んだんだ劇場2009年3月号 vol.124
遠田耕平

No93 ジャイ子のデカパン―お手伝いさん三代記

 長い海外生活の中では忘れられない大事な人たちが両手の指の数では納まりきれないほど現れる。中でも、僕や家族の生活と密着し、多くの時間をともに過ごした人の代表がお手伝いさんと運転手さんである。 今回はベトナム、インド、カンボジアでお世話になったお手伝いさんのお話。
 お手伝いさんというと、日本ではちょっと贅沢に感じられるかもしれない。もちろん途上国の中にあってもお手伝いさんを雇えるのは贅沢なレベルになるのであるが、現地の右も左もわからない外国人の家族にとっては「転ばぬ先の杖」とでも言うようなとても大事な存在なのである。 市場で一つ一つ値段交渉をして確保する食料、毎日やってくる停電、突然のガスボンベの故障、水の濁りや断水、不審な訪問者への対応まで、日常生活の基本がお手伝いさんの力量にかかる。そして、何よりも、嘘をつかない、盗まない、頼んだことはちゃんとやってくれる、信頼できる人である事がお手伝いさんの大切な条件になる。
 信頼できる人というのは当たり前でしょう、と思われるかもしれないが、途上国では意外にこれが難しい。もちろん国によっても、個人によっても違うのであるが、外国人=お金持ち、お金持ち=貧乏人がちょろまかしても眼をつぶる人、なんていう方程式がまかり通る場合もある。外国人がいいお手伝いさんに巡り合う確立は50%程度もないようだ。そんな中で僕と家族は素敵な人たちに出会った。 その一人目がベトナムのユンさん、二人目がインドのラクシュミさん、3人目が今いるカンボジアのリエップさんである。

ベトナムのユンさん
 ユンさんは今から15年も前、僕がベトナムの南部、ホーチミン市(サイゴン)で小学生の子供3人を抱え、女房と5人で暮らしていた時のお手伝いさんである。ユンさんは南ベトナムの出身、当時は30歳になったばかりだろうか、二人の娘さんがいたがすでに離婚して、女手一つで子供たちを育てていた。 浅黒い肌に大きな目、やや受け口で、美人とは言えないが、利発な目をしてテキパキと動く人だった。毎朝自転車を漕いで一時間近い道のりを通っていたのだから体力は太鼓判だった。
 お掃除は大雑把だったけど、料理がうまかった。とりわけベトナムの名物である揚げ春巻きのチャイヨー(北ベトナムでネムザンという)の味はどんなレストランの味よりもおいしく、子供たちがいつも楽しみにしていた。子供たちには優しく、その一方で、でれでれと言い寄ってくるにやけた運転手には一発ビンタくれてやる威勢のよさがあった。しっかり者のお手伝いさんという意味で今も彼女の右に出る人に僕らの家族は出会っていない。
 僕たちが初めて休暇を取って家を留守にした時だ。戻ってきて驚いた。家中のドアに鍵がかかっているだけでなく、ドアというドア全てに封印が貼り付けてあったのである。封印とはつまり、おみくじのような紙を糊でドアの開く部分に貼り付ける。誰かがドアを開ければ紙が破れ、入った証拠が残るというわけだ。誰かさんとは家を貸している大家さんのことである。
 大家は北ベトナムの元軍人だ。南ベトナム人のユンさんはサイゴン陥落後、北ベトナムの人たちに散々いじめられた。支配する側は支配される人たちを再教育キャンプに入れて、共産教育をした。支配される人たちは、真夜中に突然ドアを叩かれ、公安の検査だと称して土足で上がりこまれ、お金を要求される。大家は一度、僕らが居るにもかかわらず夜中に公安を家に上げて、煙草やお金を渡して接待した前科があった。 ユンさんは僕らが留守の間に大家が勝手に上がりこむだろうと予想して、それを見事に阻止したのである。 さすがしっかり者。
 僕が風邪をこじらせて咳がなかなか止らなかった時がある。ユンさんは自分に任せなさいとばかり、市場で薬草の束を買ってきて、大きな鍋でぐつぐつと煮始めた。僕にパンツ一丁になれという。言われるがままに裸で突っ立っていると、沸騰して湯気の立ち上る鍋を前に置いて座らされ、頭の上からシーツを全身にかぶせられた。簡易薬用サウナの出来上がりである。レモングラスや生姜など薬草の湯気を胸一杯に吸い込んで、30分もすると全身から汗が噴出し、鼻の通りは良くなり、胸はスッとして、咳が止った。ベトナムの民間療法はすごい。これも頼りになるユンさんのお陰だ。 
 そのユンさん、15年経った今もベトナム正月(テト)になるとベトナム語で年賀状を送ってきてくれる。僕らは忘れかけたベトナム語を何とか思い出しながら彼女の近況を知る。今もいろいろと苦労のあるらしい彼女とその家族を思い浮かべながら、僕は何も彼女にしてあげられなかったなあ、と思うのである。
4年前にベトナムに遊びに行って、再会した時のユンさん
インドのジャイコ、ラクシュミさん。ヒンズーのお祭りディバリの夜
インドのラクシュミさん
 ラクシュミさんは9年前、僕が単身赴任でデリーに居たときのお手伝いさんである。初対面の印象がはなはだ悪かった。目は少しやぶにらみ、鼻の穴は大きく、鼻息は荒らそう。腕は太く、お腹は丸太のようで、どっしりしている。まだ30歳そこそこだったがお世辞でも美人とはいえない。それでも、インドの女性はみんな丸太のようなお腹だし、怖そうに見えていたので、普通のインド人より少しアジア的な風貌の彼女は、それでも少し優しく見えた。あとでインドに出稼ぎに来ているネパールの人だとわかった。
 やっとのことでデリーで見つけた家の3階を借りた。ラクシュミはその借りた家の一階に住む大家さんのお手伝いさんだった。大家さんの勧めで簡単な掃除と洗濯、食事の支度だけをアルバイト代わりに使ってやってくれと言うので、そうした。連日の地方出張で疲れていた僕は、思考停止状態で言われるがままにそうしたのである。でも、それがよかった。 
 ラクシュミは僕の部屋の上の屋上の掘っ立て小屋(サーバントクォーター)で、小学校高学年のウメッシュとアッシッシという二人の息子と痩せて小さな旦那の四人で住んでいた。ラクシュミとはヒンズー教の神様の名前である。その神様の名を持つ彼女は誰かに似ているなあ、とずっと思っていたのだが、ある日やっとわかった。ドラエモンに出てくるジャイアンの妹のジャイコである。でも、せっかくヒンズーの神様の素敵な名前があるのに、ジャイコと呼ぶのも申し訳なく、やっぱりラクシュミと呼んだ。
 ラクシュミの子供に対する躾は明快だった。優しいけど厳しい、日本の昔のお母さんのようだった。僕の家の前にはいつも牛たちが昼寝をしている公園があった。グルモハールパークと呼ばれ、乾期には火炎樹の赤い花が咲き誇るきれいなところだったが、そこはまた近所の子どもたちのクリケット(野球の元祖)の最高の遊び場でもあった。子供たちは毎日陽が暮れるまでクリケットに興じていた。ラクシュミの長男のウメッシュ君は、そのリーダー格で、いつもラクシュミの怒鳴り声で渋々家に帰っていたのである。
 ある日、随分とラクシュミの怒鳴り声がするなと外を覗くと、ラクシュミが思いっきりウメッシュの頭をスリッパで殴っていた。すごい迫力。そのウメッシュはとうとうある日、家出事件を起こした。「ウメッシュが帰ってこない、探してもいない、サー(ご主人)どうしたらいいんだ。」と、ラクシュミが泣きながら僕のところに来た事があった。僕も仕方がないので一緒に近所を探し回った事がある。やっとのことで、ふてくされてブラブラ歩いていたウメッシュを見つけた。見つけるや、走り寄って一言怒鳴ると、涙を流してウメッシュを抱きしめたラクシュミの嬉しいそうな顔を今もよく覚えている。
 とにかくラクシュミはジャイコのように逞しく、優しく、そして頭が良かった。学校もろくに出ていないのに、英語を話すのが上手で、単身赴任の僕の寂しさを世間話で紛らわしてくれた。「サー(ご主人)は家族と離れて寂しいね。」とか、「サー、今日は何かいいことあった。」とか、「サー、もっと元気を出して」と。ラクシュミは、やっぱりジャイコで、いつの間にか、僕のインドの妹のようになっていったのである。
 さらに彼女はいくつかの和風料理を覚えてくれた。調味料の分量から調理の仕方まで実に事細かにノートに絵文字で書き記した。味噌汁、とんかつ、焼肉、野菜炒め等を覚えて、地方出張や村周りでカレーとナンばかりの食事に辟易していた僕の胃袋を救ってくれたのである。
 時折デリーにいる日本人の友達を集めて開くパーティーでも彼女の包丁裁きと明るい性格は評判で人気者だった。パンジャビドレスから突き出る豊かなお腹のラインも気にせず(少し気にしていたらしいが。)、「ナマステ(こんにちわ)」とにこやかに両手を合わせて挨拶する彼女の笑顔は実に愛らしかったのである。

 ラクシュミというとパンツ事件である。僕はパンツというものはピシッとフィットするもので、いわゆるブリーフというものをパンツだと認識している。そうでないと落ち着くべきものが落ち着かない。僕の子供たちはみんなトランクスというダブダブのものを愛用し履いているようだが、僕の概念ではあれはどう見ても半ズボンの範疇に入る。僕は以前、休暇で秋田に帰っている時に子供のトランクスを拝借して庭先をぶらぶらしていたことがある。僕は夏用の半ズボンと考えていたのだが、周囲には理解してもらえなかったらしく、ひどくヒンシュクをかい、家族から罵詈雑言の限りを浴びたことを覚えている。
 なぜパンツの話をしたかというと、その愛用するブリーフがインドで少しずつ大きくなっていったのである。実に少しずつ、始めは気のせいだと思っていたのであるが、確実に大きくなっていった。最後にはとうとう腰からずれ落ちた。それこそトランクスのようになっていったのである。ラクシュミにどうしたのか訊いてみても首を傾げるばかり。ある日ラクシュミが洗濯板で洗う光景を見て納得。彼女が怪力に任せて、洗濯板に叩きつけている姿を見たのである。彼女の怪力がぴったりフィットのブリーフをダボダボのトランクスに変身させてしまったのである。すでに今は多くを捨てたが、わずかに残るその巨大化したデカパンを見るにつけ僕はラクシュミを懐かしく思い出すのである。
 そんなラクシュミは今どうしているだろうかとカンボジアに移って6年近く経って思っていた。そんな時、あるフランス人の方のメールアドレスで突然彼女からE-メールが僕のところに飛び込んできたのである。この時ばかりは普段わずらわしいと思うE-メールに感謝した。実はラクシュミ家族は現在、元の雇い先を3年ほど前に辞めて、同じグルモハールで新たにフランス人家族のお手伝いさんになっているという。
 ラクシュミが僕のことをそのご家族に話したのだろう。そのフランス人ご夫妻が親切な方たちで、WHOのインド事務所のメールアドレスに僕を問い合わせてくれた。しかし、僕のアドレスはすでに使われていない。そこでなんとグーグルを検索して僕の文献(あまりないのだけど、)などからWHOカンボジアのアドレスを探し当てたというのである。親切なフランス人はいらっしゃるものです。そしてラクシュミの手書きのたどたどしいけど、しっかりした英語の直筆のコピーを添付して送ってくれたのである。 
 ラクシュミ家族は今、親切な雇い主の下で幸せのようだ。ガキ大将で家出常習犯だったウメッシュはもう18歳になり、なんと会計士をめざして勉強しているという。弟のアッシッシも15歳になる。ジャイコの子供たちは、ジャイコの逞しさとおおらかさ、優しさと厳しさ、明るさと涙もろさを受け継いで大きくなっている。
 何の物質的な財産ももたない人たち、教育の機会も限られた人たち、今日の糧の為にただ働く人たち、それでも嘆くこともなく、諦めることもなく、回りの人を思いやり、僕の心につながる人たち、それが僕が巡り会ったお手伝いさんたちである。ああ、情けない僕はこういう人たちに助けられっぱなしでいるんだなあーと気づかせてくれる人たち。未だに世話になりっぱなしの僕で、どうもすみません。 来月ももう少しこのお話の続きです。すみません。


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