んだんだ劇場2009年9月号 vol.129
遠田耕平

No98 ほじなし、秋田を走る

ほじなし
 「ほじなし」と背中に白い字で書きしるされた黒のT-シャツを親しい知人から送られた。秋田弁の「ほじなし」の意味を多少とも知る僕としては「こんなT-シャツ恥ずかしくて着れるか。」と思ったのであるが、考えてみるとカンボジアの僕の周りに日本語を介する人は誰もいない。まして秋田弁を介する人は全くいないので着てみた。すると意外にも着心地がいいので実は愛用している。
 このT-シャツ、もとはと言えば今流行の秋田御当地ヒーロー「超人ネイガー」のお土産グッズである。この超人ネイガーが懲らしめる悪者の名が「ほじなし軍団」。この辺まで話すと、秋田出身の人たちはクスクスと笑い出す。ネイガーはそもそも男鹿の「なまはげ」が包丁と桶を片手に「泣ぐごは、いねぇがぁー」と叫ぶ、その「ねぇがぁー」をとったもの。目上の人が目下を諭すような時に使う秋田弁独特の語尾である。「ほじなし」の意味は「情けない」「なんとも仕方ね−、どうしようもないなぁー」という秋田弁で、この名をつけられた悪者軍団は、いともあっさりネイガーにやられてしまうのである。
 今年の僕の夏休みは例年より慌しく、かろうじて一週間余り秋田に帰った。そこでいつもの秋田の飲み仲間と一献を傾けた際に、恥ずかしながら「ほじなしT-シャツ」をお披露目した。情けない奴だと背中に貼ってあるようで恥ずかしいというか、あまりに当たっているというか、複雑な僕の心境を打ち明けると、意外にも「ふづーだぁ」という普通の反応。彼ら曰く、「そいだばぁ、かんげぇすぎだぁ」ということになった。「ほじなし」には裏の意味があるという。秋田の人が「ほじねえ奴だぁ」と言う時は、「情けない、仕方ない奴だなあー」という意味と同時に、「困った奴だから、なんとか助けてやらなくてはなぁ。」という意味が込められているという。秋田弁の、いや、秋田の人の心は深い。「ほじなし軍団」が愛嬌のある悪者として子供たちから人気のある所以らしい。
 秋田の飲み仲間の先輩たちはすでにある人は定年退職し、ある人は定年を待たず転職をしている。その中で大学で長く僕の仕事や研究の補助をしてくれたNさんがいる。彼は医学部創設以来の古株で、顔が広い。野育ちの知恵で何でもやる。癖は強いが、とにかく頼りになるのである。その彼が、なんと文部科学省の極地研究所が公募した南極の越冬隊員に事務員として応募して採用されたという。
 大学の仕事に煮詰まっていた時だったらしく、心機一転を計ったらしい。新しい観測船「白瀬」に乗れると、まるで自分が船長になったようにはしゃいでいる。Nさんを知る僕らは無類の酒好きの彼が「越冬中、酔っ払って外で用足しをしている間に凍え死ぬ。そいだばあ、ほじねえなや」と真剣に心配している。でも、みんな少し羨ましいのである。用を足しながらオーロラを見れると想像すれば……やっぱり羨ましい。

変わるもの、変わらないもの
 僕が長く働いた秋田大学医学部の基礎研究棟が大改築の真っ最中だった。5階建ての建物の外壁は剥がされ、内部の壁が惨めに露出している。大学内の通路はあちこちが通行止めになっている。なんとも不便である。ボロはボロなりにいいなあと思っていたのであるが、そうも行かないらしい。僕の恩師で、兄貴分でもあるM教授と積もる話をしていたら、M教授も来春で定年だとわかった。年月は過ぎているらしい。人は少しも変わらないように見えるのだが……。
 恒例の如く、大学のプールでひと泳ぎしてからカンボジアから持ち帰ったボールペンのインクを探しに、大学の傍の文房具屋に立ち寄った。僕が学生時代だった30年以上も前からここにある。当時そこには美人とは言わないが、明るくて気立てのいい、同じ年頃の娘さんがいた。からかい半分に大学と下宿の往復の道すがら時折立ち寄ったのを思い出した。中に入って驚いた。その娘さんがやっぱり30年前の昔と同じようにレジの前に居たのである。もちろん娘さんも顔の小じわを隠すこともできない程度に歳をとった。それは僕も同じである。お店は改築され専門店らしくいろいろな画材を置いてある。時は流れた。でもその娘さんは昔とまったく変わらない笑顔で僕を見るなり、「お久しぶり。」とペコリと頭を下げた。時は流れても、変わらないもの……。
 時は流れても、変わらないなあ、と独り言を呟きながら、以前から興味のあった透明水彩の画材や手頃なスケッチブックを一式買ってしまった。久しぶりにスケッチをしたくなった理由がある。たまたま秋田駅の本屋の店頭を通りがかった時に、ある本の表紙を見て釘付けになったのだ。男鹿和雄さんの「秋田、遊びの風景」(徳間書店)である。表紙は夏の田園風景だ。緑の稲穂の中の畦道を子供たちが釣り竿を持って走っている。屋敷林の向こうに奥羽の山並み、空には夏の雲が流れている。それが淡い水彩で流れるような田園の一瞬の風景を切り取っている。
 男鹿さんは奥羽山脈の山裾の仙北郡(現大仙市)、太田町の出身で1952年生まれ、ジブリの背景画の監督として有名である。あの「となりのトトロ」など心に残る田園風景や森や川の風景などはすべて彼が子供の頃の秋田の風景から起こしているらしい。彼が文章とともに水彩で画き綴る秋田の原風景とその中で育まれた子供たちの遊びは貧しい時代であったはずなのに溢れるように豊かである。言葉を失うほどに透明な水彩画から風の音、虫の音、川の音、子供たちの歓声が聞こえてくるようなのである。

ほじなしのバイク
 秋田の原風景で思い出したわけではないが、愛用のマウンテンバイク引っ張り出して、ギアに油をさして角館まで70km、往復140kmを部落を抜けながら日帰りで走った。今年は雨が多く天候不順であったらしいが、その日は朝から真夏のかんかん照り。部落を抜けるとは言え、アップダウンがそれなりにあって、太平部落から辺岨公園、岩見三内、唐沢温泉近くの山を抜けて国道13号に合流して角館に着くまでに3時間半近くかかった。途中あまりに暑いので、2度ほど田んぼの用水路の水をタオルに浸して頭にジャブジャブとかけながら暑さをしのいだ。
 角館ではカヌーのコーチでもある知人のSさんの経営するレストラン「遊び庵」で一休み。「今年も来たかあ。」と、僕を見るなり大笑い。去年も田沢湖に行く途中でお世話になっている。一人で走っても、行き着く先には楽しい顔の知人が待っていると思うだけで気持ちが楽になるのは不思議だ。するとSさん、「田沢湖畔においしいコーヒーを飲める茶房ができたから行っておいで。」という。彼の車を貸すから行って来いという。自転車ウェアのまま、30分ほど車を走らせると田沢湖である。
 一人ではつまらないなあと思い、恩師M教授の同級生で最近社長職を引退して湖畔に別荘を建てたYさんを訪ねると運良く一人で家に居た。Yさんを誘って一緒に湖畔の対岸にある茶房に向った。そこには昔から御座石神社がある。湖畔の道路から少し上がった斜面にあるその茶房からの田沢湖の眺めは確かにいい。コーヒーを飲みながら、ひとしきりYさんとお話をして、茶房を出ようとした時だ。後ろから「トーダさん?ですか」と優しい声が響いた。振り向くと、お店の世話をしている歳の頃30歳くらい、品の良い女性が立っている。
 「去年Sさんのレストランでお見かけしました。」という。去年は雨に降られ、レインコート代わりにゴミ袋に穴を開けて頭からすっぽりとかぶり、雨の中をマウンテンバイクで走った。びしょ濡れでレストランに入ってきた僕の姿が余りに異様だったので覚えていたらしい。よくきくと彼女は御座石神社の宮司のお孫さんだという。新しい湖畔の住人のYさんを紹介すると、とても喜ばれた。
 帰ろうとすると、Yさんが「村の人が昔使われていた杉の丸木舟を再現したので見ていかないか。」という。行って見ると杉の巨木から切り出した幅70cm程度、長さ4メートルの丸木舟がある。なんと底は床のように平らな厚い板になっている。M教授は「こんな形で浮くわけがない。」と言っていたらしいが、見事に浮いたそうだ。「田沢湖で漁業?」と思われるかもしれないが、昭和15年までたくさんの魚が獲れたという。
 田沢湖は水深423メートル、日本一だとウイキペグに書いてある。湖面の標高がすでに249メートルあるので、湖底は海面下174メートルにあるということになる。そのせいで冬も湖面が凍りつかないらしい。透明度は戦前31メートルもあったらしいが、最近は4メートル程度らしい。戦前の昭和15年に発電所の建設と農業振興のために別の水系の玉川温泉の強酸水(PH1.1)を田沢湖に流してしまったために、湖水は一気に酸性化し、豊富に居た魚は国鱒(クニマス)も含めてほとんどの魚は死滅したという。国鱒(クニマス)は幻の魚となり、その時に田沢湖畔の漁業も幻となった。
 そうこうしているうちに、夕方になってしまった。Yさんに別れを告げ、角館のSさんに車を返して、バイクで一路秋田に向うと、もう4時をまわっていた。陽は傾いて暑さは弱まったものの体の疲れはかなり溜まっている。国道からそれて山のアップダウンに入ると、サドルに当たるお尻がヒリヒリと痛む。車輪がどうにもうまく回らない。回らないのはボロの自転車のせいなのか、ボロの僕のせいなのかよくわからない。よくわからないが、疲れてフラフラしている僕がボロなのは間違いない。秋田まで20キロくらいのところでとうとう山端に陽が落ちてあたりが急に暗くなった。
 その時だ、太平部落に向う分岐を間違えた。とっぷりと日が暮れて周りがよく見えない。山の道だと思うのに、川の流れの水音が随分と激しく聞こえる。こんな大きな川があったかなあと思いながら闇の中でペダルを踏んでいると突然目の前に裸電気で照らされた見知らぬ看板が出てきた。「こいつは道を間違えたぞ。」と分岐まで戻ったが、すでに小一時間のロスだ。
 携帯が鳴る。暗くなっても帰ってこないので女房が心配して電話をしてきた。道に迷ったというと、車で迎えに来てくれるという。携帯は便利だなあ。山の夜道は暗い。でも、真っ暗ではない。道路の白線がぼんやりと見える。それを頼りに走っていくと秋田まで10キロを残すところで女房に拾ってもらった。申し訳ない。それにしても暗闇は、確かだと思っている自分の方向感覚を狂わしてしまうものらしい。暗闇の中では不安感や疲れも増す。自然の変化の中では人間の感覚なんてなんとも当てにならないちっぽけなものだ。
 自転車の前輪がガタガタと音を立てていたのが気になった。翌朝、車輪を調べてみると、なんと車軸が緩んで軸を支えるボールベアリングがみんな飛び出してなくなっていた。知り合いの自転車屋に持っていくと「ここまで乗る人は最近いないよ。」と呆れられた。どうやら、僕だけでなくバイクもボロだったようだ。愛車のマウンテンバイクは前輪だけ新品と交換すればまた乗れる。でも来年は交換できないこの老体にあわせて新しいロードバイクを買おうかなあと今思案している。
 時が移ろいで、景色は変わる。それでも、変わらないもの、変わらないように見えるものがある。変わらないように見えているだけかもしれない。よくわからない。そんな時、秋田の自然の中に居ると不思議な気分になる。時の移ろいも人の移ろいも関係ないと言っているように感じるのだ。
 関係ないですが、僕は棲家を変えます。次回は「ベトナムからの手紙」です。


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