んだんだ劇場2010年6月号 vol.138

No49−つながる−

GW前のゴタゴタはいつものことです

GWの直前に、逃げ込むように最後の本(前半期の)『はじめての秋田弁』ができてきた。かけ込みセーフというか、なにもこの時期に、というか、複雑な心境である。本ができても取次は休み、けっきょくは倉庫で眠っているだけ。印刷所や製本所や運送業者の人たちもGW中は休みたいだろうから、やむをえないのだが、梱包されたままの本だらけの事務所で過ごすのは実はあまり気もちのいいものではない。

というわけでGWスタート。こちらはいつものように毎日事務所に出舎、仕事である。昔から人が遊んでいるときは働く、と決めこんでいるような節があり、これはフリーランスで生きていくには、ここで差をつけなければ、というせつない台所事情に由来するものだろう。まあ、人さまが遊んでいるところに出かけても楽しくないし、遊ぶのはみんなが汗水流しているさなかのほうが快感がある。つくづく性格が悪い。

とはいいながら初日の29日、岩手県北上市にある仙人峠の上の山に登ってきた。雷雨注意報の出る中での山行だが、雨の中の山登りもそれなりの楽しみはある。県外の山というのはみなれていないぶん新鮮でいい。ここは通称、秀衝街道(平和街道)とも呼ばれ、錦秋湖の東南に位置している。往復4時間ほどの山行で、杉の巨樹や古峠を歩き残雪のブナ林を満喫してきた。雨の中でも春山漫歩というのは気分がいい。この後の山のサークルの日程は5月末の白子森(秋田市)登山までない。自分でどこかいい山を探して、仲間を誘い、登るしかない。初心者だからだろうが山は一人より何人もの人で行くほうがダンゼン楽しい。

家の寝室のリフォームもGW前(中?)の30日に終了。ホッとした。毎日のように仕事場の横からギーギーガンガン、職人さんたちが仕事をしていて現場音が聞こえてきて、何かあると呼び出されるから、ずっと落ち着いて仕事できる状態ではなかった。カミさんも常時他人が家に出入りする環境に精神的にまいっていたようだ。さらに毎日出るゴミの量も半端ではない。これに乗じたわけではないが、事務所倉庫の大型廃棄物をこのさい処理してもらおうと、何年も眠っていた備品類や書類を整理。すっかり家も事務所もスリムになってGWを迎えることになった。まずはめでたしめでたし。


久しぶりの「つながり現象」

昔はよく岩手県の人の本を出すと、あいついで岩手関係者の出版依頼が続いたり、医学書を出すと、似たような医療企画が持ち込まれたり、といったことがよくあった。こんな偶然ばかりとは言えない「つながり現象(私の造語)」がよくあったのだが、最近、めったにそういうことがなくなった。これは出す本の数そのものが少なくなった、のが理由なのかもしれない。

ところが先週、その「つながり現象」が久しぶりに復活。最初はテレビだった。仕事場のテレビを付けたらNHKのドキュメンタリー・アーカイブ特集で、この10数年間で継続しながら同じテーマで3度も番組をつくったという、モンゴルのマンホールで暮らすホームレスの子供たちの物語だった。10歳前後の子どもたちのマンホール生活は迫力があった。その彼らの暮らしのその後を定点観測したものを一挙放映した。まったく見ていなかった番組だったので、引き込まれ全編を観てしまった。小さいころボスと子分の関係だった男の子2名の関係が、大人になると見事に逆転していたのには驚いた。

いいドキュメンタリーを観て、ちょっぴり得した気分だった。その日の夜はレンタルビデオ屋で借りていた数本のビデオ映画のうちの1本を観た。インド映画でアカデミー賞はじめ数々の映画賞を総なめした『スラムドッグ・ミリオネラ』。これを選んだのはまったくの偶然だった。テレビのクイズ番組で全問解答したスラム出身のインド青年の恋物語である。モンゴルのマンホール・チルドレンとほぼ同じ環境のスラム街が舞台である。慈善家を装いホームレスの子供を集め、一人前の物乞いに「養育」して金を稼ぐ商売人が、熱した油で目を焼いて子どもを盲人にするシーンは吐きそうになったほど。悲惨でやりきれなくなる映画だが、それでもラストはいつものインド映画の定石通り、善人も悪人も役者たちは仲良く停車場で踊りまくるのである。いやはや。

ま、ここまでなら充分にありうる「偶然」の連続といっていい。問題はこの2日後の夜である。たまたま寝床で読む本がなくなり、あわてて本棚から読んでいない小説本を探し出し、読み出した。書名の奇抜さが気に入って買っておいた盛田隆二『散る。アウト』(毎日新聞社)。この本は、会社の倒産でホームレスになった主人公が、偽装結婚のためモンゴルに飛ばされ、そこでモンゴルのホームレス経験のある女性と恋をする話なのである。うひゃ〜っ、ここまでモンゴルやホームレスやマンホール・チルドレンが続くと、これはちょっと考えてしまう。ふだんならマンホール・チルドレンやアジアを舞台にした物語やホームレスといった設定にはほとんど心動かされることがない。偶然は恐ろしい。


若者相手に本をつくるのは可能か

週初めに「今週は書を捨てて町へ出よう」などと寝言めいたことを言っていたのだが、週の後半はずっと雨、机の前に垂れこめる日々が続いてしまった。
それでも前半はいろんな人に会い、へんな企画をいっぱい思いつき、人と会う面白さに酔い、ひとりニヤニヤしたりする日々。
ということは寝言の半分は実践できたのかも。

企画というのはいわば企業秘密。とエラソーに言うことのほどでもないが、無造作に公表できない類のもの。ではあるのだが、ちょっぴりその核のようなものを言わせてもらえば、そこに通底する共通の芯がある。いや芯というほどオオゲサなものでもないか。企画の根っこが「ヴィジュアル系」であること、読者層が20代から40代あたりに想定していること、などだ。

もともと地方出版というのは高齢者の出版といった傾向が顕著なものだ。それは今も変わらないが、このところうちの出す本は、著者の年齢層が急速に下がっている。著者の若返りが進行しているのだ。若者へ「最後の望み」を託しているのかもしれないが、ありていに言えば自然にそうなった、としか言えないのだが。

なぜ若者向けの企画が多くなったのか。つらつら考えていたら、思い至ったことがあった。私個人がこの頃読んでいる本に、ある種の傾向があったのだ。
それはA5判で100ページ前後、定価は1200円前後で並製本、中身は漫画と文章で著者のほとんどは30代前後の若い女性……といった傾向の本ばかり夢中で何十冊も読んでいることに思い至った。

本の例えとしてわかりやすいのは「日本人の知らない日本語」という、あのベストセラー本を思い浮かべてくれればいい。「悩んだときは山に行け!」「ローカル温泉で温泉ひとりたび」「だらだら毎日のおでかけ日和」といった、メディアファクトリーや幻冬舎といった版元が積極果敢に出版している一連の「女子もの、グータラ、フツーの日常生活」の若者女子マンガエッセーにはまっている。一連の企画はあきらかにこの傾向に影響を受けているものばかり。大丈夫か、還暦のジブン。


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