んだんだ劇場2010年8月号 vol.139

No50−リフレッシュ−

外に出てリフレッシュしてます

このところ、ずっと出歩いている。長野・雨飾山に登るために3日間休みをとったのを皮切りに、3日後には「大人の休日切符1万2千円」を使って仙台・東京へも3日間(東京は人酔いしてしまい5時間ぐらいしか滞在しなかったが)。さらに帰ってきて2日後には横手泊。月が変わって7月、半夏生の田代岳に登った。さすが疲れがたまったか、この週末はボーっとした時間を過ごしている。

この2週間で事務所にいたのはわずか3,4日である。比較的なヒマな時だったから問題はないのだが、カミさんが友人と外国旅行に行ったので何をしても文句を言われない、というのがことのほか快適。カミさんが留守でもたいして困ることはない。家事も料理も好きだし、身辺雑事はふだんからほとんど自分でやっている。洗濯だけは苦手だったのだが、やってみるとけっこう楽しい。朝起きて天気がいいと、いの一番に、「何か洗わなければ」という強迫観念に駆られる、ほどはまってしまった。

月末には横手に泊まった。毎月十文字の居酒屋が主催する「そば打ち会」にでるためだ。もう3,4回、出ているのだが、参加者が各自が勝手にそばを打ち、それを勝手に食べる、というだけの会だが、主催者の居酒屋のオヤジがただものではない。そばの前に親父の旬の鍋料理が出る。これがうまい。今回は夏なので「ジュンサイキノコ鍋」。鍋の中に氷の浮かんだ涼しげなもので、出汁が効いて、めっぽううまい。狩人でもあるのでクマやシカにの肉もふんだんに供される。いまのところ、県内のどこの料理屋よりもこの居酒屋がお気に入り、なのだ。

半夏生の神事が山頂で行われる7月2日の田代岳もよかった。もう4,5回登っている好きな山なのだが、この日は特別。里の集落の人たちも年に一回、この日だけは田代岳の山頂まで登って汗をかく。だから登山道は富士山並の混雑だった(行ったことはないのですが)。天気予報は「雨時々雷」で、前日にとりやめた人も多かったようだが予想は大外れ。快晴のなか、気持ちい山行を楽しむことができた。来週はちゃんと仕事復帰しなきゃあなあ。


料理と本と独り暮らし

カミさんが1週間旅行に出たため、毎日三度の食事は自分で作って食べた。なかに山行が一回入ったが、あとはひたすら家から一歩も出ず仕事、飯、仕事、買い物、仕事、読書、就眠……という単調な繰り返しの日々。
最初の日、炊飯器で五号の飯を炊き小分け冷凍、大量の野菜を切り刻み、野菜だけで満腹になるほどサラダも作り置き。そのせいで日常的な問題は何もなかったのだが、この機会とばかりに外に酒を飲みに出かける、という気持がみじんも起きなかった。これは進歩なのか老化なのか。微妙なところ。

就眠前はもっぱら読書。ネットのレンタルで四本ほど暇つぶし用映画DVDを借りていたのだが(古いフランス映画)、なぜか観る気が起きなかった。というのも、手元にあった本のどれもがおもしろくて、読書を止められなかったため。この一週間で五冊ほど本を読んだ。新聞や雑誌の書評で「これは面白そう」とネットで注文すれば二日後には、この秋田まで本が届いている。昔なら考えられない快適な読書環境の手軽さが、本と読書の間の距離をずいぶん縮めてくれたせいもあるのかな。

読んだ本でおもしろかったのは『生きていてもいいかしら日記』(毎日新聞社)。北大路公子なる昼酒好きな40代独身女性の「酔っぱらいエッセー」である。彼女は札幌在住で地元の出版社から2冊のエッセイ集を出している。それも読んでいて「へんな人だなあ」と感心していたのだが、この本はいわば彼女のメジャーデビュー。やっぱりへんで、面白いエッセイ集でした。
黒井千次『老いのかたち』(中公新書)はよく練られた美しい文章で、身辺雑記エッセイとして心にしみこむ言葉がちりばめられている。年齢相応に老いていくことへの困難な時代、若さや体力ばかりが尊重され、年にふさわしい生のかたちが見失われていく現実に、鋭く警鐘を鳴らす。川本三郎『いまも、君を想う』(新潮社)は、50代後半で亡くなった7歳年下の妻への追悼記。身内を誉めたたえ赤裸々に愛を語るのは、いかにプロの物書きと言え「綱渡り」に等しい危険な行為。なのに、まるで澄んだスープのように濁りのない、きれいな本になっている。まだ読みかけだが多田富雄『落葉隻語 ことばのかたみ』(青土社)も、同じように嫌みのない澄んだスープのような本。毎晩ベッドにはいってから少しずつ読んでいる。

というわけで、やっぱり読書っていいなあ、という1週間でした。本を読める幸せを味わうことのできた黄金の日々でした。お粗末。


ある裁判を傍聴して

めったにないことだが2日間続けて公判を傍聴した。初日は30分も早めに裁判所に到着したが、なんと傍聴整理券がすでに締め切られ、手に入らなかった。茫然として近くのA新聞社に寄り、支局長に事情を話すと自社の余っている傍聴券を譲ってくれた。助かったが、冷や汗もの。次の日は1時間早めに裁判所に行き整理券配布の列に並び、どうにか傍聴することができた。30席の傍聴席に50名以上の人が整理券のために並ぶのは、各新聞社やテレビ局が抽選に「落ちた時のため」複数の人数を配置して傍聴券を取ろうとするためである。勉強になった。テレビなどで重大事件の裁判に何百人もの人が傍聴券獲得のために並ぶ光景をよく見るが、あれはほとんどマスコミ関係者なのである。

その裁判だが1年前、北秋田市長選で30万円の買収という公選法違反で逮捕された元鷹巣町長・岩川轍被告の初公判である。30万円の選挙買収事件で初公判が1年後というのも異常だが、もっとすごいのは、被告はこの1年間、なんと完全黙秘を続けている。そのため現在もまだ拘置されたままなのである。これまで選挙違反容疑の常識からいえば「30万円の買収」は罰金刑ですむ話である。それがなんと完全黙秘、1年間刑務所のなか、公判前整理手続き中に弁護士が2度交代、と事件そのものよりも大がかりな別の事件が進行中なのである。いったい何が起きているのだろうか。そんな興味から傍聴と相成ったわけである。

この事件の核心である「30万円」の現金を受け取ったとされる二階堂甚一被告は、すでに有罪判決を受けている。「調書は警察官の作文。買収ではなくアルバイト代だ」と証言を翻し上告したのだが、受け入れられなかった。一貫して「渡した現金は運転手のアルバイト代」として無罪を主張する被告側の証人として、今回の公判でも二階堂氏は「警察にだまされた」という証言を繰り返していた。その訛りのきつい朴訥とした証言には説得力があった。

事件のあらましはお分かりいただけただろうか。私自身が異常と感じたのはその拘置期間の長さである。5度の保釈請求がすべて却下されているのである。が、ようやく公判がはじまった。これで拘置延長理由はない。まちがいなく近日中に出てこれるだろう。そんな目で法廷の被告を観ていると、やはり表情には、あとわずかで釈放される、という希望の光がその表情にほの見えた(この公判の翌々日、被告は釈放、保釈保証金は1千万円だった)。


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