んだんだ劇場2009年3月号 vol.123
No57
岐阜城遠望

清洲城へ行ってみた
 名古屋は、寒い。私は寒さには強いが、それでも「寒い」と思う日は、空気が澄んで驚くほど遠くまで見えることが多い。その辺が、いつもスモッグのかかる東京とは違うところだろう。
 私が今勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)は、JR名古屋駅から地下鉄で隣駅の伏見にあって、三井住友銀行のビルに入っている。その最上階、16階に、私の机がある。後ろの窓からは、「寒いな」と感じる日には岐阜城が肉眼で見える。

岐阜城のある金華山
 写真の中央付近に、赤い建設クレーンが見えるだろう。その向こうの山が金華山だ。頂上にあった古城を、斎藤道三が修築して居城とした。当時は、稲葉山城と言った。道三の孫、斎藤竜興を攻め滅ぼした織田信長が、城を改修し、岐阜と改名した。私のオフィスからは北北西の方角になる。岐阜城の向こうに白く見えるのは、白山に連なる福井県の山々である。
 会社から名古屋城までは、徒歩15分の距離しかないが、間のビルがじゃまで見えない。名古屋城から岐阜城までは、おおよそ30キロメートル。それくらいしかないから、肉眼でも見えるのだろう。
 信長は名古屋(当時は那古野と書いて「なごや」と読んだ)城で生まれた。しかし、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った時、信長が出陣したのは清洲城である。清洲は、名古屋城からは北西に約6キロメートルの位置にあり、戦国時代は交通の要衝だったという。清洲からは、岐阜城がもう少し近く見えるかな、と思って、先日の休みに行ってみた。

赤い橋と清洲城の天守
 清洲に、最初に城を築いたのは、尾張守護職の斯波(しば)氏である。織田氏は、守護代で、斯波氏の家臣だった。ところが、この城を預かっていた織田一族の織田信友が、主君の斯波義統(よしむね)を殺害する事件が起きた。すでに、織田家の頭領となっていた信長は清洲を攻めて信友を殺し、自分が清洲城主となった。
 信長はその前に、家督を継いですぐ、弟も殺している。
 織田信長といえば、桶狭間からあとの華やかな活躍しか話題にならないが、桶狭間までにはドロドロした歴史があり、尾張をまとめるまでに、信長はけっこう苦労している。私はまだ、『信長公記』を読んでいなくて、概略しか知らないが、このあたりの下克上の戦いには、相当にすさまじいものがある。
 桶狭間の後、信長は小牧山城に移り、稲葉山(岐阜)攻略にとりかかる。
 清洲城は後に、信長の次男、信雄(のぶかつ)が大城郭に造り替えたそうだが、御三家の尾張徳川家が名古屋城を造る際に清洲城を解体して、名古屋城の建築材にしてしまったのだという。6万人もいた清洲城下の人々は、そっくり名古屋へ移り、清洲はさびれてしまった。
 その歴史もそれなりに面白いが、面白くないのは、現在の清洲城だった。この天守閣らしきものが建設されたのは、平成元年、1989年である。もともとの城地はIR東海道線と新幹線が通って分断され、新しい天守閣は、五条川という細い川をはさんだ場所に建てられた。場所の事情はしかたないにしても、中身は資料館らしき体裁を装っているが、実質は展望台である。「再建した」と称する各地の城郭には、この手のものが多い。信長の美濃攻めのときに、秀吉(当時は木下藤吉郎)が一夜で築いたという墨俣の城も再現されているが、これはもっとひどくて、本当の場所はわからないのだそうだ。
 まあ、最初から展望台に上るつもりなら、腹も立たないが……清洲城に行った日はうす曇で、岐阜城はくっきりとは見えなかった。それだけは残念だった。

「命の道」が前進した
 2月7日、三重県を南下する高速道路、紀勢自動車道が1区間開通した。大宮大台インターから紀勢大内山インターまでの10・4キロである。

紀勢道新区間の開通式
 開通式典で、私が勤めるNEXCO中日本の矢野会長も、来賓の野呂・三重県知事もこの道路を「命の道」と評した。それには理由がある。
 三重県には「南北問題」がある。北部の松阪市、津市、四日市市、桑名市は人口も多く、さまざまな社会基盤が整備されているが、南部の尾鷲市、熊野市などには救急病院さえないのだ。私の記憶では、産婦人科の医師もいない医療過疎地域ではなかったか。高速道路が延びることによって、救急医療患者を北部へ運ぶことが可能になる……という意味で「命の道」なのである。
 採算のとれない高速道路を造ってもムダだ、という論議の中で、「命の道」という言葉が頻繁に使われるようになった。経済性だけで道路の価値は決められない、ということだ。
 最初にこの言葉が出てきたのは、平成14年、国交省の「社会資本整備審議会」である。意見を求められた岩手県宮古市の熊坂義裕市長が、三陸地方に高速道路を造る意義として「命の道路だ」と述べたのである。この言葉が国交省、財務省を動かし、三陸縦貫自動車道「宮古道路」の建設が決まった。リアス式海岸が続く三陸地方の人々が待望したこの高速道路は、来年度に開通するはずである。
 「なんでもあるのが当たり前」のような顔をしている都会の人たちの論理だけで、世の中を動かされてはたまらない。
 実は熊坂君は、私とは福島高校の同級生である。創刊号だけ出してあとが続かなかった同人誌の仲間、でもある。「命の道」の話は、熊坂君からのメールで教えられた。
 縁あって、彼は宮古市に住み、市長になった。地方の声を国政に向けて発進し続けている、頼もしい友人である
(2009年2月11日)



チャーシューワンタンメン

思い出の築地
 新聞記者時代、通算で4年ほど、週1回、築地に魚と野菜の取材に通っていた。
 2月14日の土曜日、正午に東京駅に着いて、ちょっと時間があったので、久しぶりに築地で昼食にしようと思い立った。頭に浮かんだのは、作家の池波正太郎さんがこよなく愛した、とんかつの「かつ平」である。
 晴海通りの築地6丁目交差点を、勝鬨橋へ向かって右に曲がると築地市場だが、交差点から40メートルほど先の左の小道を入った所に、「かつ平」はある。だが、14日は第2土曜日で、「かつ平」は定休日だった。
 しかたがないから、6丁目交差点から、市場へ向かった。
 道の左手に、波除(なみよけ)神社がある。小さな神社だが、境内には「玉子塚」、「海老塚」、「すし塚」、「鮟鱇塚」、「活魚塚」と石碑が並んでいる。みんな、その関係者が立てた供養塚だ。神社の先に小さな橋があって、橋から向こうが「場内市場」、橋の手前が「場外市場」である。
 セリが行われ、中卸商が並び、魚屋や八百屋、料理屋が仕入れに来るのが「場内」。波除神社から橋を渡ってすぐに右に曲がると、そういう人たちのための食堂が並んでいる。
 最初にあるのが、トンカツの「豊ちゃん」。

「オムハヤシの豊ちゃん」と書いた幟
 店の前の幟には、右側に「オムハヤシの豊ちゃん」と書いてある。オムライスにドミグラスソースではなく、ハヤシライスのルーをかけたのが「オムハヤシ」。左側に書いてある「ないアタマ・カツ丼・カツカレー」の「カツ丼」と「カツカレー」は当たり前だが、「ないアタマ」とはなにか?
 ここで「アタマ」と注文すると、カツ丼のご飯と、カツの卵とじが別々に出て来る。トンカツの卵とじ、つまり、ご飯の上に載せる部分が「アタマ」なのだ。「ないアタマ」は、「ご飯のないアタマ」……トンカツの卵とじだけということになる。市場関係者は符丁で商売をするせいか、こんな言い方ができたらしい。
 「カツカレー」も、観光客はそう注文するが、市場の連中は、「カレーにのっけ」などと言う。「カレーに、カツをのっけて」という意味で、「ハヤシにのっけ」というのもある。
 私がこの季節、「豊ちゃん」で食べたいのは、カキフライだ。小ぶりだから、たぶん、松嶋湾のカキだろうが、これを2個まとめてフライにする。だから、できあがりは巨大カキフライになる。これが、「センキャベ」(せん切りのキャベツ)の上に、ドカドカと重なって出てくるのは壮観だ。
 この並びには、辛さがうれしい「印度カレー」があり、端っこに、「牛丼の吉野家」発祥の店がある。そこから左に曲がると、2階建ての長屋のような建物が何棟かある。1棟おきに食べ物の店が入っていて、昔はそんなに混んでいなかったのに、このごろは、寿司屋の前はいつも行列ができている。ことにすごいのが「大和」寿司。

いつも行列の「大和」寿司
 確かにここは、極上のネタをそろえた寿司屋だ。握りの技術もすごいと思う。けれども、高い。私は1度だけ入ったことがあるが、毎週通ってきて、昼飯に食べるには高すぎてそれっきりだった。まあ、めったに来ない観光客なら、大満足して帰るだろう。
 大和寿司の前を行き過ぎて、その方向に歩くと、左の斜(はす)向かいに朝日新聞の本社が見える大通りに出る。右に曲がって小さな橋を渡ると、場外市場だ。そのまま歩くと、てんぷらがおいしい「深大寺そば」があって、シンプルな味わいの「中華そば 若葉」があって……この辺が「場外の表通り」とでも言いたくなるほど、観光客で混雑している。日本語ではなく、私がちょっとだけ耳に覚えのある中国語でもない言葉を話すアジア系の人たちが多かった。その並びに、比較的造りの新しい、「まぐろどんぶり 瀬川」という店があるのに気づいた。
「もしかして、昔、あの角にあった瀬川さんですか」ときくと、「そうだ」という。

場所が変わり、代もかわった「まぐろどんぶり 瀬川」
 「マグロ寿司の瀬川」は築地本願寺から晴海通りを渡った、場外市場の角にあった。どちらかの通りに面しているのではなく、市場の角を斜めに切り落としたような店構えだった。老夫婦2人でやっていて、売っているのは、マグロの赤身の握りだけ。カウンターの前の椅子に坐って、「1人前」と言うと、たしか握りずしが5個出てきた。早い時間に行くと、爺さんの方が握っていたが、昼前になると、木箱のふたを開けて、できている握り寿司を取り出していた記憶がある。
 「私も、昔、よく食べましたよ」
 「まだ、握りをやっていたころですね。私らは、マグロ丼だけにしています。こっちに移って、もう8年半ですよ」と、ご主人が言った。
 瀬川が引っ越したのは、晴海通りを広くするので、角の建物を建て替えたからだ。でも、しばらく築地に行っていなかった私は、新しい店に気づかず、瀬川は廃業したのかと思っていた。あの老夫婦は、お亡くなりになったという。
 その少し先には、牛モツの煮込みの「きつねや」がある。「コトコト」というより、もう少し強火で「ゴトゴト」と、いつも大鍋でモツを煮込んでいる店だ。これを穴杓子ですくって、どんぶり飯にかけて出す。ちょっと七味を振りかけて食べると、うまい。飯も熱いし、煮込みも熱くて、冬などは体がポカポカに温まる。
 さらにその先の「井上」は、どうしていつもこんなに混んでいるのか、と思うほどの超人気ラーメン屋。ここでラーメンを食べたいと思った日は、9時前のすいている時間に朝飯代わりに食べてから、場内へ取材に入った。きれいに澄んだスープなのに、不思議にコクがある。築地を紹介する雑誌記事では、必ずと言っていいほど登場する店である。

牛モツ煮込みの「きつねや」

超人気ラーメン屋の「井上」
 築地本願寺が見える辺りにある「大森」は、カレーと牛丼の店。だが、ここで食べたいのは「合いがけ」である。皿にご飯をよそい、半分にカレー、残り半分に牛丼の具をかけるから「合いがけ」。別注文で、真ん中に卵をひとつ落としてもらう。カレーを一口、牛丼を一口食べてから、スプーンで真ん中の卵をくずし、牛丼とカレーを混ぜ合わせて口に放り込む。この「異文化の融合」のような味わいは、いわく言いがたいハーモニーである。
 私が築地に通い始めたころ、「大森」は、老婦人が1人でやっていた。ある日、それが、40代と思われるご夫婦に代わっていた。
 「お袋も、歳なものですから。私が会社勤めをやめて、この店をやることにしました」
 ご主人は、息子さんだった。そんな話をしてから、もう、10数年が過ぎている。

カレーと牛丼を半々ずつかける「合いがけ」の「大森」
 築地本願寺が見える交差点の角を右に曲がって、2本目の道を右に入る。かまぼこの「紀文」を左に見て少し行くと、右側に「夕月ビル」がある。「夕月」もかまぼこメーカーだ。この日は、この中にある「幸軒」で、980円の「チャーシューワンタンメン」を食べることにした。観光客も、ここまでは来ない。
 私が築地へ通い始めた頃、メニューに「チャーシューワンタンメン」は、なかった。ところが、常連客がそれを頼む。メニューを見ると、「チャーシューメン」があって、「ワンタンメン」もある。「だったら、一緒にしろよ」という、築地人特有のわがままで注文し始めたのだろう。
 カレーも食べたいし、トンカツも食べたい、「それならカツカレー」というのと同じだ(たしか、カツカレーは、銀座3丁目の「グリルスイス」が発祥の店だったと思う。巨人の往年の名二塁手、千葉茂がわがままを言って作らせた、という伝説がある。やはり老舗の洋食屋「煉瓦亭」の隣で、私も、サクサクした衣のカツが載った、上品な味で、でもボリュームもあるカツカレーを食べた覚えがある)。
「幸軒」のラーメンは、なんだか懐かしい醤油味で、チャーシューはバラ肉。これに、ワンタンがドカドカと入る。これを知って以来、私はやみつきになった。いつだったか、茨城県の太平洋岸を車で水戸へ向かう途中、国道わきの大きな中華料理店に入ったら、チャーシューメンもあるし、ワンタンメンもあるので「チャーシューワンタンメンは、できませんか」と注文したことがある。店の女の子が困ったような顔をして、「少しお待ちください」と奥に行き、すぐ戻って来て「850円でよろしいですか」と言った。料理としては作れるが、値段をいくらにしたらよいか、相談に行ったのである。
 築地の「幸軒」は、あまりしゃべらないご主人と、常連客と大声で冗談を言い合うおかみさんの夫婦2人でやっている。客が「お勘定」と言うと、おかみさんが「いくら、もらおうかね」と答えることもよくあるから、メニューにない注文は茶飯事なのである。

2人でやっている「幸軒」と、チャーシューワンタンメン
 私がこの店に入ったのは、10年ぶりくらいだろうか。さすがに、2人とも白髪が目立ってきた。私がそれを言うと、「人のことは、言えないだろ」と、ご主人に言われた。
 そして、「あんた、少し肥ったようだね」とも、言われた。
 この店で、私は名乗ったことはないのだが、顔は覚えていてくれていたらしい。築地ではずけずけした物言いが当たり前で、こちらがちょっと身構えてしまうこともあるのだが、話せば温かみのある人ばかりである。

小椋佳を歌うコンサート
 2月14日に東京へ行ったのは、午後2時から、新橋に近い、銀座8丁目のライブハウスで、昔、福島高校男声合唱団で一緒に歌っていた斎藤博雄(ヒロオ)君のコンサートがあったからだ。
 福島高校は、いわゆる進学校で、3年生になると大半が退部してしまうが、12月の定期演奏会まで、私の学年は8人が残った。私も、ヒロオちゃんも、最後まで歌っていた仲間だ。私はセカンドテナー、ヒロオちゃんはバスだった。
 ヒロオちゃんは、銀座7丁目のヤマハホールに勤めていて、私が読売新聞東京本社時代はよく酒を飲み、カラオケバーにも行った。私も歌は下手ではないと思っているが、ヒロオちゃんにはかなわない。どうして、こんなに上手いんだろうと思う。
 同じくそう思ったピアニストのYさんが、「私が伴奏するから」と言って、ヒロオちゃんのコンサートが実現したのは50歳を過ぎてからだった。「小椋佳を歌う」と題したコンサートは、これが4回目。40人ほどしか入らないライブハウスは、今回も満席だった。

斎藤博雄君のライブコンサート
 アンコールを1曲歌ったところで、Yさんが突然「ハッピーバースデー」を弾き始めた。バイオリンのUさんも、それに合わせ、全員で歌った。この日が、ヒロオちゃんの57歳の誕生日だったのである。
 ヒロオちゃんは、「会社の定年まで、あと3年ですが、ずっと歌い続けます」と言って、もう1曲歌ってくれた。
 前回の「日記」で、「命の道路」という言葉を初めて言った岩手県宮古市の熊坂義裕市長も、福島高校の同級生だと紹介した。彼は今年の6月で任期満了になるが、市長選には出馬せず、母校弘前大学医学部の教授になるそうだ。そして、心の病と取り組み、自殺者を減らしたいという。
 私も、あと3年で還暦。でも、ヒロオちゃんにしても、熊坂君にしても、こんなに前向きに生きている友人がいるのは、心励まされる財産である。
(2009年2月24日)


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