んだんだ劇場2009年12月号 vol.132
No66
京は遠ても十八里

海運で栄えた小浜
 かみさんが名古屋へ遊びに来たので、車で福井県の小浜まで出かけた。名神から北陸自動車道に入り、敦賀で降りてから1時間ほどの道のりである。私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)では今、敦賀から小浜までの高速道路(舞鶴若狭自動車道)を建設中で、これができれば30分もかからないはずだ。
 小浜へ行くことにしたのは、2001年に、写真を担当した無明舎出版の鐙(あぶみ)さんと『北前船(きたまえぶね) 寄港地と交易の物語』(2002年10月、無明舎出版刊)の取材で訪れたこの町を、かみさんにも見せたいと思い立ったからだ。
 10月30日の金曜の夜、小浜に泊まって、翌朝、小浜の町を散策した。かみさんに見せたかったひとつは、町の西はずれにある町並み保存地区である。三丁町(さんちょうまち)辺りは、江戸時代初期にできた茶屋町で、明治以降も遊郭が立ち並んでいたそうだ。赤いベンガラ色に塗られた格子造りの家などに、その面影が今も残っている。

小浜市の三丁町に残る赤い色の格子造り
 海辺の小浜公園駐車場に車を置いて、案内看板を見ていたら、「散策地図をさしあげましょうか」と、通りかかったおじいさんが声をかけてくれた。そして「ちょうど道筋だから案内しましょう」と、自転車を押しながら先に立ってくれた。
 小浜は、NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の舞台でもあり、「ここでもロケがありました」と、おじいさんが言う街角には、ロケ風景の写真を印刷した案内板があった。
 8年前は、古い造りの家がポツポツ残っている感じだったが、今回訪ねてみたら、どんどん町並みの復元が進んでいた。表側を格子戸に改築中の家が何軒もあった。ちらりと中を覗くと、実際に今も人が住んでいる。また数年たったら、この辺り全体の様相が統一されて、観光客がぞろぞろと歩くようになるかもしれない。
 もう1か所、かみさんに見せたかった八幡神社は、茶屋街の北を通る丹後街道を西へたどる。私は海沿いの広い道を車で遠回りしたが、歩けば10分もかからないだろう。
 8年前、ここで私と鐙さんは、精巧に作られた北前船の模型を撮影した。

八幡神社に奉納された北前船の模型
 本殿に向かって右側の「舩玉(ふなだま)社」という建物に、この模型船はある。実はもう1隻、手前にもっと大きな模型船があるのだが、後ろ側にあるこの船の方が、幕末頃の「後期北前船」の姿をよく伝えている。舷側にネットを立てたように見えるのは、蛇腹(じゃばら)と言って、竹を裂いて組み上げたもの。船の上にまで積み上げた荷物が落ちないようにした防護壁で、「後期北前船」の大きな特徴のひとつだ。
 8年前、「舩玉社」は、おんぼろの祠(ほこら)だった。鐙さんと私は、横にあった板戸を開けて撮影したが、今回行ったらりっぱな収納庫になっていて、正面のガラス戸を自分で開けて見るようになっていた。
 境内の大きな銅製の灯篭も、この神社では見のがせない。

古河屋嘉太夫が寄進した銅の灯篭
 これを寄進したのは、古河屋嘉太夫という豪商。天保4年(1833)という年号がある。神社に灯篭を奉納することは珍しくないが、これほど大きな、そして銅製は、きわめて珍しい。製作者は大阪の鋳物師だ。
 古河屋は北前船で財をなした人で、小浜藩へも多額の献金をし、金も貸した。結局、その貸し金が次第に経営を圧迫することになるが、こういう灯篭を見ると、古河屋がいかに大きな商人だったかがよくわかる。
 北前船の痕跡を探す旅では、鐙さんが運転する車で北海道・納沙布岬まで、計2万キロも走り、豪商の栄華の跡を各地で見た。江戸中期から明治30年代まで、大阪と北海道を日本海回りで結んでいた北前船が、いかに巨利を得たかを実感した旅でもあった。

鯖街道
 小浜は、蟹(カニ)の季節に入ったらしい。敦賀から東では越前ガニ(これも、正式には産地が指定されているブランド名)と呼ばれるが、小浜は若狭地方なので、一般名のズワイガニである。「季節に入ったらしい」と言ったのは、カニ漁の解禁日がいつなのか知らないからで、でも、まあ、それはどうでもよくて、小浜で泊まったホテルの夕食には、ズワイガニが1杯ついていた。

夕食に出たズワイガニ

まず、2つに割る
 「まず、2つに割ってから、足ははさみで切って、カニスプーンを使って身を取り出してください」と言われた。意外に簡単に甲羅が割れるものだと、初めて知った。それからあとは、2人とも黙々とカニの身を取り出す作業に追われ……。
 しかし、小浜の海産物で有名なのは蟹ではなく、鯖である。昔から、周辺の浜に揚がった鯖に塩をして、京の都へ運んだ。その道筋は「鯖街道」と呼ばれた。ホテルから1本向こう側のアーケード通り、小浜市いずみ町商店街に「鯖街道資料館」があって、その前が起点とされている。その壁に、「京は遠ても十八里」という言葉が記されていた。
 遠くに思えても18里しかない……京の都は近い、という気持ちが込められている。平地なら、1里は徒歩で1時間と考えればよいが、山越えの18里だから、丸1日かかって鯖は京へ着いた。馬の背で揺られているうちに、塩がちょうどよくなじみ、小浜の鯖は絶品の味になった。
 アーケード通りには、朝早くから鯖を焼く店が何軒もある。私としては珍しく、手振れした失敗写真だが、大ぶりの焼き鯖が並んだ壮観を感じていただけると思う。

串に刺して焼いた鯖が店先に並ぶ
 鯖街道は、何本もの道筋がある。最も往来の多かったのは、小浜から北川沿いに山へ入り、熊川宿(福井県上中町)を経て、保坂宿(滋賀県高島市今津町保坂)から右折して朽木(くつき)宿(高島市朽木市場)を通るルートだった。今なら、国道27号→303号→367号ということになる。この道は、三千院などで知られる京の大原へ通じている。
 熊川宿には、小浜藩の関所が置かれていた。江戸時代の街道としてはかなり道幅が広い中心部の350メートルは、国の町並み保存地区に指定されている。道標に「京へ十五里」とあったから、小浜からここまでは3里である。8年前に鐙さんと来た時と同じように、開放感のある風景だった。
 「ここは、『いなか〜』と、語尾を伸ばしたくなるくらい田舎ですよ」と、のんびりした口調でおっしゃる土産物屋のご主人は、「ここには120軒ちょっとあるけれど、去年生まれた子供は2人しかいなかった」とも言っていた。若者がいないのだ。

鯖街道の宿場として栄えた熊川の町並み

「京へ十五里」と刻まれた熊川の道標
 ここで昼になり、「自家製」と看板のある店で「鯖寿司」を食べた。1本2000円。とても大きな鯖で、2人で食べきれるかと思われたが、その上に、かみさんは「クズ饅頭」、私は「クズ餅」を注文した。「鯖寿司」は身が厚く、脂ものって、しこたまうまかった。クズ粉が今もこの辺で生産されているとは思えないが、菓子店にあるようなプリプリしたのと違って、ちょっと緩めにこしらえたクズ餅はクズの香りが強く、これまたうまかった。

熊川宿で食べた鯖寿司

香りのよかったクズ餅
 次の朽木には、古い建物はない。元々は、戦国武将・朽木氏の本拠地で、明治になるまで陣屋があったが、それも今は跡地が残るばかり。「左京道」という道標の少し先に、昭和初期に建てられた「丸八百貨店」(登録有形文化財)が目を引く程度だろうか。
 中に入ってみると、今は喫茶店である。「まあ、お茶だけでも」と、ここを運営する地区婦人会のおばさんに声をかけられ、コーヒーを注文する前に緑茶が出てきた。国道沿いの「道の駅」は、それなりに繁盛しているようだが、旧道筋のここまでは、あまり観光客も来ないのだろう。でも、「たまに、団体客が来る」という。
 「こないだなんか、いっぺんに70人も入ってきて、2階に38人、残りは1階のイスを全部出して、そりゃあ大変でした。なにしろ、私ら、素人ですから」
 と、おばさんは言ったけれど、ニコニコ顔で、ちっとも大変だったようには見えない。コーヒーも、なんだか大らかな味がした。

「鯖街道」と記した朽木の道標

今は喫茶店になっている「丸八百貨店」
 熊川宿で鯖寿司を食べた店に、全国の「町並み保存地区一覧」の冊子があった。開いて見て、私はその半分以上に見覚えがあり、ずいぶんとあちこちに行ったものだと、我ながら驚いた。秋田・角館の武家屋敷、谷あいに肩を寄せ合うように家が立つ佐渡・宿根木の集落、遊女の墓地もあった広島県・大崎下島の港町「御手洗」(みたらい)……島根半島の小さな湾に面した鷺浦(さぎのうら)では、なぜ、ここが保存地区にならないのか、と思った。そのどれもが、印象深い町並みである。
 共通しているのは、鉄道とか、広い幹線道路からはずれ、いつの間にか時代に取り残されたおかげで、古い町並みが残ったということである。今になって保存地区になり、観光客が来たからといって、それで集落の人々みんなが飯を食えるわけでもないだろう。
 しかし、そこでは、小浜の茶屋街を案内してくれたおじいさん、「いなか〜」と言った熊川宿の土産物屋のご主人、「70人も来て、大変でした」という朽木の婦人会のおばさんのように、なんだかホンワカとした気分にさせてくれる人に会えた、というのも、私が共通して感じていることだ。
 今回も、いい旅だった。 
(2009年11月1日)



ラーメン100年

『ラーメン発見伝』完結
 またまたマンガの話で恐縮だが、『ラーメン発見伝』(久部緑郎・作、河合単・画、小学館)が、10月5日発行の26巻で完結した。ダイユウ商事に勤めるサラリーマン、藤本浩平(登場したときは27歳)が、夜はラーメンの屋台をひきながら独自のラーメンを作ろうと研究し、将来は脱サラしてラーメン屋開業を目指す物語である。

完結した『ラーメン発見伝』
 2000年6月に第1巻が出て、たしか翌年、私は第2巻と一緒に買い、以来、買い続けて来た。これが、単なるグルメマンガではなかったからだ。
 料理をテーマにしたマンガは数多くあるが、超高級料理とか、現実には無理な調理技術とか、知識のひけらかしのような、私に言わせると子供だましのような話がほとんどで、一冊は読んでも、次は読まないことが多い。ところが、『ラーメン発見伝』は最初から違っていた。
 10年前に、とてつもなくおいしいラーメンを出す店があったが、ほどなく店を閉めた。その店が再開したと知った主人公の藤本浩平は、うれしくて食べに行ったのだが、そこで「まずい!」と叫んでしまう。それに怒った店主に対して、藤本は「同じ味の組み立てで、もっとおいしいラーメンを作れる」と宣言し、5日後、実際に作ってみせる。この店では、300杯分のスープしか作れない大きさの寸胴鍋で、600杯のラーメンを出していた。量の足りない分は、業務用スープを足していたのだ。そして、食材も、かつての店で使っていたものより品質を落として、コストを下げていた。藤本は1級品の材料を集め、「あなたから教わったとおりに作った」と、10年前の味を再現してみせたのである。逆に言うと、10年前のおいしいラーメンは採算が合わなくて、店を閉めるしかなかったのだった。
 つまり、このマンガが、グルメの対象としてのラーメンではなく、ラーメン屋の経営に視点を当てているのが、私にはとても面白く思えたのだった。
 私は読売新聞の記者時代、経済部で週に1回、「開店開業案内」を書き、生活情報部に移ってから、やはり週1回、ラーメンの連載を書いていたことがある。その経験からも、このマンガには納得できることがたくさんあったし、驚く話もたくさんあった。
 例えば、券売機の話。支店を出して従業員に任せたら、経費と売り上げの関係が、どうもおかしい。そのラーメン屋では注文が記録に残る券売機を使っているが、実は時々、従業員が券売機に「故障」と張り紙し、客から現金を受け取って、それをネコババしていたのである。
 フランチャイズで開業した店が、本部から仕入れる材料以上の数のラーメンを売っていた、という話もある。業務用の安いスープや食材を独自に仕入れて、水増しした量を販売していたのだ。それは、閉店後、ゴミとして出された割り箸をこっそり回収して数え、本部に報告していた以上の客数があったことを突き止めた(これは、脱税の捜査でも、似たようなことをしているらしい)。
 まあ、これは、純粋に経営の問題だが、一般的な中華料理店のラーメンがそれほどおいしくない理由も、このマンガで教えられた。さまざまな料理を出す中華料理店では、鶏ガラと数種類の野菜で、基本的なスープを作る。だから、スープ自体には個性がない。これに対して、ラーメン専門店の歴史は、独創的なスープを作る歴史だったという。
 典型的なのは、白濁したトンコツスープだろう。その発祥の店と言われる、福岡県久留米市の「銀星ラーメン」では、店に入った途端、私は「ケモノ臭い!」と感じたが、取材なので、ゴトゴトと煮え立つスープの鍋の前に座ってラーメンを食べた。
 「替え玉」(麺だけ追加注文できる)の元祖、福岡市の「長浜ラーメン」では、ひとつの鍋を24時間炊いてスープを使い切る。トンコツの追加投入はしない。だから、「スープの味がちょうどよい具合の時間帯がある」と教えられた。それは炊き始めて8時間後だったか、10時間後だったか、記憶があやふやだが、最初はあまりコクがなくて、最後は煮詰まりすぎて、どちらもベストではないということだった。
 こういう単一素材の強烈なスープがある一方で、今のラーメンは、「スープの多層構造の時代」だと、『ラーメン発見伝』ではいう。鶏ガラやトンコツという動物系の素材だけでなく、鰹節や貝柱など魚介系のスープを合わせて使い、味の深みを増しているのだとか。
 それで、思い出したのが、北海道旭川市の「蜂屋」だ。昭和22年創業で、旭川ラーメンの元祖とも言える「蜂屋」の特徴は、動物系と魚介系スープを別々の鍋で作り、どんぶりの中でブレンドするのと、盛り付けてから表面に浮かす「焦がしラード」。ここも取材に行ったが、店に入ったら「魚臭い!」と感じた思い出がある。
 味付けも醤油、塩、味噌があり、具材(トッピング)もバラエティに富んで、「なんでもあり」が、今のラーメンなのだという。ラーメンは中華料理の一種ではなく、独自の進化をとげた日本の料理だということだ。
 でも、その発祥は、明治43年に東京・浅草で開店した「来来軒」(らいらいけん)というのが定説になっている。日本人向けに、醤油味の麺料理を出したのが評判を呼んで、ラーメンが広まったということになっている。明治43年は、西暦では1910年。つまり、来年が「ラーメン100年」にあたる。そこで、それにふさわしいラーメンを創作しようというのが、『ラーメン発見伝』最終巻のテーマだった。
 「来来軒」は、ラーメンの連載を書くときに、私も調べたことがある。そして「ラーメン」という名称がここで誕生したことを知った。
 漢字では、「拉麺」と書く。「拉」(ラー)は、引き伸ばすという意味で、練った小麦粉を両手で持って左右に伸ばし、端を重ね合わせてまた伸ばす。これを繰り返すと、1本が2本、2本が4本、4本が8本……というように数が増え、1本は次第に細くなって麺ができる……という麺の作り方を、テレビなどで見た方は多いはずだ。
 「来来軒」は日本人が創業した中華料理店だが、職人は、横浜中華街から連れて来た。醤油味のスープに、手で引き伸ばした麺を入れただけのシンプルな料理は、メニューに中華ソバと書いたか、シナソバと書いたか、それは私も確認していないが、給仕係りはそれを厨房に伝える時に、中国語で「拉麺」と叫んだ。それを聞き覚えた客が「ラーメン」と言い始めたのだと、私は、かつて「来来軒」で働いていた方(手元に当時の取材ノートがないので、名前が出て来ない)に聞いた。
 ラーメンの語源については、ほかにも説があるが、私は、これが最も説得力があると思っている。
 その話をしてくださった方は、戦後、「来来軒」の味を伝える店を開いていた。私が訪ねた時にはすでに引退していたが、「弟子が、その味のラーメンの店をやっている」というので、一緒に食べに行った。それは千葉市内なのだが、これも、いまから15年以上前のことで、場所がはっきり思い出せない。けれど、あっさりした味わいのラーメンだったことは、よく覚えている。今なら、スープに濁りがない、「伝統の東京ラーメン」と言われるタイプだろう。
 いわゆる「ご当地ラーメン」も、ずいぶん食べた。ラーメンの話を始めるときりがなくなるが、ひとつだけ、ぜひ書いておきたいことがある。それは、「鹿児島ラーメン」の元祖と言われる「のぼる屋」のことだ。
 終戦の時に東京で看護婦をしていた徳重和子さんが、焼け野原となった東京から故郷の鹿児島市に帰り、東京で食べた記憶を頼りにラーメンを作り始めた店である。しかし、これがラーメンと言われれば、10人が10人とも驚くに違いない。スープは確かに動物系のスープなのだが、麺がまるで「うどん」なのである。私も驚いた。まず食べてから、店の2階で徳重さんに、店を始めたころの話からうかがった。話題は鹿児島県のいろいろな食べ物にも及び、私が「食べたことがない」と言うと、後日、特産のタケノコを送ってきてくださった。それは孟宗竹ではなく、細身の淡竹(ハチク)のタケノコだった。
 以来、欠かさず年賀状を交換していたのだが、先日、妹さんから、徳重和子さんが亡くなったという喪中のはがきをいただいた。81歳だったそうだ。
 福島県の喜多方市で、昭和初期に「源来軒」という店を開き、喜多方にラーメンを広めた中国人、藩欽星さんは、私が取材に行った日が葬儀の当日だった。一足違いで「歴史の証言」を聞けなかった。
 そうか、ラーメンが誕生して、来年で100年なのか。私が知り得たことは、その一部でしかないけれど、読むたびにいろいろな思い出をよみがえらせてくれた『ラーメン発見伝』が完結した。

フェイジョア、おいしい!
 ついに、フェイジョアを食べた。南米原産のフトモモ科の植物、フェイジョアの話を書くのは、これで4回目になるから、覚えている方も多いだろう。美しい花の、花びらが甘くておいしい樹木である。

食べられるフェイジョアの花

ぶら下がったフェイジョアの果実
 最初は10年前、房総半島、千葉県いすみ市に家を建てて暮らし始めたころ、かみさんが「これ、実が食べられるから」と言って、購入した苗木を植えた。それは順調に育ち、背丈を超えたのだが、わきを流れる落合川が台風で増水したときに崩れた地面と一緒に姿を消した。そのことを「房総半島スローフード日記」に書いたら、「サカタのタネ」のSさんが2代目の苗木をプレゼントしてくれた。そして、「これは、実が成るはずです」ということだった。
 フェイジョアは、自家受粉しにくい植物で、初代の木はたくさん花をつけたのに、実は成らなかった。2代目を植えたのは2007年4月で、これも昨年は結実しなかったが、今年はたくさんの花が咲き、果実もふくらんだ。
 でも、いつ収穫して、どうやって食べればいいのだろう。かみさんが調べたら、自然に落ちるのを待って、それから少し置いて熟すのを待つのがいいらしいとわかった。手の親指くらいに育った実は、11月になって落ち始めた。先日、名古屋から帰ったら、落ちた実をかみさんが拾い集めてくれていた。

たくさん採れたフェイジョアの果実

縦半分に切ったフェイジョア
 縦半分に切ってみたら、タネができていた。皮をむいて食べようとしたら、意外に皮が硬くてむきにくいので、中心部をスプーンですくって食べた。どうも、これが食べ方の正解らしい。タネがはっきり見えない未熟状態では酸っぱいだけだが、熟したものは甘味が出て、梨のような香りがして、とてもおいしかった。
 でも、表皮が茶色に変色しやすく、食べられる部分が小さく、熟し始めるとどんどん中も茶色になって……たぶん、売り物にはならないだろう。これは、木を持っている人の特権と思って賞味するのがよさそうだ。

柚子の香りの千枚漬け
 今年は、柚子が豊作だった。それで何個か名古屋へ持ち帰り、会社の同僚への土産にした。そして、残った柚子で、柚子の香りがする大根の千枚漬けを作ってみた。

柚子の皮をちらし、果汁も絞りかけた千枚漬け

柚子豊作
 大根も、もちろん畑から引き抜いて来た。薄く切って容器に敷き並べ、1段ごとに塩を少々振る。容器が大根の薄切りでいっぱいになったら、柚子の皮を削って散らし、果汁も絞りかけた。このまま冷蔵庫に入れて……2日目から、おいしく食べられた。
 でも、これ、飯のおかずというより、酒のさかなに絶品という味に仕上がった。私は単身赴任宅では酒を飲まないので、ちょっと悩ましく思ってもいる。
(2009年11月23日)


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次