んだんだ劇場2009年4月号 vol.124
No58
鰻飯(ウナギめし)の3日間

東京の鰻は軟らかいけれど
 先日、かみさんが、名古屋へ来た。まだ食べたことがない、というので、熱田神宮近くの蓬莱軒へ「ひつまぶし」を食べに出かけた。

蓬莱軒の「元祖ひつまぶし」
 1人分の小さなおひつにご飯をみっちりと詰め、その上に、たれをつけて焼いた鰻を細切りにして載せてある。これを自分で茶碗によそって食べるのだが、1杯目はそのまま、2杯目は細ネギやワサビなどの薬味と一緒に、3杯目は出汁を注いでお茶漬けにし、4杯目は、その中で気に入った食べ方を、というのが「ひつまぶしの食べ方」なのだそうだ。どれも、それなりの味わいがあって、うまい。この食べ方は、蓬莱軒が元祖だという。
けれども、ご飯の量が多くて、たいていの人は腹十二分目になってしまう。それを知らなくて、初めて会社の同僚に連れていってもらった時、出て来るまで時間がかかるだろうとビールを飲み始めてしまい、「ひつまぶし」を食べきるのに往生した思い出がある。
 翌日は土曜日で、2人で岐阜県美濃市へ行った。「美濃紙」ブランドの和紙の生産地として昔から有名だが、今は「うだつの上がる町並み」が、国の保存地区に指定され、それで観光客が訪れる町でもある。東海北陸自動車道を美濃インターで下りて、5分ほどだ。
 「うだつ」は、主に江戸時代、類焼を防ぐために、隣家との境の屋根に取り付けた防火壁である。次第に豪華になり、豊かさの象徴ともなった。「うだつの上がらないやつ」の語源である。
 旧美濃町は、和紙の問屋をはじめとして「うだつを上げた」豪商の家が立ち並ぶ町だった。その中心街が今まで、ほぼそっくり残った。特に、今も酒造業を営む小坂家のうだつは見事で、国の重要文化財に指定されている。直線ではなく、大きなうねりを感じさせる曲線には、造った職人の美意識が感じられて見飽きない

国の重文である小坂家の「うだつ」

美濃市の「おぜ屋」のうな丼
 昼食は、小坂家からほど近い、「おぜ屋」の鰻にした。注文したのは「上(じょう)うな丼」で2100円。「並と上は、どう違うのか」と尋ねると、「上は、鰻の量が多いんです」という。しかし出てきたのは、通常のうな丼とさほど変わらないように見えた。
 ところが……食べ始めて驚いた。ご飯の下から、また鰻が出てきたのである。
 つまり、どんぶりに飯をよそって鰻、さらにご飯を盛って鰻を載せる2層構造だったのである。この「2階建てうな丼」は、ほとんど「鰻ばっかり食べている」感じだった。
 さて、さらに翌日の日曜日、今度は関市へ出かけた。日本刀に少し知識のある人なら、すぐに「関の孫六」という刀匠が思い浮かぶだろう。ここは今でも、刃物の町である。やはり東海北陸道の関インター(名古屋からは美濃インターの一つ手前)でおり、10分くらいで中心街に入る。案内標識に従って、「関鍛冶伝承館」を訪ねた。
 関で刀造りが始まったのは、鎌倉時代の末、13世紀の初めだという。九州からやってきた元重(もとしげ)という人が元祖と伝えられる。戦国時代に「孫六」が出て、名だたる武将に愛用された。日本刀は、備前、大和、相模などにそれぞれの流派が成立したが、現代まで続いているのは「関流」だけで、「関鍛冶伝承館」にはその歴史を伝える資料を展示してあるばかりでなく、私らが訪ねた日には、2階の会議室で、現代の刃物作りの人たちのための講義が行われていた。1階の奥まった1室には現代刀工の作品が展示されている。その美しい刃紋が放つ、ちょっと妖しげな光に魅入られた。

「関鍛冶伝承館」に展示されている現代刀工の作品

老舗「孫六」の「上うな丼」
 昼は、岐阜県刃物会館の道路向かいにある老舗の鰻屋、その名も「孫六」に入った。
 ここの「上うな丼」は2500円。やはり「鰻の量が多い」のが「上」で、出てきたら飯の上に鰻がてんこ盛りだった。「孫六」でうれしかったのは、普通の「粉山椒」のほかに、粒山椒とすり鉢が置いてあって、自分で粒山椒をすりおろせること。写真の奥に見える小さなすり鉢と、すりこ木がそれ。ちなみにすりこ木は、山椒の木が上等とされる。山椒は日本のスパイス。スパイスは挽きたてがいい。自分ですりおろした山椒の香りには満足した。
 ところで、いま私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)の同僚で、「名古屋の鰻は、まずい」という人がいた。「ひつまぶし」に至っては、「あんなもの、客に出せない切れっ端の鰻を、まかない飯で食っていたもんじゃないか」と、さんざんなこき下ろしである。
 彼に言わせると、「最高の鰻は、東京に限る」のだそうで、「あくまでも軟らかく、適度に脂ののった東京の鰻と比べたら、なんだ、こっちの鰻は。皮が歯にあたるし、脂も強くて、まずい」と言うのだ。確かに東京流のかば焼きは、鰻を蒸してから焼くので、余分な脂が落ち、全体にふっくらしている。
 しかし……しかし、である。
 私は、皮がパリッとしていて、身はふっくらしている東海地方の鰻のかば焼きを、おいしいと思う。
 それを知ったのは、やはり同僚のTさんが連れて行ってくれた、岐阜県の、かなり山奥の鰻屋だった。食べてみて、なんだか今までのかば焼きとは違うな、と思った。何口か食べているうちに、「そうか、この鰻には皮があるんだ」と気づいたのである。鰻の身にスッと歯が入って、噛み切る瞬間にほんの少しだけ抵抗感がある。それまで味わったことのない触感だった。「ひつまぶし」では、鰻を細切りにしているから、そこまでは気づかなかったのだろう。
 昨年秋に、かみさんが来た時、その山奥の鰻を食べさせたくて、うろ覚えの道をたどった。Tさんに案内してもらった店は休業していて、そこからさらに4キロほど山奥の、旅館併設の食堂で鰻を食べた。かみさんも「おいしい」と言った。そして、「東京のかば焼きみたいに、タレが甘ったるくないのがいい」とも言った。言われてみれば、そういう違いもあった。
 そんな経験があったので、今回、3日続けての鰻飯にも、かみさんは大いに喜んでくれたのである。

アフリカにょろり旅
 旧美濃町は、かつては上有知(こうずち)という地名だった。和紙の全国販売に有利だからと、読み方の難しい上有知町を、明治44年に美濃町と改名した。ここは江戸時代の初めは城下町で、金森氏の上有知藩があった。金森氏に男子がなくて藩がとりつぶしになった後は、商業都市として発展したのだが、それは和紙という商品だけではなく、長良川の水運基地でもあったからだ。長良川は、旧美濃町の市街地の西側を流れている。その川湊の跡には、江戸末期に建てられた木造の灯台が保存されている。

上有知川湊跡の灯台
 三重県桑名市で伊勢湾に注ぐ長良川河口から、ここまで何キロあるかわからないが、城跡の山から見ても、大河である。が、ここから上流は水深が浅く、流れも急で、川舟は運行できなかった。それで、上流の郡上八幡辺りからの物資は馬で運んで来て、上有知湊で舟に積み替え、岐阜、桑名へ運搬した。おかげで旧美濃町は、物資の集散地として繁栄したのである。
 関は、ちょっと下流になるが、やはり海からは遠い。にもかかわらず、昔から鰻の名店が多かった。美濃市で鰻を食べた「おぜ屋」の「おぜ」は、漢字では「小瀬」と書くのだそうだ。店のおかみさんが、「関市の小瀬の出身なもんで」と言っていた。確かに、関市の長良川に近い辺りに、小瀬という地域がある。でも、長良川のウナギは、美濃市より上流まで遡上するはずなのに、なぜ、鰻の名店は関市に多いのだろう。昨年、かみさんを連れて行った鰻屋も、今は関市になっている旧武儀(むぎ)町にある。東海北陸道の美濃関ジャンクションから東海環状道に入って、最初の富加関(とみか・せき)インターを出て、津保川に沿って北上した山間地である。
 津保川は、長良川の支流で、鰻を食べた辺りの川幅は10メートルほどだろうか。ああ、海から数十キロのこんな場所まで、ウナギは旅をしてきているのだ……と、さも驚いたような言い方をしたが、実は、ウナギという魚の一生をたどれば、この程度の距離はなんということもない。何しろニホンウナギは、日本から2000キロも離れたグアム島近海で誕生しているのだから。
 2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授の「ウナギグループ」が、ニホンウナギの産卵場所は、グアム島、マリアナ諸島の西側、マリアナ海溝のスルガ海山付近であることを突き止めた。ここで、稚魚になる前の、生後2日目の幼生(レプトセファルス)を多数採集したのである。さらに2008年には、ここで産卵前の親魚も見つかっている。
 ウナギはどこで産卵するのか、ヨーロッパでは古代ギリシャからのナゾで、日本でも江戸時代、「山芋変じてウナギと化す」と言われていたそうだ。浜名湖に代表されるウナギの養殖は、春に太平洋沿岸で捕獲した稚魚のシラスウナギを育てるので、ウナギは海からやって来ることは知られていたが、産卵場所が特定できたのは、つい最近のことなのである。
 でも、どうしてウナギは、産卵のためにこれほど大変な距離を回遊するのだろう。それを知るには、世界中のウナギの産卵生態、系統図を作って進化の筋道を調べるほかに方法はないそうで、塚本教授のグループが、その解明に取り組んでいる。
 世界には、ウナギの仲間が18種類いるのだそうだ。ヨーロッパウナギなどは、シラスウナギを中国が輸入し、養殖して日本へ輸出しているから、実は、我々もいろいろな形ですでに食べている。
 私は、娘が高校を出た春休みに、家族でイギリスへ行った時、ロンドン郊外のスペイン料理店で「ベビー・イール」というのを食べた。シラスウナギを揚げた料理で、ニンニクの風味がきいておいしかった。けれども、「日本だったら、もったいなくて、ウナギの稚魚は食べないな」とも思った。ロンドンでは「ドーバー海峡の魚料理」という看板の店にも入った。ウナギは、筒切りにして煮込んだ料理だったが、おいしいとは思えず、味付けも覚えていない。そんなもんだからヨーロッパでは、ウナギは下魚なのだろう。
 さて東京大学海洋研究所では、現在は研究所の特任准教授、青山潤さんが中心となり、全18種類のうち、17種類を採集することができた。世界の研究機関にはホルマリン漬けの標本があるのだが、ウナギを切り刻んで検体にする遺伝子レベルでの研究には、実物が必要だった。しかし最後の1種類、アフリカの「ラビアータ」だけが見つからなかった。
 「そんなら、行くっきゃないだろ」と、青山さん、塚本教授、現在は特任研究員の渡邊俊さんの3人は、「帰国日未定のオープンチケットを握りしめてマラウイへ飛んだ」……で始まる青山さんの冒険旅行記『アフリカにょろり旅』が、今年1月、講談社文庫になった。

最後の1種類のウナギを求めて『アフリカにょろり旅』
 2007年2月に単行本となり、第23回講談社エッセイ賞を受賞したこの本は、信濃毎日新聞名古屋支局長の花崎さんに教えられて、文庫本の発売日に名古屋の丸善で買った。そして、2夜で読んだ。
 どこに「ラビアータ」がいるのかわからないのだから、移動は行き当たりばったり。塚本教授は途中で「あとはよろしく」と日本へ帰ってしまい、青山、渡邊の2人はジンバブエ、内戦の余波が色濃く残るモザンビークと放浪する。モザンビークでは、「お前ら、傭兵志願か」と言われたりする。  「ウナギを探しに」などと、のんびりしたことは言えない空気の中、悪戦苦闘という言葉が生やさしく感じられる旅が続く。でも常に、2人は明るい。そして、ついに「ラビアータ」を見つける。喜び勇んで東京の塚本教授へ国際電話をかけると、「研究には30匹必要だからね」と、いとも簡単に言われてしまう。それから、8匹入手したところで、2人は精神的にも、肉体的にも限界を悟り、日本へ戻るのだが……。
 彼らは、東大の研究者なのである。が、「学問は格闘技だ」と言いたくなる本である。
 私にとって鰻は、食べる興味の対象でしかなかった。魚類としてのウナギに、これほど面白い話が詰まっているとは思わなかった。生まれて、2000キロを泳いで日本の川をさかのぼり、親になって、産卵するために再び2000キロを旅するニホンウナギ。どうしてそれほど大回遊するのかを調べるために、アフリカをさまよった研究者。
 そういうナゾに比べれば、なぜ関市に鰻の名店が多いか、なんてことは、とるに足らない疑問だね(ほんとは、調べるのが面倒なだけですが)。

今回、食べ物としては「鰻」と漢字、科学の話としてはカタカナで「ウナギ」と書き分けました。
(2009年3月15日)



毎年が1年生

サヤエンドウ全滅
 春の彼岸に、房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ったら、チンゲンサイの花が咲き始めていた。

花が咲き始めたチンゲンサイ

食べごろだったころのチンゲンサイ

 花の形を見れば、これもアブラナ科の植物だとわかる。ちょっと前が食べごろで、チンゲンサイは炒め物でも、スープの実にしてもおいしい。「だから、花が咲くまでおいていたら、もったいない」と思う人が多いだろう。でもご心配なく。アブラナ科の植物は、花芽も食べられるのである。菜花が代表例で、チンゲンサイも同じ。私も、あまり花が開いていないのを選んで、花の下の茎から切っておひたしで食べた。
 ブロッコリーも同じで、次々に伸びてくる花茎を食べる。これは、自分で栽培していればこその春の味だ。
 しかし今回は、がっかりしたこともある。まず、今年の正月に撮影した写真を見てもらいたい。

元気よく育っていたサヤエンドウ
 これは、サヤエンドウだ。いつもなら、4月の初めごろから食べられるようになるのだが、春の彼岸には、1本もなかった。父親にきくと、「枯れてしまった」という。
 「11月になってからタネをまけばよかった。10月にまいたのが、早すぎた」
 そういうこともあるんだ、と、私も知った。つまり、正月ごろのサヤエンドウは、地べたからほんの少し伸びているくらいがちょうどよいのである。それくらいだと、冬の寒さに耐えて、春の日差しとともにグングン生長する。ところが、昨年12月から今年1月にかけては、例年より少し気温の高い日が多かった。だから写真のように育ったのだが、その後の寒波にやられてしまったのである。
 外房のわが家は、積もるほど雪が降るのは数年に1度くらいの温暖の地である。が、霜は降りる。たまには、ひどく寒い風の吹く日もある。
 10年以上も前、千葉県佐倉市のマンション住まいだったころ、近くの農家から畑を借りて野菜を作っていた。わからないことがあると、その農家に聞いてやっていたのだが、「去年うまくいったからと言って、今年も同じにやっていいとは限らない」と教えられた。
 枯れてしまったサヤエンドウの畝を見て、「農業は、毎年が1年生だよ」と、そのご主人に言われた言葉が思い出された。

モモの抜け毛
 この1年ほど、夜は愛犬モモを室内に入れている。モモは「番犬」をしっかり務めてくれて、畑に動物が近づくと、猛烈に吠えてくれる。それはいいのだが、深夜でも吠えるので、近所(と言っても、一番近い隣家まで50メートルある)に迷惑だろうと、朝までリビングに入れておくことにしたのだ。もちろん、それでも、侵入者の気配を感じてモモは吠えるが、外にはそれほど聞こえないだろう。
 それにしても、モモは何に向かって吠えるのだろう。夏の畑では、トウモロコシも、スイカも、何かにかじられることがある。タヌキか、ハクビシンか、という話は前にも書いた。しかしモモは、1年中吠える。最近、その「主たる相手」がわかった。

野良猫ども
 家の西側の壁際に、野良猫が3匹いるのをみつけた。実は、もう1匹いて、4匹は、道路向かいの建設中の家を根城にしているらしい。その家は、建て始めて10年経つが、まだ完成していない。建築主は、やはり加藤さんといって、自分で建てている。東京湾をはさんだ神奈川県に住んでいるから、毎週のように来るというわけにもいかず、いつ完成するかもわからないのだ。
 どこかから野良猫がやってきて、モモが吠えるのは知っていたのだけれど、そいつらが共同生活をしていること、4匹もいることが、やっとわかったのである。
 モモが、必ず吠える相手は、もう1匹いる。

モモと吠えあうブルドッグみたいな犬
 私は犬種に詳しくないので、よくわからないが、少なくともブルドッグの雑種には見えるこの犬は、わが家の北側を流れる落合川の向こうにある集落の住民の飼い犬である。それが散歩の途中、飼い主の「オバさん」が、「ほら、モモちゃんだよ」と言って、決まって近づいて来るのである。
 するとモモは、鎖をいっぱいに引っ張って、足を踏ん張り、猛烈に吠える。
 ブルドッグみたいなやつも、負けずに吠える。
 犬の気持ちはわからないけれど、とても「仲良くしよう」という雰囲気ではない。でも、ひとしきり吠えあった後、「ほら、行くよ」と言われると、ブルドッグみたいなやつは、さっさと回れ右して行ってしまうし、モモも、すぐに吠えるのをやめるから、けんか相手でもないらしい。ほとんど毎朝の儀式みたいなものだが、やかましいことだけは、間違いない。
 この季節、モモは冬毛が抜け落ちる。ブラッシングしてやると、気持ちよさそうにしている。その量は半端ではなく、毎日ブラシをかけてやっても、手のひらに山になるほどの毛が抜けてくる。自然に抜け落ちる毛も、かなりあるようだ。
 「また、モモの毛を集めに来たな」と父親が言うので、庭を見ると、芝生の上をハクセキレイが歩いていた。ハクセキレイは、1年中いて、珍しくもない鳥だが、言われて見れば、くちばしにモモの毛をくわえていた。
 実は前日、同じことをかみさんにも言われた。
 「巣づくりの季節だから」
 かみさんに、そう言われて、私も納得した。なるほど、あのフワフワの毛なら、巣づくりにはいい材料だろう。それで次の日、ハクセキレイの写真を撮ろうと、リビングにカメラを置いていた。父親の声で、すぐにカメラを手にしてレンズをハクセキレイに向けたのだが……あの鳥は、目がいいのだろうか、私が立ち上がってガラス戸に近づいた途端、すぐさま飛び立ってしまった。その後、全くシャッターチャンスがなかった。
 で、落ち毛を拾われたモモの方はと言うと、デッキを枕に気持ちよさそうに眠っていた。
 これも、また、春、である。

春眠中のモモ
鰻のセイロ蒸し
 私がいま勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)の同僚、Kさんから「名古屋にも、鰻のセイロ蒸しがあるよ」とメールが来た。前回の「日記」を読んでくれて、福岡に「鰻のセイロ蒸し」なるものがあると、教えてくれたのである。
 Kさんは、名古屋出身の人で、「名古屋では昔から、寿司屋が鰻料理もするのが当たり前だった」と言い、今住んでいる近くに、やはり「寿司と鰻」を看板にしている店があって、そこでは、名古屋では珍しい「鰻のセイロ蒸し」もあるというのだ。
 そして、「鰻のセイロ蒸しグルメツァー」を企画してくれた。
 参加者は6人。仕事時間が終わると同時くらいに机の上を片付け、そそくさと出かけた。

鰻のセイロ蒸し
 鰻の肝焼きなんかを肴に、熱燗を飲みながら待つこと、およそ30分。出てきたのは、木組みのセイロいっぱいに鰻が載った逸品である。これは、タレをつけて焼いた鰻を飯の上に載せ、全体を蒸した料理である。刻みネギ、刻み海苔、わさび漬け、出汁もついていて、名古屋名物「ひつまぶし」と同様、茶碗によそって、いろいろな食べ方ができた。蒸してあるから、全体がふっくらしていて、東京流の鰻の味わいだった。
 一緒に行った1人は、福岡県柳川市の出身で、「柳川の若松屋では、この上に錦糸卵が載っていますよ」と言った。
 あとで調べたら、若松屋は老舗で、相当に有名な店である。確かに、上に卵焼きが載っていたが、「錦糸卵」というほど細いものではなく、厚めに焼いた玉子焼きをざくざく切ったような感じだった。食べ方も、それを茶碗に分けて食べるだけで、今回われわれが食べたのは、名古屋風のアレンジだったと知った。
 前回の「日記」には、いろいろ反響があって、沼津工事事務所のOさんからは、「鰻は、三島の桜家(さくらや)か、うなよし、がいい」というメールをいただいた。
 本社にいるTさんは小田原市の出身で、「うなよし」の鰻を、「今まで食べたうちで、一番うまいと思う」と言った。「あくまでも、ふっくら。それでいて、ほのかに鰻の香りがある」と絶賛していて、年に1、2度は、わざわざ食べに行くのだそうだ。
 その三島市出身のMさんに言わせると、「三島では、富士山の伏流水にウナギを泳がせて、よけいな臭みを取ってから料理するから」ほかの場所とはひと味違うのだそうだ。
 長良川筋の鰻のように、皮がパリッとしているのがいい、という方もたくさんいた。
いやはや、「鰻」に一家言のある人が、これほどいるとは思わなかった。
かみさんも「鰻」に目覚めたらしく、彼岸で戻った時に、「東京流の鰻も食べてみようよ」と言い出した。で、行ったのは、わが家から車で30分ほどの隣町にある「ウナギ、寿司、てんぷら」という看板の店。昼食時にはいつも駐車場が満杯の盛況なので、気にはなっていた店である。しかし、その味は……要するに「なんでも屋」よりは、専門店の方がいいね、という論評だけにしておこう。
ただし、「うな丼」より「うな重」の方が、なぜ100円高いのだろう、という新たな疑問が残ったことだけは収穫だったかもしれない。この価格差は、経験された方が多いと思うが、なぜだろう。知っている方がいたら、教えてください。
(2009年3月28日)


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