んだんだ劇場2009年9月号 vol.129
No63
悪夢のようなカツカレー

食べきれるもんじゃない
 先日、甲府へ出かけた。いま私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)の社内報に連載している、「インターから20分紀行」の取材だ。その2日目、案内してくださった甲府保全・サービスセンターのKさんが、「ちょっと、話題の店で昼食にしましょう」と言った。「どのメニューも、ほかの店の大盛りくらいあるんです」という。
 私は肥満形だが、大食いではない(と思っている)。とは言え、胃袋はすこぶる健康。「いいですね、それ」と答えて、連れて行ってもらった。
 店は市街地にあるが、中に入ると、ドライブインのような雰囲気だった。入って左手の畳敷きには10人を超えるグループの先客があった。
 「ここは、カツカレーが人気なんです」とKさんが言うから、「じゃ、それ」と頼んで、私はトイレに行った。Kさんは、麺が2玉分ある冷やしラーメン、もう一人同行者がいて、彼はカツ丼を注文すると言った。
 トイレから戻って座敷に上がるとすぐ、隣の先客が注文した中華丼が運ばれて来た。とたんに、そちらのグループから「オオ〜!」というどよめきが起こった。私もすぐ、「すみません、写真を撮らせてください」と、隣のテーブルへ行った。

下のお盆にまであんかけが垂れている中華丼
 通常の倍はあるどんぶり。そこになみなみとかけられた具。その具が、下のお盆にまで垂れてこぼれている。「なんだ、これは!」……である。これで「大盛りではありません」というのだ。私は、いやな予感がした。

トンカツ2枚にナスのてんぷらもあるカツカレー
 もう、見ただけで、「これ、食べられる人がいるの?」と言いたくなる、悪夢のようなカツカレーだった。確かにメニューには「ジャンボカツカレー」と書いてあったが、厚さ1センチの見事なロースカツが2枚、それにナスのてんぷら、ゆで卵、スイカが1切れ、トマト2切れ、そのほかレタス、せん切りキャベツ、福神漬けがカレーに乗っていて、下のご飯はたぶん、どんぶり2杯分はあるだろう。
 同行者のカツ丼もカツが2枚で、卵とじではなくソースがかかっている。「この辺りでカツ丼と言えば、ソースカツ丼なんです」と、Kさんは言って、「ああ、お二人に見せたいから」と、餃子まで追加注文した。
 「これで1000円だから、安いと言えば安いけど、せめて半分は食べなければもったいない」と私は思い、奮闘したのだが、トンカツは2枚とも食べたものの、ご飯はスプーンで5回ほど、それにスイカを食べてギブアップした。
 餃子は、通常の10個分を1つにしたようなのが5個1皿で、Kさんが冷やしラーメンを食べ終えたころに届いた。「なかなかおいしいですから、味だけでも」と勧められて箸を伸ばしたが、餃子は1個の半分しか食べられなかった。それは同行者も同じ。残り3個はKさんが食べた。Kさんは細身だが、胃袋は尋常ではなかったのである。
 が、Kさんも、このカツカレーは食べきれないという。「これを、完食したのは、Mさんだけですね」と、Kさんは言った。
 Mさんは、わが社の「ちょっと偉い人」で、還暦も近いはずだが、大食漢というウワサはいろいろ、私も聞いていた。
 みんなで昼飯にでかけ、Mさんは丼物の大盛りを注文したはずなのに、出てきたのはご飯ばかり。どうしたのかときくと、「ご飯をトッピングしてもらった」。定食を頼むときは、必ずみそ汁代わりにラーメンも注文する。中華料理で宴会をやったら、円卓のMさんの下流に坐った人は、ほとんど何も食べられなかった……などなど。
 Mさんが甲府の事務所を視察に来たので、この店に案内したら、「これは、いいね」とニコニコ顔で、私にとっては「悪夢のカツカレー」を見事にたいらげたのだそうだ。
 帰りがけにカウンター席の上を見たら、テレビの大食い番組の色紙がやたらと貼ってあった。ついでに、気になって、あの中華丼をみたら、ほとんど食べていた。この人も細身だった。
 こういう店では、残飯も大量に出るはずだ。それは引き取り手が決まっているそうだが、世界には毎日餓死する人がたくさんいるのに、最初から食べきれない量を客に出すのはおかしい……というような大義名分の話は、今回、私もその片棒をかついでしまったので、言わない。けれど、「話のタネ」にしても、だれにでもお勧めできるわけではないから、この店の名前も、場所も書かないでおく。

ミョウガの功徳
 3週間ぶりに房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ったら、台所にたくさんのミョウガを入れたザルがあった。今の日本では、1年中、ほとんどの野菜が手に入る仕組みができているから、逆に、「この時期にしかない野菜」は、とてもうれしい。ミョウガも、そうした野菜のひとつである。
 わが家では、畑の南西の角に、日光をさえぎる幕を張って、その下にミョウガを植えている。直射日光で、ミョウガの葉が日焼けするからだ。そして今ごろ、茎の根元に、花芽を出す。食べるのはこの部分だ。

遮光幕の下で育てるミョウガ

ミョウガの花
 ところでミョウガは、食べると物忘れすると言われている。かみさんは、ミョウガが大好きで、「ふだんから忘れ物が多いんだから、ミョウガはあまり食べない方がいいぞ」と私は言うのだが、かみさんは全く気にしていないようだ。
 もっとも、物忘れが悪いとばかりは言えない。中国の古典『列子』に、こんな話がある。
 宋の国に住む男が、中年になって物忘れがひどくなった。朝のことを夕方には忘れ、外出しては歩くのを忘れ、家にいては坐るのを忘れる。家族は困って、祈祷してもらったりしたが治らない。そこへ、魯(ろ)の国からやって来た儒者が、治療してやろうと申し出た。そして、「これは秘伝じゃから、7日の間、私と2人だけにしてほしい」と言った。
 家族がそのとおりにすると、7日後、男の長年の病気はすっかりよくなった。
 ところが、正気に戻った男は、ひどく腹を立て、妻をひっぱたき、子供を叱り、剣を取って恩人の儒者を追いかけ回した。村人が取り押さえて、わけをきくと……。
 「忘れっぽかったときは、のんびりして、天地があることさえ気にとめなかった。気がついてみると、これまで数十年間のくだらぬことを思い出してしまった。損したこと、得したこと、うれしいこと、腹の立つこと、好きなこと、嫌いなこと。これから一生、こんなことに悩まされるのは、いやなことだ。少しの間でいいから、また、みんな忘れていたいもんだ」
――『列子』は、孔子の創始した儒学への容赦ない批判を満載した、老荘思想の書である。世の中の秩序を重んじる儒学に対して、人はもっと自由に生きるべきだ、というのが老荘思想で、一般には「物覚えがよい」ことがほめられるが、「忘れることにも価値がある」というわけだ。『老子』は哲学的で、ちょっとわかりにくいところもあるが、『荘子』や『列子』は寓話が多くて、とても面白い。
 で、わが家の台所に収穫してあったミョウガだけれど……刻んで冷奴にのせようか、てんぷらもうまいし、甘酢漬けもいいなと、いろいろ考えていたのに、私は、食べるのを忘れて名古屋へ戻ってしまった。
 食べる前から物忘れするようでは、かみさんに何も言えない。

教えたくない場所
 愛知県蒲郡市に住む会社の同僚から、「朝、5時半までに、蒲郡へ来られるか」と言われた。漁船から揚げたばかりの魚を買って、一杯やろうというのである。だから、車でいくわけにはいかないから、「始発の電車に乗っても、無理だ」と答えた。すると、「それなら、迎えに行く」という。
 私の単身赴任宅は、名古屋駅から特急で10分の、名鉄国府宮駅前にある。土曜日の朝、私は3時に起き、指定された4時10分に駅前へ行くと、もう、彼は来ていた。そして、蒲郡の西浦漁港に着いたのが、5時20分。岸壁のわきの小さな市場には、たくさんの買い物客が来ていた。

早朝からにぎわう西浦漁港の市場
 私も各地の市場をいろいろ知っているけれど、魚が飛び跳ねるような市場は、めったにあるもんじゃない。しかも、安い。私たちは、生きているタコなどを買って彼の家へ行き、魚をさばいた。手間のかかるセグロイワシの手開きは私がやって、彼はタコをゆで、アナゴをさばき、小ぶりの鯛を開いて即席の干物にした。
 そこへ、「どうしても朝は遅い」という若い同僚が名古屋から来たのは午前11時。近所の方も来て酒盛りが始まり、まあ、飲んだ、食った……と、まあ、それはいいのだが。
 魚の処理を終えた同僚が、「連中が来るまで、ちょっと、観光案内をしよう。1時間で戻るから」と言い、晴れていれば海が美しく見える山の上まで連れていってくれた。
 あいにくの霧に覆われた山頂で、「加藤さんは歴史に詳しいから、ここを紹介しようと思って」と、彼が言った。そこで、案内されたのが「比島(フィリピン)観音」だった。

フィリピンでの戦没者を慰霊する「比島観音」
 フィリピンでの、太平洋戦争の戦没者は、50万人に及ぶ。レイテ沖海戦で沈んだ戦艦武蔵のように、海に消えた霊も多い。なぜ、その慰霊のための観音像がここにあるのかはわからないが、観音像への道の両側には、おびただしい数の慰霊碑が立ち並んでいた。フィリピン戦線での、いろいろな部隊の慰霊碑である。
 私は、言葉に詰まった。
 偶然だが、読売新聞社時代の先輩で、俳人の榎本好宏さんから『六歳の見た戦争 アッツ島遺児の記憶』(角川学芸出版)が贈られて来た。アリューシャン列島のアッツ島は、日本軍が最初に玉砕した場所である。そこで、榎本さんの父は戦死した。榎本さんが6歳のときのことだ。
 話が飛ぶようだが、日本文学者のドナルド・キーンさんはアメリカ海軍の日本語学校で日本語を学び、情報部に勤務していたが、初めて従軍したのがアッツ島だった。
 榎本さんの俳句仲間のサロンで、キーンさんが講演したことがあり、榎本さんはそこでキーンさんからアッツ島の話を聞いた。それがきっかけで、それまで触れたいと思わなかった戦争の思い出を書いたのが、この本だという。
 親しい人だけに、戦争を知らない私でも胸が痛くなる話ばかりだった。こういう本を読むと、奇跡的に生還した人が、亡くなった戦友のために慰霊碑を立てる気持ちはよくわかる。そこには、戦争を肯定する心など、あるはずがない。
 比島観音で手を合わせたあと、「もう1か所、行きましょう」と言われ、また車に乗って、少し山を下った。
 そこにあったのは、「殉国七士墓」と刻まれた巨大な石碑だった。「七士」というのは、東条英機、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、武藤章、木村兵太郎、広田弘毅の7人である。わかる人はわかると思うが、彼らはA級戦犯として絞首刑になった人たちだ。
 墓誌を読むと、彼らの遺体はGHQが家族への引き渡しを認めず、ひそかに火葬したうえ、まとめて捨てたのを、有志が奪取してしばらく伊豆山中に隠していたのだが、昭和59年にここへ埋葬し、石碑を建てたのだという。
 こんなものが、あったのか。
 彼らを裁いた極東軍事裁判については、私もいくつかの疑問を持っている。戦勝国が敗戦国を裁いてよいのか。軍人ではなく、むしろ戦争には反対だったとされる総理大臣・広田弘毅が、なぜ死刑判決に至ったのか。
 そういう疑問はあっても、戦前の日本が朝鮮半島や、中国を侵略したのは事実であり、あの戦争で400万人を超える日本人が命を落としたのも、忘れてはいけないことだ。その巻き添えになったアジアの人々も数え切れない。そういう方向へ国を導いた人がいたのは間違いないことで、最後は精神論しかなかった軍部の愚劣さは計り知れない。
 こういう石碑を建てたいと思う人々がいるのは、主義主張の自由だろう。しかし「殉国」という言葉には、あの戦争ばかりでなく、日清、日露を含めて、あらゆる戦争を肯定しようとする心情が感じられる。
 私は、そういう人に同調したくない。
 だから、この石碑がどこにあるのかも、教えたくない。
 たまたま今日は、長崎原爆の日である。
(2009年8月9日)


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