んだんだ劇場2010年1月号 vol.133
No38
遥かなる宇宙への旅立ち(2)

 やがて採取食から狩猟を本格化させていくとともに、牧畜農耕へ移行するうちに人間は自然界の制約に逆らって開発を行ない、環境を人工化して積極的に環境に適応できるようになる。そのおかげで現在に続く文化の進化となって目覚ましい発展を遂げ、自然から独立して人間圏を形成するまでになったのである。こうして人間が社会を作ると、人間社会のなかで人間どうしが生きていくことに何らかの干渉が生じてくるようになり、人間社会に秩序が生まれ、文化は人間社会に適応するものに進化する。外部に適応するために分化し、放散に向かっていた文化は、人間社会に収斂するのである。もともと環境への適応から生まれた文化は、人間の場合その進化とともに自己の存在を問い、自己実現を目指す手段となり目的ともなる。文化は自然環境への適応から独立して、人間の脳の外部化を表象するものに変わっていくのである。
 当初の人間社会は、上下の階層を作っていたのではなく、水平方向に広がる社会であったと考えられている。やがて人間に余剰食糧を蓄える余裕ができるようになると、それに寄生する人間が現われる。余剰食糧をめぐる人間社会の発展は、補食性の生き物としての人間を生み、土地を画定し割拠状態をつくり、都市国家間の侵略と領土拡大に結び付いていく。それは余剰食糧に依存しながら、牙を持った支配者を生むことになったが、同時に文化の多様な創出をもたらすものでもあった。こうした農耕社会を通じて道具を作る専門的な職業が生まれ、装飾品や美術工芸、音楽、絵画、文学、科学へとつながる文化の道筋を開き、フルタイム・スペシャリストの誕生に向けて、その足場が確保されたのである。「世の中に芸術倉庫といったものがあってしかるべきですよ。芸術家が自分の芸術作品をそこに持ち込めば、彼の必要なものを渡してくれるといった所ですよ。ところが現在は半分商人でないとやっていけません。どうしたら芸術家が商人になれるんです。」と先に述べていたベートーヴェンは、封建的な社会に身を置いていたとはいえ、彼の育ったボンの宮廷は、その余剰で成り立っていた。彼の眼からみれば不充分なものだったかもしれないが、ボンは芸術文化に寄与する上層構造そのものであった。
 ベートーヴェンの次世代となるチャールズ・ダーウィン(1809〜1882)は、自然環境に適応する能力に優れた生き物が、選ばれてこの地球上に生き残ってきたということに想起して、進化の歴史を自然淘汰による適者生存と考えた。やがて自然淘汰に人為淘汰が紛れ込み、突然変異で補強しながら、弱肉強食を肯定するというように変容していく。ダーウィンの進化論は、そうした論理を側面から援護していたことになる。しかし生き物の進化というものが、生き物の目的や意志と無関係に環境に適応させられたものであって、生き物自身に適応への主体性がないのであれば、人間の生物進化史はかえってダーウィンの進化論に逆らっていることになる。またあらゆる生き物の進化は、遺伝的な変化によって生じたと考えられているが、その変化には方向性がないといわれる。とすれば適応は必ずしも環境に局限されるものではないことを、人間が証明しようとしていることになる。
 西欧の競争原理である優勝劣敗の考え方をダーウィンが援護し、それが優生な民族という幻想につながり、優越する民族による独裁という発想を人類にもたらした。それはすべての国家や民族を包む水平方向に広がる発想ではない。気に入らない国家や民族を排除し、抵抗する者は抹殺してかまわないという過誤を生んだ。ナチズムによる全体国家構想はその典型であった。また東方アジアの日本が掲げた八紘一宇の理念も、日本を民族的高揚に結び付けた選民意識の顕われであった。八方に広がる天と地の世界を繋ぎ、アジアを一つに統合して大東亜共栄圏を構築しようというものである。こうした構想が行き着くところは、民族の優生に逆らう者は国賊、非国民として扱われる。結果からみれば周辺諸国の人々の命を数百万単位で奪い、自国民をも欺いたことになる。いずれも人間の帰属意識の隙を突き、それを煽動する支配者の野望と、倒錯した論理による適者生存であった。一国の権力者とその周辺がまともにこれを実行しようとした点で、ダーウィンの論理を逆手に取った人間の正気だったのである。
 二十世紀の偉大な哲学者の一人に数えられるハイデガーは、どういうつもりかこのアイデアに乗った。一九三三年四月、フライブルク大学総長に選出されると、五月一日にはみずからナチス(国家社会主義党)に入党する。深い思索の末のハイデガーの行動であるとするなら、事は一層深刻でなければならない。体制に迎合する浅薄な御用学者の軽挙盲動とは違う。思考の限界を突き抜けるがごとくアリストテレスに遡って、哲学の歴史をさらいながら世界を捉え直し、存在することの意味を思索していたハイデガーだというから、その彼の深い思索の行き着いた先が、ナチスに接近させたとすれば、ベートーヴェンにつながる人間が存在することの問題が潜んでいると思うのである。
 ハイデガーは、世界というものを人間がどのように認識してきたのか、古代ギリシアに遡ってその歴史を辿ってみた結果、そこで彼が見たものは、ヨーロッパの哲学は自然を対象化しながら、基本的にはアリストテレスの視点を踏襲した哲学史であったということである。ところがそこで問われてこなかったのは、存在するということは何なのかという存在一般そのものへの問いであり、それを問う私たちがこの世界に存在するということがどういうことであるのか、そのこと自体を問うことが抜けていたというのである。いわば「To be or not to be that is the question .」こそ、思索の端緒として取り上げなければならない問題であった。そこでハイデガーは、問いかけの主体である私たちが存在するということから解き起こしてみようというのである。「存在と時間」(岩波文庫)の訳者桑木務氏の「訳者のことば」で云えば、ギリシア以来の高貴な宿題である存在一般の意味を、人間存在の根本構造の分析を通じて、時間の視界から決定しようと企てるものであった。
 哲学というものが世界や人間や事物の根本原理を探究する学問とするなら、描き出すその世界や人間の裡に、それを打ち立てようとする者自身が立脚していなくてはならない。理論と自分は別だというわけにはいかないのが、哲学という学問の自家撞着に陥らざるを得ないところである。おそらくハイデガーはそういうことを十分に承知していて、ナチスに入党したのである。一九三三年五月二七日、フライブルク大学の総長就任の講演で彼は、民族共同体に依拠する「勤労奉仕」、国家の栄誉と命運を支える「国防奉仕」、ドイツ民族の精神的負託に応える「知的奉仕」の三つの義務を大学という立場で果たそうと表明している。これはハイデガーが理性の限界にまで思索した結果であり、思索というものを政治や権力に同一化して、支配の論理を肯定することになるのなら、ハイデガーの知性はナチスのイデオロギーを堅固に補強したことになる。
 ベートーヴェンの音楽は論理から導き出されたものではなく、人間の感覚というにふさわしい全体を表わす人間性ヘの洞察を切り口としていた。洞察とはものの変化を時間の差として捉えることだ。それは意識の世界や無意識の世界のどちらか一方から導き出されるというものではなく、この二つを繋ぐ直観によってもたらされる。ハイデガーの思索とベートーヴェンの音楽に共通するものは、論理や感性の限界を突き抜けた直観から開かれてくる世界であり、人間性なのである。
 人間性というのは、人間社会の内側にあって、それに適応するための基準となる価値観のことを云うとすれば、この人間性は、上層に君臨する者にも下層で支える者にも、心理的、社会的に接近していた方が秩序の一様化を図りやすい。秩序ある人間社会を保っていくには、教育によって規律を守り、秩序を遵守する善き市民を養成することが人間社会の要請である。その構成員である個人には、秩序を破壊するような落差の大きい突出したパーソナリティなど無い方がよいのである。そもそもこうした発想の根底にあるのは、適者生存、自然淘汰という前提から選ばれた最適者とその機関が民衆を啓蒙し、先導しながら支配のシステムを作り上げ、競争原理を調整しようというものである。しかしこれを画一的な原理や倫理的エートスとして秩序に収めてしまうと、個人にはひどく窮屈で鬱陶しいものになる。そして行き着くところは、富む者と権力を手に入れた者には寛容を説き、貧しい者には忍耐を説く。
 人生は人間関係のことであり、幸福は人間関係がうまくいっていることでなければならない。そして人間が人間社会に適応するというのは、人間関係が幸福な状態に保たれていることでなければならないはずなのに、父性的競争原理がかえってこれを妨げるのである。人間社会の内にあって耐えるということは、父性的競争原理にみずからを無理やり適応させることに等しい。このような適応は、自分や他者をモノの塊として扱うことに、何の痛みも感じなくなってしまうことにつながる。疚しさの喪失である。現代に生きる私たちは、モノが生み出す利害に人間関係を投影して、慈しみに満ちた眼差しで世界を眺めることができなくなっている。理性的な思考がその限界にまで及んだとき、その先には理性による現代の暴力や野蛮性を生み出していることになる。
 その代償を求めるように、際限なく他者と同一化したいというエロス的欲求は、父性的競争原理の窮屈さゆえに、その欲求は満たされない。意識無意識のうちに生ずるエロスへの自己同一化の願望は、理性や倫理的エートスによって抑えられてしまうのである。自己同一化というものは、外部に対象を求めて、その相対に自分の意志で自己を発見し、不足を補い、自己を磨き、その矯正の過程に人間性の価値を見い出すものなのに、競争原理は右肩上がりに上昇をめざしながら、並行してエロス的自己同一化を抑制させる。そうなると自分は自分であるという意識を持つ者も、反対に自己を喪失している者にも、自己同一化というのは外部世界に確認できるものではなくなり、対象を自分の内側に支配するという歪んだ現象に顕われるのである。
 もはや神の授ける権力を信じる者はいなくなったが、国民主権による権力の付託という民主主義のシステムは、権力への手続きを平等に解放したように見えても、あいかわらず権力に野望を投影する者たちを抑えることはできない。ハイデガーはみずからの思索に導かれた世界をナチズムに重ねて、ドイツ民族の精神的な指導者の位置に立とうとしたのだ。それは民主主義という手続きに隠れたファシズムを、ナチズムというイデオロギーに構築し、みずからの思索の内側に同一化させようと企てるものであり、権威主義的な人間の一つの在り方であった。近代の科学的自然観は、個別の科学の領域と専門家的視点をもって世界を部分に切り分けてきたが、ベートーヴェンやハイデガーは、世界に映ったすべてのものを捉えようとした点で両者は共通している。だが一貫して個の立場を貫いたベートーヴェンとは違い、ハイデガーはみずからの世界を、ドイツ独自の血、ドイツ独自の故郷に置き、ドイッチュラントを基盤にして、選ばれた民族の純血性による世界国家を構築しようと云うものであった。ヘルダーの提唱した民族国家の構想を、一層過激に力で推し進めようとしたハイデガーと、ベートーヴェンはすでにここで分岐していたのである。
 プリーモ・レーヴィ(1919〜1987)は、イタリア系ユダヤ人であった。彼は反ファシズムのパルチザン部隊を結成しようとしたが、一九四三年一二月一三日ファシスト軍に捕えられアウシュビィッツの奴隷収容所に送られた。二十四歳のときである。彼は「労働は自由への道」という看板に歓迎されたが、その裏には「汝らここに入らんとする者はすべての望みを棄てよ」(ダンテ地獄篇第三曲)と書かれていなければならなかった。一九四五年一月にロシア軍に救出され、その年の一〇月に生きながらえて故郷のトリノに帰ることができたのは、まったくの奇蹟で偶然に過ぎなかった。
 プリーモ・レーヴィは生還すると、ただちに「アウシュビィッツは終わらない」(竹山博英訳 朝日選書 原題「これが人間か」)の執筆に取りかかる。彼は「私は自分の人間性が否定されて初めて、そして書くことにより否定された人間性を回復して初めて、自分が『人間だ』と感じた」のである。収容所での二年余の人間の体験を絶する過酷な体験は、プリーモ・レーヴィから人間であること、存在することのすべてを奪った。モノとして扱われ、肉体が労働を支え切れなくなると選別され、廃棄処分される。その苦しみから逃れるには、問うことや考えることを断つことであった。「私たちの存在の一部はまわりにいる人たちの心の中にある。だから自分が他人から物とみなされる経験をしたものは、自分の人間性が破壊」されるのである。
 ハイデガーは、究極の可能性である自分自身の死まで先駆けてゆき、それにある覚悟をさだめるという仕方で開かれてくる未来を逆に遡及して、おのれを時間化して見たとき、人間は真の自己に到来するというのである。それを「アウシュビィッツは終わらない」の冒頭にプリーモ・レーヴィが掲げた詩の立場で見れば、「暖かな家で/何ごともなく生きているきみたちよ/家に帰れば/熱い食事と友人の顔が見られるきみたち」の理性が、何の科もない者をユダヤ人というだけで家畜以下に扱ったのだ。してみればプリーモ・レーヴィの場合は、ナチスの暴力によって、自分自身の死を先駆けさせられながら、覚悟をさだめることを止めさせられ、未来も時間も取り上げられ、現在だけを生きるよう強制され、現在に与えられている環境がすべてであり、それだけに適応する最悪の自己を到来させねばならなかったのである。
 ハイデガーの理屈を強制的に実行させられたのは、各地の抹殺収容所や奴隷収容所に送られた数百万単位のユダヤ人やユダヤ系の人々であった。「劣等的要素をもつ成員を浄化し、将来の退化をもたらす勢力を縮小する」目的で、人間の命がモノとして扱われ殲滅されたのである。だがこの言説はヒトラーやその周辺とハイデガー自身にこそ向けられるものでなければならない。「人を殺すのは人間だし、不正を行ない、それに屈するのも人間だ。だが抑制がすべてなくなって、死体と寝床をともにしているのはもはや人間ではない。隣人から四分の一のパンを奪うためにその死を待つものは、それが自分の罪ではないにしろ、考える存在としての規範」から外れている。
 古代ギリシアの農民で吟誦詩人のヘシオドスは、「神統記」で神々の創生を描いている。生成の場となる巨大な空隙カオスから誕生した神々の一人ニュクス(夜)は、人間に災厄を及ぼすエリス(競争)を生む。またこの同じヘシオドスの「仕事と日」では、ゼウスは善きエリスを大地の根に埋めてしまう。人類の繁栄に寄与する善きエリスは、切磋琢磨しながら大地を耕す労働をつうじてでなければ得られないことを示唆するのである。このエリスがナチスという極悪の枠組みのなかで、強制された平等の下に展開されたのがアウシュビィッツだったのである。ラーゲルの生活は、自分たちを地獄に突き落としたナチスに闘いの牙を向けられる状況ではなく、手の届く同じ仲間に向けられる。「上から受けた侮辱を下のものに吐き出す時、快感をおぼえる」のである。ラーゲルでは人間はモノとして扱われ、生物的生命の極限状態を超えた人々の尊厳は解体され、仲間にたいする不寛容は連帯の絆をことごとく挫くものであった。
 解放されたプリーモ・レーヴィであったが、自分で望んだのではなく、怠惰からでもなく、罪を犯したわけでもないのに、恥辱感や罪悪感に苛まれる。人間性が剥奪され人間の尊厳の抑制が解かれたとき、良心、思考、判断力は破壊され、生物的生命への執着が善悪の判断を奪ったのである。殺す側も殺される側も、裁かれる者と裁く者の境界を見失い、被害者でありながら自分が裁きを受けているという強迫感に襲われる。モノとして扱われることが、人間性をどれほど破壊してしまうのかを知らない世代の更新は、彼になぜ抵抗に立ち上がれなかったのかという質問を浴びせる。時代の状況をからだに刻んだ者でなければ理解し得ない悪夢の共感は過去のものとなり、語ることの空しさが彼を絶望に追い込んでいった。プリーモ・レーヴィには、アウシュビィッツでの想像を超える体験が風化されていく焦りが募っていったのではないだろうか。人間性を剥奪された極限地獄から生還したプリーモ・レーヴィは「溺れるものと救われるもの」(竹山博英訳 朝日新聞社)で、「生きる上でのさまざまな目標は、死に対する最良の防御手段である。それはラーゲルだけに当てはまることではない。」と述べながら、これを書き上げた一年後の一九八七年に、衝動的に自分の死をみずからの意志で選んでしまったのである。プリーモ・レーヴィは、言葉を発することもできないまま、自分にとっての究極の可能性である自分自身の死さえも剥奪されて、殲滅させられた何百万という溺れた人々の元に還らねばならなかった。
 ヤスパース(1883〜1969)は当時のドイツ社会のナチズムにたいする共犯性を、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上的な罪という四つの有罪性に分類して見せる。審判者は各々裁判所、戦勝国、自己の良心、神だとヤスパースは云うが、国民全体の消極的加担による集団的共犯性は、その集団的赦免性によって相殺されてしまったのである。殺す側に加担した人間の尊厳もまた、ナチスの制度的虐殺システムの前にその尊厳は剥奪されていた。このことはわが国日本の場合はさらに後退している。中国や朝鮮半島を土足で踏みにじり、勝手に満州国を作り、朝鮮半島を併合という名で占領した大日本帝国は、敗戦後その明確な総括を周辺諸国や世界に示せないまま今日にいたっている。戦争の原因と責任の所在を不明瞭にしたまま、今日、総理大臣が靖国神社参拝を強引に押し通し、北朝鮮による日本人拉致問題の解決を難しくしている。拉致された本人やその家族の悲痛な叫びは、当時に連行された朝鮮半島の人々や従軍慰安婦の人々の叫びでなければならない。国内だけに限って見ても、戦争に導いた者とその被害者│アウシュビィッツでのユダヤ人のレベルとはまったく異なる│が英霊として同列に祀られていること自体に、戦死させられた人々の思いが反映されているとは思われない。
 さてハイデガーは一九三三年一一月一一日、ライプツィヒでのドイツ学術界における選挙応援集会で、ナチスとそのイデオロギーを鼓舞する演説を行なう。またその翌日には、ドイツの諸兄姉へ、国民投票と帝国議会選挙にヒトラーとナチス党への投票を呼びかけている。彼こそが真の負の自己に到来していたと云わざるを得ない。ベートーヴェンは交響曲第五番ハ短調で、こうした人間の行き着く理性の傲慢を抉り出し、そのおどろおどろした情念の醜悪さを同じモチーフで叩きのめしていたのである。芸術というものは政治的状況や人間性の過誤を超越して創造するものでありながら、そうした現実から超然としていられるものではない。そのなかでもベートーヴェンの音楽は、人間の尊厳を貶めるあらゆる状況を拒否する音楽だったのである。
 二十世紀前半に起こった不幸な二つの大戦は、暴力の優越と自然的性向を超えた人間性の有様を剥ぎ取って白日の下に晒したのである。その反省のもとに人類は、これを力の秩序から理性の秩序に移し替えようとした。それは資本主義社会の民主主義であり、社会主義社会の民主主義という二つの理念が並び立つものから始まった。しかし基準となる人間性の価値原理を接近させたわけではない。人民主権と多数決原理を取り入れた民主主義は、個人に価値原理の基準を委ねることにしたものの、どのような過程を通じてであっても、権力は握った者への阿諛迎合に収斂させてしまう。その上古くからの民族的ナショナリズムと宗教の確執は、いまだ引きずったままである。人間社会もエントロピー増大の法則から免れていないことになる。
 ヘーゲルの「精神現象学」につぎのような記述がある。「・・・・・・共同体の自由の当面する唯一の対象は、現実の自己意識のもつ個としての自由である。というのも、現実の社会組織として具体的な形をとることなく、不可分の連続体として自分を守ろうとする共同体の自由は、意識のうちで自由の運動が生じるからこそ内部分裂を起こすことにもなるからである。しかも、ここでは自由があくまで抽象的に考えられているから、その分裂も抽象的にならざるをえず、自由は一枚岩の冷酷な共同性と、ばらばらで、頑固一徹で、我意に凝りかたまった、点としての現実の自己意識とに分裂する。絶対の自由が現実の社会組織を解体しおえ、自由をはっきりと確立したとなると、この自由が唯一の対象となる。それは、自由以外のいかなる内容、所有物、存在、外への広がりももたず、おのれの個としての至純かつ自由な自己を知ることがすべてであるような、そういう対象である。それをつかまえるには、生きてあるその存在をつかまえる以外にはない。そうした共同体と個が関係するとき、それぞれ不可分の一として絶対的に自立し、たがいに結びつけるような媒介のことなどまったく眼中にないから、あるのは直接に相手とむうきあう純粋な否定の行為であり、生身の個人を共同体の名において否定する行為である。したがって、共同体の自由の唯一の成果と行為は『死』なのであって、それも、いかなる内面的な広がりも内実ももたない死である。否定されるのは、内実なき点としての、絶対に自由な自己であって、その死は、キャベツの頭を切りおとすとか、水を一口飲むといったほどの意味しかない、無情であっさりした死」(ヘーゲル「精神現象学」長谷川宏訳)である。これだけでも難解なこの叙述は、おそらくフランス革命を念頭に置いてのものだろうが、一〇〇年余の後のナチスを予告していた。それはとりもなおさず二〇〇年を超えてなお、今日の状況はヘーゲルの史観から抜け出せずにいるということである。
 ヘーゲルは「近代」を達成されるべき未来と見ており、これをナポレオンに投影した。そしてその実現をプロイセンのベルリン大学教授として、一八二九年一〇月からは一年間ベルリン大学総長の立場で運営に関わり学派を構えた。近代の曙を前にして彼には、その創出の現場に立ち合っているという自負があった。ヘーゲルは、アリストテレス以来の哲学の刷新を企てていた二十世紀のハイデガーに先鞭をつけたのである。これにたいしてハイデガーの近代は、乗り越えるべき過去であった。ヘーゲルにあって陰だったものを、ナチスの光りを浴びたハイデガーが日向に晒してしまったのである。個別に切り分けられた世界を再編し、倫理、学問、社会の刷新をみずからの学問体系に総合しようと時の政府と関わり合った点で両者は共通している。
 そしてゲーテは一七九二年九月、ヴァルミーの戦いでプロイセンがフランス軍に敗れた折、「きょうここで、世界史の新たな時が始まる。そして諸君はそれに立ち合ったと云えるのだ。」と述べて現実を動かない。これに先立つ一七八六年九月、ゲーテは芸術的自己の再生を求めてイタリアに遁走している。ヘーゲルは「精神現象学」、ハイデガーは「存在と時間」、そしてベートーヴェンは、傑作の森にひたすら創造を刻み続けるのである。四者ともに三十七歳、壮年の充実した時期であった。この四人のなかで、権力におもねることがなかったのは一人ベートーヴェンだけであった。


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