んだんだ劇場2009年10月号 vol.130
遠田耕平

No99 ゆっくりいきましょう

 数少ない世界的に貴重な「カンボジアからの手紙」の読者のみなさま(なんだか絶滅危惧種のようですね…。)、突然ですが、6年余り過ごしたカンボジアのプノンペンからベトナムの首都ハノイに女房と犬を連れて引越しました。つきましては勝手ながら題を「ベトナムからの手紙」に変更させていただきます。いつものごとく事後承諾で申し訳ありません。2001年5月の「インドからの手紙」に始まり、前回で98回になっています。とは言いましても回数に別に意味があるわけではないので、中味が成長しないことを慮る貴重で希少な読者の方には申し訳ない。

カンボジア式送別
 6年以上も居た長い任地を離れるということは長く世話になった現地の知人や友人たちと別れるということ。そう考えるだけで、なんだか感傷的になってしまうのだが、その時はやってくる。こいつは不覚にも涙なんか流してしまうのではないかと自分勝手に思い込んでしまうのが相変わらず単純な僕だ。保健省のスーン教授をはじめ、欽ちゃんことサラット先生らをご夫妻で招き、この紙面でも何度も登場したナリンやケンヒムなど僕の親友たちを我が家に呼んだ。最後の食事会を女房の手料理でもてなした。最後でもあるし、僕から一言二言、話しをさせてもらって、ギターでも弾いて締めくくりたいなあと思っていた。
 すると三々五々現れたみんなは、苦労して用意された女房の手料理にそれほど感動する様子もなく、なにやらお手伝いのリエップさんの用意したクメール料理の方に満足しているようにも見え、それでも用意した日本酒や焼酎は珍しそうにしっかり飲み、そのうちなんだか一人一人、笑い話を披露し始めたのである。うーん、これはなんだか村で過ごす夜の酒盛りのノリである。もちろんすべてクメール語なので、笑いに乗り遅れる。すると、スーン先生が時折笑いのツボを説明してくれる。それでも、なんだかわからないのだが面白い。なんだか笑ってしまう。うーーん、でもこれでいいのかなあ?もう少し6年間を振り返るとか、何かあるのでは?そろそろスーン先生が締めくくるのかしら?と思った頃である。お酒も最後まで飲み干したし、今日はごちそうさまでしたね、とみんなは潮が引くように一斉に帰られたのである。うーーん、やられた、という感じ。これがクメール式送別。完璧なほどの見事な自然体である。

 数日して今度は保健省の人たちが僕らを送別の中華料理に招待してくれた。今度は驚くまいと心を無にして参加したのであるが、それがよかった。案の定、話し好きの数人が癖のある保健省のスタッフを話の肴にして、次々と笑い話を作り出し、披露する。するとみんな腹を抱えて笑う。するとまた間髪を入れずお返しの笑い話。そしてまた爆笑。一度笑いの閾値が下がってしまうと、箸が転がっても笑ってしまう。僕らも意味がわかる前に周りの笑いの波長に乗ってしまうのである。とうとうスーン先生までが「こんな話知っている?」と笑い話に参加。挨拶なし、別れの言葉なし、涙なし、笑いだけ、笑顔だけ、そのままのみんな。ありがとう、みんな。僕は最後の最後までとても幸せな時間をカンボジアの人たちと過ごしました。

ベトナム、あれから
 ベトナムへの移動も別に深い意味があったわけではない。カンボジアでの生活も6年間を過ぎ、そろそろ移動したら?という声がしたので、そうしただけである。実はベトナムは17年前、僕のWHOでの初めての任地だったところだ。つまり今回は、出戻りということになる。当時は家族5人で南のホーチミン市(サイゴン)で暮らした。メコン川流域のポリオ(小児麻痺)根絶の仕事に明け暮れていたので、ハノイには数えるほどしか行かなかった。それでも、当時サイゴンからハノイに来ると10年は昔にタイムスリップしたようであった。郊外の農村から野菜を自転車で運ぶ農家の人たちが、朝焼けの暗がりの中を三角傘をかぶって波のように古都に流れ込んでくる。しゃれた店はほとんどなく、みんなは路上の小さな腰掛で、茶を飲み、食事をする。街路樹が不釣合いなほどに見事で、フランス統治時代を髣髴させる。古都の風情も、夜の7時を過ぎると人通りは絶え、静まりかえり、街路樹を通り抜ける風が頬をなでた。喧騒のサイゴンにはない静けさと落ち着きがハノイにはあった。
 あれから15年、首都としてサイゴンを追い抜くことに全力を傾けたハノイは今、巨大な投資ブームの真っ只中である。海外資本をどんどん招き入れ、ハノイの中心はビルが立ち並び、郊外には誘致された海外企業の工場が立ち並ぶ。街路樹はあふれる車とバイクの排気ガスですっかり元気がない。僕らも街中を歩くと目が痛く、息苦しくなる。

洗礼
 ハノイ到着の夜から、怒涛のような日々が始まった。すぐ生活できるようにきれいになっていると言われていた家はガスは出はない、水は出ない、電気はつかない(消えない?)もちろん一ヶ月前に送った荷物も届かない。それでもあれほど心配させられた犬の移動は拍子抜けするほどにまったく問題なかった。というよりも、カンボジアでもハノイでも税関の役人は一瞥もしなかった。言われるままに必死で様々な証明書を用意したのはいったいなんだったのかと腹立たしくなる。危ないと予測して万全の準備をしたものは実はなんの難もなく、大丈夫だろうと思ったものはすべてうまくいかない、と言うのがこの辺の原則のようだ。まあ、わが愛犬は無事見知らぬ不思議の国に入国したのである。
 翌朝は朝一番で事務所に来いというので、不安な女房と犬を不安な家に残し、疲れ果てた体でタクシーで30分以上もかけて郊外から街の中心のオフィスに行く。すると定年間近のフランス人の所長が、ニコニコ顔で出迎えてくれ、ニコニコと山のような仕事を手渡された。そもそもは1年半近くポストが空席になっていたのがまずい。以前に同じ予防接種の仕事で顔見知りだった所長が僕に執拗にラブコールを送ってきた理由がやっとわかった。ところが、仕事が始まると態度はがらりと変わり、着任したばかりの僕がベトナムを熟知していると錯覚でもしたのか、一年以上も頓挫している仕事をこんなこともできないのかとばかり投げてくる。おいおい、と言いたいが、下級役人の悲しさである。はいはい、と、お受けするのである。
 ああ、懐かしやカンボジア…。言うまいとは思っても、つい思ってしまう。「ああ、あの青い空、白い雲、広いプール…」一年中変わらない熱帯の太陽の下で超自然体のカンボジアの仲間たちとマイペースで楽しくやっていた時が遥か遠い昔のようである。さすがに昼食も抜きで家で夜遅くまで仕事をやる羽目になった時は女房に愚痴をこぼした。すると女房曰く、「仕事がないって言われるよりはいいんじゃない。」と一発。…うーーん、まったく。さすが女房である。「たまにはいい事を言うな。」と褒めてやろうと振り向くと、もう口をアングリと空けて居眠りを始めている。実は女房も家財道具が入国9日目にやっと届き、連日連夜、不眠不休の家の片づけでヘロヘロ状態。僕が家に帰るころは意識妄婁状態。あれもうわ言だったのかもしれない。
 ところで読者の皆様は僕のプールのことを心配してくださっているだろうか。そう、筆者はプールがないと干上がった河童(お会いしたことはないが…。)、頭のお皿が乾いて考えることもままならなくなってしまうのである。逆に言うと泳げさえすればいいのである。つまり溜まりに溜まるストレスも泳げば消える。実はプールが郊外のこの住宅地の敷地内のビルの谷間にあった。幅こそ狭いが長さは25メートル、深度1.6メートルあるプールを探し当てた。夕食後に、暗闇の中をプールに急行し、照明の消えるわずかの間泳ぐ。まずはプール確保と思ったのもつかの間、ここ数日突然寒くなった。それまでものすごい蒸し暑い日が続いたハノイであるが、急に温度が下がり始めた。もうすぐ泳げなくなりそうである。一年中熱帯の気候のサイゴンやプノンペンとはやはり違う。ああ、それを考えただけでストレスである。河童は今日も思案中である。
 まあ、始めは、すべてが、不便で、戸惑いの連続。「ゆっくり慣れろ。」と自分に言い聞かせるが、どうもこの辺の順応力は年とともにだんだん衰えるのかもしれない。新任地での始めはいつもこんなに大変だったかなあと思ってしまうのである。うーーん、よく考えれば、やっぱり大変だった。確かに任地が変わるたびに大変な苦労をしたのである。17年前のベトナムでも、インドでも、カンボジアでさえ、やっぱり始めは大変だったのだ。人間の脳はうまくできているもので、どうやら大変だったことを上手に忘れる機能があるらしい。今回のことも忘れるのでしょう。随分といろいろな国を放浪し、長く生活してきたので移動も慣れたものだと思ったのはどうやら錯覚で、放浪に慣れはないらしい。

 やっぱりお題は、「ありがとうねカンボジア、よくしく頼むよベトナム」にしておこうかなあ。いや、「お世話になりましたカンボジア、お手柔らかに頼むよベトナム」にしようかなあ?ベトナムの形容詞に窮している。つまりベトナムがまだよくわからないのである。不安であるということである。不安な原因は相手がよく見えないからである。つまりは、相手も不安なのである。実は僕はその不安と取り除く技を持っている。それはカンボジアの友人たちが教えてくれた笑いの「超自然体」です。「ディ トゥトゥ(ゆっくりいきましょう)」これはベトナム語です。そろそろカンボジア語からベトナム語に切り替えましょう。


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