んだんだ劇場2009年11月号 vol.131
遠田耕平

No100 もち米、大流行

ゲアン県のホーおじさん
 こちらに赴任して一ヵ月半も経ってようやくオフィスを抜け出し、フィールドに出た。初めてというのは少々大袈裟であるが、かなり新鮮な気分である。僕は泳ぐことができないと干上がった河童のように元気がなくなることはこの紙面でもお話したが、フィールドに出れないとまったく同じ干上がった河童状態になるようである。
 13年前にベトナムを離れて、久しぶりに再びWHOの下級役人としてフィールドに戻る。しかもかなり未知な北部である。向かうのはハノイから南に300キロ下ったゲアン県。今年初めに前例のない程の麻疹の大流行を経験したベトナムであるが、次の冬の流行期を控えてまだいくつかの県で感染が続いているとの情報を得た。今回はその麻疹の調査である。僕の旅に同行してくれるのは北部を管轄する保健省衛生部にいるリン君だ。彼はハノイ大学医学部卒後2年目の若き医師である。整った顔立ちで、賢くそして優しい目をした好青年である。思えば僕の長女と同じ歳であるから僕も歳をとったものである。
 歳をとったと言えば、ゲアン県はバクホー(ホーおじさん)と愛称で呼ばれてる現代ベトナムの建国の父のホーチミンの生まれ故郷でも有名な県である。このあご髭を蓄えたホーおじさんは、「独立と自由に勝るものはなし」と宣言して、民衆を導き、日本、フランス、アメリカと戦って勝利に導いたカリスマだ。
 1992年の終わり、初めて中部の県の調査の際にこの県を通った。アメリカの北爆で徹底的に破壊された地域で、戦後15年以上経った当時でも道路の周辺に爆撃の跡でできた大きな水溜りがあちらこちらにあった。村に行けば不発弾が山と積まれている。ボール爆弾という有名な殺人兵器がある。何十トンもある爆弾の本体が竹を縦に割ったように割れて、何百個という小さなボール上の爆弾が飛び散るのである。農民は今でも田んぼの泥の中に残るその不発弾で被害を受けている。その爆弾の縦に割れた巨大な鉄の本体は、くず鉄に売ると農家のいい副収入になった。そして解体時の事故も多かった。
保健所でリン君(右)と県の衛生部のハイ先生(左)
 こう思うと、アメリカという国は近年になっていったいどのくらいの数の爆弾を他の国に落としたのだろうかと想像してしまう。日本、韓国、ベトナム、カンボジア、ラオス、イラク、アフガニスタン……。2001年にニューヨークで起こった「9.11」が過去に一度も爆撃を経験したことのないアメリカの多くの人たちに多大な心の傷を残したことは容易に想像がつく。しかし、あの9.11の直後、即座に国民の大多数の支持を得て、アフガニスタンへの報復爆撃を始めた国は、雨と振る爆撃の下で傷つく他の国の人たち心を想像することができたのだろうか。人は被害意識にはとても敏感に反応するが、どうも加害意識に関しては鈍感にできているのかもしれない。僕たちが時に被害者であると同時に加害者でもあるという側面を絶えず持っていることをきっちりと心に刻んでおくことは、かなり意識的な作業である。ベトナムでは日本も加害者であった。
 当時破壊されつくして何もなかったゲアン県の中心都市のビン市は今やすっかり復興されて見事な地方都市として復興している。それにしても国道の交通量は激しくなり、一方で道路は2車線のままで保全は不十分だから突然大きな穴があったりする。運転のマナーは相変わらず信じられないほど悪く、突然前を横断したり、対向車線にはみ出すのは当たり前である。運転手は信ずるものが救われると信じているのか、追い越すときは対向車線を走り続け、対向車が正面衝突直前で路肩に逃げるのを信じて走り続ける。下級役人の仕事は命懸けである。

麻疹の流行
 昨年までは「麻疹はほぼ根絶されました。」と豪語していたベトナム政府であるが、今年の初めから大流行が学生たちを中心に始まり、ベトナム正月のテト休暇の後、急速に全国に広がった。数万人規模と推定される麻疹の流行は、6歳以下の小児と20歳代の青壮年層に大きなピークがある。
 6歳以下の流行は2002年に実施された10歳以下の全児童を対象にした麻疹ワクチンキャンペーン以降に生まれた子供たちの中で免疫が十分でなきかったものが蓄積した結果である。そこにウイルスが飛び込んで好き放題に感染を拡大する。
麻疹の発熱と発疹が3日前に発症した7歳の女児
麻疹による激しい結膜の充血を示す4歳男児
 青壮年層の流行は一昨年の日本での流行と似ている。麻疹ワクチンが定期接種になる前に生まれた世代(日本ではMMRの副作用の事件が取り上げられ、接種率が急速に低下した時期に生まれた世代)で、一方ワクチン接種の普及とともに自然感染の機会が激減した世代でもある。ワクチンと自然感染の双方の不完全感作で免疫抗体を十分獲得できなかった谷間にある世代といえる。
 県の衛生部を訪ねるとお笑いの番組で見たことのあるようなキャラの濃い人たちが並ぶ。衛生部の建物だけは随分と立派になったが、中味は昔とあまり変わらない。報告数を聞くと何百という報告書をバラバラに持ってくるし、コンピュータはどこかな?と思って見るとおばさんがゲームをやっていたりする。それでも、お仕事はなんとかしているようで、頼んだデータは一晩すると持ってきてくれる。彼らが突如として元気になるのはやっぱり食事の時である。ベトナムの人たちは昼間から激しく飲む。一気飲みは昔のままである。
 食事の時間はとにかく厳守。テーブルには必ずウオッカか、米焼酎が並ぶ。テーブルには大抵、見慣れない眼光の鋭いやたらと厳しい芳情の男がいる。どこの役人かなあと思うのだが、彼は一人一人のグラスにウオッカを口まできっちりと注ぎ「チュックスックコエ(乾杯)」と音頭をとり、即座に次の一杯を注ぐ。まさにお酒一気飲み監視官なのである。店員に酒の文句をつけたり、うるさく注文したり、それが仕事の誇りと思っている。少しでも坐が静かになるとすぐに「チュックスックコエ(乾杯)」とやるのでこれもなんとも始末が悪い。僕は飲むと仕事にならないので少し口をつけるくらいで飲んだふりをするのだが、厳しい監視官に当たると飲み干せとしつこいので本当に困る。いっそ首を絞めて酒樽に沈めてやりたくなる。今回も眼光鋭い監視官はいたが、ほどほどに逃れた。

麻疹の子どもたち
 群病院と県の小児病院を訪ねると数日中に発症した麻疹の子供たちが8人も入院している。カンボジアでは病院が劣悪で住民はできるだけ家で我慢するのが常だったが、ベトナムでは病院の医療レベルも住民の信頼度も高く、比較的軽症でも多くの親が病院に子供を連れてくる。最近は保健所を飛び越えてすぐに病院に来る親が増えているらしい。行政の仕組みからすると少し頭が痛い。
 病室に入ると顔面から足先まで見事な発疹と発熱の子供たちがベッドに親たちと一緒に並んでいる。目を真っ赤に充血させた子や、咳のひどい子、下痢をしている子など、麻疹特有の症状を伴っている。みんな6歳以下の子供たちで2度目の接種歴がない。小児感染症課長のサン先生の診断は的確で、4月に7歳の子が麻疹疑いによる脳炎で亡くなったと教えてくれた。

もち米、大流行
 利発なリン君は僕の英語交じりのへたくそなベトナム語をちゃんとしたベトナム語に翻訳して見事に説明してくれる。僕のベトナム語は未だにクメール語との混乱はあるものの僅かずつながら以前のレベルに近づきつつある。と思い込み、先日全国の予防接種の会議で麻疹のことをベトナム語で初めて話をした。すると僕が「麻疹(ソイ)の大流行です。」と言う度にみんなはニヤニヤ笑うのである。「おや、これは発音が違うな。」と思ったのであるが、時すでに遅し。
 話し終わって保健省のスタッフが教えてくれた。僕の発音だと「もち米」と聞こえるらしい。麻疹(soi)の発音は喉の奥から絞るようにして語尾を下げる。ところが日本語的に軽く語尾を上げると「蒸したもち米(xoi)」になってしまう。「もち米の大流行です。」と連呼していたのであるからなんとも恥ずかしい。保健省の知人が僕の耳元で、「トーダ、ベトナム語もいいけど、こういう会議では英語で話したほうがいいね。」とささやいた。ガックリ、まったくごもっとも。17年前にベトナムで働き始めた時にも同じことを言われたことを思いだした。歴史は繰り返す。というか、バカは繰り返す。

リン君のこと
 26歳のリン君はすでに結婚している。医学部の同級生と結婚したという。2年生の時に恋に落ちて、5年間付き合って卒後すぐに結婚したらしい。「彼女は美人じゃないけど、僕をとても愛してくれるんです。」なるほどベトナム人らしい愛情表現だ。端正な顔立ちの彼はさぞかしもてたのかもしれないが、心は揺るがなかった。
 奥さんは病院で臨床医として忙しく働いている。彼のご両親は僕より4歳年上で、ベトナム戦争終戦前後に軍隊にいたという。その後大学に入り、同級生の奥さんと知り合って結婚した。「だから僕らのなり染めは両親と同じなんです。」とリン君は少し誇らしげに話す。なんだか息子に語りかけられているようで心地いい。13歳の弟と妹は双子だという。なるほどお兄ちゃんらしい優しい気遣いが彼にはたくさんある。家族を愛し、美人でない?妻を愛するリン君を僕はすっかり好きになった。 

 (もち米)の感染は今も続いている。冬の流行期に新型インフルエンザの流行と同期すれば、ベトナムの子供たちへの被害はさらに拡大してしまう。WHOの掲げた2012年までの麻疹の根絶ゴールに向けて、この困難な時局の中でもベトナム政府が勇気ある(もち米)対策を実施するように下級役人は今日ももち米をほお張ってがんばるのである。


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