んだんだ劇場2009年5月号 vol.125
遠田耕平

No94 拝啓14歳の君たちへ

 前号で今回は前回に続いてお手伝いさんと運転手さんのことを書くとお約束をしていましたが、変更します。作者の気まぐれをどうかお許しください。書きたい事が湧き上がるとどうしても出るに任せてみたくなるもののようです。
 実は、2ヵ月半休職して日本に居ました。人生にはいろんな事が起こります。当たり前なのでしょうが、まったく予想しなかった事が起こるものだと、恥ずかしながらこの歳で実感しました。そして、人はそれでも何とかやっていくものらしいと知ります。それは、想像したこともないほどの多くの人たちの力を借りて、何とかやっていくからです。そして何とか生き続けられるのです。自分はこれまたなんとも傲慢な奴であったと思う次第です。随分と遅い気づきでありました。
 「夢を持ちなさい。人生は自分の力で切り開いていくものです。」という人がいる。確かにそういう人もいるのかもしれないが、本当にそんなことができるのだろうかと思う。自分で切り開いたと思っているだけなのかもしれない。
 「人に迷惑をかけない、いい大人になりなさい。」という人がいる。確かにそういう人もいるのかもしれないが、人に迷惑をかけないで生きている人なんか本当にいるのだろうかと思う。少なくとも僕は違う。
 実は僕はどうもわからないのである。歳を重ねるにつれ、予想のつかなかった出来事に直面して大慌てするにつれ、わからないことはどんどん増えていく。
 そんな時だった。大学時代の水泳部の女性の先輩で、現在秋田市内の中学校の先生をしている方から「あなた、一度生徒たちの前でお話してよ。」と頼まれた。丁度、僕たちが、大人だと言っている世界が、実はわからないことだらけなんだと、子どもたちに話したくてたまらなくなっていた時だったから、不覚にも「ハイ、先輩。」と返事してしまった。先輩の一言はやはり威力がある。大学時代、難民キャンプや、アジアの国を放浪して、練習をサボってばかりいた不良部員の負い目もあったのであるが。
 「先輩、何人ぐらいに話すんですか?」と訊くと、「全校生徒よ。」という。「え!、全校生徒ですか。」と、恐れおののく僕に、先輩は「全校生徒67名。秋田市内の中学校なんだけど、過疎なのよ。」という。校長先生にお会いすると、「それなら、隣の小学校の高学年も呼びましょう。」という変なノリになり、こちらも過疎の小学校の5,6年生、50人が加わって、120人くらいなった。せっかくだから狭い部屋で子どもたち一人一人の顔を近くで見ながら話すようにしたいというと、優しい先生方が上手にアレンジしてくださった。
 小中学生を前に話すというのは大学生や成人を前に話すのとは随分違う。すごいプレッシャーなのである。それは彼らが大人の嘘をあっさり見抜くからである。なるべく嘘を言うまいと心に決めているのだが、もし気がつかないうちにいつもの大人の癖が出てしまったらどうしようと思うのである。そんな子供たちと向き合って日夜奮闘されている先生とは本当に大変な職業だと痛感する。
 当日は小学生たちが体操座りで前列に座り、中学生たちは後列に椅子を持ってきて陣取った。小学生たちの目が「おじさん、おもろい話しろよ。」と言っている。「みんな、朝ちゃんと起きれるか?」と聞くと、当たり前だ。という顔をする。「実は子供のとき、おじさんは起きれなかった。遅刻の常習犯だった。」と話した。みんなダメなおじさんだなあ、という顔する。「ゲゲゲの鬼太郎を描いた水木しげるさんも起きれなかったんだぞ。」といったら。「こいつは本当は起きれないんだ。」と隣のクラスメートをどついた子がいる。「君はおじさんの仲間です。」と言って握手するとみんながゲラゲラ笑う。
 「おじさん、実はみんな謝りたい事があるんだ。」と切り出してみた。「実は最近おじさんの子供に嘘をついていたと気がついたんだ。」「僕の子供が君らぐらいの歳のときに勉強しろと言った覚えがある。勉強しないとちゃんとした大人になれないぞ。と言ってしまった。「あれは嘘でした。ごめんなさい。」小学生はポカーンとしている。中学生はなんとも言えない、感情を押し殺したようなフーンという顔をしている。最後列の先生たちはぴくぴくと目じりを動かしている。(まずい…)
 「僕は実は、僕の子供にそういった時、人がどう生きていくのかを本当は知らなかった。勉強が嫌いでも他の事が好きで大人になってその仕事をする人や、いろんな事情で勉強ができなくておうちの仕事をついでやっていく人や、いい大学に行かないでも立派にやっているそんな人たちのことを知らなかったのです。その人たちがみんなちゃんとした人でないわけはありません。勉強した人がみんなちゃんとした人になるわけでもありません。実は自分が生きてきたこれっぽちのことしかわからないのに、わかったように言ってしまった。だからごめんなさい。」と。「実はよくわからないんだけど、僕が知っている限りでは今のところこう考えているんだと話せばよかったと後悔しているのです。」と。
 小学生たちはやっぱりポカーン。反応は実にストレートである。ところが、後列の中学生たちの反応は違う。小学生たちのような開けっ放しの表情をしていない。昨日まで小学生だったはずの中学一年生までが「フーン、それで?」という顔をしている。(まずい…)前列の体操座りと後列の椅子座りの間には大きな壁があるらしい。後列にはすでに大人の世界への準備段階に入った子供たちがいる。
 カンボジアの子供たちのスライドを見せた。藁葺きの小学校や、予防接種の注射が嫌いで木に登って逃げたり、水牛にまたがって逃げたりする子供たち。学校で実施した予防接種の合間に校庭で買い食いする子供たち、先生の赤ちゃんを面倒みる生徒たち。小学生たちはオシッコタイムも我慢して一時間余りをゲラゲラ笑いながら楽しそうに聞いてくれた。小学生退場。それから中学生たちにもう少し話そうよ、と言って傍に集まってもらい、懲りずにもう少し話をした。

「君たちから見える大人の世界はどんなふうに見えるのだろう。」「大人たちは何でもわかっているのだろうかね。」「大人の世界に居る僕には実はわからないことだらけで、わからないことは実は今も増えているんだ。先のことはよくわからない。分からないことだらけなんだ。ただ、大人はわからないとうまくいえない。」「君の夢はなんですかと聞かれてうまく答えられない子供を頭の悪い子供だと言う人がいるけど、僕はうまく答えられないのが当たり前だと思っている。でも僕らは、そのわからないものはなんだろう。どうしてなんだろうと、考えることはできるんだ。自由に、時間無制限に考えてもいいんだ。」

「知識は1時限、2時限、何単位と積み重ね、計る事ができるかもしれない。テストをしてどのくらい覚えているか計る。覚えて要領よくやると確かに点数は取れる。疑問を持ったらつまずくから深く考えないようにする。考えを途中で止める。でも、知性は違う。わからないことを考え始める。いつ答えが出るのか、答えがあるのかも分からない。でも考えることを止めないのが知性の入り口らしいよ。だから、考えてもいいのです。いくら考えても、一生かかってもいいのです。生きていくことって何だろうってね。」

「大人の社会には一応のルールがある。教育も教科書もそこに書いてある知識ってやつも一応あるのだけど、全部間違ってはいないかもしれないけど、全部正しいというわけでもない。本当はなんだろうかと考えてみる力、別の考えもあるんだなと見れる力がどうしても必要になる。」

「それにしても、君たちがこれから向かう大人の世界が実はこうもぐちゃぐちゃとして、わからないことの塊だとするとなんとも憂鬱になっちゃうよね。でもね、僕はそれでも生きていく意味はあるんだろうと思うんだよ。僕が今考えている生きていく意味はね、人と出会うことなんだ。こいつはなかなか予想できないんだけどね。もし恋人や、家族や、友人や、先生や、大事な人たちに出会う未来がこの先に待っているとしたら、生きることはまんざら捨てたものでもないと思っているんだけど、どうかな?。生きる意味は出会いじゃないかなと。」

 質問なし。全員ポカーン。「スライドがとっても面白かったでーす。」という生徒代表の言葉を最後に解散。「まずい、滑った。」と自覚。先輩と校長先生にご迷惑をお掛けしましたと、深々とお詫びをして帰った。帰って、中学生へのメッセージ大失敗だったと報告。娘に「当たり前でしょ。中学生は違うのよ。フーンっていうのが中学生の普通の反応なのよ。」と言われさらに落ち込む。
 翌日、先輩が「生徒たちが感想文を書いてくれたわよ。」と大きな封筒に入った紙の束をポンと渡してくれた。それを読んでビックリ。本当に驚いた。
 以下、3人の生徒さんの感想文の一部を原文のまま載せます。

下北手中学校3年Nさん;
…前略…遠田先生は、少し真面目な話でも、すごく明るく話すので聞いていて全然退屈しませんでした。こんなに楽しい雰囲気だった講話会は初めてだったと思います。退屈することのないお話だったからこそ、内容がスッと頭に入ってきて、とても印象に残りました。その中でも「考えることに時間制限なんかないんだ。」と言う言葉にはすごく考えさせられました。今まで、少しだけ考えて出した答えが正しいのだと思っていた私には、衝撃的な言葉でした。遠田先生は人と話すとき、とても生き生きとして見えました。「人と出会うことに生きる意味がある。」と言っていた通りの表情でした。私は「生きる意味」を考えて、考えて、自分なりの答えを出した人は生き生きとして見えるのだと思います。私も先生のように自分が出した答えを自信を持って人に話せる人間になりたいです。

下北手中学校3年Kくん;
…前略…「勉強は何故するのか。」って言うのは、本当は答えの見つからない疑問だと思います。立派な大人になるためって言うのは、確かになんかモヤモヤしてて、パッとしない答えだと思います。「勉強しろ」って言われても、「プロ野球選手になるから、そんなちゃんとやらなくていいや。」とずっと思ってたけど、言われてみれば、勉強で「知識」をつけるだけじゃなく、「知性」をつけるための力を付けるのは、これからの人生に役立つかもな、と思います。
これから生きていく中で数々の疑問が生まれてくることがあると思うけど、それに対して「答え」を出すことじゃなく、「考える」ことを大切にしていこうと思いました。

下北手中学校3年Mくん;
…前略…ふだんの何気ない事について、深く考え、追求していくことは、僕がとっても大好きな事だったので、今回の講話会は、僕に非常にあっていると思いました。なぜ生きているのかー。先生の話を聞きながら、僕はそれを考えていました。一人一人、考えが違うと思いますが、僕が考えた生きている理由は、「何かをするため」だと思いました。自分の個性だったり、夢だったり、身の回りの事などをつなぎ合わせて、「何か」をする。それが自分にとって、一番素晴らしいことではないかと思います。こうした答えを出す事ができたのも先生のお陰だと思います。…後略…

 考えていたんだ。やっぱり。こんなにたくさんを感じてくれていたんだ。僕は胸が一杯なって、すぐに先輩に「感動しました。」と電話した。後日先輩が「この前のおじさん、みんなの感想文に感動したらしいわよ。」と話すと「フーン、そうなんだ。」と少し驚いたように答えたそうだ。全校生徒67人、3分の一が野球部員で、カモシカに見守られて部活をしている中学生たちの心の中です。こんなに素敵な14歳たちが僕たちの傍にいます。会えてよかったなあー。僕はこの感想文をいつか大人になったときの彼らにまた見てもらえたら嬉しいな思うのでした。

アンジェラアキの「手紙―拝啓15歳の君へー」の歌詞にこんなフレーズがあった。

いつの時代も悲しみは避けて通れないけど、笑顔を見せて今を生きていこう

 拝啓14歳の君たちへ
 そうだ今を生きていこうね、みんな。
 出会いを信じて。
 下北手中学校のみんな、ありがとう。
 おじさんも何とかやっていきます。


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