京は遠ても十八里
海運で栄えた小浜
かみさんが名古屋へ遊びに来たので、車で福井県の小浜まで出かけた。名神から北陸自動車道に入り、敦賀で降りてから1時間ほどの道のりである。私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)では今、敦賀から小浜までの高速道路(舞鶴若狭自動車道)を建設中で、これができれば30分もかからないはずだ。
小浜へ行くことにしたのは、2001年に、写真を担当した無明舎出版の鐙(あぶみ)さんと『北前船(きたまえぶね) 寄港地と交易の物語』(2002年10月、無明舎出版刊)の取材で訪れたこの町を、かみさんにも見せたいと思い立ったからだ。
10月30日の金曜の夜、小浜に泊まって、翌朝、小浜の町を散策した。かみさんに見せたかったひとつは、町の西はずれにある町並み保存地区である。三丁町(さんちょうまち)辺りは、江戸時代初期にできた茶屋町で、明治以降も遊郭が立ち並んでいたそうだ。赤いベンガラ色に塗られた格子造りの家などに、その面影が今も残っている。
小浜市の三丁町に残る赤い色の格子造り |
海辺の小浜公園駐車場に車を置いて、案内看板を見ていたら、「散策地図をさしあげましょうか」と、通りかかったおじいさんが声をかけてくれた。そして「ちょうど道筋だから案内しましょう」と、自転車を押しながら先に立ってくれた。
小浜は、NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の舞台でもあり、「ここでもロケがありました」と、おじいさんが言う街角には、ロケ風景の写真を印刷した案内板があった。
8年前は、古い造りの家がポツポツ残っている感じだったが、今回訪ねてみたら、どんどん町並みの復元が進んでいた。表側を格子戸に改築中の家が何軒もあった。ちらりと中を覗くと、実際に今も人が住んでいる。また数年たったら、この辺り全体の様相が統一されて、観光客がぞろぞろと歩くようになるかもしれない。
もう1か所、かみさんに見せたかった八幡神社は、茶屋街の北を通る丹後街道を西へたどる。私は海沿いの広い道を車で遠回りしたが、歩けば10分もかからないだろう。
8年前、ここで私と鐙さんは、精巧に作られた北前船の模型を撮影した。
八幡神社に奉納された北前船の模型 |
本殿に向かって右側の「舩玉(ふなだま)社」という建物に、この模型船はある。実はもう1隻、手前にもっと大きな模型船があるのだが、後ろ側にあるこの船の方が、幕末頃の「後期北前船」の姿をよく伝えている。舷側にネットを立てたように見えるのは、蛇腹(じゃばら)と言って、竹を裂いて組み上げたもの。船の上にまで積み上げた荷物が落ちないようにした防護壁で、「後期北前船」の大きな特徴のひとつだ。
8年前、「舩玉社」は、おんぼろの祠(ほこら)だった。鐙さんと私は、横にあった板戸を開けて撮影したが、今回行ったらりっぱな収納庫になっていて、正面のガラス戸を自分で開けて見るようになっていた。
境内の大きな銅製の灯篭も、この神社では見のがせない。
古河屋嘉太夫が寄進した銅の灯篭 |
これを寄進したのは、古河屋嘉太夫という豪商。天保4年(1833)という年号がある。神社に灯篭を奉納することは珍しくないが、これほど大きな、そして銅製は、きわめて珍しい。製作者は大阪の鋳物師だ。
古河屋は北前船で財をなした人で、小浜藩へも多額の献金をし、金も貸した。結局、その貸し金が次第に経営を圧迫することになるが、こういう灯篭を見ると、古河屋がいかに大きな商人だったかがよくわかる。
北前船の痕跡を探す旅では、鐙さんが運転する車で北海道・納沙布岬まで、計2万キロも走り、豪商の栄華の跡を各地で見た。江戸中期から明治30年代まで、大阪と北海道を日本海回りで結んでいた北前船が、いかに巨利を得たかを実感した旅でもあった。
鯖街道
小浜は、蟹(カニ)の季節に入ったらしい。敦賀から東では越前ガニ(これも、正式には産地が指定されているブランド名)と呼ばれるが、小浜は若狭地方なので、一般名のズワイガニである。「季節に入ったらしい」と言ったのは、カニ漁の解禁日がいつなのか知らないからで、でも、まあ、それはどうでもよくて、小浜で泊まったホテルの夕食には、ズワイガニが1杯ついていた。
夕食に出たズワイガニ |
まず、2つに割る |
「まず、2つに割ってから、足ははさみで切って、カニスプーンを使って身を取り出してください」と言われた。意外に簡単に甲羅が割れるものだと、初めて知った。それからあとは、2人とも黙々とカニの身を取り出す作業に追われ……。
しかし、小浜の海産物で有名なのは蟹ではなく、鯖である。昔から、周辺の浜に揚がった鯖に塩をして、京の都へ運んだ。その道筋は「鯖街道」と呼ばれた。ホテルから1本向こう側のアーケード通り、小浜市いずみ町商店街に「鯖街道資料館」があって、その前が起点とされている。その壁に、「京は遠ても十八里」という言葉が記されていた。
遠くに思えても18里しかない……京の都は近い、という気持ちが込められている。平地なら、1里は徒歩で1時間と考えればよいが、山越えの18里だから、丸1日かかって鯖は京へ着いた。馬の背で揺られているうちに、塩がちょうどよくなじみ、小浜の鯖は絶品の味になった。
アーケード通りには、朝早くから鯖を焼く店が何軒もある。私としては珍しく、手振れした失敗写真だが、大ぶりの焼き鯖が並んだ壮観を感じていただけると思う。
串に刺して焼いた鯖が店先に並ぶ |
鯖街道は、何本もの道筋がある。最も往来の多かったのは、小浜から北川沿いに山へ入り、熊川宿(福井県上中町)を経て、保坂宿(滋賀県高島市今津町保坂)から右折して朽木(くつき)宿(高島市朽木市場)を通るルートだった。今なら、国道27号→303号→367号ということになる。この道は、三千院などで知られる京の大原へ通じている。
熊川宿には、小浜藩の関所が置かれていた。江戸時代の街道としてはかなり道幅が広い中心部の350メートルは、国の町並み保存地区に指定されている。道標に「京へ十五里」とあったから、小浜からここまでは3里である。8年前に鐙さんと来た時と同じように、開放感のある風景だった。
「ここは、『いなか〜』と、語尾を伸ばしたくなるくらい田舎ですよ」と、のんびりした口調でおっしゃる土産物屋のご主人は、「ここには120軒ちょっとあるけれど、去年生まれた子供は2人しかいなかった」とも言っていた。若者がいないのだ。
鯖街道の宿場として栄えた熊川の町並み |
「京へ十五里」と刻まれた熊川の道標 |
ここで昼になり、「自家製」と看板のある店で「鯖寿司」を食べた。1本2000円。とても大きな鯖で、2人で食べきれるかと思われたが、その上に、かみさんは「クズ饅頭」、私は「クズ餅」を注文した。「鯖寿司」は身が厚く、脂ものって、しこたまうまかった。クズ粉が今もこの辺で生産されているとは思えないが、菓子店にあるようなプリプリしたのと違って、ちょっと緩めにこしらえたクズ餅はクズの香りが強く、これまたうまかった。
熊川宿で食べた鯖寿司 |
香りのよかったクズ餅 |
次の朽木には、古い建物はない。元々は、戦国武将・朽木氏の本拠地で、明治になるまで陣屋があったが、それも今は跡地が残るばかり。「左京道」という道標の少し先に、昭和初期に建てられた「丸八百貨店」(登録有形文化財)が目を引く程度だろうか。
中に入ってみると、今は喫茶店である。「まあ、お茶だけでも」と、ここを運営する地区婦人会のおばさんに声をかけられ、コーヒーを注文する前に緑茶が出てきた。国道沿いの「道の駅」は、それなりに繁盛しているようだが、旧道筋のここまでは、あまり観光客も来ないのだろう。でも、「たまに、団体客が来る」という。
「こないだなんか、いっぺんに70人も入ってきて、2階に38人、残りは1階のイスを全部出して、そりゃあ大変でした。なにしろ、私ら、素人ですから」
と、おばさんは言ったけれど、ニコニコ顔で、ちっとも大変だったようには見えない。コーヒーも、なんだか大らかな味がした。
「鯖街道」と記した朽木の道標 |
今は喫茶店になっている「丸八百貨店」 |
熊川宿で鯖寿司を食べた店に、全国の「町並み保存地区一覧」の冊子があった。開いて見て、私はその半分以上に見覚えがあり、ずいぶんとあちこちに行ったものだと、我ながら驚いた。秋田・角館の武家屋敷、谷あいに肩を寄せ合うように家が立つ佐渡・宿根木の集落、遊女の墓地もあった広島県・大崎下島の港町「御手洗」(みたらい)……島根半島の小さな湾に面した鷺浦(さぎのうら)では、なぜ、ここが保存地区にならないのか、と思った。そのどれもが、印象深い町並みである。
共通しているのは、鉄道とか、広い幹線道路からはずれ、いつの間にか時代に取り残されたおかげで、古い町並みが残ったということである。今になって保存地区になり、観光客が来たからといって、それで集落の人々みんなが飯を食えるわけでもないだろう。
しかし、そこでは、小浜の茶屋街を案内してくれたおじいさん、「いなか〜」と言った熊川宿の土産物屋のご主人、「70人も来て、大変でした」という朽木の婦人会のおばさんのように、なんだかホンワカとした気分にさせてくれる人に会えた、というのも、私が共通して感じていることだ。
今回も、いい旅だった。
(2009年11月1日)