートなどもいくつか見られる。
 そのなかでWoO九四唱歌劇「よき知らせ」の終曲「ゲルマニア」と、WoO九七唱歌劇「凱旋門」の終曲「それはなし遂げられた」の二曲は、クリストフ・アウグスト・トライチュケ(1752〜1841)の台本をもとに、当代の音楽家たちが共同して曲を分担して構成したものである。前者はフランス軍を打ち破り、その戦勝を祝う催しのために計画されたもので、後者はパリ陥落を記念して作られた。また作品一三六カンタータ「栄光の時」はヴィーン会議に便乗した作品で、詩人や画家や音楽家たちがこぞって時流に便乗しようとした時期に、ベートーヴェンもその誘いに乗って短期間で仕上げた作品である。
 作品八九ボロネーズハ長調は、医学博士で友人のアンドレアス・ベルトリーニの勧めで、ヴィーン会議のために滞在していたロシア皇帝アレクサンドル一世の皇后エリザベータ・アレクシェヴナに献呈するために作曲した作品である。また作品一一五序曲「命名祝日」は、オーストリア皇帝フランツ一世の命名日(一〇月一日)の夕べのために作曲した序曲とされているが、その祝日の祝典(一〇月四日)には演奏されず、出版に際してリトアニアの貴族ラッヴィルに献呈されている。
 作品九一「ウェリントンの勝利」は、メトロノームを発明したことで知られるメルツェル(1772〜1838)の勧めによる。ウェリントン将軍が率いるイギリス軍が、スペインのヴィットリアの会戦でナポレオン軍に大勝したのに便乗し、この戦勝を祝って自動演奏用の機械(パンハルモニコン)のために、メルツェルがベートーヴェンに作曲を依頼したものである。この著作権をめぐって、後にベートーヴェンとメルツェルの間で訴訟を繰り広げることになる。
 ゲーテのことを、宮廷の雰囲気が気に入りすぎると見ていたベートーヴェンだったが、ヴィーン会議を前にして、その彼もまた政治の世界におもねざるを得なかった。このようにこの時期のベートーヴェンの作品を見ると、情念の衝動が突き上げる必然から生まれた作品というよりは、機会を捉えた請負的な仕事に終っているものが見られる。けれどもこうした状況のなかで、はからずも内面を吐露した作品もいくつか生まれた。作品九四「希望に寄せて」は作品三二でティートゲの歌詞に曲を付けたものを、改めて作曲し直したものである。作品三二では出版に際してヨゼフィーネヘの献呈は除かれたが、私的には彼女ヘ愛の献辞とともに贈られた作品である。作品九四で冒頭に歌詞を追加して再びこれに曲を付け第二作とした。
 ベートーヴェンの声楽曲には改作や再稿が度々見られるが、この頃のものではWoO一四四「メルケンシュタイン」もその一つである。これは一八一四年一二月二二日に第一作が作られ、間を置かず翌一八一五年はじめに二重唱として第二作が出されている。また作品九八「遥かなる恋人に寄す」"An die ferne Geliebte"の最初のタイトルは「離された恋人に」"An die entfernte Geliebte"となっていた。アントーニアとの別離を想起せずにはおかない作品である。これは連作歌曲といわれるもので、シンメトリックに並べられた六曲の歌曲で構成されている。当時医学生であったアーロイス・ヤイテレス(1794〜1858)が作詞したものに、ベートーヴェンが第一曲の最終節と第六曲の最終節を補筆したのではないかという説もある。このほかWoO一四八「いずれにしても」やWoO一四九「あきらめ」などの歌詞は、アントーニアとの別離を重ねてみたとき歌詞の内容が悲しい光彩を放っている。
 同様に作品九〇ピアノソナタ第二七番ホ短調や、作品一〇一ピアノソナタ第二八番イ長調は、この時期のベートーヴェンの心境を映したような諦念を吐露している。第二八番の第四楽章などは、最後の三曲のピアノソナタに聴く融通無碍な自在性を予告しているかのようである。これまでのような鍵盤に叩き付ける激しい情動は影を潜め、輝くような色彩は姿を消し、モノトーンの沈んだ色調に変わっている。ときおりかつての熱情を呼び戻そうと、みずからを励ますようにフォルティッシモが昂揚するものの発展しない。叩き付けた和音がハーモニーとなって響いたときの、白濁した律動は後方へ押しやられ、清澄で単音的な響きとなって余韻を残す。それは彼の創造の荒々しい情動の喪失でもあった。
 マリー・エルデーディ伯爵夫人に献呈した作品一〇二の二曲のチェロソナタにも、ベートーヴェンの陰りが伝わってくる。絶望的な悲しみを背負いながら、もはやのたうちまわる爆発のエネルギーは枯渇して、悔恨と自省が透明な響きとなって伝わってくるのである。死の妄想に抗うことを諦め、深い絶望をしのばせている。ベートーヴェンの内面を蔽い尽くしているのは、激しい情念の闘争とは対極にあるものである。このチェロソナタ第四番の第二楽章のアダージョは、彼の内省的な瞑想の語らいである。後期の弦楽四重奏に聴こえる深淵な禅問答に例えられるような、幽玄の世界が顔を現わす。活達な精神を取り戻そうとしながら、以前のような伸び伸びとした精神に戻ることができない。芸術の上では正攻法で突破してきたベートーヴェンも、ついに己の力だけではどうすることもできない人生の厚い壁に突き当たっていたのである。
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 こうしたベートーヴェンの側の事情とは裏腹に、世相はヴィーン会議の喧騒のなかで沸き返っていた。ナポレオンがロシアから敗走すると、これにつけ込んだプロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンの連合軍は一八一三年一〇月一八日にライプチッヒ郊外でナポレオン軍を破る。この好機を捉えて各国の首脳はヴィーンに集まり、ナポレオン後の世界を協議することになったのである。しかし交渉は正式な協議の場では定まらず、各国の思惑が交錯して、権謀術数を張り巡らす接待外交の場が表舞台にとって代わっていた。
 一八一四年九月に主要国の代表がヴィーンに集まると、翌一八一五年六月までヴィーン会議は続く。この会議はルイ十八世の政府との間で調印されたパリ条約に基づき、対ナポレオン戦争に関係したすべての国が参加できることになっていた。ドイツ領邦の諸侯をはじめ、正式な代表として派遣された人数は二一六人に上ったというから、随員を含めた人数は数千人規模に達していただろう。各国の政治家や著名人が一同に会し、ヴィーンは一大イベントの会場となったのである。大小の国々、敵味方が一同に会した各国のなかで主導的な役割を果たしたのが、パリ条約の調印に加わったイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの四大国であった。
 この四大国は自分たちの間で利害をまとめようとするが、一方で当事国フランスとともにスペイン、ポルトガル、スウェーデンの三ヶ国もパリ条約に調印しており、四大国の思惑だけでナポレオン後のヨーロッパ体制をまとめるには、各国の利害が複雑に絡み合っていた。しかも四大国間でも利害が衝突し、なかなか合意に至らない。重要問題は、四大国にフランスが加わった五国委員会で討議された。この委員会が四十一回の会合を持ったのにたいして、スペイン、ポルトガル、スウェーデンが参加した八国委員会の開催は、わずか九回に止まった。結局最終議定書は、五国委員会のメンバーによって調印されたのである。
 ヴィーン会議で基本原則としたヴィーン体制というのは、ヨーロッパをフランス革命以前の王朝に戻し、正統主義に基づく勢力均衡を図ることであった。だがこの勢力均衡の裏側では、各国ともヨーロッパに傑出した一つの大国の出現を阻止し、互いに牽制しながら自国の強大化を図り、領土獲得の思惑が働いていたのである。フランスとスペインにはブルボン王朝が復活し、ドイツ圏はなお分割状態の緩い連合に止めて置くというものであった。そしてイギリスは大陸の間隙を縫って、抜け目なく諸地域を植民地に領有し、海上帝国として大西洋からインド洋にわたって征海権を確保した。プロイセンはザクセンの北半分と、ライン中流域を含む地域を獲保し、オーストリアはネーデルラントと西南ドイツを失ったが、ロンバルディア、ヴェネツィア、チロル、ガリツィアの北部イタリア地域を獲得した。オランダはネーデルラントを手に入れ、立憲君主国となる。ポーランドも立憲君主国となるが、ロシア皇帝が君主を兼ねるという事実上のロシアの統治下に置かれるのである。またスイスは永世中立国として認められた。
 そして三〇〇を越えていたドイツの諸領邦は、六君主国、一選挙侯国、七大公国、一〇侯国、一〇公国、一方伯国、四自由都市の三九に統合され、一八一五年六月八日をもってオーストリアを議長国とするドイツ連邦を形成したのである。このなかにはイギリス、デンマーク、オランダの各国も君主として属しており、ドイツは西ヨーロッパの緩衝地帯として位置付けられる。フランス革命以前の復活を目指すといっても、勢力均衡は現実の政治的妥協と大国の目論見によって弱小国の意志は無視され、勢力版図は塗り替えられたのである。
 このヴィーン会議の間に、ロシアのアレクサンドル一世が神聖同盟を提唱し、ロシア、オーストリア、プロイセンの間で一八一五年九月二六日に調印された。この神聖同盟というのは三君主の友愛の紐帯によって、正義、慈愛、平和を宣言し、三君主が同一家族の三分家として神から委託を受けたことを表明したものである。各国もこれに賛同しイギリス、トルコ、ローマ教皇を除いたヨーロッパの君主たちがこぞってこれに参加した。王権神授説が衣を替えて確認されたことになり、このイデオロギーが革命フランス以前の伝統的支配の拠り所となる。合わせてロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスの四ヶ国は同盟関係を強化し、革命の子ナポレオンの再登場を阻止するヨーロッパ協調体制を整えていくのである。
 だがこうしたヴィーン会議の熱が冷めると、ベートーヴェンの栄光もヴィーンを去っていく人々とともに、潮が引くように消えた。まるでナポレオンの凋落と軌を一にするような符号の一致である。いまここにいるベートーヴェンは、一市井人と変わらぬ平凡な中年男である。人生の伴侶を求めながらその挫折を味わい、現実の生活を仕切っていかなければならない落魄した一人の中年男を、ベートーヴェンに発見した意外性であった。このような時期のベートーヴェンに追い打ちをかけるように、彼は身内のわずらいに翻弄されていくことになる。


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