んだんだ劇場2009年6月号 vol.127
遠田耕平

No96 態度が悪くてすみません

「援助」の歯車
 予防接種のアジア地域の会議があって、マニラに一週間いた。今はマニラも雨期でカンボジアと同じように時折激しい雨と強い日差しが交互に一日のお天気に訪れる。空に立ち上がる積乱雲はやっぱりマニラでも大きくてみごとだ。
 マニラで旧知の友達たちと会えるのは楽しいのだけど、会議そのものはなんとも楽しくない。
 マニラの街が相変わらず汚くて、ひどくなる一方の排気ガスと増える路上生活者で気持ちが重くなるせいかなとも思ったけど、やっぱり会議そのものが重い。 
本部のジュネーブから来た連中が冷房の利いた部屋で練りに練りましたという顔でファンシーでジャルゴン(専門用語)に満ちた、途上国にはどうも如何なものですか?というような提案をどんどんだしてきて得意顔だ。新しい戦略、新しい委員会の設置、新しい高価なワクチンの導入と発表を続ける。マニラの地域事務局も、それに意見することもなく、新しい指標の導入や、新しい到達目標を畳み掛けてくる。 おいおい、と眠い目を擦りながら、聞きたくないなあと思いながらも、やっぱり耳に入ってしまう。横を見ると各国の予防接種の責任者たちもなんだかウンザリした顔をしている。でも、意外にも声を上げて反論もしない。意見をしても仕方がないなあと思っているのかもしれない。カンボジアのスーン先生や欽ちゃんことサラット先生に一言言っておやりなさいとアドバイスするのだけど、モジモジしている。で、仕方なく僕は手を上げてしまうのである。

「お話はよくわかります。そのようなものがあったらさぞかしよろしいだろうとは思います。その点に関して反論はございません。カンボジアや、ラオスや、ベトナムや、フィリピンやパプアニューギニアの先生たちもそう思っておられるでしょう。でも、人材がいない、予算がない、政権も危ないという中でその新しい提案をどうやってやればよいのでしょうね。
 今やるべきことだけでも国の予防接種部門は大変な努力をされている。政府のトップの人たちの予防接種に対する理解がもっとあれば確かにいいのですがね。でも、委員会設立では役に立ちそうもありませんよ。もし今議長席に座っておられる先生方がカンボジアに来ていただいて政府のトップに会っていただけるなら、これは効果があると思いますがいかかですか。ここで座っておられるよりも、いっそのこと移動議長団チームでも作って各国をお訪ねになっては如何ですか…。」 

 まずい、会場中みんなニヤニヤ、笑いが漏れてきた。 少し言い過ぎた。と思ったが、もう遅い。  
おなじWHOの人間がWHOを突き上げるというのも変な話である。しかも一番下のレベルの下級役人(役人的にはそういうことらしい。)が中央の上級役人に「おいおい、おまえねえ、、」と言っているのであるから各国の代表たちから見ると少しコッケイに写るのかもしれない。まあそれもいいか。仕方がない。「でもそこまで僕に言わせるのもアホだなあー」と言いたくなる。  
  確かに僕はWHOの下級役人ではあるけど、もちろんWHOという組織に対するある程度の尊敬と理想と誇りを持ってはいるつもりである。それが、ああも見事に上級役人たちに得意げな早口英語で、しかもくそ真面目に、絵に書いた餅のような話ばかりされると腹がたってくるのである。でももうひとつ動かしがたい事実がある。そうです。僕もその仲間なのです。うーん、どうも複雑な気持ち…。 

 「多国間援助」という言葉がある。特定の国に特化せず、途上国全般に達成可能な支援目標を設定してあまねく支援する。国連はその象徴である。それに対して先進国が特定の途上国に対して行う「二国間援助」では日本は世界のトップにいる。しかし、この「援助」と呼ばれる世界は一流企業の戦略の如く、イケイケなのである。イケイケでないとダメになる。つまり先進国から「援助」に使うお金がうまく潤滑に回ってこなくなる。すると援助に関わっている巨大な数の人たちの給料も払えなくなる。これは困る。僕も困る。今のグローバル経済のように、株の投資のように、ここにたくさんお金をつぎ込めばこんなにすぐに見返りがありますよ。というモデルを作り続ける。 絶えず新しいモデルを考え出して「援助」をする側に気に入ってもらわないとならない。僕のように「毎日同じおかずでもちゃんと噛んでしっかり食べてね。」というのではダメなのである。「援助」をする側が気に入ってドンドン食べてくれると、提案者の上級役人もドンドン昇進していく仕組みでもある。そこには援助する側の構図はよく見えるのであるが、「援助」を受ける側の途上国の人の顔がどうも見えにくい。
 僕が下級役人の則を越えて言いたいことを言って楽しんでいると思われる読者もおられるかも知れないが、それも誤解である。できれば言いたくないなあと思っている。 なんだか組織にたてついているように見られると自分で変な感じがする。そもそも僕もその組織で食べている人間だからである。できることなら、黙々と粛々と仕事をして、目立たず静かに、そして組織という大きな歯車が自分から自然にいい方向に転がっていってくれさえすればいいのである。そうすると僕も安全で安心な感じがする。でもこの組織の歯車はそもそも「援助」をする側の成り立ちであって、「援助」をされる側の歯車をあまり知らない。ところが、この二つの歯車が噛み合わないと実はうまくどちらも回らないということを最近になって僕はよく実感する。
 もっと言えば、歯車が食い違うと高価な金属製のピカピカの「援助」をする側の歯車が、木製でボロボロでつぎはぎだらけだけど何とか回ってきた「援助」される側の歯車を壊してしまうこともあるのである。確かにボロボロの歯車であるが、低燃費でゆっくりと少ない人材で長い年月なんとか回ってきた歯車である。 要するに「援助」をする側のピカピカの高価な歯車が「援助」をされる側のボロボロの歯車を潰さないような細心の配慮が必要だということを言いたいのである。 
 その配慮が無神経に無視される時、僕はどちらの歯車のことも心配になってつい老婆心ながら発言をしてしまう。まあ、上級役人はどうせ下級役人の話など無視するのであるが、各国の担当者が「よく言いにくいことをうまく言ったなあ。」と思ってくれたらそれで十分いいのである。国際会議では「援助」される側の歯車の実情や心情を下手くそなりに代弁する事が下級役人の務めではないかと勝手に思っている。

態度が悪くてすみません
 そんな訳で、僕の評価は低い。だからというわけでもないが、僕は評価制度なるものが実に嫌いである。嫌いだが、国連の中には欧米に習った評価制度が正しいという信仰がある。日本の文部省の欧米型評価制度の信仰と同じだ。随分と無駄な時間を費やす。「相互に自由に評価してください」なんていうのは口ばかりで、下の人間が上司を簡単にこき下ろせるわけがない。それで管理がしやすいと勝手に思い込んでいるらしい。評価なんて書けば書くほどお互いの無能さを露呈するだけの競争である。
 僕の上司に当たるカンボジアの事務所長のアメリカ人は僕の評価表に「Dr.トーダは経験に富み、いろいろなアイデアを持ち、誰の助けも借りずに保健省を技術的によくサポートしている」と褒めておいて、「しかしながら、Dr.トーダは事務所内の話し合いには非協力的だ。」とグサリと締めくくった。人のキャリアーに傷がつくことをわざわざ書くなよバカ、と思って、女房に愚痴ったら、ニヤニヤ笑いながら、「お仕事はいいけど、態度が悪いって事よ。」と一蹴された。すげえー…、女房です。 はい、態度が悪くてすみません…。

ボロボロの歯車を支える人たちの流出
 なんだか「援助」の話はなんとも話しにくくて、気持ちが晴れない。態度が悪くてすみませーん、と頭を下げれば済むなら、いくらでも頭を下げるのだけど、そんな単純な話でもない。そんなところにまた晴れない話が飛びこんだ。 保健省の予防接種の部署で、僕がここ数年育ててきた若手の医師のソムレイが突然辞めるという。若手だけど人材不足のカンボジアにあって、理屈っぽく、自分の意見もしっかりと話すので、いいぞと思ったお医者さんだった。ここ2年くらいいろいろな仕事を任せらるくらいまでなったソムレイが突然明日からもう保健省に来ないからという。 冗談だろと思ったが本当だった。 NGOに誘われたという。そのNGOの方が給料が高いのでそちらに移るという。 そりゃないだろ、と僕はさすがに大きな声を出してしまった。 
 カンボジアには千以上のNGO (民間援助団体)があるという。まさにカンボジアはNGOのパラダイスである。NGOは小規模な資金でやりくりしているところが多いが、少しでもいい成績を残そうと競争する。もちろん人材育成を手がける良心的なNGO もあるが、規模が少し大きくなると今度は政府の中で育ってきた限りある人材をごぼう抜きするNGOが多い。ソムレイが誘われたNGOは実は某大国が裏で全ての資金援助をしている。皮肉な話である。政府のほうも公務員の給料が信じられないほど安いのでNGOで少し稼いでから戻ってくればいいだろうなんて無責任なことを言う。政府には将来の昇進のはっきりした人だけが残こり、若い優秀な人材は残らないわけである。ボロボロの歯車はさらにボロボロになる。
 さらに追い討ちをかける話が耳に入った。この6年間僕とフィールドを歩いて麻疹や百日咳やポリオの患者を調査し、数千例のデータを一人で入力して解析できる力をつけた、僕が一番信頼するスタッフの女医のヤナレス先生。その彼女が突然結婚するという。おめでたい話ではあるが目の前が真っ暗になった。僕より二つほど年上のヤナレス先生、本当に明るくて優しくて素敵な人なのであるが、ポルポト時代に何があったかを語らない。アメリカに住むカンボジア人の紳士と晩春のお見合いがうまく成立したらしい。確かにおめでたい、でも…。「トーダ、私はカンボジアに残るから大丈夫よ。」と口では言うものの、信じる人は誰もいない。移住の手続きができれば必ずいなくなる。これはNGOのせいでもないし、どこかの政府が悪いわけではないが、弱い国の定めのようなものである。ボロボロの歯車はさらにさらにボロボロになる。

運を使い果たすな
 マニラからプノンペンの帰りの中継でバンコクの飛行場を歩いていたら、バッタリと乗り継ぎを待っていた母子保健の政府の責任者のカナール先生と出会った。がま蛙のような風体で目がギョロッとした風貌はちょっとヤクザ風であるが、気持ちはいい人である。つい人材流出の愚痴を言ってしまう。カナール先生は、「NGO に人材が流れるのは20年以上前からずーっとだよ。」という。「いっそのこと今の2倍くらいNGOが来たら流出が止るかも。」と笑えない冗談を言う。
 これも僕が会議で意見したことだが、カンボジアにはWHOのアドバイスを中心に予防や公衆衛生に関する支援が山のように入ってきたが、その一方で病院の臨床医療の実体はひどいままに残された。公立病院には未だに医者がほとんどいない。少ない医者たちの多くはこの紙面でも紹介した裸の王様のスイス人の病院に雇われるか、金儲け主義の個人クリニックを開く。指導医もろくにいない。重い病気になれば金持ちは車で国境を越えてタイかベトナムに走る。貧乏人はろくに診てもらうこともなく公立病院の壊れたベッドの上で亡くなる。
 非常に高価な肺炎や下痢のワクチンの導入が声高に言われているが、比較的簡単な治療で助かるはずの下痢や肺炎の子供たちが病院の片隅で死んでいる国に持ち込む話ではないだろう。最低限の臨床医療があって、現場を支える医者たちがあって初めての公衆衛生である。今のままでは人心は臨床医療から完全に離れる。いやもう離れているのかもしれない。カナール先生は肩をすぼめる。「昨日の夜も個人病院で帝王切開をしてきたよ。」と悪びれずに話した。小遣い稼ぎである。
 会議でマカオに向かう途中らしい。「スロットルマシンで、一発大儲けして、人材流出を食い止めて、臨床医療を立て直してくれませんかね。」というと、カナール先生、ニヤリと笑って、「運を使い果たしたら困るから、やらないよ。」と冗談で返した。「国の無策で運を使い果たしてしまったのは貧しい一般の人たちでしょ。」と喉まで出掛かってざらざらとした思いを飲み込んだ。  


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次