進化の要諦は、一つに子は親とどこか違っていること、もう一つに子のすべてが必ずしもその子孫を残せるとは限らないこと、この二つなのかもしれない。前者の方は当然のこと、親と子がまったく同じだったら進化の起こりようはないし、雄と雌から生まれるなら必ずどっかが違う。 後者のほうはちょいと分かりにくい。もし仮に子のすべてが子孫を残せるとなったら、その個体数は増えることがあっても減ることはない。ふつうに考えたらネズミ算式に増えることになる。人間のひと番(つがい)が四人の子をなしていったら第四十世代の人口は一兆を超えることになる。一世代を二十年としたら、アダムとイヴの頃から八百年そこいらでそういうことになる。 一世代に一兆もの人間がいたらなんともはや多様なことでしょう。なにしろ親とはちょっとは異なっているのですから隣の人ともみなちょっとずつ違ってくる。一方の端の人ともう一方の端の人を比べたらそれはもう大変な違いで、これが同じ人間か、ということになるでしょう。えらいことですが小さなシミが大きなシミに変わったようなもので、人間の裾野が広がっただけで進化が起こったわけではありません。ネアンデルタールが生き残っていたらその子孫も人間、われわれクロマニヨンの末裔も人間、これらの間(あい)の子の子孫も人間、人類みな兄弟でけっこうけっこうという話です。 ところが現実はそんな際限のない種の繁栄は認められない。ネアンデルタールが道を塞がれ滅んだように、全方向に勢力を伸ばしていくようなことは無理です。それどころか大概の変化は害をもたらすものです。裾野を広げた途端に断崖絶壁に出くわすわけです。そんな中、たまたま好都合な(不都合のない)変化を遂げ、隘路を抜け出し別天地に至ったものが繁栄することになります。これが進化というものでしょう。ですからどっちが前でどっちが後ろなどというありません、いわゆる退化などと言っているものも進化です。人間に尻尾がないのも深海魚の目が見えないのも進化です。 と言うことでさいぜん挙げた、子は親と異なること、子の一部は生き残れないことが進化にとって大事となるわけですが、それ以前に我が子孫を残す本能がなければなりません。すなわち、有性生物はスケベでばければ話にならないのです。 むささびのメスのなわばりは約百メートル四方でオスの方はこの二倍程度のようですが、発情期ともなるとメスの買い手市場ということになるらしい。そうするといかにもメスが選り好みをするように思われますが、実際は来るもの拒まずの態です。つまり後のことは、複数のオスのごちゃ混ぜになった精子間の争いにお任せです。 じゃあオスは漫然と交尾をし後は運否天賦しだいと呑気にかまえていていいかというと、そんなに世の中あまくない。それなりの努力がなけりゃ運も味方しない。 オスは交尾のあと、精液の一部を固形化したものでメスの膣を塞いでしまう。貴重な精液の漏れを防ぎ、同時にほかのオスの闖入を妨げる高等戦術です。これですんなり勝負は早い者勝ちだ、となれば問題ないのですが、なんとも進化はややこしいことをするもので、オスのペニスにコルク抜きの機能を与えてしまいます。つまり、後からきたオスが先のオスが施した膣のフタをすっぽ抜き、おのれの精液を充填してまたフタで閉じることになる。そのフタも次のオスにすっぽ抜かれるのを承知のうえで。 我が子孫を残すための大事な大事な精液の一部は攻撃を仕掛け、一部を防御にまわす。攻撃に主力をおけば防御があまくなり他のオスの侵出を許す、防御を厚くすれば攻撃が手薄になり制圧を難しくする。オフェンスとデフェンスの割合は、長い年月のもと、絶妙な数値になっていることでしょう。ここいらから球技のスポーツ工学などが発祥してもおかしくないと思うのですが、ざっくばらんに言えば、むささびならぬイタチごっこの結果に過ぎない。 七之助は水呑み百姓の七男、器量もさえないがオツムの方も上等とは言い難い。いわゆる味噌っかす、数のうちに入らない。仕事に精を出しているとは言えるほどのものでないが、鍛冶屋の下働きで糊口をしのいでいる。ボンクラを絵に描いたような七之助だが、一点、生命力にだけは溢れている。おのが子孫の繁栄を本能としているから、そのための気力は充実し、そのための着想や精力はなかなかのものがある。 七之助は考えた。村のそこいらの娘に夜這いしても自分はなかなか相手にしてもらえないだろう、あわよく事に及んで娘を孕ましても水呑み百姓を一人増やすだけ。ここは数より質、これはという女に狙いを定め確実に孕ます。 そこで当然に候補に挙げたのは庄屋のひとり娘だ。一度は身分相応のムコを取ったが、虚弱の質だったらしい、娘があまりに好色なものでほうほうの体で逃げ出したという。庄屋は新たなムコ取りに余念がないが、それでも身分格式には拘りがある。とても水呑み百姓の味噌っかすの出番はない。が、娘に跡取りを孕ませてしまえばこっちのもの。子をなすのが大事で、子さえもうければもう四の五のはお構いなしというもの。子はカスガイとも言う。「跡取りが父無し子では聞こえが悪い、どうかムコに来てけれ」てなこともありうる。 しかしこんなことを考えるのは七之助だけではありません。むしろ村中の味噌っかすどもが考えて当然のことです。が、七之助の生存本能はもっと高尚です。 「庄屋さん、村のろくでもねえ連中が娘さんのごど狙っているど。気ぃつけねば」 「身分をわぎまえね味噌っかすどもが。だども油断でぎねえな」 オラの娘は身持ちがいい、などとはとても言えたものではない。十分承知のことだが、かといって寝ずの番というわけにもいかない。思案顔でいると、七之助が頃合を見計らって、 「大丈夫だ、庄屋さん。よぐ言うべ、備えあれば憂いなし、オラさ任してけれ」 一人娘とはいえ一度は所帯を持った身ですから、普段は母屋から一番奥まった一隅で娘は寝起きしています。泥棒の心配などいらぬ村ですから、夜になっても雨戸に心張り棒を咬ます程度の簡単な戸締りです。それもヘタをすると、娘が自らその心張り棒をはずしかねない。なにより縁側の端の羽目板は、隣の羽目板に咬ませてあるだけですから、ちょいとずらすだけでなんなくはずれてしまう。その気なら忍び込むのは造作もないこと、夜這いに来てくださいと誘っているようなものです。 七之助はこの雨戸、羽目板、まさかとは思うが念のため厠の掃出し窓まで、目立たないカスガイで敷居に引っ付けた。といってもカスガイを打ち込んでしまえば後が不便でなりませんから、あらかじめ程よい穴を穿っておいて、簡単にカスガイをはずせるようにしています。一番端の雨戸と造作にカスガイを嵌めこんだだけで、雨戸全体がずらすことも外すこともかなわなくなる。縁側の羽目板も端の一枚をカスガイで敷居に引っ付けるだけで、外せそうで外せなくなる。 「夜這いをかげようなんて奴らは、こんな仕掛けがあるとは夢にも思ねべ。庄屋さんが戸締りの際にちょこっとカスガイ嵌めこむだけで、連中は手も足も出ねぐなるど」 「見直した、オメがこれほど利口どは知らねがった」 庄屋はボンクラと思っていた七之助が意外に知恵者であるのに感心したが、七之助がもっと利口なことは知らなかった。多少見くびっていたことになるが、それでもひとつの危惧を口にできなかった。もしも娘が自分でカスガイを外したら。おおいにあり得ることだが、恥ずかしくて、とても七之助に相談できる話ではない。カスガイのことは娘にもバレないようにしなければならない。 「このごどは誰にもしゃべらねように。娘にも」 庄屋の危惧は七之助も承知のこと、もし口に出されたら、「ぜったい秘密にしとがねばなんね」と具申するつもりだったからもっけの幸いである。 「誰にもしゃべんねんし」当然だ、だれがせっかくの防御を無駄にするか。 娘のいる一隅に雨戸がたてられ、やがて母屋の灯りも消えた時分、七之助は様子を見に行く。案の定、ろくでなしの一人が雨戸にとりついてなんとかしようとしている。ビクともしないもので呆然としている。気を取り直して床下にもぐりこんでいったが、縁側の羽目板を抜けなかったのだろう、うつむいて這い出てきた。諦めきれずに佇んでいたが、もしやと厠のほうにむかい、掃き出窓を試している。これも無駄と知って、悄然と立ち去っていった。 次の日にも、別のろくでなしが雨戸にとりついている。しつこくなんとかしようとしているが、どうも普段と勝手が違う。しまいには図々しくも、「オラだ、開げてけれ」と小声で娘に哀願している。これはマズい、こんなんで防御を突破されたら、シャレじゃないが身もフタもない。七之助は庄屋の声音で、「誰だ」。男は一目散に逃げ去った。 こんなことが数日続いて、その一部始終を七之助は庄屋に忠義面で報告した。庄屋は予想外にうまい成り行きに満足の様子だ。ここまでくればもう機は熟した。 七之助は縁側の下にもぐりこんで一方の端に這いつくばっていくと、羽目板の一枚からカスガイの一端がほんのちょっとのぞいている。これを右手でつまみ、羽目板の反対側を左手で支え、そっと垂直に押し上げます。すると羽目板はなんの抵抗もなく、カスガイごと敷居から離れます。開いた空間からするりと身を持ち上げると、羽目板を元に戻しておくことも忘れない。いきなりだと娘を驚かすってんで、一応は礼儀で声をかける。「お晩だんし」。障子を開け娘の寝間に忍び込む。 うとうとしていた娘がその方に目をやると、見慣れぬさえない男が手元の灯りにぼんやり浮かぶ。どういう加減か、ここんとこしばらく男の出入りがなかったもんだからこの際贅沢は言わないことにして、体をずらし褥の半分を空けてやる。と、なんの遠慮もなく身を滑り込ませてきた。 見かけはさえないが褥の技はたいへんなものだ。たっぷり時間をかけた前戯に濃厚な本番、久々ということもあって、十分堪能できた。あまつさえ男は同じこともう一度繰り返してくれて、帰って行ったのは明け方近くだった。考えを改めた、男はみかけではない。 その男は次の日もやってきた。前日同様にたっぷり可愛がってくれた。その次の日もやってきた。その次の次の日も。もう他の男がやってこないことを不思議とも思わなくなった。 七之助は必死だ。一日でも空けたら、他の男が忍び込むかもしれない。娘がちょっとでも不満を感じたら、他の男を招きいれるかもしれない。とにかく娘の腹が膨れてくるまでは、自分以外の男を近づけないことが肝心だ。腹の子の父親が自分であることを証す方法はほかにない。 七之助は毎夜、家人が寝静まった頃合に娘のところに忍び込み、精魂かたむけて娘に奉仕し、満足した娘が寝入るのを見計らって寝間を出る。縁側の端から下にもぐりこみ、頭上にかざした羽目板をカスガイごと、そっと身を沈めながら元の位置に収める。ねぐらにたどり着くのは明け方になる。 そんな七之助の生活が二月三月と続いたころ、どうやら娘は孕んだようだ。その時分には庄屋もなにかおかしいと気づく。不審に思っても夜中に娘の寝所に出向くのは気が引ける。夜半に外にまわって、離れたところから娘のいる一隅の様子を窺がうのがせいぜいだ。そんな折に、男が床下から這い出てくるのを見つけた。ふてえ野郎だ、どこのろくでなしだ、とっ捕まえて簀巻きにしてやる、と近づくと、 「あ、オメは七之助。こんたなどごでなにしいてる」 「これはオヤジ様」 「なにがオヤジ様だ、オメにオヤジ呼ばわりされる謂れはねえ」 「庄屋さんももうじきジジ様だ。オラにとってはオヤジ様だべ」 庄屋は一呼吸おいて、ようやく七之助の意味するところを理解した。悄然として、 「嗚呼なんたるごどだ。……オメみでな味噌っかすの種では、跡取りも味噌っかすだべ」 「心配するごどねえオヤジ様、よく言うべ、子はカスがいい」 |