んだんだ劇場2009年8月号 vol.128
No34
甥のカール(2)

 ベートーヴェンの二人の弟のうち、次弟カスパール・アントン・カール(1774〜1815)はヴィーンに出て来てしばらくベートーヴェンの秘書役を引き受け、出版の交渉などいわば営業の窓口となって兄を補佐していた。本人も兄と同じ道を目指していたのだが、自分の才能はとうてい及ばないことを悟り、宮廷官吏として身を立てていくことになる。兄ベートーヴェンの働きがあったのだろう、カールは一八〇〇年にハプスブルク帝国の財務局員司補に登録され、翌一八〇一年には財務局正官吏に登用された。そして一八〇六年五月二五日にカールは、父が室内装飾業を営むヨハンナ・ライス(1784?〜1868)と結婚する。カールはベートーヴェンの秘書役を、この頃まで続けていたようである。彼は官吏としては如才なかったようで、一八〇八年に課税税務局第一級官吏に昇任し、翌一八〇九年には一般国債局補佐官に任命され、年棒一〇〇〇グルデンと一六〇グルデンの住居費を支給されている。
 この時期、ナポレオンによる賠償金の支払や、物資、人員の調達、大陸封鎖による物価の高騰など、経済や世情の不安が高まり社会は混乱を深めている。一八一一年には公務員給与辞令によって給与や年金の支払が銀貨ではなく、銀行小切手で支払われるようになると、その価値は銀貨の四〇%から二〇%にまで下落するのである。ベートーヴェンが三人の貴族から受け取るはずの四〇〇〇グルデンの年金は、一挙に半分以下の価値しかなくなってしまう。さらに悪いことに一八一二年一一月三日、キンスキー侯爵が連隊を率いて行軍中に、落馬して急死するという事故に見舞われる。そのうえロブコヴィッツ侯爵は劇場の経営を引き受けて、破綻をきたし破産してしまう。まともに支払に応じたのはルドルフ大公のみであった。ベートーヴェンはこの年金をめぐって訴訟を起こしたり、未払いの年金について遺族と交渉したり、繁雑な日々を強いられることになる。この三者の年金については、マリー・エルデーディ伯爵夫人と、イグナーツ・フォン・グライヒェンシュタイン男爵の尽力によって成立したものである。関係者の善意が結んだはずの契約が、結果として人間関係に不幸をもたらすのである。これがアントーニアとの関係が破綻した前後の出来事である。
 一八一三年に入ると弟カールの肺疾患が悪化し、遺書を認めるまでになる。弟の窮状を見かねたベートーヴェンは、彼に一五〇〇グルデンを用立てることになるが、この件について後日、出版商のシュタイナーと弟夫婦、ベートーヴェンの三者の間で訴訟沙汰に発展する。こうした時期と重なるように、ベートーヴェンはこの間にブレンターノ夫妻から金を借りていることが、一八一四年の彼の日記に残っている。「わたしは、F・A・Bに二三〇〇フローリン借りている。一度は一一〇〇フローリンと六〇ドゥカーテン」。
 カールの疾患が一時的に回復すると、彼は一般国家金融出納係に任命される。給与も再び銀貨で支払われるようになり、家政も安定に向かうかに見られた。だがカールは兄への借金の返済を放り出して、アルザーフォアシュタットに一軒の住居を購入する。購入価格は一万一六七五グルデンであった。これに怒ったベートーヴェンは州裁判所に訴訟を起こした。作品を出版しその稿料や献呈による幾許かの収入と、貴族からの年金が頼りだったが、物価の高騰で貨幣価値は半減している。借金を背負っていたベートーヴェンは、新たな収入の見込みもなく生活の危機に陥っていた。
 裁判で和解が成立し、カールおよび保証人となった妻ヨハンナは六ヶ月の分割払いで一〇〇〇グルデンを返済し、残金はその後三ヶ月で完済することになった。ベートーヴェンはこの債権をシュタイナーに譲渡する。シュタイナーは、カール夫妻が九ヶ月で完済できない場合は、ベートーヴェンがその肩代りをすることを条件にした。また未出版の新しいピアノソナタを三ヶ月間シュタイナーの所有に任せ、イギリスを除いて自由に使用できるようにし、このほかの数点の作品についても同様の扱いができることにしたのである。
 欧米の考え方に随分感化された私たちから見ても、ベートーヴェンのやり方は強引で乱暴に思える。弟の借金の取立を裁判に訴え、その債権を第三者に売り渡すなどという発想など及びもつかない所業である。常軌を逸した暴走としか見えないが、契約の国では紛争を第三者の裁判に仰ぐことには違和感はないのだろう。カール夫妻のあいだで、夫のカールが妻ヨハンナを、自分の金を盗んだとして警察に告訴したくらいであるから、兄弟間の訴訟など何をか謂わんやである。結果はカール夫妻の返済不能に陥り、アルザーフォアシュタットの家は抵当物件となり、支払い義務はベートーヴェンに移り、契約どおり作品九〇ピアノソナタ第二七番はシュタイナーの所有となる。そしてシュタイナーとは新しい作品の広範囲にわたる譲渡契約を結び、一二作品がシュタイナー社に渡されるのである。
 さて次弟カールの病状が再び悪化し、一八一五年三月にカールの年金支給の申請を提出するが、一〇月二三日付けで却下の通知が届くと、次弟カールは一一月一五日に卒然として亡くなってしまう。これを受けベートーヴェンは弟の一子カール(1806〜1858)の親権を母親から取り上げる暴挙に出たのである。次弟カールは遺言により、ベートーヴェンを息子の後見人に定めていた。次弟カールの遺言にいたるまでに、ベートーヴェンと彼のあいだにどのような約束が取り交わされていたのかは定かではない。だが次弟カールの死を境に、猛然と甥のカールを奪いにかかるベートーヴェンの所業は尋常なものとは思われない。彼をそこまで駆り立てたものは何だったのだろうか。
 ベートーヴェンにとって家族というのは、失うばかりで得ることはなかった。彼は若くして両親、弟妹を失い、その死とも直面してきた。家族というものが寄り添い合って生きる家庭の暖かさというものを、十分に味わうことなく成長したベートーヴェンは、家庭の団欒に渇望していた。年齢からいっても、その希望を果たすのは不可能と思わざるを得ない時期にさしかかっていた。彼は日常の周囲に伴侶を見つけることはできなかった。芸術家ベートーヴェンの肩書きをはずし、一介の男とみた場合、その日常に容易に見つかる素行は、ヴィーンの娘たちの目には奇癖に映った。
 貴族の女性たちは芸術家ベートーヴェンに敬意を払ったが、身分の壁と娘心の虚栄は人間ベートーヴェンを結婚の対象とはみなかった。ヴィーンにやってきた二人の弟は、兄ベートーヴェンからみれば意に反した結婚をして独立していく。一人は素行の芳ばしからぬヨハンナであり、下の弟は娘を連れ子にしたテレーゼであった。両人ともベートーヴェンのお眼鏡にかなう義妹ではなかった。ベートーヴェンには二人の弟も、家庭の団欒を得ているようには見えなかった。そんななかでただ一人、ベートーヴェンの胸に飛び込んできたアントーニアとの夢は、結局実らなかった。自分の力で家庭を得ることができなかったベートーヴェンは、その血を受け継ぐ甥のカールをとおして、家庭への強い幻想を抱くことになってしまったようだ。
 一一月一七日、次弟カールの遺書は、弁護士によって貴族裁判所に供託された。二二日に貴族裁判所は、母親ヨハンナを後見人に、伯父のベートーヴェンを共同後見人に指名した。共同後見人は甥のカールの財産を管理し、教育について母ヨハンナを補佐し助言する権利と義務を負うというものである。だがこの決定に不満であったベートーヴェンは、一一月二八日に後見人をベートーヴェンのみに指名することを貴族裁判所に請願する。裁判所がその根拠となる証拠の提出を求めると、ベートーヴェンはヨハンナが一八一一年に夫カールにたいする金銭上の横領を訴えられ、一ヶ月の自宅監禁の警察罰を受けていることを証拠として提出する。夫婦間の些細な金銭トラブルを持ち出して、ヨハンナを後見人不適格者とみなし、ベートーヴェンは貴族との人脈を使って当局を画策する。一八一六年一月一九日貴族裁判所は、ベートーヴェンを単独の後見人とする決定を下した。
 ベートーヴェンはヨハンナから息子を取り上げると、一八一六年二月二日に甥のカールをジャンナタジオ・デル・リオが経営する寄宿学校に入学させたのである。だがまだ九歳の甥カールの立場で見れば、父の死に動揺しそれでなくとも肉親の愛情が必要なときであった。そしてこれから思春期に向かう大事な時期であり、家庭のぬくもりは甥のカールにこそ必要だったのである。与えなければならないものを与えないばかりか、逆にカールから奪ったという点で、ベートーヴェンはカールに二重の過ちを侵している。伯父であり義兄であるベートーヴェンは共同後見人として、ヨハンナ母子の生活が成り立つように配慮しながら、精神的な支援に止めるべきであった。弟カールが追記した遺書の眼目もそこにあったのである。遺書の最後で「・・・・・・したがって私は私の子どもの幸福のために、私の妻には従順になることを、兄にはもう少し抑制することを願うものであります。」という弟の危惧は現実のものとなる。
 ベートーヴェンは裁判所の決定を楯に、母ヨハンナが息子カールと接触することをことごとく妨害する。ジャンナタジオにも言い含め、息子との面会を妨げるのである。家庭への憧れが叶えられない望みであればあるほど、その代償を求める気持ちはベートーヴェンのなかに、大きな幻想となって広がっていったに違いない。だが訴訟となればその手続きから弁論まで、弁護士が間に立つとはいえ当人も繁雑な事務や審問に煩わされ、本来の創作は中断せざるを得なかった。費用もかかる。こうした事情も、創作を遠ざける原因を作っていたのである。
 ヴィーンへ出て来て二十年来、ベートーヴェンには独身男の生活パターンが染みついていて、その生活を今日から新たに変えるといっても所詮無理な話である。そこに感性過敏な時期の児童の養育を引き受け、母親の役目を果たさなければならない負担は、芸術どころの話ではなく、現実のくさぐさな家政全般のやり繰りに、差し迫った毎日が突然降りかかったのである。裁判に争いながら、母親のヨハンナから息子のカールを奪い取ったものの、ヨハンナ母子とベートーヴェンの三者の間には何の利益ももたらさない。少なくとも甥のカールには最悪の環境を与えてしまったことになる。自分では善なる施しをしているつもりのベートーヴェンを、カールには煩わしい伯父となり、付かず離れずの伯父、甥の関係であれば許容できたことが、両者には負担となる。
 この間、古くから付き合いのあるピアノ製作家シュトライヒャー夫人ナネッテと、頻繁に手紙のやり取りが交される。といってもベートーヴェンからの一方的な問い合わせといってよい。カールの養育や家事の細々したこと、家政婦の手配、住居の相談など生活全般にわたって、ナネッテ夫人の助言を仰いでいる。しかもナネッテ夫人は実際にベートーヴェンの住居を訪れて、身の回りの世話を焼いている。
 ベートーヴェンは一八〇九年頃から、使用人を雇って家政一般や食事の世話を頼んでいた。しかし我を張り通す彼の性格は、使用人たちとうまく折り合いがつけられず、小さな諍いを繰り返し、なかなか使用人が居付かない。傷つけられた相手を思いやる気持ちなど眼中になく、自分の思い込みを優先する。ベートーヴェンは家政の細々したことにいらぬ口出しをして、本来配慮しなければならない使用人への気遣いにはまったく無頓着で鈍感だった。そのうえ無能扱いにするほど乱暴だった。
 そのくせ「私といたしましては下賤なもののうわさ話しは絶対尊重いたしませんし、耳も貸しません」とシュトライヒャー夫人に書きながら、ベートーヴェンは他人の告げ口には敏感に反応する。彼の性格をよくわきまえていたシュトライヒャー夫人は、ボン時代のヘレーネ夫人の主婦版を担う。ベートーヴェンは彼女に、使用人の昼晩の食事のメニューやその量とか、焼き肉は週に何回出したらよいのか、主人である自分と同じメニューでよいのか、それとも彼等のために別な物を作らせるのか、洗濯をしてもらったときの待遇についてなど使用人の管理についての詳細な助言を仰いでいる。
 そして彼は使用人の些細なことにまで口を出して衝突する。あるとき洗濯に出した二足の靴下のうち一足が紛失したことで、ベートーヴェンは使用人の男を解雇してしまう。事実関係よりも彼の思い込みが先で、たかが靴下一足では済まされないのである。彼は使用人の賃金を計算したり、料理人が一年間に必要とするパンの購入金額を計算して出費を嘆いたりする。買い出しに行く使用人が店員にごまかされないように、計量桝を持たせようとして顰蹙を買う。塩やローソクの値段がどうの、果ては靴墨の安い店を探してみたりというように、家計の些細な金額を監視する。また卵が何個、バターが何日分などから始まり、手持ちの食料品を棚卸してチェックする。布巾が足りなくて使用人から文句を云われると、その一々を気に病むのである。ベートーヴェンは一八一七年から一年半の間に、些細な家政の一々をシュトライヒャー夫人に問い合わせ、彼女は辛抱強くていねいにこれに応えている。それが現存する六五通の手紙となったのである。
 私たちはこれまでの八曲の交響曲に、困難に立ち向かう不屈のベートーヴェンを聴いてきたつもりでいた。だがここにきて使用人との衝突や、甥のカールとその母ヨハンナにたいする仕打ちは、ベートーヴェンに抱いてきた幻想を容赦なく打ち砕くものであった。彼はヨハンナをふしだらな夜の女王と称して、悪し様に非難攻撃する。何よりもわたしに疑いを持たないでほしいと訴えたヨゼフィーネの願いは、ヨハンナの願いでもあったのだ。この頃のベートーヴェンの人格には、何か誤作動が生じていたのではないだろうか。それともベートーヴェンの性格が甥のカールをつうじて、はからずもその本性を現わしたというべきなのだろうか。
 ベートーヴェンは希望と期待に胸を膨らませて、近代への扉を開け放った。そして耳の疾病を受け入れ、芸術に生きることを未来に向かって宣言した。さらに社会に生きる人々が、集団のなかで翻弄される有様を、雄大な叙事詩のように巨大な交響曲に表わした。外部に向かって高らかに謳い上げた三つの交響曲のあと、分水嶺となる明朗活達な一曲を残すと、ベートーヴェンはおのずからしからしめる世界を、二つの交響曲に呈示する。情念の衝動に駆られながら、闘争的だが偉大な交響曲一曲を書き上げ、そして慈しみに満ちた穏やかで始原的な世界を、自然から写しとっていた。こうした各々が名峰を成す六曲の交響曲を仕上げたあとに、一息ついたベートーヴェンは、融通無碍とも思える二曲の自由奔放で酒脱な交響曲を残したのである。ベートーヴェンの芸術にたいする希求は、ゲーテの世界をもしのぐ自在な精神を獲得したかのように見えた。
 だがここにきて身内にたいする傍若無人な振る舞いは、とても支持できるものではない。彼の作品に聴かれる激しい情動のままを、実際に叩き突きつけられた周囲の者はたまったものではない。自分の傘下に治める者には狭量で、取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を容赦もなく打ちのめすというのなら、彼が抵抗してきた抑圧する側の傲慢と何ら変わるところがない。ベートーヴェンの音楽に、人間への慈しみとやさしさが満ちていることは、これまでの彼の作品を聴けば容易に分かる。だが一度彼の庇護の下に置いた者には暴君と化すことも、その音楽に潜んでいたことになる。実生活でかかわる周囲の人々は、この両極で右往左往させられるのである。
 私たちは数々のベートーヴェンの作品を聴き、彼の憎めない朴訥な一面を伝える逸話に、喜怒哀楽の激しい感情の表出を許してきた。聴覚の不自由さへの同情が、彼の言動を大目に見てきたのだ。それがまた彼を偉大にする魅力でもあったからである。だがこの甥のカールの問題に直面すると、ベートーヴェンの芸術と日常の人格に、渡し難い乖離が生じていたことが明らかになるのである。彼が貴族やその令嬢や夫人たちとの親交に均衡し、音楽の成立基盤を貴族社会に求め、そして家政のやり繰りを貴族の庇護に頼ったのも、彼の権威主義と選民意識によるものではなかったのか。作品の献呈の多くは時の貴族やその周辺の人々にたいしてであり、ベートーヴェンの周到な計算が働いていたのではないか。それは生きていくための方便以上の過剰に映る。
 いつの間にか私は作品をとおして描いた偶像を作曲者に投影して、その人物像を作り上げていたのである。ベートーヴェンのゲーテへの思い入れと何ら変わるところがない。これでは弱き者に接する態度では、それが選民意識から生じたものだとしてもゲーテの方が寛大である。傍観しながら相手との距離を測り、双方の不満を最小限に止める道を探して解決を求めていくゲーテと対照される。
 ボン時代にベートーヴェンは、エレオノーレから誕生カードが贈られている。そのメッセージの最後を「君に望むことは、寛大に忍ばれんことを」と結んでいた。少年の頃からベートーヴェンの気質に、意に添わないことがあると激烈に癇癪を起こす性癖があったことを裏付ける。これが彼の資質による生得的なものだったのか、耳の疾病から生じたイライラの為せる身体的な原因によるものなのか、今日では知りようはない。しかし当時ベートーヴェンの身近で接していた人々は、彼の気性の激しさに辟易しながら、その生き方と芸術的天分に畏敬の感情を抱きつつ、彼を受け入れていたのだ。
 エレオノーレの母ヘレーネ夫人は、彼のラプトウス(発狂)と称してやんわりと諌めていたが、エレオノーレも娘心に彼の癇癖性に心を痛めていたことが窺える。彼女は控え目な抗議と戒めと願いを込めて、ベートーヴェンにこの誕生カードを贈ったのであろう。ボンを発つ前に生じた二人の秘密めいた諍いも、彼のこうした性癖の小さな萌芽であったと思われる。ベートーヴェンはエレオノーレの夫となったヴェーゲラーにも手紙で頻りに和解を求めている。彼がヴィーンにやってきてベートーヴェンと交流していた頃(1794〜1796)に起きた諍いなのだろう。ベートーヴェンがあらぬ言動で彼を傷つけたかして、その信頼の回復に懸命な手紙である。胸襟を開き彼の内側に入ってきた者には、彼のラプトウスの洗礼を受けずにはおかなかった。
 ベートーヴェンは一時シュテファン・フォン・ブロイニングと同居しかけたことがある。ヴィーンの宮廷に官吏として勤務することになったシュテファンは、一八〇一年春にシュヴァルツシュパーニエル街のローテスハウスに居を構えた。ベートーヴェンも同じ屋根の下に住居を借りていたので、家賃を二つ払うよりはというわけで同居することに決めたが、二人の間に家賃のやり取りで行き違いが生じて、怒ったベートーヴェンはローテスハウスを飛び出してしまう。またシュテファンは、次弟カールの金銭にたいする狡猾な振る舞いを、職場の同僚から耳打ちされる。そのことをベートーヴェンに忠告したが一蹴される。ベートーヴェンのことを思えばこそのシュテファンの忠告であった。このことがあって二人は一時疎遠になるが、ベートーヴェンがその非を率直に認めて二人は友情を回復している。
 しかしこの一八一六年から二五年にかけて九年間にわたって生じた三回目の不和状態は、甥カールにたいするシュテファンの助言を、ベートーヴェンが聞き入れなかったからである。親しい関係になるほど、諍いもまた人間関係の妙薬となる場合もあるが、その反対となると事は深刻である。血縁に繋がる甥のカールではなおさらのこと、一緒に暮らし始めれば見なくてもいいことまで見えてくる。ベートーヴェンの性格や日常をよく知るシュテファンの眼からみれば、母親代わりに生活の面倒をみながら子どもの教育をするなど狂気の沙汰である。ベートーヴェンには不可能なことであった。彼の本業は創造にあるのだから、破綻するのは眼に見えていた。シュテファンも彼の芸術を惜しむ一人であった。また甥のカールにも益することがなにもないことは明らかである。だがシュテファンの誠実な忠告は、かえってベートーヴェンを意固地にさせた。
 また以前にベートーヴェンは楽譜が見当たらないといって、弟カールに疑いをかけ取っ組み合いの喧嘩になったことがあった。机の引き出しにしまい、それを失念していたのはベートーヴェン本人だったらしい。ベートーヴェンは弟カールに平謝りに謝ったが、弟カールはこの「竜巻野郎」に随分腹を立てて仲違いをしている。相手が他人であればなおさらのこと関係は修復ならないものになる。
 彼の場合、耳が不自由だったことが他者への猜疑心を一層つのらせ、内的な強迫となり信頼を置かなかったのである。感情の起伏が激しく、思い込みと短気が重なって、それに加えて他者を屈服させずには置かないラプトウスが高飛車な態度となって現われる。こうした資質は、他者と和解するのにも攻撃的な言動をとることになるので、彼の方では和解のつもりで出た行動が、相手には意趣となって残る。ベートーヴェンは自分より格下と判断した相手にたいする仕打ちは、まったく容赦がない。彼の卓越した芸術的矜持が、日常の人間関係に持ち込まれたとき、他者には度し難い傲慢な裸の王様に映る。友情の絆に結ばれて、ベートーヴェンの内陣に近づく者にたいする熾烈な攻撃性は、他の生き物に見るような、相手がなわばりに近づくほど猛り狂う攻撃衝動を思わせる。人間の場合、それが友情のしるしであるにもかかわらず、ベートーヴェンは攻撃的に受け入れる。彼の持つ愛憎の裏返しである。だがこれを諌める周囲の存在がなくなると、彼の暴君的なラプトウスは、その吐け口をもっとも身近な者に向けてくるのである。
 のちに甥のカールはついに自殺を図る。ピストル自殺を図ったものの弾は頭蓋骨で止まり未遂に終る。カールはこのあと会話帳に次のように記している。「・・・・・・ただもう一度だけお願いします。今のように私をあまり苦しめないで下さい。│でもあなたはそれをおしまいには後悔するかもしれません。なぜならば私は随分こらえてはいます。でもそれも多くなりすぎると、私は我慢出来ないからです。そういうのをあなたは今日、原因もないのに弟さんにもやってしまったではありませんか。あなたは他の人たちだって人間だという事をよく考えなければなりません・・・・・・」。このカールの叫びは、二十年前にヨゼフィーネが手紙の下書きでベートーヴェンに突きつけた叫びと、同質なものであった。ヨゼフィーネが訴えたように、私はベートーヴェンに精神的な価値を信じ、聴き手に善意と友情を寄せてきたと思いながら、彼の作品を聴いてきたのである。
 ベートーヴェンと会見したロホリッツは彼の人物像を、豊かで攻撃的な知性の持ち主、無限で休止することのない創造力の持ち主と評している。いま私はその裏側にある反転したものを、ベートーヴェンに見い出してしまったのである。いみじくも初めてベートーヴェンと邂逅したゲーテがツェルターに述べたように、聴力の衰えによって、この欠陥が災いして人間関係を二倍も損ねてしまうことを彼は見抜いていた。ベートーヴェンの場合、耳の疾病は創造にマイナスの影響が及ぶよりも、その人格を二つに切り裂いていたのだ。
 ゲーテは、妻に感動をもって書き送った芸術家としての人物評と同時に、そのイリュージョンの世界に彼を見誤ることなく、現実のベートーヴェンを冷静に観察していた。芸術上で自分や他人のために世界をいくらかでも楽しいものにすることはできたが、ベートーヴェンは実際の人間関係では破綻していたのである。この時期のベートーヴェンの人格的な危機は、まさに聴き手にとっても最大の危機なのであった。ヘーゲルが指摘したような、不快感を与えかねない暴力的な律動を感じながら、私は言葉では尽くせない感動を彼の作品に発見した。私はその喜びに励まされて、ベートーヴェンの人生の軌跡に興味を覚え、彼の音楽をその人生に重ね合わせて鑑賞することに、意義を見い出していたのだ。だからこそ私はこの感動を何とか言葉に表わそうと書き連ねてきた。
 聴衆をハンカチで濡らす傍らで、芸術家は泣かないものだと嘯いたベートーヴェンの真意はいかなるものだったのだろう。崇高なものと出会った戦慄と、得体の知れない恐怖は、どちらも驚愕となって私たちに強い衝撃と忘れ難い印象を残す。まさかベートーヴェンは音楽による刷り込みを狙って、効果の程を聴衆に観察しながら、その反応を他虐性に楽しんでいたというのではあるまい。たとえ音楽に表現したものが感情の吐露であっても、作曲者は論理的な形式に則って合理的に構成するのであって、けっして情緒に流されたりしないものだということを、隠喩的に述べたのだと思いたい。そうとでも考えなければ、私はベートーヴェンの諧謔性に翻弄される情緒的で感傷的な聴き手になってしまう。聴き手にも矜持はある。私は聴き手の矜持をもって、ベートーヴェンの偶像を創造してきたのだ。
 ベートーヴェンの裡に隠れている親しい者への容赦のない攻撃衝動を、ヨゼフィーネは身をもって感じていたために、彼の人生に応えることができなかったのだ。そしてエレオノーレもまた娘心に、これを察知していた。それでも彼女は十年、ベートーヴェンを待ち続けたのではないか。その芽生えがまだ小さかった頃に、エレオノーレがベートーヴェンの支えになることができたなら、彼のラプトウスもこんなにまで成長することはなかった。またおそらくたとえアントーニアと結ばれたにしろ、こうしたベートーヴェンの性格は家庭の団欒を破壊させたであろう。わが身を振り返ってみても、所詮性格は変えられないものだ。せいぜい環境が抑制してくれるものだが、ベートーヴェンは芸術的信念に生きる生き方を、実生活にも持ち込んでいたのである。それを二人の弟やその妻たちにも要求し、甥のカールに育成しようとした。
 芸術と徳に生きることを誓った一八〇二年のハイリゲンシュタットから、芸術の上では見事にそれを達成してきたベートーヴェンの十年であった。だが実人生で失った十年も、それに劣らず大きかったのである。音楽上の創造も、これを独善的に現実の生活に持ち込むと暴力になる。ベートーヴェンは甥のカールとの生活に、彼の望む家庭生活を描いたのだろうが、それは甥のカールの望んでいたものではなかったのである。
 日常の実際で、他者との軋轢が生じていたベートーヴェンの性格は、これが創造に向かったときには旺盛なエネルギーとなって飛翔する。猜疑心と癇癖性は、生まれ出ようとするモチーフを納得のいくまで眺め回し検討し鍛え上げる。人のいうことを聞かない我の強さは、創造への不屈の闘志となって現われる。妥協を許さない強固な意志は、果敢な行動となってモチーフを駆り立てる。負けず嫌いの敵愾心は、粗暴ともなりかねない激しい情動となり、彼のロゴスに収められるのである。


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