んだんだ劇場2009年4月号 vol.124
No65
10センチの巨大バリア

 「来年度、秋田県総合教育センター研修員となりました。秋田県総合教育センターは潟上市にあります。引っ越しの準備をしないとね」
 突然、校長から内示の話がありました。思わず、「本当ですか?」と声をあげて,僕は驚きました。校長は首を縦に振っていました。
 先日,母と「本荘東中に赴任して,まだ2年しか経っていないから,今回の異動はないよね」と確認したばかりでした。母は秋田市内の弱電関係の会社に,準社員として,1年更新で勤めています。最近の景気悪化を受けて,母はリストラになるかも…と、不安を抱えていました。3月の初旬,1年間の契約が更新されたようで、母は安堵していました。「雇用が更新になったから、今月は休暇を貰うことができないよ。私の事情を分かってね」と母。体調を崩して、母が呼び出されないよう健康管理に気をつけて、と言いたいのだろうと僕は察していました。このことに加えて、2月下旬に、由利本荘の僕のアパートから秋田市に戻る帰り道に、県立大学の学生が雪道をスリップして、母の車と衝突しました。母の車は全損したけど、母の身体は2個のエアバックに助けられ、軽い打ち身でしたが、今でも通院をして治療をしています。
 このような事情を校長に説明して、「センターに行きたくないのでなく、行くことができる状況ではない。3月中は、母の協力は得られない。潟上市に行ってアパートを探すこともできないし、段ボールに荷物を詰めることも時間がかかる。今回は物理的に難しいと思うので、今回の話は受け入れられない」と、僕は頭を下げました。校長は「市教育委員会に伝えるが、難しいだろう」と腕を組んでいました。
 僕はインターネットで、潟上市にある物件を調べました。いくつかの物件はありましたが、実際に下見をしないと住むことができるか分かりませんでした。また、由利本荘市で受けているホームヘルパー支援や介護タクシーによる通勤支援を、潟上市で継続できるのか、不安でした。校長と由利本荘市教委学校教育課課長は「そんなに心配いらないよ。由利本荘の生活支援を、そのまま潟上市でやってもらうよう伝えますから」と言いました。センター研修の人事異動の理由を、僕は聞きました。
 ○ 秋田市にいるお母さんが三戸さんの家に通ってくる負担軽減を考えて,由利本荘より近い潟上市の異動を考えた。
 ○ 三戸さんの家はお母さんの家から近くの方が何かと良いと考えた。
 僕は少し不快感を表しました。僕は、"センター研修でどのような研修をするのか""なぜ、僕なのか"という疑問に応えてほしかった…
 県教委の人事異動が新聞発表された後、僕はアパート探しを始めました。3つの不動産に行きました。教師になった8年前は、僕が1人暮らしをしたいと言っただけで顔を曇らせていたけど、今は1人のお客さんとして、僕の希望を聞いてくれました。不動産で手すりを付けたり、スロープを設置したりすることを大家さんに確認してくれました。(順調に進んでいるなぁ)と思っていましたが、いずれの物件は1人で浴槽に入ることはできても、1人で浴槽から出ることはできませんでした。僕は浴槽から出るとき、膝を反転させて、浴槽の中で膝立ちをしてから立ち上がります。浴槽の幅が狭いため、膝が浴槽にぶつかり、膝を反転することができません。僕は足に力が入らないので、体育座りから立ち上がることはできません。必ず立ち上がるとき、僕は膝立ちをしていることに気づきました。これまで浴槽の出入りに気にも留めなかったのは、僕の膝が反転できるような浴槽の幅に、たまたま出会ってきたのだろう。(浴槽の幅が解決できないと、引っ越しは難しいなぁ)と、僕は考えました。僕はとても焦りました。友人・知人にも声をかけて、僕が住めるアパートを探して貰いました。でも、日にちだけが過ぎていきました。毎日,浴槽で膝の反転を使わないで、立ち上がる動作をしました。何度やっても、ダメ。なんで、他の人ができて、僕はできないんだ。
 ほんの10センチくらいのバリアなのに。もの凄いバリアに感じる。自分がとても好きだった自分の身体が段々と好きでなくなりました。この膝さえ、もっと曲がれば、こんな思いをしなくてもいいのに。引っ越しができるのに。何度も練習をして、身体の節々が痛くなってきました。もう限界でした。
 とうとう、3月中の引っ越しは諦めざるを得なくなりました。アパートが見つかるまで、電車で通うことにしました。そこで、JRに電話で「電動車椅子で通勤するので,駅の階段の上り下りのサポートをしてほしい」と頼みました。検討したのち,「電動車椅子は4人で持ち上げなければならないので,人員の確保ができない」とJRから電話連絡がありました。そのとき,とっさに僕は「歩きます」と言いました。再び検討したのち,JRから「歩くのなら,対応できますよ」と返事がありました。(とりあえず,新しい職場に通勤できる)と,嬉しくなりました。
 4月から,羽後本荘駅と追分駅を電車で往復しています。

午前5時ころ、起床。
午前5時30分 朝のヘルパーが来る。
午前6時30分 介護タクシーが迎えに来る。〔タクシー料金 230円〕
午前6時40分 羽後本荘駅に着く。
   羽後本荘駅⇔追分駅 〔片道950円〕
   介助サービス員1人の肩を掴んで,僕は徒歩で階段の上り下り。
午前7時00分 羽後本荘駅出発。
午前8時06分 追分駅着。2人の駅員が出迎えて,1人は僕のカバンを持ち,僕はもう1人の駅員の肩を掴んで,階段の上り下り。
追分駅に待機しているタクシーに乗って、秋田県総合教育センターに行く。
午前8時15分ころ、秋田県総合教育センターに着く。〔タクシー料金 890円〕

やはり,階段の上り下りが辛く,仕事を始める前に僕の身体はヘトヘトです。電車通勤を楽しんで,気長にアパートを探そうと思っていた考えが無謀であることに気づき始めました。


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