んだんだ劇場2010年10月号 vol.141

No52−酷暑、楽しからずや−

酷暑と外飲みと嶽キミ

暑い。毎日毎日暑い暑い暑いと声に出しているのは見苦しい。見苦しいし大人のすることではない。
でも暑い。とにかくこんなことは半生でも、はじめての経験のような気がする。
気象庁は、この夏の気温(6月から8月)を、日本の平均気温が統計を取りはじめた1898年以降で最も高かった、と発表した。
過去113年間で最も高い気温の夏にお墨付きをいただいたわけである。この全戸154地点のデータを詳しく見てみると、東北地方は平年比プラス2.3度、全国でも数値が北海道と並んで高い。関東甲信はプラス1.9度だから、暑さに慣れていない我々にとってはまさに「酷暑の夏」といっていい。

暑いと山登りなんて論外だ。
去年の日記をみても6月7月8月と毎週のように山に出かけている。
ところが今年は、とてもそんな気にならない。仲間たちも同じ気持ちのようで、予定が決まっていた登山もすんなりと中止。
というわけで、もう1カ月以上山にはご無沙汰。そればかりか、ルーティン・ワークである散歩も週に1,2回というありさまである。だって夜が涼しくならないんだもの。
どこにも出かけず、クーラーのきいた部屋で、サクサクっと仕事をし、夢中で本を読み、ボリボリおやつを食い散らかしている。あきらかに腹囲のあたりが膨みはじめている。毎朝のズボン選びが苦痛だ。さりげなく、ごまかしのきくゴム系や汗に強い太めの山用ズボンをはくことが多くなった。

加えて、この10日間、やけに来客が多く外で飲み食いする機会が増えた。閉じこもっているよりはましなのだが、10日間で5回の外飲みというのは明らかに危険水位を超えている。飲食の量をセーブできるほど理性的ならば問題ないのだろうが、こちらは楽しければどんどん客をほったらかしで飲んでしまうタイプ。昔のように2次会だ「しめのラーメンだ」と騒ぐことはなくなったが、普段よりは数倍カロリー過多はまちがいない。

さらに、うまいトウモロコシに出あって、毎日のようにトウモロコシを食っている。たまたま秋田駅前で岩木山・嶽地区のトウモロコシを発見、「トウモロコシ界のエルメス」のような存在なので、うれしくなって一人で4本丸かじり。調子に載って「嶽キミは仕事先の印刷所の近くにあるのに、一度も印刷所から送ってもらったことがない」とうそぶいたら、次の日、印刷所から50本!あまりの嶽キミが送られてきた。いやぁスマン。
しかし、さすがに本場、トウモロコシ専門店からの直送である。嶽キミは塩を入れた熱湯にキミを入れ、最後に沸騰させて7分で出来上がり。ゆで過ぎるとうまみが抜ける。熱いうちにラップに包むのは身がしわにならないようにだそうだ。それにしても、度を越したわがトウモロコシ好き、いつからこんなふうになっちゃったんだろう。


北アフリカからの来客

遠方から友人がやってきた。
遠方というのは比喩ではない。本当の遠方、北アフリカのチュニジアである。鉱山技師として働くMさんは日本人だが、住んでいるところはサンパウロ。仕事場がチュニジアやアルジェリアの山々である。Mさんは東京の生まれだが、秋田大学の鉱山学部出身だ。
北アフリカなんて書くとものすごい「遠方」に感じてしまうが、実はパリまでは飛行機で2時間弱、地球儀を見るとわかるが地中海に面した昔のローマ帝国の領土内である。海をひと泳ぎすればイタリアのシチリア島まですぐに着いてしそうな距離だ(ってことはないか)。

「いまはラマダンなんで1カ月は仕事にならない」から「ちょっと日本に遊びに来た」のだそうだ。外国の話はテレビや本でしょっちゅう情報が入手できる。だからさして驚くようなこともないのだが、イスラム圏だけは別。ここには全く我々が伺い知れぬ別世界。どんな話も興味深く、驚きながら聞きいってしまった。

Mさんは鉱山技師なので山歩きが仕事なのだが、助手のチュニジア人たちはもちろん回教徒。ラマダンの期間中は水も飲まないのだそうだ(実際は隠れて飲んだりしてるそうだが)。これでは仕事にならない。
さらにMさんの働く現場の近くにはアルカイダのゲリラ拠点がある。そのため現場に行くときはチュニジアの警察官の車で護衛付き、それが決まりになっていて、一人で歩かせてはくれないのだそうだ。
「逆にそっちのほうが目立って、アルカイダの攻撃目標になる」
から嫌でしょうがないんだけど、とMさんは苦笑する。

イスラムの国に入国する際、税関では必ず「宗教」を記載する。いつもの日本のくせで「なし」などと書くと、ほとんど入国は無理。嘘でも「ブッデスト」と書かなければ入国できないのだそうだ。イスラム諸国では「宗教がない」という答えは、犯罪歴を聞かれて「ノーコメント」と斜に構えているのと同じ。それは即「犯罪歴あり」と認めたのと同じだそうだ。「宗教をを持っていない」ということは「人間の最低限の規範や品性を担保するものがない」ことで、それは突然暴れまわったり、人を殺めたり、秩序を乱す行為に及ぶかわからない人物と疑われることなのだ。

ちょうどキリスト教の歴史を勉強中(といっても初歩的な本を何冊か読んでるだけだが)なので、イスラム教の話は興味深い。
遠方からの客の話を面白おかしく聞いていたその日の夜、アメリカ・フロリダ州のキリスト教会が9月11日にイスラムの聖典コーランを焼こう、と呼びかけているニュースが世界を駆け巡った。
これは、ちょっとすさまじいことになりそうだ。イスラム教徒は世界に10億人以上いる。このメッセージの波紋の大きさを、この連中はイメージできないのだろうか。宗教は厄介で難しいが、その国の人々の行動や心性を正しいほうに律するための「道徳」や「倫理」でもある。それを否定されると人は殺人も犯す。


誰かソフトボールに連れてって

休日の昼下がり、いつもとは違う方角に散歩中、ある中学校のグラウンドで、女子たちがソフトボール練習中だった。みんな体格がよく、とても中学生とは思えない。しばらく練習を観ていたら、小型のピッチングマシーンとキャッチャーネットが運び込まれた。えええっ、こんな優れものがあるの、いつの間に。マウンドに設置された空気清浄機を少し縦長にしたピッチングマシーンから、かなりのスピードボールが飛び出してくる。バッターが空振りしても、今度は畳1畳分くらいの、ストライクゾーンに大きな穴のあいた網ネットが球を勝手に吸い込んでくれる。これは効率的だ。そうか、中学生でももうこんなにいろんなことが効率的、機能的になっているんだ。目からうろこである。

小さなころから野球大好き少年だった。中学も高校も野球部に入りたかったのだが、当時の風習として野球の技術がうまくても足が遅い人はダメ、という「部活の鉄則」があり、あきらめた経緯がある。社会に出てからは、趣味としていくらでも野球に親しむ機会はあったが、今度は団体行動が極端に苦手なため、ハードルが高く、遠慮していた。
いまでもときどき、バッテングセンターで思いっきりバットを振り回したい、と思うことがある。もし野球が一人で出来るのなら、たぶん今も一番好きなスポーツで、毎日のようにピッチングやバッテングに汗を流していたはずだ。

10年ほど前、国際ブックフェア―があり出版仲間たちとニューヨークに行った。ひとりの時間はほとんどセントラルパークをうろついていたのだが、あの広大な公園のなかにソフトボールグラウンドがある。日本ではなじみが薄いが、野球場の2倍ぐらいの大きさの球場を4等分、各隅4面でそれぞれ試合のできる専用球場である。ここでは昼時なるとしょっちゅう試合が行われていた。観客席にはハンバーガー片手の応援団がいつも満席で嬌声を上げていた。応援席にやけにアカぬけた美女が多いなと思い、しばらく見ていると、ABCともうひとつのアメリカの代表的な放送局同士の対戦だった。野球とは微妙にルールが違い、規定の9人のほかに外野のファールグラウンドにも選手が配置され、両チームともメンバーにはかならずアジア系や黒人が入っていた。両チームともユニフォームもなく選手交代も自由で、実に楽しそうだった。

もう野球のスピードにはついていけない。でもソフトボールなら楽しくやれそうだ。その気持ちはいまも続いている。
誰かソフトボールを一緒にやりませんか。あのピッチングマシーンとキャッチャーネットを買えば(あまり高くはなさそう)、3人以上で明日からでも始められるし……。


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