遥かなる宇宙への旅立ち
ベートーヴェンの音楽に造詣の深いロマン・ロラン(1866〜1944)は、ベートーヴェンに関する最初の著作である「ベートーヴェンの生涯」で、彼の一生を、嵐の一日に似ていると述べていた。ベートーヴェンの生涯は、まさにロマン・ロランのこの一言に要約されるが、彼の生きた時代もまた嵐の一日に似た時代であった。ベートーヴェンの生きた十九世紀をまたいだ前後の四半世紀は、めまぐるしい社会の変動にさらされていた。絶対君主王朝の倦怠と衰退、貴族階級の凋落とブルジョワ市民の台頭、アンシャンレジームと近代的自我の衝突、横断的な貴族文化から市民的大衆文化へ、ナポレオン旋風と民族主義の芽生え、そして再び反動体制の秩序へというように、社会の枠組みがアグレッシブに変化した時代だったのである。
ベートーヴェンの音楽環境と生計の基盤は、最初はボンの教会オルガニストの職につき、やがてヴィオラ奏者として宮廷楽団の一員に加えられ、いわば今日でいう公務員からの出発であった。ヴィーンに出てからは、ピアノのヴィルトゥオーゾとして名声を博し、有力なパトロンの庇護を受けて活動を始め、本格的な作曲家の道を歩み出した。そして後半生は、つねに自立する作曲家をめざしながら、貴族のパトロネージに支えられて、数々の名曲を生み出していった。だがナポレオンのヴィーン占領を契機に貴族たちが凋落すると、ベートーヴェンの経済基盤は不安定なものになっていった。音楽を支える基盤は貴族や宮廷から、勃興する大衆市民へ移行し始める。ベートーヴェンは音楽の所有が組織から個人へ、そして大衆へと拡大変化する三つの時期を経験していた。
いつの時代でも社会の淘汰は進むものだが、この時代は市民が眼に見える形で実感し、その変化は市民の直接の体験にもたらされた。激動する社会の変化は、ベートーヴェンの鋭敏な感性に吸収され、その音楽に反芻され、聴き手に一つの概念をもたらしたのであった。音楽に聴き手の自己認識を覚醒させたという点で、ベートーヴェンはそれまでの音楽家の肖像を一変させた芸術家であった。時代が嵐の一日にも似た暴風雨をもたらしたにもかかわらず、ベートーヴェンはそれによく耐え、立ち向かっていったのである。それが彼を鍛えると同時に、実生活では耳の疾病と癇癖性が禍して、他者とのコミニュケーションに齟齬をきたすことが多かった。だが創造の上ではそれは妨げにはならなかった。むしろ逆境が与えたパトスに奮い立ち、その克服の過程が彼の音楽を形作っていったのである。私たちは彼の九曲の交響曲に、初志を貫いて生きたベートーヴェンの人生も一緒に聴いてきたのである。
彼の残した九曲の交響曲は心の闇を照らす道標を果たしてきたが、その胎動はすでにボン時代に始まっていた。シラーの頌歌「歓喜に寄す」もその一つであった。また隣国フランスの革命は新時代の到来を予感させるものであった。多感な青春に馳せる克己心が、前を向いていた時期である。ベートーヴェンがこの頌歌に抱いた感動や革命の理念が、九つの交響曲に反映され、その創作過程は彼の精神のうつろう深化を表わしていたのである。シラーはこの頌歌の持つ祝祭的なおおらかさとは反対に、その本質をよく見抜き、彼の洞察は当時の民衆の心を見通していたから、みずからこの頌歌をのちに否定したのである。だがその頌歌にベートーヴェンが曲を付けたおかげで、その感動は今日に継承され、私たちはあの当時の人々の感動を多少なりとも分かち持つことができることになった。「メロディーは韻文の感覚的生命です。一つの詩の精神的な内容を感覚的に掴めるようにしてくれるのはメロディーではないでしょうか?」とベッティーナに語ったベートーヴェンの世界は、ゲーテと実現できなかった言語と音楽の幸福な結び付きを実現していたのである。こうして歓喜の頌歌は現代の私たちにもなお、その光りを照射し続けるのである。
ベートーヴェンの創造はボン時代にその種が蒔かれ、移植した苗木はヴィーンで巨木となって豊かな実りをもたらした。八曲の交響曲を生み出したあと、その源泉ともいうべき交響曲第九番が彼の交響曲の最後に現われたのは、それだけ熟成に年月を必要としていたことを物語っている。交響曲第九番はベートーヴェンの奥深くで胎動するマグマであった。先立つ八つの交響曲は、マグマがその時々のパトスに反応して噴出したのである。そしてついにベートーヴェンの裡にありながら、その熟成を待っていた全貌が最後の交響曲に現われたことになる。ベートーヴェンの創造上の本籍は、交響曲第九番に登録されたのである。
その胎動は九つの交響曲の最初の作品である交響曲第一番に表明されていた。若木が陽の光に向かってまっすぐに伸びていくように、未来に向かう若々しいベートーヴェンの肖像が描かれていた。この作品には俗世の野心に染まらない純粋な気概が投影されていた。この一曲に終われば、非凡だが古典交響曲の一つに紛れる佳作として交響曲史に記録される作品であったが、ベートーヴェンの肖像はこれに止まらず変貌していくのである。そして続いて創られた交響曲第二番では、苦悩の陰りを微塵も感じさせない清朗な二作目を誕生させた。彼のこの先に襲いかかってくる耳の障害を自覚していたにもかかわらず、それをまったく感じさせず、交響曲作家としての前途を予告したような作品である。ボンからヴィーンに乗り込んできたベートーヴェンには、ボンから持ち込んだ心意気が依然優位に立っており、身体の煩いよりも、芸術への意欲が昂揚していた時期の作品であった。
この二つの作品の陰で囁く耳の疾病の危機を乗り越えて、つぎの交響曲第三番「エロイカ」でベートーヴェンは交響曲をもって新たな次元を開いたのである。時代や状況や時空を越えて、交響曲という一つのカテゴリーに止まらない普遍の可能性を、この一曲に刻み込んだ。ベートーヴェンの持つあらゆる属性は、フランス革命の勃発に、時代を変革する遠雷を聞いていた。それは社会に生きる人間であり、社会と対峙する個人であり、社会を創造する人間の相克であった。こうして個人と個人に生ずる相克をもって情念の世界にまで踏み込んだベートーヴェンは、理性に均衡していこうとしながら、現実の不条理に翻弄される人間を他者に発見し、みずからの心の裡に自覚した。そうしたヴィーンという都市が内在する世界を、時代を穿つ鋭い眼で洞察していたのである。
フランス革命は、当時の人々の意識を覚醒させるものであったが、幸福を満足させるものではなかった。その連帯の絆が実現するはずの自立する市民社会は、それを待望する人々の熱狂でかき消されたが、そこで育まれた理想は消えることなく未来の人々の行く手を照らし、希望の光を投げかけたのである。ベートーヴェンの音楽もまた、その一筋の光を照射するものであった。零であった無名の者が、何者かになれる希望があった。この頌歌を謳い熱狂する人々のなかに、ベートーヴェンはみずからの未来の肖像を描いていたのである。ベートーヴェンはボンで培いヴィーンで養ったものを糧に、新たな創造をめざして立ち上がったのであった。それが交響曲第三番の出発だったのである。
そのあとの五曲の交響曲で人間の内陣深く立ち入り、その集大成に表わしたのが交響曲第九番であった。つねに前進を求めて止まなかったベートーヴェンであったが、九番目の交響曲を書き上げる頃には、やみくもな前進を止めた。このあとベートーヴェンには、第一〇番となる交響曲を作曲しようという計画があった。結果としてみれば集大成となる交響曲第九番のあとに、どのようなものが創造されることになるのか、ベートーヴェンの忍耐と克己心からすれば、それも可能だったかもしれない。だが彼の不屈の精神も病魔に打ち勝つ余力は残されていなかった。ベートーヴェンには五曲の弦楽四重奏曲が残されるのみとなる。
ペテルブルクのニコラス・ガリツィン侯爵(1795〜1866)から、一八二二年一一月九日付けの手紙がベートーヴェンに届く。数曲の新作の弦楽四重奏曲の作曲依頼であった。ベートーヴェンは承諾の旨を一八二三年一月二五日付けの手紙で送ると、ガリツィン侯爵はさっそく内金の五〇ドゥカーテンを二月二三日に払い込んでいる。おそらくベートーヴェンの手紙を手にしてすぐ手続きしたのだろう。ガリツィン侯爵の感激と喜びと期待のほどが伝わってくる。だが作曲は大幅に遅れてしまう。交響曲第九番の仕上げに没頭する時期と、初演の準備が重なったのである。ガリツィン侯爵はよほど熱心なベートーヴェンの心酔者だったようで、その後も一〇通を越える手紙でベートーヴェンに遠慮がちながら、作曲を懇請している。しかしベートーヴェンはこの要請に、一時期無しのつぶ手を決めこんだ。それでもガリツィンは辛抱強く彼の作品を待ち続けたのである。
ガリツィンは、ミサソレムニスの完全版をペテルブルクで初演するにあたって尽力している。ベートーヴェンは彼の厚意に、一八二四年五月二六日付けの手紙で、ようやく作曲の遅れを弁明した。実際に最初の一曲となる作品一二七弦楽四重奏曲第一二番変ホ長調が、ガリツィンの手元に届いたのは、依頼から二年半後の一八二五年四月に入ってからであった。残りの作品一三〇第一三番変ロ長調、作品一三二第一五番イ短調の二曲は、ベートーヴェンが腸カタルのため病に伏したことも禍して、ガリツィンの手に渡ったのはこの年の後半になってからである。作曲が大幅に遅れたことには、ベートーヴェンの側にやむを得ぬ事情があったが、その一連の対応に、ベートーヴェンはガリツィンに誠実だったとは云えない。作曲料の残金はベートーヴェンの死後にまで持ち越され、一八五二年になってようやく決着をみて、甥のカールがそれを手にする。
ベートーヴェンは金銭に恬淡だったとは云えないが、吝嗇な守銭奴だったわけではない。手段であっても目的にしたことはなかった。しかし金銭をめぐる紛争は彼の周辺に絶えなかった。生きるための糧は、大地を耕す労働から生み出されるものであったが、彼の場合はその大地が脳のなかにあり、労働はその脳のなかに求めなければならなかった。ベートーヴェンには拝金的な意識は薄かったが、その力をよく理解し関心は強かった。
ハイリゲンシュタットの遺書のなかで「・・・・・・おまえたちの子供には徳を教えよ。徳のみが幸福を齎すことができるのだ。決して金ではない。自分の経験からこう言うのだ。逆境の中にあって僕を励ましたもの、それは徳であった。・・・・・・」と述べている。金銭に芸術や徳を投影してみるという感覚はベートーヴェンにはなかった。ベートーヴェンは、金銭が絡んだ人と人との関係にはおおいに関心を示しながら、金銭に投影した人と人との関係には冷淡であった。
だが通常の人間の感覚で金銭というものは、人と人との関係を取り持つ重要な要素であって、これをぞんざいに扱うことは誠意を疑うことにつながる。そこのところを理解できないために、ベートーヴェンは作曲料を法外に要求してみたり、自分が債権者になった場合は、取れるものは裁判に訴えても手にしようと躍起になる。創造の確保のために、生活の安定が彼をいつも急き立てていたのである。ベートーヴェンが奢侈な生活を望んでいなかったことは、当時の周囲の人々のエピソードに伝えられているとおりである。ただベートーヴェンは毎年の夏を郊外で過ごすことを習慣にしていたので、その出費や異常なまでの住居の引っ越しに費用が嵩んでいたのだ。
ヴィーンで生活するようになってから、ベートーヴェンの引っ越しは延べにして八〇回に達するといわれる。重複して住居を借りていた時期もある。芸術家ベートーヴェンは生活者としては、周囲から歓迎されていたとは云えない。保身的であるというより、せっかちな性格から生じた自分勝手な思い込みが、彼を自己中心的な言動に走らせた。近隣とのトラブルを避けて転居を重ねるベートーヴェンの止むを得ない方法であった。それらは創作に向けられるための必要経費であった。創造していくための安定的な収入を確保することが、いつでもベートーヴェンを捉えて離さない課題だったのである。つねに付きまとう必要なものであったからこそ、金銭に絡む人と人との関係にベートーヴェンはむきになったのである。金銭に拘泥することは彼の芸術や徳の上に、その尊厳を損なうものではなかった。したがって生活のために執着もしたし、逆にぞんざいにもなれた。他者から金銭上の非難を浴びても一向に平気だったのである。だがこうした感覚は彼独特のもので、普通の生活に糧を求めて、毎日に汗を流す人々の感覚とは大幅にずれていた。
ガリツィン侯爵がベートーヴェンの音楽を理解できる数少ない一人であったことは、その手紙からも想像される。武官であるが高い音楽的教養を身につけており、ベートーヴェンの音楽の良き理解者であった。だがベートーヴェンの人となりについては、遠く距離が隔たっていたこともあり、ガリツィンはベートーヴェンの言動をもって推し量るより術がなかった。そのガリツィンにベートーヴェンは誠意に欠けるところがあったのである。ガリツィン侯爵の依頼した三曲の弦楽四重奏曲の誕生に不幸ないきさつがあったものの、当事者の不幸を超えて、その作品はガリツィンが予言したように、後世に残るものとなった。五曲の弦楽四重奏曲は晩年のベートーヴェンの心境をよく映し取っていた。 最初の作品一八の六曲の弦楽四重奏曲から二十五年、ベートーヴェンのあの若鮎のような躍動的で清新な生命力は、隠棲する仙人のごとく生命のほのかな灯に変わっていた。もはや未来に放つ白光は逢魔が時に蔽われ始める。後期の五曲の弦楽四重奏曲には、憑きものが落ちたように攻撃衝動は消え、深く沈んだ瞑想の世界が感じられるが、同時に幽玄の軽みが顔を出すようになる。朗誦する旋律の調べに、ベートーヴェンはその心境を吐露している。楽章を紡ぐモチーフに脈絡が希薄になり、楽章間のつながりにも強い必然性が見られなくなる。あたかも弦楽四重奏による覚書とでもいうような、散文的でありながら叙情的な様相を呈する。情念の噴出は夢幻の世界に変わり、四声部の四重奏という制約があるにもかかわらず、その透明な響きは自由に朗誦する。作品九五「セリオーソ」以来十数年ぶりに弦楽四重奏曲が復活するとともに、白鳥の歌となるのである。
作品一三二弦楽四重奏曲第一五番イ短調、その第三楽章「病が癒えた者の神にたいする感謝の歌、リディア旋法による」は、まさしくその添え書きどおり、ベートーヴェンの素直な感謝の気持ちそのままである。けれどもその鼓動は、聴く者を駆り立てるような激情を伴うものではない。最後となった作品一三五弦楽四重奏曲第一六番ヘ長調になると、明るい兆しが戻って来たように感じられるものの、現代音楽に通じる不可解さを先取りしているように聴こえてくる。この五曲はいずれもその眼差しは宙空に虚を見ていて、その心性はかえって晦渋である。
こうした傾向は、最後の三つのピアノソナタにもすでに表われていた。この三曲のピアノソナタには、現実の生からの超越と追憶が結び付いていて、未来への眼差しは来しかたへの懐旧に向けられている。人々を魅了して止まなかったファンタジーレンの調べは、遠くボン時代の記憶を呼び戻しているかのようだ。いわば性の身体的な興奮が精神のオルガスムスに昇華している。人と人が出会い、その存在を賭けてあらん限りを開放して男女が結び合い、魂が昇華したときに、性は猥褻なものから解放されている。ベートーヴェンはそうした世界を捉えていながら、現実には果たせなかった。
ベートーヴェンは性の衝動を売春婦に求めたことがあった。彼の日記に「魂の結びつきのない性的な享楽は獣的なもので、それ以上のものではない。あとに気高い感情の余韻もなく、むしろ悔恨が残る」と記している。おそらくベートーヴェンにしてみれば、魂の結び付きのない性の交歓は、享楽を満足させた分、その心の空しさを覚えたことであろう。性は与え合ったり奪い合ったりするものではなく、求め合いながら、おのずから一体となる魂の昇華につながるものでなければならない。肉体の衝動に満足を与えるだけでは、人間の性的な陶酔とその歓びは半分も満たしていない。それどころか心の枯渇と空しさは、恥辱感となって後に尾を引く。
人間の性的な欲求は、すでに生物的な生殖の営みを超えて、エロスへの幻想から接近しようとする。人間存在への問いかけが、相手への一体的な陶酔を求めるのである。ベートーヴェンが恋の相手に求めたものは、身体と心、理性と感情が根源的一者に復原を果たさなければならないものであった。この三曲のピアノソナタは、心身の合一とそのあこがれと追憶が渾然となって夢の世界に到達しているのである。作品六一ヴァイオリン協奏曲ニ長調もまた、そうしたエロスへの同一化を求める憧憬であり、追憶であった。
思い起こせばボンのブロイニング一家との交流は、偏屈なベートーヴェンの心を癒す団欒の一時であった。エレオノーレは初めて心を開いたベートーヴェンの異性であり、彼女と結ばれていれば、ベートーヴェンの生涯も違った展開になっていたであろう。だがそれも一七九四年一〇月一二日のフランス軍の侵入とともに、つつましいボンの風景は失われ、故郷への帰還はままならないものになってしまった。選帝侯マキシミリアン・フランツは居城を捨て、ヴィーン郊外のヘッツェンドルフに隠栖すると、一八〇一年、失意のうちに亡くなっている。宮廷オルガン奏者を務めていたネーフェは、フニウス劇団とともにハンブルクに逃れようとしたが、マキシミリアン・フランツの特命により、週二回の宮廷教会での典礼のために演奏を引き受けボンに残る。彼は市の官吏となったものの、市会が解散されるとわずかな財産を処分して、一七九六年八月ライプツィヒへ旅立つ。その後苦労の末デッサウの宮廷劇場の音楽監督に就いたが、この間の心労がたたって一七九八年一月にネーフェはその生涯を閉じた。
解散された宮廷楽団のメンバーは、わずかな一時金を支給され四散する。ホルン奏者だったジムロック(1752〜1833)は出版の仕事に専念する。事業の才覚があり、一八〇三年にはボンガッセとマールガッセに家屋敷を求め、近郊でワイン農場を営む。ベートーヴェンとは出版をつうじてその後も親密な交流があり、ヴィーン時代のベートーヴェンを、その作品をつうじて見届ける。公私にわたってベートーヴェンに手を差し伸べたフランツ・リース(1755〜1846)は、その後ゴーデスベルクで農場主と徴税官を兼ね、一八二四年にはロンドンから帰国した息子フェルディナンドとも再会する。ミュンスター広場に建立されたベートーヴェンの銅像を見届け、一八四六年に彼は長寿を全うしてその生涯を終える。
ヴィーンのベートーヴェンをハンガリーのマルトンヴァーシャルの令嬢姉妹が訪れたとき、ベートーヴェンは姉妹に付きっきりでその十六日間を過ごした。後にマルトンヴァーシャルの館を訪ねブルンスヴィック一家と過ごした日々は、ベートーヴェンのかけがいのない最良の思い出となる佳きひとときであった。ヨゼフィーネとの恋が始まったのも、あの出会いの瞬間からだったのかもしれない。そのヨゼフィーネはもうこの世の人ではない。思えばヨゼフィーネとの恋は到底添い遂げられるものではなかったが、彼女の存在はベートーヴェンの創作に力を貸してかけがいのない女性であった。あの頃は恋にも創造にも充実した力がみなぎり、希望が現実のものとして実感できた時期であった。
だがその恋が実ることがないまま、ベートーヴェンにとっての最後の青春が訪れようとしていたとき、彼の前にアントーニア・ブレンターノというひとりの女性が現われたのである。彼女はベートーヴェンの伴侶となるべき女性であったが、人妻であった。状況から推しても、この試練は越えることの叶わない悲恋に終わらざるを得なかったのである。ベートーヴェンは沈黙した。それは彼の創造にとって長い逸機となる。この沈黙は実生活の上では、甥のカールとヨハンナ母子に饒舌に向けられる。後見人をめぐってほぼ四年半に及んだ係争は一八二〇年四月、ベートーヴェンが最終的に裁判で勝訴して決着した。勝訴したものの、頑ななベートーヴェンの資質が如実に現われた点で、芸術家としての彼にも瑕瑾を残したと私は思う。
先の一八〇一年六月二九日付けのヴェーゲラーに宛てた手紙で、今度お目にかかる時には、芸術家としてだけでなく、もっと良い、ずっと完成した人間としてお目にかかりたいと述べていたベートーヴェンである。芸術家と彼の私生活を分け、創造した作品とその人となりを切り離して、純粋に作品だけを評価することも成り立つが、ベートーヴェンはそういう芸術家ではなかった。彼は音楽で世界を語った芸術家であった。そういう彼の創造は、実生活との連続性に求めるものでなければならない。シェークスピアが問いかけた「To be or not to be that is the question .」を、ベートーヴェンは音楽を通じてその感性が捉え、その答えを求めて格闘した芸術家だったのである。ベートーヴェンの欲求は、他の欲望を抑制し、芸術と徳に生きる世界を開こうとする一生であったが、ヨハンナ母子にはその徳を及ぼすことができなかった。
さて人間も他の生き物と同じように、現に与えられている環境に生きている。しかし人間はそうした環境を唯一のものとして生きるだけではなく、自己意識に立って世界を開こうとする欲求を持っている。いわば人間には、欲望の限界へ向かって突進しようという衝動がある。そして突破した先に新たな限界を発見するとまた挑みかかるというように、大脳化した人間のあらゆる欲求は満足することを知らない。こうした人間の好奇心が生物的進化を超えて文化を生み、文明を築いてきたのである。
あえて二足歩行に転換する必要があったとは思われない人間は、立ち上がってみたものの、他の生き物が環境に適応するようには身体能力は具わっていなかった。敵の襲撃から身を護るためには茂みに身を隠し、岩陰にはいつくばり、大腿骨が現在のように発達していなかったために、からだを左右に揺り動かしながら逃げ回っていたに違いない。それにもかかわらず人間は外なる自然に自分のからだを適応させることを止めて、自分のからだを作り変えずに、適応を道具に代えた。人間は脳の容量が今日の大きさになるまでに、数百万年という気の遠くなるような年月の試練に耐えて、身体の不足を道具で補い、工夫する知恵を身に付けてきたのである。適応というものが外なる自然の制約に反応することから生まれ、人間が作った道具も外部の自然への適応であるうちは、人間も他の生き物が適応するのと変わりはなかったのである。
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