んだんだ劇場2009年7月号 vol.127

No38−マンネリも悪くない…が−

穴倉・恩恵・ブックデザイナー
なんとなく暗く沈んだ1週間だった。仕事が一段落したこともあるが、虚脱感と言うほど大げさではなく、なんというかちっちゃな穴倉のなかにポトンとおこっちまった感じ。こんなときは閉じこもって映画鑑賞に限る。何にも考えなくて済む。『上意討ち』(小林正樹監督)と『酔いどれ天使』(黒澤明監督)の2本のモノクロ映画。年々モノクロ映画が好きになっていくなあ。

週末ひとり山登りは藤里駒ケ岳。雨で登山者は小生一人だった。下山中にようやく一人登って来る人がいた。ゴツゴツした岩の露出する山で20年前、家族で登った思い出の山である。4歳の息子が「白神最年少登山者」として表彰されたので、印象に残っている。今回登ってみると、歩きにくい岩の多い山で、さらに雨と風にゲンナリ。尾根に出たら4半世紀前の記憶がようやく蘇ってきた。下山したら、入れ替わりに数十人の団体登山客が登りはじめた。そうか、ここは白神の観光スポットだったけ。

穴倉に落ち込んだ「恩恵」かもしれないが、そこから這出たくて突然、ある企画を実行に移すことにした。思い切って数人の執筆者に原稿依頼の手紙を書いたのだ。みなさん高名で全国的な評価を得ている人たちで、うちの依頼なんか無視されるのではと恐れていたのだが、ヤケノヤンパチな気分が逆に幸いした。すぐに2名の方から好意的なお返事をいただく。けがの功名というやつか。

ブックデザインをしてくれる人を探している。ずっと同じ人にやってもらっているのだが少々マンネリ化してきた。マンネリが悪くはないのだが、こちらの予想を裏切る意表をつくブックデザインがほしくなった。ブックデザインは難しい。本の内容を具現化するのはもちろん、書店、著者、編集者のそれぞれから認めてもらわなければならない。本(活字)が好きで、自分の表現をある程度抑えることのできる人でなければ、無理な世界なのだ。うちの出版物の傾向性を理解してもらうまで時間がかかるし、そのわりにデザイン料は安い。やっぱり本好きな人でないと、難しいだろうなあ。


最近なぜかタクシーに乗る機会が多い
経費の領収書を整理していたらタクシーの領収書がやけに多いことに気がついた。そういえば最近よくタクシーに乗っている。ふだんなら月に1回も使えば御の字なのだが、6月はもう10数回乗っている。昨夜も突然、仙台の友人から「秋田に来ているので会いたい」という電話で、けっきょくは行きも帰りもタクシーをつかった。

2週間前になるが、こんな体験もした。友人と角館で飲んでいて話が弾み、帰りの最終電車(新幹線)に乗り遅れた。翌朝はやくから用事があり泊まることができない。店のママさんが「秋田市までなら1万円で大丈夫」というのでタクシーで帰ることにした。角館―秋田間は約50キロ、高速を使っても1時間はかかる距離だ。結論から先に言うと、月明かりのなかをタクシーは高速を一切使わず、山道、農免道路を縫うように猛スピードで40分ジャストでわが家に到着。信号で止まったのは1回こっきり、たぶん100キロ以上のスピードで、カーレースのような走りっぷりだった。「角館に住んでいる麻酔医を夜中によく医学部の病院まで届けるので、ここは通勤道のようなもんだよ」と運ちゃんはうそぶいていた。

10数回乗ったタクシーのうち、運転手の半数近くが40代以下の「若い人」だった。まだ20代の青年もいたので、「最近の運転手は若いねえ」と話しかけると、不況で職がなく、2種免許取得の研修をタクシー会社がやってくれる条件なので、この仕事に飛び込んだのだそうだ。別の40代は「年金生活者か、独身の若者のどちらかしか、やれない仕事ですから。賃金が安くて」と説明してくれた。なるほど。

ふだんはほとんど自家用車すら乗らず、歩きか自転車だ。歩くのも自転車も両方好きなのだ。遠方に行くときはもっぱら電車。車の運転が得意でないこともあるが、車に乗ると本が読めないことが大きい。遠方から来た著者(お客用)にカード会社が発行しているタクシーチケットを会社で用意してある。このチケットを利用するようになったのが、タクシーと縁が深くなった最大の理由かもしれない。お客さん用、と言いながらも実際はほとんど自分用に使っているのだから世話はない。このチケット冊子がなくなったら、もう購入は止めようと思っている。

久保田城下の町を歩く
私は県南の湯沢市の生まれなのだが、先祖は山形天童の出自で、最上との戦いに敗れて、秋田の増田村に逃げてきた。秋田に移ってからは帰農し安倍姓を名乗った(なぜかはわからない)。そんな縁もあり山形にはよく出かけるし、山城のあった場所には(今は果樹園になっているのだが)、よく訪れる。地元の人たちも好意的で、果樹園には、そこが先祖の遺跡のある場所であることを明記した看板までたっている。

それと話は別だが、大学に入るために湯沢市から秋田市に出てきて、もう40年になる。ここ秋田市が実質的な故郷といってもいい。ところが東北各地を飛び回るような仕事をしているくせに、秋田市の地理や歴史に関して、ほとんど無知である。酒田や弘前、仙台のことは詳しい(と自分では思っている)のに、住んでいる秋田市に関してはまるっきりペケなのだ。その辺に実はコンプレックスがあったのだが、つい先日、うちの著者であり友人の藤原優太郎さんが、「久保田城下の外側の町を歩こう」という企画を立ててくれ、渡りに船と参加させてもらった。

佐竹の殿様が参勤交代の折、城下から出てから最後のお見送り地点となる牛島の「お茶屋橋」までバスで行き、そこから歴史散歩はスタート。楢山の路地をへめぐり、大町から通町に抜け昼食。午後からは八橋から歴史的遺跡の多く残る墓地や神社仏閣を延々と見ながら、戊辰の遺跡が数多く残る寺内まで歩いた。約9時間、歩数にして2万5千歩、13キロ余の長い散歩だった。炎天下と前日の寝不足(「1Q84」を夜通し読んでしまった)もあり、山歩きよりもきつい行軍だったが、初めて知る事実も多く、その知的興奮のせいか、最後まで集中力が切れることはなかった。

ほとんどが知識としては知っていても、初めて見聞するものばかり。戊辰戦争で亡くなった新政府方(官軍)兵士の墓地の横にある、おびただしい隠れキリシタンの墓には涙が出そうになったし、われらが編集者の大先達・滝田樗陰の墓も恥ずかしながら初めてみた。最も印象に残ったのは楢山地区の旧町名のカッコよさだ。楢山地区は足軽や中堅武士の住む町だったが、異論はあるものの町名のシンプルでいて深い命名が新鮮だ。内職でざるをつくっていた場所は「笊町」だし、水路に3枚の板を渡して通った場所は「三枚橋」、「酒田町」は海沿いの土崎にあった町を楢山に移してきたもの。もともとは北前船などで山形から移り住んだ酒田の人たちの町。「虎の口」は悪霊を吸い取る場所といわれているし、「餌刺町」は殿さまの鷹狩りの餌を調達する鳥もち竿つかいが住んでいたところ。「米沢町」は米の売買を許された一画で、「登町」は幟職人が多く住んでいたか、旗組に属する足軽だろうか。「追廻町」や「下浜町」「九郎兵衛殿町」なんて、実に粋でカッコいい。こうした町名を「楢山共和町」とか「楢山南中町」などという無粋な町名に変えてしまうのだから、神経を疑う。


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