んだんだ劇場2010年12月号 vol.143

No54−もう10年も経ったのか−

映画・東京・居酒屋「行かない」づくし

ここ数カ月、まったく映画を観てない。映画館には行かないし、レンタルショップにも足を向けない。ネットでも借りないし、テレビ放映映画も観る気がしない。観たいという欲望がふしぎにも起きないのだ。ドイツ旅行の機内ではしょうがなく何本か観たが、どうにも全身をフィクションの世界にゆだねるだけの「心身の余裕」がないのかもしれない。観たいなあと思う映画もほとんどない。あッ、「トイレット」は観たいか。でもこれはなかなか上映館を探すのが難しそうだ。ウディ・アレンの新作も観たいけど、どうなってるのかな。

映画だけでない。東京にもほとんど足が向かなくなった。興味がまったくなくなってしまったのだ。あの刺激的な街に身を置くことの重要性をシュミレーションしてみたりするのだが、夜、ホテルに帰って密室で10時間近く過ごすのは、どう考えてもウンザリ。これは今年前半に自分の寝室を徹底的にリフォームして、ここで過ごす時間がすっかり「たからもの」になってしまったことも影響している。

居酒屋にも行かなくなった。あの若者の行く居酒屋のチェーン店がいっときおもしろいなあ、と思って通ったこともあるのだが、やはりどう考えても、一人で行くと肴の量が多い。気を使うし接客の若者がうるさい。料理人の大声で飛ぶ「つば」が汚ならしい。もちろん味はすべて大味でうまいとはほど遠い。肴の量は蕎麦屋ぐらい粗末なほうがいい。酒の飲める蕎麦屋があれば、たぶん週に1回は通うような気がするのだが、残念ながらそんな気の利いた蕎麦屋はない。けっきょく20年来通い続けている「和食みなみ」というなじみの居酒屋以外は、とんと足が向かなくなった。

こんなふうに年齢を重ねる毎に自分の慣習が静かに変動していく。ここ4年間、まったく変わらず、逆にのめり込みが激しくなっているのは「山行」だけだ。山は飽きるどころかますます思いは募るばかり。いや、山だけじゃなかった。実は少し恥ずかしいのだが、「本をつくる仕事」にこの1,2年、新鮮な気持ちで取り組んでいる。何をいまさら、といわれそうだが、この年になってようやく本をつくる喜びや楽しみ、だいご味が、少しわかりはじめてきた。40年近く同じ仕事をしてきているのに、ま、こんなもんなのかもしれない。


旧石器ねつ造事件の本を読む

もう10年も経ったのか。
当時まったくの偶然なのだが、毎日新聞をとっていた。そのためよけいショックが大きかったのだろう。旧石器ねつ造事件は毎日新聞の世紀の大スクープだった。新聞を持つ手が震え、今もあの日の衝撃ははっきりと覚えている。
今ならどんな事件であれテレビが新聞より早く報じる。活字でニュースをはじめて知ることは、ほとんどなくなったが、当時はまだこんなことがあったのだ。

藤村新一による旧石器ねつ造事件はいろんな余波があった。ねつ造発覚の10日前、講談社からものすごい宣伝費をかけた『日本の歴史』の刊行が始まっていた。00巻は網野善彦、01巻は岡村道雄「縄文の生活誌」だった。この2巻が同時発売されて、書店では平積み、前評判は上々だった。問題は岡村の01巻だった。なにせこの事件の「犯人」である藤村の「神の手」を賛美する記述のオンパレードだったのだ。この本はすぐに回収・絶版とされた。後に改訂版が出ることになるのだが、私は回収には応ぜず改訂版もちゃんとお金を払って買い、同じ書名の本を2冊揃えることを選択した。

その著者である元文化庁主任文化財調査官・岡村道雄の『旧石器遺跡「捏造事件」』(山川出版社)がこの11月に発売になった。「10年の沈黙を経て、いま明らかにする」というオビ文が付いていて、急いで読み始めたのだが、まったく面白くなかった。著者自身にあまり反省の様子がないし、当事者意識が極めて薄い、のは意外だった。本文後半、ある街で暮らす藤村を訪ねていくシーンがあった。これがハイライトなのだが記述はあっけないほど短く淡白だ。藤村は一種の記憶喪失状態にあり「神の手」の指は斧ですべて切断されていた、というショッキングな記述も、さらりと触れられているのみだ。

事件に焦点を与えた当事者のドキュメントを期待したこちらが悪いのかもしれない。ようするに専門バカの弁解の書でしかないのだ。それも自己弁護と学問的な問題点に逃げ込む姿勢ばかりが強くて、ルポとして機能していない。
こちらにも、もともと古代史や歴史遺跡に対する基礎知識が欠けている。だから、あながち著者のせいにばかりすることはできないのかもしれない。
それでも、今売れている足立倫行著『激変! 日本古代史』(朝日新書)を読むと、やはりプロの書き手はまったく違うのがよくわかる。素人(読者)にもわかるように古代史の迷宮に低い目線からゆっくりと導いてくれる。
百戦錬磨のノンフィクション作家と元文化庁役人の文章を比べるのはフェアーじゃないのかもしれない。が、それにしても事件の当事者として、もう少し踏み込んだルポが読みたかった。


編集者って必要なの?

森まゆみさんの最新作、『明るい原田病日記』を読んだ。喜怒哀楽のはっきりした、お金を払っても読みたい闘病記になっていて、さすがプロですね。
それはいいのだが問題は版元。出版社が「亜紀書房」である。えッ、森さんの本がなぜあの社会派の出版社から、と思った人はよほどの本好き。私たちの年代にとって亜紀書房、過激な左翼系の本を出すクセのある版元として有名だ。
本を読み進めるとAさんという編集者が何度か登場する。このAさんが森さんの本をつくった人である。Aさんは業界ではけっこう有名な人で、元晶文社でそのあとバジリコ。どちらでも何冊か森さんの本を出している。あ、そうか、Aさんはバジリコをやめ亜紀書房に「移籍」したわけだ。
もちろん本書ではそんな舞台裏の事情に触れてはいない。いないが、この事実に間違いはない。作家は出版社でなく実は編集者と深く信頼関係を築いて行動を共にする生き物なのである。

ところが最近、電子書籍を配信する会社を立ち上げた作家・村上龍は、逆に「電子書籍に編集者はいらない」と言いきっている。一緒に行動するよしもとばななにいたっては、「これまでは担当編集者の好みを考えて書いてしまった」とまで語り、表現の自由を広げていくには編集者がいないほうがいい、というところまで踏み込んだ発言している。電子書籍に編集者はいらないが、その代わり作家は従来の10パーセントではなく40パーセントの印税をとる、と。なるほど、それもありかも。

編集者が必要か不要か、ということを論じたい訳でない。村上龍の立ち上げた電子書籍会社には(作家にとって)バラ色の未来が待っているのだろうか。
電子書籍の先進国アメリカでは「電子書籍の浸透による文芸作家の試練」がいま大きな問題になっている。この事実を知って村上らは会社を立ち上げたのだろうか。印税率は高くても本体そのものの定価が安い電子書籍では、印税率が上がっても実は作家の印税や前払金は紙本よりも減っている。これはアメリカの作家たちの間では深刻な問題でウォールストリートジャーナル紙は「作家を職業にするなら、収入源をもうひとつ持つべきだ」(出版ニュース)と書いているほどである。アメリカでは電子書籍の隆盛によって本のありようが加速度的に変化しつつある。このアメリカの成り行きと動向をもう少し見極めてから(せっかく先行実験をしてくれているのだから)、行動に移しても遅くなかったのではないだろうか。


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