んだんだ劇場2009年1月号 vol.121
遠田耕平

No90 地中海の光とパリの闇

カルタゴの遺産
「チュニスの会議に一緒に付き合ってくれないか?」突然マニラに居る同僚から電話がかかってきた。チュニス…?どこだっけ?そうだ、チュニジアの首都、アルジェリアとリビアに挟まれた地中海に面するアフリカの小国、といっても国土は日本の半分、でも人口は10分の一しか居ない。歴史は古く、今から3000年前のフィニキア人の支配から始まり、ローマ帝国、ビザンチン、アラブ・イスラム、オスマン・トルコ、さらにフランスの支配を経て今日に至る。チュニスは今ヨーロッパの地中海リゾートとして発展している。
 とは言え、飛行機の長旅が大の苦手の僕は尻込みした。うーん、でも、会議は以前から興味のあった予防接種の技術部門のことで質問も一杯あったし、それに公費でちょっぴり観光か…。うーん、やっぱり行こう。
 行きは中国のドラゴンエアーでプノンペンから香港へ夕方に着く。幸いにも香港を経由したのでバンコクの騒動には巻き込まれなかった。そして香港からエアフランスの夜行便で12時間かけてパリへ。そこからさらに乗り継いで2時間半かけて地中海を越えて真昼のチュニスに辿り着く。
 冬の冷え切ったヨーロッパの灰色の雲を越え、紺碧の海と空の地中海をまたいで、光の北アフリカのチュニスに降り立つのである。太陽は間近にあるのに、乾燥しているせいで涼しい。特に冬の地中海沿岸は寒いらしい。海水パンツを持ってきて地中海で泳いでやろうと意気込んでいた僕だが、現地の人からこの時期に泳ぐのはアホだと諭された。
 褐色の肌でスラリと背が高く、彫りの深い顔貌の男女の入国審査官がこっちの顔を見ないでおしゃべりしながらスタンプを押してくれた。なんとものんびりしている。
 会議場はチュニス市街から30キロほど離れたカルタゴという町だった。ナツメヤシの並ぶ荒涼とした砂漠の入り口のような場所にホテルはあった。ビールを頼むとおいしいアーモンドを添えてよく冷えたビールがすんなり出てきたので驚く。イスラム教国だが戒律は比較的緩く、解放的なのだ。お腹の出た、ちょび髭のアラブ人のおじさんたちもなにやら愛想がいい。
白く輝く大理石の肉体と地中海
アラブのおじさん、ファルシーシとお友達
 カルタゴ(カルタージュ)は古代ギリシャ時代の紀元前800年代にフィニキア人によって作られ、紀元前140年のポエニ戦争でローマ帝国に敗れるまでは地中海最大の交易都市だったらしい。
 「・・・の歩き方」を手にした用意周到なるわが同僚とともに到着早々、早速観光に出かけた。ホテルの受付の愛想のいいお兄ちゃんに「英語が少し話せる信用できる運転手はいないか?」と訊くと待ってましたとばかりお友達という小太りのちょび髭親父が登場した。値切る余裕もなく、ともかく円形闘技場、ローマ劇場、ピュルサの丘からカルタゴ博物館、アントニヌスの共同浴場と見てまわった。気がついたのはフェニキア人の遺跡はローマ帝国時代に全て破壊されて残っていないらしい。残っているのは紀元前後のローマ人の遺跡である。それでも古代ギリシャ文明のあとを窺い知るには十分だった。
 僕の心を魅了したのは白い大理石の裸体だ。特に男性の彫像には一つ一つ筋肉の文節がまるで解剖学の図譜のように見事に浮き上がる。隆起する筋肉はその滑らかなうねりとともに隠された逞しい骨に固定される。この生々しい肉感とリアリティーはなんだろう。これが紺碧の地中海に向かって立っている。腕の一部や脚の一部、さらには首までが欠けているのに、2000年以上の時を越えて、どうだといわんばかりに立っている。
 僕は彫像の後ろに回って、白く輝く大理石の肉体と紺碧の地中海を一つの視野に入れてみた。白く照り返す臀部の隆起を見つめ、海からの太陽の照り返しに目を細めながら、「これが古代地中海のエロスかー。」と思う。僕はこんな突き抜けたエロチシズムをあまり感じた事がなかった。肉体を知り尽くした光の降り注ぐエロチシズムが3000年以上も前に存在した。そう思うとなんだか愉快になった。
 会議は高い温度や低い温度に弱いワクチンを現場でどのように管理するのかを論議した。新しい注射器やソーラーパワーの冷蔵庫など途上国の実情にあった技術開発の努力の一端も見せてくれた。ただ、企業はすぐに利潤を還元できない技術には基本的に投資をしない。そこで技術開発は特定の篤志家(ビルゲイツ等)の援助に頼る。ところがその裏にも企業とのパイプが見え隠れするから相変わらずスッキリしないのである。

アラブの人々アラブの街並
 3日間の会議を終えた翌日、夕方の帰りの便までの時間、再び同僚と観光に突っ走った。今度の運転手は体のでかいファルシーシさん。これまた陽気なアラブのおじさんだ。今回は少し値切りがうまくなった。チュニスの市街地を見て回る。チュニス最大の寺院「グランド・モスク」は金曜礼拝で入れずガッカリ。ところが旧市街のメディナを案内してもらってビックリ。まさに迷路なのである。両側にはスーク(市場)が立ち並び、人々が細い路地を体を擦りあうようにすれ違う。視線を交わしながら行き交う人たちには暖かさを感じる。
メディナのお店の屋上から展望するチュニスの街
メディナの迷路の屋根
 絨毯を盛んに売り込む「ここは国営だ」という嘘っぽい店の屋上に登って驚いた。チュニスの街が一望できる。建て増しに建て増しを重ねた迷路のドーム状の屋根がアリの巣を見るように俯瞰できるのである。
 中央市場では樽に入った名産の塩漬けオリーブと天井から吊るされている数珠状のナツメヤシの束をお土産に買ってしまった。街は人でごった返している。あと数日するとイスラム教の犠牲祭があるという。ネパールでも似た祭りがあったが、ヤギを一家族で一頭買って、潰すらしい。祭りに食べられるヤギが市場のあちこちにつながれている。みんな楽しそうだ。最近はヤギの値段も高騰して一頭が数万円もするらしい。それでも人々の活気はたいしたものだ。
 市場をあとにしてオスマン帝国時代に作られたバルドー博物館で世界最大といわれるローマ時代のモザイク画のコレクションを見た。
 お昼を過ぎた。パリでの飛行機の乗り継ぎが一時間しかないことをしきりと心配していた用意周到なる同僚は、とうとう一つ早い便で「パリで待っているから」と言い残して帰っていった。用意不周到な僕は代理店のいう「大丈夫」を固く信じ、「まだ3−4時間は余計に遊べる。」と一人旅ができる時間を喜んだ。お陰で僕は「シティ・ブ・サイド」という白塗りの壁の家々が地中海に面して立ち並ぶ小高い丘を登った。そこのカフェで一人甘いジャスミンティーをすすり、白壁の家並みや青の地中海の向こうに見える山をスケッチした。その上、たまたま足を留めた画廊で気に入った小さな油絵を3つも買った。僕は旅人の至福の時を過ごしたのである。
「シティ・ブ・サイド」のカフェで
丘から望む地中海
用意不周到
 ここまでは言う事なしだったが、至難はそれからだった。賢い同僚の予想通り、パリに向かうエアフランスは3時間も遅れ、パリの乗り継ぎはできなくなった。今晩はパリに泊まるしかない。チケットの変更に長い行列で待たされるが、飛行場のカウンターのチュニジア人はおしゃべりをしながら気にならないようだ。やっと自分の番になったが、「何日の便にしますか?」なんて聞いてくる。「香港からの事は知らないから自分でやって頂戴。」という。僕が「ドラゴンエアーに乗り継ぐんです。」と言うと、「ドラゴンってかっこいい名前だね。」なんてニコニコする。国連の青いパスポートを見て「綺麗な色だなー」なんて言う。
 突然、隣に居た日本人らしき中年の男性が、「俺は日本人だぞ。」とフランス語でまくし立てている。「こんな劣悪なサービスは許されないぞ。」と言っているらしい。それでもカウンターの人はニヤニヤ。周りで見ている人たちも仕方ないだろうと肩をすぼめる。僕も知らない振り。日本は外から見るとやっぱり特別な国らしい。人を待たせたから謝るなど、外の国ではない。文句を言っても右の耳から左の耳へ素通りするだけ。外で暮らしてみるとよくわかる。

闇の中の光
 パリのシャルルドゴール空港に着いたのはもう夜の11時を回っていた。乗り継ぎカウンターでホテルの引換券をもらい、ホテルの送迎バスが来るというゲートに出てパリの夜の寒空の下で待った。ところが1時間以上待っても来ない。他のホテルの送迎バスは来るのに僕の指定されたホテルのバスが来ない。深夜の飛行場ビルの中はもう行き交う人はいない。ふと見ると取り残されたのは僕一人ではなさそうだ。マラウイまで帰るという漆黒の肌のアフリカ人の若いおねえさんとぶ厚いコートを着た小柄でがっしりした体格のアジア系の若いおにいちゃんの二人がいる。つまり3人が人気のない空港に取り残されたのである。
 さて困ったなぁと思っていると、人気のない空港ビルにやっとフランス人らしき若い男性の従業員が通りかかった。「ホテルのバスは本当に来るの?」と訊くと「引換券にある電話番号に公衆電話からかけてみろ。」という。電話?お金?僕はユーロを持っていない。アフリカのおねえさんも首を横に振る。それに両替所にもうすべて閉まっている。するとアジアのおにいちゃんが突然「マネー!」と叫ぶや、ユーロのコインをポケットから鷲づかみにして差し出した。有難い。するとそのフランス人、コインをさっと目で数えるや、全部を鷲づかみにして自分のポケットから携帯を出した。「こいつ、持っているなら電話の一本くらいかけさせろよ。」と言いたくなったが、これがフランスらしい。まさに弱肉強食、、、夜のジャングルに放り出されたようである。
 やっとの思いでホテルの受付と電話で話すと「深夜は送迎をやっていないよ。エアフランスが悪いんだ。とにかく自分たちでタクシーに乗ってきてくれ。」という。ああ、また困った。タクシーなんてどこにあるんだろう?3人が茫然と空港の外の暗闇を見ていると突然背後に背の高いアフリカ人が立っている。低い声で、「タクシーならあっちへ行け。」と空港の外の暗闇を指差した。
 僕ら3人は寒いし、これ以上待てないし、エイやけくそだ。という気持ちで暗闇に向かって歩いた。すると、そこにはタクシーらしきものが2台止まっている。一台目の車の横に居た目だけがぎらぎら光る背の高いアフリカ人が、「乗るならこっちの車だ」と指差す。「エー、まずいぞ!」と思ったその瞬間、その車のドアが開いて出てきた運転手は、なんと色白のアジア人の中年男性だったのである。
 その運転手さんを見るなりアジアのおにいちゃんは嬉しさのあまり(多分、、、)「チィナ(中国人)?」と叫んだ。するとその運転手さんは憮然として「アイアム・カンボジアン」と返答したのである。
「えーー、カンボジア人なの?」と僕は心の中で絶叫。
「ローク チョンチェット クメール テー(おじさんのクメール人なの?)」と僕が下手なクメール語を話したのでおじさんもビックリ。そう言えば隣のアジアのおにいちゃんはいったいどこの人なんだろう?おにいちゃんの顔に指を差して「チィナ?」と訊いてみた。すると「べトナーム」と答えたのである。
「えーー、ベトナム人なの?」と僕は再び心の中で絶叫。
「トイ ラー ンゴイ ニャット(僕は日本人だよ)」と僕が答えたのでお兄ちゃんもビックリ。一番驚いたのはマラウイから来たアフリカのおねえさんだった。口をぽかんと開けて、もうどうでもいいから早くホテルに連れて行ってという表情。とにかくおじさんは見事に安全に僕らを深夜のホテルに届けてくれたのである。
 ここでもベトナムのお兄ちゃんは「マネー!」とユーロを出してくれた。おじさんはチップも要求せず去っていく。そのおじさんに「いつからパリにいるんですか?」と訊いてみた。「もう30年以上もいるんだ。」と答えてくれる。ポルポトの時に海外に逃げた人なのだろう。苦労して異郷で暮らしながらもクメールの誇りが少しも色褪せていない。僕はその後姿に思わず「オックンチャラン(有難うございます)」と両手を合わせたのでした。
 暖かいホテルのロビーに入って時計を見るともう夜中の2時を回っていた。ベトナムのおにいちゃんは僕の差し出すドルも受け取らずにホテルの受付のフランスなまりの英語に首を傾げている。僕が下手なベトナム語に訳すと、コクリとうなずいて、少し笑ったように見え、ホテルの中に消えた。ホテルの中の暖かい空気で緊張の取れたマラウイのおねえさんは、漆黒の肌ではっきりしないが顔には生気が戻り、明日の早朝ヨハネスブルグに発つと言って消えた。彼らの去ったあとにはまた冬のパリの深夜の静寂が戻った。
 僕は翌日の昼過ぎのフライトで香港に向かった。灰色の雲が垂れ込め、寒風吹く飛行場をあとに12時間、再び夜の世界を東に飛んだ。香港に着いたのは翌朝。15年ぶりの香港を数時間だけ一人で見て歩き、夕方の便でプノンペンに戻ったのである。
 用意不周到な僕にはいつも何かが起こるので仕方がない。地中海の光の楽園から飛行機が遅れたせいで、お先真っ暗の闇に突き落とされる。そのパリの闇の中ではカンボジア人の運転手のおじさんの登場で一条の光が現れて救われた。光も闇もどうやら繋がっているようなのである。


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