んだんだ劇場2009年9月号 vol.129
No35
甥のカール(3)

 ベートーヴェンの情念は、根源的なものに迫ろうとする力と、それを阻み狂気へ誘う力が葛藤となって衝突する。私たちはその闘いの軌跡を彼の作品に聴きながら、闘争するベートーヴェンにほとばしる人間性の魅力を偶像化してきた。いわばギリシア神話のアポロンとディオニュソスの二人の神が、ベートーヴェンのなかに棲みついて、その相克のなかから彼の創造が生まれてきたのである。
 そしてその行き過ぎを自省したときに現われる幽冥の世界は、聴く者を聖母マリアの慈しみに包み込む。それがこの作品の第三楽章に聴くアダージョに典型的に表われる。それはレオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)が描いた「聖アンナと聖母子」やラファエルロ(1483〜1520)の「小椅子の聖母」のように、静謐で宗教的色彩がいまだ痕を留める清楚でしなやかな聖母像であるとともに、心臓の鼓動が伝わる人間の女性への渇望でもあった。ベートーヴェンには、聖母の持つ慈愛と、勇気と献身に行動するレオノーレのような二人の女性が棲んでいた。それはアントーニアと重なる女性像であり、ヨゼフィーネやエレオノーレに求めて叶えられなかった女性への憧憬であった。三人の女性が与えてくれた慈愛を、ベートーヴェンはヨハンナ母子に還元すべきであったが、彼の視界から母子への慈しみは消え、憎悪の対象がヨハンナに再生され、独善的に甥のカールを独占しようとするのである。
 ベートーヴェンは、情念に蠢く衝動を創造に還元してきたが、一八一三年にいたってその活力を喪失した。だがやむにやまれぬ衝動は、より一層その昇華を求めて対象を探していたのである。創作活動に停滞をきたし、徳と芸術に生きるという目標を見失い、家庭の望みも断たれたベートーヴェンは、作品に注いできたエネルギーを甥のカールに投入する。このときベートーヴェンに見えたものは、彼の前に立ち塞がる母子という絆の障碍であった。
 ベートーヴェンはみずからの内なる宇宙に照らして、秩序が築かれなければならないと考える。芸術に生き、運命という宿業を、みずからの力でねじ伏せることができると信じるベートーヴェンは、ことの是非を内向に判断すると、その因果は外部に向けられる。彼には改悛の自覚は乏しく、その結果を他者性に求め、妄想のなかに敵である対象をつくっていく。彼は創造を生むときのやり方をもって、徹底してヨハンナと息子カールに襲いかかるのである。ベートーヴェンとヨハンナとの後見人をめぐる係争について、「ベートーヴェンとその甥」(エディッタ・シュテルバ/リヒャルト・シュテルバ著 音楽之友社)に即してその経過を辿ってみよう。 
 ヨハンナは、ベートーヴェンには人並み以上の過剰な対応と、人並み以下の無頓着な扱いがみられることを知っていた。彼女は様子をうかがうために、ジャンナタジオの学校に寄宿する息子を度々訪れるが、ベートーヴェンが手をまわして思うように息子に会うことができない。母親としてのつつましい愛情も、ベートーヴェンにことごとに接触を阻まれる。思い余ったヨハンナは一八一六年九月に、貴族裁判所に請願書を提出する。息子カールの養育が心配になったヨハンナは、義兄ベートーヴェンの教育上の介入をおよぼさないよう申し入れたのである。母親として息子を手元に置いておきたいという欲求もさることながら、息子が人並みな待遇を受けているか不安だったのである。だがこの請願は却下される。それでもベートーヴェンには、甥のカールがヨハンナに奪われはしないかという不安は大きく、ジャンナタジオの寄宿舎からカールを移し同居を考えるようになった。
 そして一八一八年一月末、ベートーヴェンはカールを、二年学んだジャンナタジオから引き取り同居する。それも束の間、母ヨハンナから引き離す魂胆で、五月にはカールをヴィーンの南方一五キロのメートリンクにある私設の学校に入学させる。司祭フレーリィヒが主催する小さな学校であった。だがカールは学習能力はあったものの、道徳的な教養に欠け、ほかの生徒に悪影響をおよぼすということで、一ヶ月あまりで退学を申し渡されてしまう。そこでベートーヴェンは、カールをギムナジウムに入れる準備のためと称して家庭教師をつけ、秋にはギムナジウムに通わせる。だがおそらくヨハンナの目には、息子カールを振り回す義兄ベートーヴェンのやり方に益々不安を覚えたに違いない。彼女は九月に入ると、再び貴族裁判所に請願書を提出する。息子を王室のコンヴィクト(神学校)に入れてもらうよう、また後見人である義兄の、息子カールへの教育上の行使を解くように申し入れたのである。だが裁判所はこの請願を却下する。
 この年の一一月と一二月に、カールは大学のギムナジウムの第三クラスに通っている。その一二月三日に、カールは母親ヨハンナのもとに遁走する。カールが使用人を罵ったり、金を借りて買い食いして、その金を返さなかったことがベートーヴェンの知るところとなり、ひどく叱られたことが原因だった。ベートーヴェンは警察の手を借りてカールを連れ戻した。これをきっかけに一二月七日、ヨハンナは三たび貴族裁判所に請願書を提出した。ベートーヴェンが国外に息子を連れ出して教育を受けさせようとしていることについて、これを許可しないようにという申し入れである。そして前回申し入れた王室のコンヴィクトへの入学の再考であった。
 ヨハンナは請願書に、二名の意見書を添付している。一通はヨハンナの義理の叔父であるヤコブ・ホートシェヴァルのもので、弟カールとのあいだでベートーヴェンが後見人になった経緯が報告されている。弟カールが病気療養で援助した金銭の見返りに、余儀なくベートーヴェンを単独後見人にする条件が交されたというのである。またヨハンナが息子と会うことをベートーヴェンが執拗に妨害し、彼女にたいする根拠のない中傷を息子カールに強いたというものである。もう一通は、一ヶ月でカールを退学させた司祭フレーリィヒの報告である。彼によればカールの学習能力を評価しながら、宗教への無関心さを指摘している。またベートーヴェンの耳の不自由なことがカールとの関係を混乱させ、この時期の少年に当然してやらねばならないことを不可能にしているというのである。母ヨハンナを悪しざまに罵ることで喜ぶ伯父と、その伯父を喜ばせるために心ならずも母への思慕を抑制するカールの、両者の心のありようを問題にしている。
 この審問でベートーヴェンは失態を演じてしまう。貴族裁判所へ訴えながら、貴族身分ではないことをみずから露呈させてしまったのである。貴族裁判所はこれを見逃さず、一二月一八日をもって審理は平民裁判所(市参事会)に移される。一八一九年一月七日、平民裁判所は後見人ベートーヴェンを解任し、カールは母親のヨハンナに引き渡される旨の裁決を下す。そしてカールは、ヨーゼフ・クートリッヒが経営する寄宿学校に転校することになった。
 平民裁判所は三月一六日に、新たな後見人をフォン・トゥシャーに指名する。トゥシャーはベートーヴェンの意向を体しており、カールを国外の教育施設に入れるように画策するが実現しなかった。ベートーヴェンは、再度ジャンナタジオへ受け入れを打診するが断わられる。そこでかれは後見人を降ろされたにもかかわらず、カールをヴィーン市内のヨーゼフシュタットにあるヨーゼフ・ブレッヒリンガーの経営する寄宿学校へ転校させることにした。彼はスイス人教育家でペスタロッチの門下であった。ここは学校の評判もよく、教師陣も充実していた。
 ところが七月に入ると、トゥシャーが後見人を辞退したいと平民裁判所に申し出た。トゥシャーは、ベートーヴェンの強引なやり方に巻き込まれることを避けたのかもしれない。裁判所はこれを認め、しかしベートーヴェンを後見人には指名しないことを確認した上で、共同後見人を市の差し押さえ財産管理人レオポルト・ヌスベックに指名し、ヨハンナを後見人に定めた。ベートーヴェンは反撃に出る。法律顧問バッハ博士を頼み、控訴院への控訴を準備する。一八一九年一〇月三〇日ベートーヴェンは平民裁判所に書面を提出し、裁判所の決定が最後的なものかを打診する。平民裁判所には先の決定をくつがえす理由はなく、ベートーヴェンへの回答は従前の決定どおりというものであった。
 一八二〇年一月七日、ベートーヴェンは平民裁判所の決定にたいし控訴院へ提訴した。平民裁判所は二月五日に、先に下した採決に取り消す意志のないことを控訴院へ回答する。控訴院は三月二九日を審理日とし、四月二〇日に判決を下した。結果はベートーヴェンの勝訴であった。様々な工作が功を奏したのである。このあとヨハンナはなお皇帝に異議申し立ての請願を提出するが、七月初めに却下され、ほぼ四年半におよぶカールの後見人をめぐる争いは、裁判上では決着したことになる。
 この一連の訴訟をめぐって、ベートーヴェンは行政当局や貴族を巻き込み、ヨハンナへの誹謗中傷に終始している。精力的にしかも執拗にベートーヴェンはヨハンナを攻撃し続けたのである。この間の経過を追ってみると、非はベートーヴェンにあり、平民裁判所の下した判断はまったく妥当である。血のつながった甥のカールを、自分の後裔に養育したいということであれば、穏当な解決方法はいくらでもあった。なによりもカール本人の気持と、母ヨハンナの愛情を尊重しなければならなかったのに、ベートーヴェンは強引に自分の意志を押し通したのである。
 カールは感受性が最も培われる年齢で、人間関係の醜さを、それも肉親の争いをつうじて学ばなければならなかった。母親への愛と母親の愛に養われる人間への眼差しは、大事な時期に絶たれていた。伯父ベートーヴェンへの感謝を、義務として果たさなければならなかったカールの葛藤と相克を救う者は、彼の周囲にはいなかった。母ヨハンナは、その役目を息子への愛情から果たそうとしながら、ことごとくベートーヴェンに妨害されたのである。成長するにつれカールにも、伯父の社会的存在とその利害のなかに自分の位置を測るようになり、みずからの矜持を伯父のなかに投影する。カールには煩わしい伯父であったものが、その幾分かは外部には自慢の伯父に格上げされるのである。それにしてもカールには、ベートーヴェンと彼の周辺の大人たちへの義務感と、自分の気持に葛藤が生じ、反抗的な態度を抑えられないようになる。
 ベートーヴェンが攻撃的にカールを独占しようとする態度は、カールへの失望に変わり、叱責が怒りとなりカールの周辺への敵意となって、益々介入は強まっていくのである。カールへの過剰な介入は、カールが他者へ向ける少年らしい自然な好意さえ嫉妬の対象になる。カールが先生にプレゼントしたり、使用人と親しくすることさえ、邪推と猜疑心を生み妄想となってベートーヴェンを苛む。カールと彼の友人に首を突っ込むベートーヴェンに、論理的にカールが答えている様子が会話帳に残されている。九歳だったカールが年とともにその自我が成長してきたことを、ベートーヴェンはむしろ喜ぶべきであったが、ここでも友人からカールを引き離そうとする。彼が向けた愛情の対象となったものは、独占せずには安心できないのである。
 ヴィーン大学の入学を許可されたカールは、週末や休暇にはベートーヴェンと過ごすようになり、大学で学びながら、父カールが担った伯父の仕事を手伝い、雑用をこなし秘書役を引き受けるようになる。一八二四年にはウンガルガッセに伯父と同居しながら、カールは大学へ通っている。ベートーヴェンはその年の夏の住居を、ヴィーン郊外のペンツィンクに移す。ヴィーンに残ったカールがペンツィンクの住まいを訪れたときの会話が残されている。カールは自己実現の要求を自分の力で考え、軍隊に入隊することを申し出るが、ベートーヴェンに一蹴される。
 八月に入りベートーヴェンは住まいをペンツィンクからバーデンに移す。ここで一一月まで滞在しヴィーンに戻ると、ヨハネスガッセに住居を借りるが、二人の絶えない口論に近隣の苦情を招き、クルーガーシュトラッセに転居する。カールは伯父の庇護から離れ、自分の人生を自分の力で考えるようになるのだが、ベートーヴェンはそれを若者の無分別とみなす。カールはあらたに、商人になるために工芸学校に転校したいと申し出るが、これにたいしてもベートーヴェンは難色を示すのである。そのくせカールにどのようになってほしいのか、ベートーヴェンからのビジョンは示されない。
 結局カールは一八二五年春には学期途中ながら、工芸学校に転校した。遅れた学科の半年分を取り戻すために、カールは家庭教師を依頼し勉学に励むが、ベートーヴェンは日常の雑用までカールを当てにするので、勉強に支障をきたしたカールはこれに苦情を申し立てる。二人のあいだには解決に導くよい手だてを見い出すことが難しくなっていく。この年の夏は、ベートーヴェンはバーデンで過ごすことにしたので、カールは工芸学校近くのアレーガッセに住む市の役人シュレンマーの家に、賄付きで下宿することにした。ベートーヴェンは一〇月になるとヴィーンに戻り、アルザーフォアシュタットのシュヴァルツシュパーニエルハウスに移り、疎遠になっていたシュテファンと和解し、再び両者の交流が始まった。シュテファンはカールの後見人を退くようベートーヴェンに助言するが、ベートーヴェンは聞き入れずあくまでも後見人にこだわる。
 下宿先のシュレンマーの家から学校へ通うようになったカールは、ベートーヴェンを訪れる回数が減っていく。勉強に忙しかったことと、伯父から離れて自立したいというカールのひそかな希望もあったのである。顔を合わせることで生じる伯父の精神的虐待から逃れようとする、カールのささやかな防衛であった。二番目の弟ヨハンは、ベートーヴェンが過去のことを何度も蒸し返し、騒がれ詰問されるのが嫌でカールが寄り付かないのだと、カールを弁護する。だがベートーヴェンの疑心と妄想はおさまらず、カールにたいして過度に厳格な態度を崩さない。カールが自分のところに寄り付かないとなると、ベートーヴェンは工芸学校を訪れ、カールの下校を待ち伏せすることまでする。
 そして一八二六年になり、カールが支払った五月分の下宿料八〇グルデンの領収書が見つからないことから、ベートーヴェンはこれをカールが使い込みしたのではないかと疑う。のちにシュレンマーは受領したことを認めているのだが、ベートーヴェンの奇妙な思い込みは、カールの心を蝕んで、ついにカールは自虐的に、これまで積もりに積もった葛藤を、みずからの身体に向けてしまうのであった。カールは七月三〇日に自殺を図った。
 シュレンマーは、カールが自殺を図る虞があることを、ベートーヴェンに知らせていた。ホルツとともにベートーヴェンはシュレンマーの家に駆けつけると、カールの部屋からピストルが見つかる。ホルツがカールを捜しに工芸学校のライサーを訪ね話しこんでいた隙に、カールは逃走する。二人はカールの友人ニーメッツの家を訪ねたが、家にはだれもいなかった。そしてベートーヴェンとホルツがヨハンナの家を訪れると、頭から血を流したカールにヨハンナが寄り添っていた。
 カールは工芸学校から抜け出すと懐中時計を売り、その金でピストルを買うと馬車に乗りバーデンに行った。そしてヘレネンタールの岸壁にある廃墟になったラウヘンシュタイン城に登り、自殺を図ったのである。一発目は頭を反れたが、二発目は頭骸骨に止まっていた。通りかかった馭者がカールを発見し、岸壁から担ぎおろし自分の荷馬車でヨハンナの家まで運んだのである。一部始終を聞いたベートーヴェンの衝撃は計り知れないものだったであろう。
 カールは弾丸を自分の身に受けながら、その銃口はベートーヴェンに向いていたのだ。カールは九歳という年齢で父を失い、その混乱を癒す間もなく母親から引き離された。母ヨハンナと伯父ベートーヴェンのあいだで、葛藤にさらされながら成長しなければならなかった。ことの分別を理解できるような年齢に達したカールは、その相克を煩わしくなっていた。ベートーヴェンと彼の影響を受けた周囲の大人たちの期待に応えようと、カールは努力したのである。
 のちにベートーヴェンは、自分のより良い性質と似ている人間を、自分の身辺に置きたかったとホルツに述懐している。作品に描いた理想を、生身の人間であるカールに実現させようとしたのである。それも年端もいかない少年の気持を無視して強行した。カールには、そのことが彼の能力を超える過度の努力であったことに気付くはずもなく、みずからに過剰な義務を強要していたことになる。だがカールはそうした葛藤やジレンマを、家庭内暴力に転化したり、ひきこもりに避難することなく、まして他者に危害を加えるような行動をとらなかった。そうした衝動をカールは自分の裡に引き受けよく耐えていたのである。ベートーヴェンの伝記で、カールは勉学を怠け放蕩に走り借金を作り、伯父を手こずらせたもてあまし者の少年として描かれている。しかし事実は、カールの立場に立って能力や将来を考慮してくれる大人たちはおらず、伯父の幻想に振り回されながら、その相克を他者に向けることなく、みずからの裡に引き受けた根は心優しい人間だったのである。
 こののちベートーヴェンは周囲の説得についに折れて後見人を退き、シュテファン・フォン・ブロイニングに後見人を依頼する。ベートーヴェンはシュテファンへの手紙で述べている。カールを囚人のように扱わないこと、カールにみすぼらしい生活をさせるわけにはいかないこと、飲食に制限を加えるとカールにつらいおもいをさせること。まさにベートーヴェンがカールにしてきたことの裏返しである。カールは病院で治療を受けることになったが、自殺行為は犯罪となるため拘留者として扱われる。宗教上の教化が必要で、教会がカールの信仰心を確認し証明書を交付して、病院の待遇は改善される。カールは九月の終わりまで病院に止まらねばならなかった。
 事件後カールは、母ヨハンナの深い悲しみをよく理解できるようになっていた。そしてこれからの自分の身の処仕方にも明確に展望を描いていた。再びカールは軍人になることを希望した。シュテファンの奔走によって入隊することが決まったが、頭の傷が見えなくなるまで療養する必要があった。そこで相談の上、弟のヨハンはグナイクセンドルフにある自分の家を提供することにした。カールはベートーヴェンとともに、ここで二ヶ月を過ごす。
 カールをめぐる母ヨハンナ、伯父ベートーヴェンの三者の葛藤はここにようやく結論を見たのである。その後のカールは、有能な士官として五年間を軍隊生活に過ごした。彼は一八三二年八月に結婚し、一男四女の子どもたちと一市民の平穏な生活を手に入れた。ベートーヴェンが望んで叶えられなかった家庭の団欒を、甥のカールが何倍にも実現したのである。
 ベートーヴェンは甥のカールに家庭の夢を仮託し、カールはそのために思春期から青年期にかけて、伯父の夢に圧し潰されそうになった。たとえその夢が負債をともなうものであったにしろ、伯父の夢に手を貸すことはできたのである。栄華な暮らしを望まなかったベートーヴェンだったが、甥のカールが引き受けた心の負債を購うように銀行証券を遺していた。カールは伯父ベートーヴェンの遺産のほか、下の叔父ヨハンの妻テレーゼがベートーヴェンの死後一年で亡くなったため、その後ヨハンの遺産も相続している。そして一八五八年、カールは五二歳で亡くなった。カールの母ヨハンナは、長寿をまっとうし、八四歳で亡くなっている。


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