んだんだ劇場2010年2月号 vol.134
No38
遥かなる宇宙への旅立ち(3)

 而してフランス革命勃発からちょうど二〇〇年、一九八九年夏を境に東欧諸国で起こった社会主義体制の崩壊は、ユーゴスラビアやルーマニアを除いてほぼ無血のうちに達成することができた。遅々としながらも、希望の一歩を踏み出せることを示した大きな転換であった。その契機を作ったハンガリーは、社会主義労働者党が国家の指導政党であることをみずから放棄した。民主集中制という党内部の確執を乗り越えて、党としての保身を捨てたのである。改革派のポジュガイが提唱したのは、党と国家の関係を見直し、議会を復権させ、結社の自由を認め、地方自治を強化するとともに、所有形態の多様化を受け入れ、新憲法を制定するというものであった。まさに二〇〇年後のフランス革命の要求であった。
 民主集中制は民主的に選ばれた中央委員で構成する中央委員会が、政治局、書記局を選出し、この党指導部に党運営の権限を委譲するというシステムである。だが民主的に選ばれた社会主義体制は、理論上は民主主義を貫徹するシステムであったが、個人に権限が集中し指導部にたいする批判を許さず、上意下達の民主独裁に陥ってしまったのである。民主集中システムは形式的な手続きとなり、内部に独裁と腐敗を生み、社会主義社会の民主主義が幻想であることを国民は見抜いていた。当時若くして首相の座に就いたネーメトをはじめ改革派のメンバーたちは、こうした状況をよく洞察しており、東ドイツの亡命希望者にオーストリアとの西部国境線を開放するとともに、自国民には権力を開放したのである。ネーメトは国家の威信と政治家の誇りをかけて決断したと後に語っている。
 ポーランドのヤルゼルスキもまた同様であった。手段は違ったが、ソ連の軍事介入を紙一重のところで防いだ。一九八一年一二月、当時のワレサ率いる「連帯」を反革命勢力と見たソ連は、ポーランド指導部の連帯への対応が手ぬるいと判断し、軍事介入のタイミングを窺っていた。苦しい決断に迫られたヤルゼルスキは、隣国チェコスロバキアで起こった一九六八年の「プラハの春」で、当時の第一書記ドプチェクの轍を踏まないために、戒厳令に自力解決の道を賭けたのである。サングラスを掛け軍服に身を包んだヤルゼルスキの姿は、どう見ても強もてのする独裁者のイメージを払拭できなかったが、するどい洞察で自国の行く末を見つめる当事者能力に優れた政治家であったことが、彼のその後の対応から推し量ることができる。「連帯」に壊滅的な打撃を与えず、自国民に忍耐を強いながら、ヤルゼルスキはソ連にたいしてポーランドの楯となっていたのである。
 ヤルゼルスキは、東ドイツ社会主義統一党書記長ホーネッカーのような身辺を腐敗に汚し、最後まで権力に執念を燃やした人物とは対象的な人間であった。自国を内戦や流血から防いだという点で、東欧社会主義諸国の指導者はギリギリのところで健全な理性を失わなかったのである。西側ヨーロッパのイデオロギーに下る悲哀を味わいはしたが、自国の誇りを売りわたさなかったことで東欧諸国の国民は敗者ではなかった。システム疲労や組織の腐敗や無責任な言動は、資本主義社会にこそ自戒すべき問題でなければならない。
 だがこうした未曾有の激動と転換のなかで、ユーゴスラビアに象徴的に現われた紛争は、国境を越えて横断的な広がりを見せ、二十一世紀に持ち込まれて益々顕著になっている。それと同時に今日の情報伝播の速さは、人々の帰属意識を横断的に編成し直す条件が整う状況を生み出している。地球を軸にした帰属意識の構築は是非とも必要なことであるが、情報の迅速化が、イリュージョンの世界での帰属性の多様化と短略化をもたらす可能性がある。国家への帰属意識の喪失にともなう民族的ナショナリズムの高揚と、宗教上の対立の激化という複層化である。貧困はこれに油を注ぐ。だが大切なのは、現象に過敏に反応して争うことではなく、生物的人間と理性的人間を通じて人間性の価値原理を共有することだ。そうした共有の下に、個別の現象や独自性を認め合う人間原理が必要なのだ。私がベートーヴェンの交響曲第九番を本籍に登録したのは、人々を根源的一者に導くコスモポリタン的な原理がそこに聴こえてきたからである。今日では生命から捉えた人間の成り立ちには甲乙の違いはなく、他の生き物とも共通する多くのDNAを持っていることが明らかになった。少なくとも物質で構成する生命は、平等に成り立っているという生命原理をもって、何とか人間性の価値原理を接近させることはできないものだろうか。
 ベートーヴェンは音楽を極限へ向かって突進させることで、当時のヨーロッパの重層的な社会構造に適応すること拒否し、水平方向に広がる人間社会を見ていた。ここにきて振り返ってみるならば、交響曲第三番第一楽章冒頭の断絶する二つの和音は、彼の世界を切り開く乾坤一擲ともいうべき一撃であったことが分かる。そうした視点は啓蒙思潮の時代的気運から導かれた人間存在の肯定であった。ベートーヴェンの視点は一貫して個の立場を貫いて、徒党に与せず孤高の世界を切り開いていたのである。すべての人間、もろもろの生き物が帰属する生命原理とともに、ベートーヴェンは人間性の価値原理を創造のなかに求め続けた。このとき彼の世界は、重層構造をも包み込む水平方向に広がる世界へと開けたのである。
 感動というものは、人間性に持つあらゆる属性の奥深いところから発する心の働きである。いわば形として見えない世界を、外部化して伝えるところに音楽の力がある。個人の設定した視点から眺めた世界はその視点も様々で、見えてくる世界も一様ではない。こうした個人の数だけ存在する人間性の価値原理を、おのずから普遍の価値原理に収斂させるのがベートーヴェンの創造であった。生物的生命の適応を図るだけではなく、受け継がれた遺伝子を超えて生物的環境を開放し、開かれた次元に超越しようとするベートーヴェンの世界であった。いわばみずからの意志で国家的統合から離れた人間の生き様を代弁していたのである。独りピアノを弾くベートーヴェンは、立ち聞きされるのをひどく嫌っていた。ピアノに籠めた内面の吐露が盗み聞きされているという思い込みがあり、ベートーヴェンはそうしたことに苛立ったのだ。けれども最後の三曲のピアノソナタの頃には、そうした警戒は解かれていた。途切れていたかに見えた創造の亀裂は、この三曲のピアノソナタによって連続性を取り戻していた。それゆえベートーヴェンは交響曲第九番にみずからの世界を開放されなければならなかったのである。
 ベートーヴェンはヴィーンに出て以来、ついに再びボンに立ち帰ることはなかった。だが彼の創造の眼差しはボンから発せられていたのである。創造の実りの大部分はヴィーンで収穫されたが、彼の精神はヴィーンに染まることはなかった。彼はヴィーンの俗物たちをフェニキア人と揶揄し続ける。ルドルフ大公を例外にすれば、ベートーヴェンと深いつながりを持った貴族は、大半がオーストリア以外の地域の人々だった。彼は遠くヴィーンを離れることはなかったが、身分の垣根を超えて人間の尊厳を徳と芸術に求めた芸術的コスモポリタンとしてその人生を歩んだのである。
 やがて二〇世紀に入り、人類は宇宙をめざし一九七七年に惑星探査機ボイジャー一号と二号が打ち上げられた。二つの人工衛星には、地球外生命体へのメッセージが積み込まれた。そのカプセルにはベートーヴェンの交響曲第五番第一楽章と、弦楽四重奏曲第一三番第五楽章・カヴァティーナ・が収められていた。人類の叡知を収斂した人工衛星に、ベートーヴェンの作品を託したことは、地球を象徴する生き物である人類が彼の音楽に、人間性の価値原理が反映されていると判断したのである。ボイジャー一号は二〇〇二年に、太陽風の速度が急激に減少するターミネーション・ショックと呼ばれる太陽圏の縁を通過し、二〇〇六年現在太陽の赤道面から三四度北の方向へ進み、約一五〇億キロメートル彼方をさらに遠ざかっている。またボイジャー二号は太陽の赤道面から二六度南の一二〇億キロメートルを飛翔している。まさに太陽圏を離れ、恒星間空間へ飛び出ようとしている。ボンを発つときにヴァルトシュタイン伯爵から贈られたはなむけの言葉に、充分過ぎるほどに応えたベートーヴェンの創造は、人類の手で遥か宇宙の彼方に解き放たれたのであった。彼の魂はいまもあのホルンの信号音となって遠く宇宙を巡り、人類の平安を託しているのである。
 ベートーヴェンは一七九三年五月二二日付けのア・ボックに贈った記念帳に、つぎの詩句を寄せていた。シラーの戯曲「ドン・カルロス」第二幕第二場からの引用と、ベートーヴェンの創作か他からの引用を組み合わせた寄せ書きである。「わたしは悪人ではありません/年が若くて/血の熱いのが、わたしの罪です/わたしは悪いのではありません/ほんとうに決して悪いのではありません/血潮のたぎりがわたしの心を黒く見せることがあっても/わたしの心は潔白です/できうるかぎりの善行/なにものにも優って自由を愛し/たとえ王座のかたわらにあっても/決して真理を裏切るな」(「ベートーヴェン音楽ノート」小松雄一郎編訳 岩波文庫)。創造の出発に当たって心の裡を吐露したものであった。
 それが幾星霜を経て、ベートーヴェンは日記の最後では次のように結んでいる。「人がこの世に生を享ける期間はごく僅かである。思想と行ないにおいて残酷なる者は、その人の生ける間、人みなその者の不幸を願う!死してもなお、その者の記憶は、忌み嫌われる。しかし思想と行ないにおいて高貴なる者は、その威厳ある名声が、身も知らぬ者たちにより│人類すべてに普く広められ、善き人としてみなから祝福される」。これはホメロスのオデッセイアからの抜き書きであった。それを受けて「それ故私は、心静かにあらゆる変転に身を委ねよう。そしておお神よ!汝の変わることなき善にのみ、私のすべての信頼を置こう。汝、不変なる者は、わが魂の喜びたれ。わが巌、わが光り、わが永遠なる信頼であれ!」。
 ベートーヴェンの人生はルソーが「学問・芸術論」第一部の冒頭で述べた内容に重なるものであった。この論文は一七四九年にフランスの地方都市ディジョンのアカデミーで募集した懸賞論文「学問と芸術の再興は習俗の純化に寄与したか」に応えたものである。このとき当選したのがこのルソーの論文であった。この賞は一七四〇年に創設されて、一七九三年にフランスの革命政府によって廃止されるまで続いた。ルソーはつぎのように述べる。「人間が自分自身の努力によって、いわば虚無からぬけだし、彼の理性の光によって、自然が彼をおおいかくしていた暗闇を払いのけ、自分自身以上に自分を高め、精神によって天界まで飛び上がり、太陽のように巨人の歩みで宇宙の広大な領域を駆けめぐり、さらにいっそう偉大で困難なことであるが、自己の内部に沈潜して、そこに人間を研究し、その本性、義務、目的を知ろう」とする。ベートーヴェンはまさにこの困難な道を生き抜いた作曲家であった。
 ボンの人々はベートーヴェンの死後、その功績を称えようと彼の記念像の建立を思い立つ。しかしその資金の調達に難行していたとき、この趣旨を知ったフランツ・リスト(1811〜1886)は、その費用の大半の提供を申し出る。一八四五年にボンで開催されたベートーヴェン音楽祭にあたって、彼の記念像は八月一二日にミュンスター教会の広場で除幕された。ベートーヴェンの魂はついにボンに刻印されたのである。


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